臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

水騒動

2017-05-17 14:53:11 | Weblog
「ヒータ!」
「ヒータ!」
階下から何度か大声で叫ぶと、上階の大きな窓から化粧の厚い、とうの立った黒人女性が顔を突き出した。
「なんだい」
「水が無くなった。ポンプのスイッチを入れてくれないか」
ヒータは大儀なそぶりでゆっくりと頭を引っ込め、やがて奥の方から、
「付けたよ!」
と、低いがよく通るだみ声が届いた。

かねてからペーニャより説明を受けていたが、この建物は1階と2階の入口が別になっており、各階に配する水は屋上にある共通の貯水槽から供給される。屋上へは2階の入口より通じるが、入口には南京錠が掛かっており、鍵は2階の住人ヒータしか持っていない。貯水槽の水が無くなると手動でポンプの電源を入れ、満水になれば手動で切る必要があるが、私は屋内に入れないので、彼女にそれをしてもらわなければならない。

やれやれこれで水が使えると思い、流し台の水道の蛇口をひねると、水は細糸のように流れるだけで一向に圧力が戻らない。ペーニャの説明を思い出した。圧力が戻らない場合は、流し台と浴室のシャワーの蛇口を同時に開けてしばらく放置すればやがて戻るという。水道管への空気の混入が圧力低下の原因であり、空気を水とともに外に逃がせばよいとの説明であった。

ところが、両方の蛇口を開け放って置いても圧力は一向に回復しない。圧力が弱すぎてシャワーから水が流れて来ず、かろうじて流し台の蛇口からちょろちょろと垂れ落ちる程度だ。諦めて蛇口の栓を閉めた。

翌朝、シャワーの栓をひねるとボトボトと水がしたたり落ちてきた。回復過程にあるようだが、以前の状態には程遠い。流れる水はひどく冷たい。シャワーには電気温水器が付いているが、これは一定の水圧がかからないと作動しない。時は7月、ブラジルは冬季に当たり、しかもこの地区は標高が高く昼間でも肌寒い。やむを得ず、鍋に水を入れてガスで沸かし、たらいに溜めたお湯を倹約しながら体を洗った。

結局、シャワーの圧力が回復するのに4日を要し、その間、入浴ひとつ行うにも、ひどく時間を浪費する羽目となった。再びかような事態を招きたくない。だが、私には何もできない。ただヒータに貯水槽の水を切らさないでくれと祈るほかはない。空頼みの切なさが心を塞ぐ。

ある日、大雨がこの一帯に降りしきった。すると、蛇口から出る水がうっすらと濁っているではないか。コップに溜めた水には不純物が混じっている。原因は、家屋の裏に設置されている、水源からの水を貯める貯水槽が密閉されておらず、降雨により周囲の泥土を跳ね上げ、貯水槽内が汚染されることにあった。貯水槽を覆う蓋は複数の建築廃材を半端に重ね合わせただけで、これでは外部から水が容易に侵入してしまう。ペーニャに改善を求めたが、彼女は隣州のエスピリト・サントに住んでいるので、リオに来るまで待っててほしいの一点張りである。だが、彼女がいつ現れるのか、確とした約束はない。

翌月、再び蛇口の水が出なくなった。またヒータがポンプの作動を忘れたのかと思い、彼女を呼ぶと、なんと水源から水が流れて来なくなったという。昨晩は大風が吹き荒れたので、夾雑物が管を詰まらせたのではないかと、平然とのたまう。私は動転した。
「じゃあいったいどうするのさ」
「どうしょうもないね」
「なんとかならないのか」
「待つしかないね」
「待つって・・・ 待っても仕方がないじゃないか」
「前にもそんなことがあったよ。待っていればそのうち水は戻るよ」
「そんな馬鹿な!」
「しばらくは近所に頼んで水を使わせてもらいな」
彼女は面倒くさそうに大きなお腹を翻すと扉の奥に引っ込んでしまった。

隣家の水源は我々の建物の水源と異なるおかげで使用可能であり、家主のアドリアーナは私の水の拝借を快く了承してくれた。たらいに水を溜め、部屋に運び込み、チビチビと洗い物やトイレに使用し、無くなるとまた数間先の洗い場にたらいを持って行き、水を溜める。一日の限られた時間がその繰り返しでいたずらに経過しながら、文明生活から無縁となった自分が何となくみじめに思えてきた。

ペーニャに不平不満を連ねたメッセージを書き送り、不毛な返答を受け取る2日間が過ぎたのち、突然水が元に戻った。安堵と混乱と不安が交錯し私の頭に充満した。いったいなぜ復旧したのだろうか。ヒータに聞いても満足いく答えは得られない。私は度々訪れる不幸に対し、ただ天を仰ぎ、祈るほかに道はないという、奇怪で不条理な環境に悪寒を感じた。

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