どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設19年目を疾走中。

(超短編シリーズ)43 『窓貸します』

2010-12-18 01:54:30 | 短編小説

     (窓貸します)


 ぼくが小学校からの帰りに回り道すると、坂の途中にある写真館の窓から老人が外を見ていた。
 隣りには空き地を隔てて蔦の絡んだ洋館があり、もう二十年以上も空き家になっているとの話だった。
 ぼくは白金台にある小学校の二年生で、毎朝母の運転する車で送ってもらっていた。
 別に親が過保護にしているのではなく、母ひとり子ひとりの家庭では、その段取りが一番生活ペースに合っていたからだ。
 端的にいうと、母が勤務する区の図書館へ向かうついでに、遅刻しがちなぼくを送り届けて安心したいという理由からだった。
 ぼくも坂の多い道のりを送ってもらうのは楽だったし、授業が終わってプラプラと道草しながら帰途につく日常が気に入っていた。
 どうせ早く帰っても、夕方にならなければ母は戻ってこないし、ぼくも部屋での一人遊びに飽きていたのだ。
 だから、聖心女子学院高等科の裏手にあるお屋敷街を眺めながら、幾通りもの帰り道を試してみたのだった。
 時には、かつての皇室ご料地だった自然教育園や隣接する東京都庭園美術館に立寄ったりした。
 遠回りして、有栖川公園まで足を延ばしたこともある。
 小遣いをもらったばかりのときは、公園入口にあるサーティーワンで、ミントとチョコ味のアイスクリームを買い食いしたりした。
 だが、そうした遠征よりも、ぼくの心を本当に捉えたのは外苑西通りから少し入ったところにある写真館の老人だった。
 ぼくが最初に見かけたとき、老人は大きな窓の中から西の空を眺めていた。
 まさか植え込みの陰から人が覗き見しているなどと思わなかったのか、白いガウンの胸元を無防備に開いたまま、無表情で空の一角を見つめていた。
 (何を見ているのだろう?)
 ぼくは振り返って、老人が見ている空の方角をたしかめてみた。
 しかし、そこには薄い筋雲が架かっているだけで、熱心にみつめるほどのものは見つけられなかった。
 老人は飽きずに空を見続けている。
 ぼくの方が付き合いきれなくなって、こっそりとその場を離れた。
 (あのおじいさん、普通じゃないのかもしれない・・・・)
 母方の祖父が、痴呆症とかいう病気で家族を困らせている話を聞いていたので、写真館の老人にも同じ疑いを抱いた。
 写真館のガラス張りの出窓には、古臭い風景写真や七五三の人物写真が飾ってあったが、どれも生気が抜けて抜け殻のようになっていた。
 だから、ぼくは老人がもう写真を撮る商売はやっていないのではないかと思った。
 長年続けてきた仕事が駄目になって、老人は急速に老いていったのではないだろうか。
 昼間からガウン姿で空を見上げているのは、やりがいを失って自分を保てなくなった老人の寂しい心の表れではないかと感じられた。


