嶋津隆文オフィシャルブログ

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実家の上空を旋回し南方に散った23歳

2008年10月14日 | Weblog

この連休の12日、父親の7回忌でふるさと渥美へ帰郷しました。父が陸軍の軍人であったこともあり、親戚との話しは自ずと戦争に及び、その席で奇しくも戦争末期にフィリピンで戦死した父の弟、二郎の最後を聞かされました。

三重の明野の海軍航空隊にいた叔父二郎。彼は飛行機乗りとして後輩の訓練に当たるとともに、自らも昭和19年の秋に出陣し、戦艦武蔵の護衛で米軍と戦い10月24日にレイテ沖に散っていったのです。23歳のときのことです。

その南方に行く朝、明野から伊勢湾を越え伊良湖岬に飛行した彼は、連隊から一機だけ離れて実家の上空を一周旋回し、両翼を上下に揺らしながら海のかなたに消えていったというのです。飛来することを前日に電報で知らされ我が家の庭に集まっていた地元の人たちは、白いマフラーと手を振る顔がはっきり見えたと口々にいい興奮して見送ったといいます。

でも、と法事に集まった一人の叔母はしみじみ言いました。二郎さんは母親に別れを言いたくて飛んで来たに違いない。でもお母さんは庭に姿を出すことなく、部屋に閉じこもって動かなかった。死にに飛んでいく息子の姿を絶対に見たくなかったんだろうね。するともう一人の叔母が口を挟みました。そう、そのとおりだと私も思う。

当時伊良湖岬村の村長を長くしていた祖父十文字は、数年前から多くの人の出征を中心となって見送り、あるいは白木の箱で戻ってきた人たちを村葬で迎えていたのです。それだけに祖父は、息子二郎の戦死に心ならずもホッとしたともいわれます。これで他の遺族の人たちに面目がたつと。ちょうど、日露戦役の際の203高地の激戦で、乃木希典の息子達の戦死とそれに対する大将の心情を思わず想起させるやりとりでした。

息子の飛行機を見ようとせず部屋から出なかった祖母。しかしあの後一人で山に行っては泣いていたとも聞きました。いや考えても見れば、きっとそうした艱難はひとり祖母だけではないでしょう。実は祖父も同様に人目を避けて涙していたに違いないと思うのです。戦勝を鼓舞し、カイゼル髭をはやしステッキをつき、威厳を常に世間に示そうとしていた祖父。それだけにかえって、息子の死に掌を握り締め悲しみを見せない苦痛が伝わって来るというものです。

いまその23歳で散った叔父二郎は、菩提寺たる常光寺のそばの、太平洋を望む小高い墓地の一角に眠ります。しかしその墓には、いうまでもなく彼の一片の遺骨も納められてはいないのです。


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