GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

報道委員会開催 1968年2月

2009年05月27日 | 報道

 二月十五日は昭和二十六年以来十七年ぶりの大雪があり、その直後十六日の委員会開催で、参加役員はまことに不運であった。しかし参加の数名は関根昭二会長を始め熱意ある発言が続出して、報道運営その他について次のような協議結果をまとめ上げた。

  一、報道発行について
 昭和四十二年度事業の残部として、報道二月号(第一八一号)、三月号(第一八二号)を続けて発行する。

  二、報道委員会事務局について
 事務局を役場内に置くことを改めて確認し、事務局職員として、安藤助役、総務課小輪瀬庶務係長を委嘱する。

  三、報道運営について
1、「嵐山町報道」については、長い経歴を持っているので、従来どおり「嵐山町報道」として持続する。
2、紙面はB五版を用い、「とじ穴」をあけるよう便宜を計ること。
3、報道内容は、広報的なものと、いわゆる新聞的なものとをかみ合わせた考え方で行く。
4、報道印刷費について、「第一印刷」と「大洋社」の二社から見積書を取って、その紙質や印刷費につき充分検討すること。
5、嵐山町を会場とする広報研究会開催の節は、委員会役員も之に出席して研究する。
6、原稿校正、割付等は編集係を中心に行ない、委員会は努めてこの仕事に協力することとする。

     『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日


嵐山町報道二十周年祝辞 中島元次郎 1970年

2009年05月25日 | 報道
   祝辞 報道二十周年に寄す
             嵐山町議会議長 中島元次郎
 嵐山町報道が発刊されてからここに二十周年を迎えるに当り、心から祝福と感謝の意を捧げたいと存じます。想えば戦後の立ち直りが、まだ混沌として居た、世情の中で昭和二十五年初めて発刊されてより、大きく変り行く社会的條件を常に捕え乍ら二十年と云う、長い星霜をよりよき報道紙発行の為に、日夜分かたぬ懸命の御努力と御苦心を重ねて来られました。当初から現在に至るまでの報道委員の方々を初め、長い期間にわたり尊い資料の提供御意見の寄稿をなされました数多い町民の方々の対しまして衷心(ちゆうしん)より敬意と感謝を申し上げます。
 現在埼玉県には九十三の市町村が有り、その大部分の市町村に於て、何等かの形で広報的な印刷物が発行されて居ると聞きますが、その中で吾が町の発行する報道の様に長い伝統と特殊性を持っているものは、非常に数が少ないと云われて居ります。即ちそのほとんどの広報紙が、その市町村の公的な立場で一方的に行政財政等の面でのみ、そのPRを取り上げて居るのが多いのに対し嵐山町の報道のシステムは町の一般行、財政はもち論の事、時には自由論壇に花を咲かせ、時には古文書等の抽出により、歴史の探究、史跡、文化財の照会等によって、町の過去と現代を結び付け、読む人をして愛郷の念を再認識して戴く効果は大なるものが有ると思います。
 又其の他種々な投稿によって貴重な御意見等が掲載され、いつも紙面に活々とした雰囲気が溢れています。私達は何事によらず自分を取巻く身近な社会をよく知りたいと思う感情が有りますが、このポイントをよく捕らえて発行される吾が町の報道は常に多くの町民から愛され喜んで熟読され、そして是認されて参りました事実は、高く評価され、尊敬されなければならないと共に、今日ここ迄健全な発展をして来た要素がここに有ると思います。今更私が申す迄もなく今や現在の日本の時局は多難を予測される中で政治も経済も思想、宗教、文化等各界いずれの面でも前途に大きな変貌が来る事が感じさせられます。
 こうした国の動きの中に有って地方自治体も大なり小なり、その影響を受けざるを得ません。特に比企広域開発構想の中で重要な位置に有る嵐山町は前途に山積した問題をかかえて居ると云えましょう。この様な時代に当り、過去二十年間常に町の動勢を浮彫にしつつ、いつも町民の指針となって参りました報道の今後一層の御発展と活躍を御期待申上げてお祝いの言葉と致します。
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