 ぼくが再び写真館の近くを通ったのは、それから二週間ほど過ぎた風の強い日だった。
 宿題を忘れたことがきっかけで、ホームルームの時間にぼくが真面目ではないと批判された日である。
「まっすぐ家に帰って、宿題を済ませてから遊びに行くべきだと思います」
「ときどき反対方向に向かったりして道草を食うのは、よくないと思います」
 女の子二人に非難された。どうやら目撃されていたようだ。
 下手に否定したりするともっと追及されそうなで、ぼくは黙って下を向いていた。
 (チェッ、うるさいヒヨッコが・・・・)
 先生に気に入られようと思って、反撃できないぼくを集中攻撃するつもりなんだ。
 あさはかな女生徒の態度には以前からうんざりしていたので、この日も無口に徹して告げ口に耐えた。
「まあ、用事だってあるだろうから、どこへ行っちゃいかんとは言えないが、宿題だけはやってこいよ」
「はい」
 先生はまともだから、反発する気持ちはなかった。
 ぼくは、その日の帰途、女の子に道草と批判された遠回りのコースを採った。
 外苑西通りから一本路地を入った写真館のある坂道だった。
 出窓のある写真館の入り口を覗き見ると、内側のカーテンが上げられ客を迎え入れる意思は失くしていないように思われた。
 ぼくは一目で、この前来た時と何かが違っているのを感じた。
 原因はすぐに分かった。
 ぴったりと閉じられたガラス戸の中央、鴨居のあたりから木の札が掛けられていたのだ。
 『窓貸します』
 一瞬読み間違えかと思った。
 ぼくだって、いつか遊びに行った三ノ輪近くの住宅街で、「貸家あり」とか「部屋空いてます」といった張り紙を見たことがあるからだ。
 だが何度たしかめても、墨で書かれているのは窓という文字だった。
 (窓貸します、窓貸します・・・・)
 二度ほど頭の中で繰り返したあと、ぼくは弾かれたように走りだし、隣の洋館との境目に茂る山茶花の垣根を掻き分けた。
 ちょうど咲きはじめの花が、ぼくの目の前にあった。
 紅の花弁と、中央の黄色いめしべの匂いが、混ざり合ってぼくの鼻腔をくすぐった。
 光沢のある緑の葉込みの間から、この日も写真館のガラス窓が見えた。
 西日の照り返しで見づらかったが、風に磨かれたガラス窓の内側に、燕尾服を着た老人が立っていた。
 相変わらず空の一点を凝視していた老人が、垣根を掻き分けたぼくの気配を察したように視線を動かした。
 一瞬のことだったので、ぼくの錯覚かと思ったが、白い手袋をした老人の手がひらひらと泳いだ。
 視線は空に置いたまま、ぼくを手招きしているのだ。
 広い芝生に足を踏み入れてもよいというのだろうか。
 いやいや、窓の下に近づいたところで、家の中の主人と言葉を交わせるはずがない。
 ぼくは迷った末、山茶花から体を抜き出し、道路を通って写真館の出窓の前に立った。


 ぼくの目の前に『窓貸します』の木札が下がっている。
 ときおり強い風が吹き付けて、木札が揺れた。
 カタン、カタンと引き戸の桟に当たって音を立てた。
 古びた木材にしか出せない乾いた音だった。
 ぼくは、夢見心地でその音を聞いていた。
 ぼくを取り巻く世界が、急速に遠ざかっていくような感覚だった。
「よく来たね」
 いつの間にか、ぼくの目の前に写真館の主人が立っていた。「・・・・窓を借りに来たんだね?」
 それまで閉ざされていた入り口のガラス戸が開けられ、燕尾服を着た老人が半分からだをのぞかせていた。
 (はい、そうなんです)
 心の中で返事をする自分の声が聴こえた。
「でも、ぼくお金を持っていないんです」
 老人は、ぼくの心配など聞いてもいない調子で「さあ、這入りなさい」と体をずらした。
 写真館の中は蛍光灯が一つ灯っているだけで、薄暗かった。
 分厚いカーテンに仕切られた奥の空間に、昼間の闇が閉じ込められている気がした。
「ほら、遠慮しないで」
 老人がビロードの布地に近づき、真ん中のあたりに手を当てた。
 すると、白い手袋が手品のように消えた。
 手首から先が闇に飲み込まれたふうに見え、ぼくは思わずアッと声をあげていた。
「ははは、靴は脱がなくていいよ」
 老人は、ぼくが立ち止ったのを勘違いしたらしい。
 運動靴の足元を見て、もう一度笑った。
「ぼく、ほんとにお金ないんですけど・・・・」
「お金? はは、こどもはお金のことなど考えてはいかん。ああしたい、こうしたいと思ったら、それがすぐ現実になるんだ」
 少し違うところもあるが、ほぼ当たっているような気がして肩から力が抜けた。
 カーテンレールと金具の擦れる音がしてビロードの布が引かれ、暗がりの中に撮影フロアが現れた。
 目が慣れると、右手の窓から差し込んでくる光が、室内の器具を浮かび上がらせた。
 大きな三脚に載った大きな箱型カメラ。その横には照明ライトが二基据え付けられていた。
「ほら、来て御覧。この窓から空を見ると、なんでも望みのものが見えるんだよ」
 老人が再びぼくを手招きした。
 さっき山茶花の垣根越しに見た窓は、内側から見ると別世界のものに見えた。
 照り返しで眩しかったガラス窓が、こちら側から見ると光の線を織り込んだように霞んでいた。
 ぼくは、それが逆光によるものではなく、次元の異なる世界を目にしているような怯えを感じていた。
 うまく言い表せないが、着付け教室から帰ってきた母の絽の着物を目にしたときの驚きが思い出される。
 紗を透して浮かび上がる白い襦袢の蠢きが、見てはいけないものを見てしまった戦きを伝えてよこした。

