時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二百五十四)

2008-05-06 09:21:02 | 蒲殿春秋
頼朝の三河への力が強まるのと対照的に、かの地における安田義定の及ぼす力は弱まってきている。
だが安田義定の盟友である範頼の三河における立場は弱まることは無かった。
範頼が頼朝の弟であるが故であった。
三河の人々は、範頼を安田義定の盟友としてではなく頼朝の弟としてみなすようになってきている。

とにかく、ここ三河において兄頼朝の力は強まってきているというのを範頼は日々実感している。
そしてまた甲斐源氏のさらなる苦境も知らされている。

安田義定、一条忠頼など東海道に進出した甲斐源氏が勢力後退を余儀なくされている頃、その北方の信濃でも甲斐源氏は別の勢力の圧されつつあった。
その別の勢力とは木曽義仲率いる勢力の事である。

甲斐源氏は甲斐にて挙兵した直後まず信濃に進出している。
信濃は甲斐から東海道筋さらに北陸道に抜ける交通の要衝を多く抱える。
それゆえにまず甲斐に程近く東海道筋へと抜ける地域に勢を張る諏訪大社と提携を結び、南信濃を手中に収め、その後駿河、遠江へと勢力を伸ばした。

けれども治承寿永の内乱は次々とその情勢を変えていく。
治承五年(1181年)の横田河原の戦いの後、急速に勢力を伸ばした木曽義仲が信濃における強大な勢力へと成長していった。横田河原の戦いにおいては平家方勢力を打倒するという共通の目的の為に提携した義仲と甲斐源氏であったが、信濃諸氏の盟主の座を巡ってやがて微妙な対立を孕む関係となっていく。
そのような中以仁王の遺児北陸宮を迎え入れた義仲が信濃において甲斐源氏より優勢になっていく。
血筋で優劣の無い両者。そのような中で北陸宮という権威と豊穣な越後を制圧していうという点において義仲が甲斐源氏よりも優位に立つこととなる。
内乱当初甲斐源氏と提携していた諏訪大社も近頃義仲寄りの姿勢を強めている。
八条院を本所を仰ぐ諏訪大社においてかつて八条院が庇護した以仁王の皇子を擁している義仲に接近するのはごく自然のことでもあった。

諏訪大社との提携が弱まり信濃においてその勢力後退させられ、義仲が信濃の全権を掌握するということは、甲斐源氏からみると既に進出している東海道への通路を義仲に握られるということになる。そのことは頼朝の勢力増大を許している東海道への甲斐源氏の影響力をさらに弱めることになる。

治承五年(1181年)の段階で源頼朝、木曽義仲と肩を並べる強大な反平家勢力の首魁、いや、治承四年(1180年)末時点では、近江源氏などとも提携し反平家勢力の中心にあった甲斐源氏は、寿永元年(1182年)末の東国においては東海道、信濃から撤退させられ甲斐一国のみを支配下に置く武家棟梁に転落しかねないという状況にまで追い込まれていた。

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