時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二百五十三)

2008-05-05 06:05:15 | 蒲殿春秋
安田義定に対する不満が日に日に高まってくるのと対照的に遠江の住人たちの信望を集めつつあるのが、範頼の兄源頼朝である。
その年(1182年)の初頭、頼朝が伊勢神宮に願文を奉った頃より頼朝と伊勢神宮の禰宜たちの間に密かな交流が始まっていた。禰宜たちは朝廷や平家の目を盗んで頼朝と接触を続けている。禰宜たちの間では頼朝を頼りにしているものも多い。
そのことは伊勢御厨に住まう者達の間に直ちに知れ渡った。
義定に反発する想いのある伊勢御厨の住人達は義定の「非法」を頼朝に訴えるようになってきた。揉め事の調停に関して頼朝は常に見事な手腕を発揮する。
安田義定の顔をたてつつ、頼朝は御厨の住人たちの要求を次々と叶えていく。

そのことは伊勢御厨に関係のない住人たちの間にも知れ渡っていく。
いつの間にか、遠江においても頼朝の評判は上がり、安田義定よりも頼りになる棟梁であるとの認識が高まっていく。それが頼朝に対する忠誠心に変わっていくのも時間の問題であろう。

遠江程でもないが、駿河においてもやはり伊勢御厨を中心に頼朝の影響力は強まりつつあるという。
三河においては遠江以上に頼朝の影響力は増している。

元々頼朝の母の実家熱田大宮司家は西三河に一定の勢力を有していた。
その関係で三河に対する頼朝の影響力は駿遠二国より強い。
頼朝と伊勢とのつながりを知った三河の人々はますます頼朝に対して靡くようになる。

結果、そのあおりを受けた人物が一人三河を去ることになる。
頼朝の叔父、源行家である。
治承五年(1181年)の墨股の戦い以降も三河に居ついていた行家であったが、徐々に三河にたいする支配力を失っていた。安田義定が三河に進出してもなお彼の地に留まっていた。
けれども、行家を支援していた熊野新宮と伊勢は敵対関係にあり、伊勢御厨の住人たちはことごとく行家を敵視していた。伊勢御厨の住人達が頼朝という後ろ盾を得てますます行家に対して強気の態度をとるようになってきている。
さらに悪いことに、前年の養和元年(1181年)秋に熊野で内部抗争が起こり、本宮の湛増が熊野三山の実権を握り新宮の力は押さえ込まれてしまった。それまで行家を支えていた新宮は行家を支援できなくなってしまった。

伊勢御厨の住人たちから敵視され、熊野新宮そして熊野水軍の支援を受けることができなくなってしまった行家はある日三河から忽然と姿を消した。
伊勢御厨の住人を支援し、なおかつ熊野新宮を圧迫した湛増と手を結んだ頼朝を恨みながら。

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