 
 写真館の主人は、戸惑うぼくが自分から窓に近寄るまで待っていた。
 待ち構えるのではなく、窓際に立って勝手に空を見上げるポーズをとっていた。
 燕尾服を着てやや反り気味にした老人のシルエットが、光の膜にまぎれて浮かんでいた。
 ぼくが近付くと、それは光沢のあるシルクの布地に変わった。
 横に立つと、やや腹の出た体型が図鑑で見た皇帝ペンギンのように見えた。
「どうだ、何が見える?」
 老人はいっそう背筋を伸ばして、空の上方を見た。
 ぼくも腰に手を当てて同じ方角を仰いだが、風に流された白雲が千切れた布のようになびくばかりで、とりたてて形のあるものは見えてこなかった。
 ぼくは、しばらくそうしていたが、申し訳ないような困ったような気持ちになっていた。
「おじさんは、何が見えるの?」
 自分の窮地から逃れるために、思わず質問をした。
「ああ、知りたいかね?」
 老人がぼそりと呟いた。「・・・・十歳で死んだ息子があそこにいるんだ」
「いまも見えるの?」
「おう、あそこにいるからな」
「ぼくには、何も見えない・・・・」正直に言った。
「形を見ようとするから見えないんだよ。そうではなくて、恋しいもの、懐かしいもの、会いたいもの、そうした形にならないふわふわしたものを心の中で思うといつか見えるんじゃないかな」
 ぼくは隣に立つ老人の顔を盗み見た。
 表情を見ることで、ぼくに伝えようとする言葉のひびきを探ろうとしたのだ。
 老人は、そのとき苦しそうに目を伏せた。
 空の一角に語りかけるように、抑制した悲しみを投げかけた。
 どんな原因で息子を亡くしたのか、その後の家族はどうなったのか、そうした詮索をすべてやり過ごしてしまう不確かな空気が窓のあたりに漂っていた。
 どれほどの歳月、老人は空を見続けてきたのだろうか。
 そのことだけでも訊きたかったが、二週間前にも窓から離れなかった老人の姿を思い出し、やはり尋ねるべきことではないと悟った。
 (ぼくは、パパに会いたい・・・・)
 新聞社の外国特派員としてベトナムで死んだ、若い父親の面影や匂いを思い出していた。
 父の残した業績は、何ひとつ教えられていなかった。
 死んだという事実ばかりで、ぼくには父の死の状況を思い描くことはできなかった。
「形を見ようとすると、何も見えないんだよ」
 老人の言葉を思い出して、こみ上げてきた寂しさだけを空に向けた。
 すると泡立てたシャボンの香りと笑い声が聞こえてきた。
 誰かの手が肩に置かれたような気がして振り返ったが、燕尾服の老人がぼくに触れた様子はみられなかった。
 しかし、白い手袋をした老人の手が、手品のように闇に隠れるのを知っていたので、ぼくが気づかないうちに触れられたのかもしれないと思いなおした。
「さあ、写真を撮ってあげよう」
 写真館の主人に戻った老人は、いそいそと機材を配置しだした。
 照明を点灯しカンバスの装着が終わると、背景の前にぼくを立たせてレンズの焦点を合わせた。
「はっはっは、やっぱり運動靴は似合わないな」
 ひとりで頷き、近くの衣装棚からスーツケースを引っ張り出した。
「きみ、この革靴に取り換えなさい。そうだ、その前にこの服に着替えなさい」
 有無を言わせぬつよい意思がこもっていた。
 ぼくは、すなおに言うことを聞いた。
 老人の考えていることが、すぐにわかったからだ。
 表の出窓に飾ってあった写真とは別に、ぼくぐらいの男の子の写真が額に入れられ、三脚の横に立てかけられていた。
 ぼくが身に付けた学童服と半ズボン、それに黒光りする革靴は、額の中の子供とまったく同じものだった。
「おう、おう、これなら写りが良い」
 老人は再びぼくを背景の前に立たせて、大きなカメラに顔を近づけ、黒い布をすっぽりかぶった。
「さあ、にっこりして」
 フラッシュがたかれた瞬間、ぼくの中から熱いものが飛び出していった。
 言われるままに、老人の意思に従ったことが悔やまれた。
 そろそろ帰り支度を始めているだろう母の知らない間に、見知らぬ老人の家に招き入れられたことに罪の意識を覚えた。
 (ぼくは家に帰してもらえるのだろうか)
 漠然とした不安がぼくの胸に広がった。
 急に泣きたくなって、息苦しくなった。
 こらえようとする感情が、しゃっくりのように胸元から突き上げてきた。
「ときどき反対方向に向かったりして、道草を食うのはいけないと思います・・・・」
 女子児童の非難の声がよみがえってきた。
「ぼく、家に帰りたい」
 泣きじゃくりながら訴えると、老人は悲しそうな表情でぼそりと言った。
「道をまちがえずに帰れるかな?」
 ビロードのカーテンはいつの間にか閉じられていて、そこを開けられるのは老人の白い手袋の手だけかもしれない。
 ぼくは、絶望的な気持ちになってガラス窓の方に駆け寄り、必死に空を見上げた。
 すると、硝煙のようにたなびく雲の間から、父の顔が微笑みかけてきた。
「おまえもお父さんに似て冒険好きなやつだな」
 急に元気が出て、勇気が湧いた。
 ぼくは、写真を撮るために着せられた衣装を脱ぎ捨て、運動靴に履き替えてカーテンに近づいた。
 何も着けていない手だったが、布の中央に差し込むと簡単に割れ、隙間から写真館の店先が見えた。
 出窓の横を通り抜け、ガラス戸を閉めた途端に、『窓貸します』の木札が激しく音をたてた。
 誰かが追ってきたのかと怯えたが、そこに老人の姿はなかった。

     (おわり)

 

 
 


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4 コメント

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結論は読者任せ (くりたえいじ)
2010-12-18 16:14:11

不思議な哀しさが漂うような一篇ですね。
とりわけ写真館の老主人が自宅の窓から虚空を眺めている姿は、いかにも悲しげに思えます。
他方、好奇心の強い少年は、その写真館にも老人にも惹きこまれていく。

〈窓を貸します〉という不思議な看板を見たのがきっかけで、老人との対面を果たしはするものの……。
本編はそこまで読者を引っ張ってきて、とくに話に決着をつけるわけでなく、読者の想像に任せるあたりニクイです。
そこが小説作りの妙でもあるのでしょう。

立地条件も異色でした。
白金の有栖川公園や自然教育園など出てきて、高級住宅街の雰囲気を醸し出しており、そんな地区であるだけに主人公の老人像が劇的に浮かび上がってきましたよ。
絵が浮かんできたのなら・・・・ (窪庭忠男)
2010-12-20 00:28:39
ありがとう。

いつもと違う場所、人物、そして危ういシチュエーション。
どのように読み解いていただいたか、気になります。
窓とファインダー (知恵熱おやじ)
2010-12-21 04:03:13
ファインダーという窓から人を覗くことで生きてきた老人の人生。

窓から覗くことで世間と繋がるのが、老人にとっては一番自然なことだったのかもしれませんね。

少年も危うく自分がその世界その窓に惹かれそうな自分に気付いたのか。
慌てて磁力から自分を引き離すように、力を振り絞って逃れた。

でも、その老人のことは一生少年の頭のどこかにすみついて、辛いことあったりするとふっと思い出すに違いない。

実に味わいのあるいい短編小説ですね。
少年への幾多の誘惑 (窪庭忠男)
2010-12-22 00:21:53
(知恵熱おやじ)様、お忙しい中コメントいただきありがとうございます。          
現実の世界でも、いたいけな命が時空の手中に落ちることがあります。
  
魔の一瞬に捉えられる者、無意識に危険を察知して逃れる者、われわれは現在ここにある幸運に感謝すべきでしょう。

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