「報道」人功過帳 小林博治 1970年

2009年05月23日 | 報道

   「報道」人功過帳 二十周年に寄す
                      小林博治
 昭和二十六年(1951)六月、東松山市の「埼玉日報」は、「報道」を評して、「村民必読の報道」の見出しで「各町村に報道委員会があってその町村運営、その他を細大もらさず住民に知らせているが、中でも比企郡菅谷村の報道は、群を抜き理想的だと言う評がある。……運営委員には同村長高崎達蔵氏の外十七氏が選ばれている。…既に十三号を出し、発刊以来一ヶ年越しているが、号を重ねるごとにその編集ぶりも鮮やかで、村民必読の報道となっている。」と報じている。
 この「県かで群を抜き、理想的だ」と評せられた「報道」のスタッフは、二十六年五月に新役員が選ばれて、会長小林博治、副会長根岸三郎、関根昭二、委員森与資、出野憲平、大野昌三、侭田雪光、高崎達蔵、内田喜雄、内田誠次、小林久、杉田角太郎、関根茂章、高橋嘉明、金子重雄、中島金吾、金井元吉、柏俣長助、金井宣久、小沢長助、忍田喜三の二十一名となっている。
 埼玉日報から高く評価された「報道」はこれらの人達によって、作り出されたものである。よって今、「報道」二十周年の折り目の日に際会し、これらの人々を功過帳にのせ、その活動のあとを辿ってみることとしよう。自ら運営委員となって「報道」を育成した高崎村長は勿論、全部の委員についてそれぞれの持ち味を示した逸話がおもいだされるのであるが、この中で、関根昭二、関根茂章、大野昌三と私の四名が、編集を担当し、とくに、関連が深かったので先ず関根昭二あたりから始めてみることにする。

 ▽関根昭二君
 現在の嵐山町報道でも、続いて書いているのは、議会の審議状況つまり議員の質問、町長等の答弁のやりとりの記事であるが、その記事のはじめを作ったのが関根昭二君である。昭和二十六年二月の十一号に、前年末十二月の定例村会の模様を報道したのが、はじめでその後は、議会の開かれる毎に、関根君の傍聴記が紙面を飾って、村民の関心を集めた。十二号の「全面か単独か-国会議員さながらの大論戦-」は、第四面全部を埋めつくす長論で、論戦の状況が手に取るように描き出されている。こうして議会内の模様は、ありありと村民の目前にうつし出されることになった。関根君はいつの間にか、議会担当記者のようになり彼が議場に現はれると、沈滞気味の議場が急に引きしまり、発言も俄に活気を呈して来た。中には既に解決した無関係の問題を、わざわざ引張り出して、ハッタリ質問を試みる議員も出て来たと言うことである。カッコいいところを「報道」に書かせようという魂胆である。
 関根君のもう一つの仕事は、「あとがき」であった。これはただ編集上の都合、計画などを事務的に伝えると言う性質のものではなく、いはば、新聞のコラムを兼ねたものであった。一々例を上げる余裕がないが合理主義とロマンチシズムの交錯した彼一流のユニークな筆致で、自然の美を探求し自由や文化を説き、民主主義を論評した。その中で、彼は、議会尊重の熱意から発して「議員が発言しようとするときは、起立して議長と呼び、自席の番号を告げ、議長の許可を受けなければならないのに、殆んど守られていない。」「議事中は私語、喫煙等すべて議事を妨げる行為をなすことはできない。とあるのに、喫煙は、平然と行はれ、私語は盛んに交されている。このように、議員が自分で決定した議会規則を自から破っている現実に対して、我々は強く反省を要求する。」と言って議員を叱ったのである。
 さて議会の発言を、その侭書かれたり、議会のマナーについて、小言を言はれたりしては、議員たるもの、心中甚だ面白くないのは当然である。併も相手は、たかだか二十四才の若僧である。生意気だと言うことになったらしい。「報道などつぶしてしまえ」という議論が一部議員から出て来た。本気で言ったかどうか、それは分からないが、このような意見が出たことは事実であって、十三号の「あとがき」で「我々は常に〝言論の自由〟と言う基本的人権のもとに報道してきたのであり、いかなる地位や肩書にも恐れないのである。若しも、村会の模様を報じたために、一部議員の怒りを買ったとしても、それは全く議員の責任である。……報道をつぶしてしまえなどとは以ての外のことである。我々は今後も断固として議員の動静を精細に報じ、村民の選んだ議員が何を述べ、何をしたかについて、村民に報道しなければならない。」といって肩をいからせているのでも分る。
 これは実は私が書いたのであり前にも言ったが関根茂章君が、「村で金を出さぬと言うなら我々で小遣を出し合って続けていこう。」と言ったと言うのは多分この時のことだと思う。関根昭二君自身は「我々は民衆の〝声なき声〟に耳を傾け正義と自由を護るために勇敢に闘うことを誓ったのである。村会に反省を求め、消防団に警告を発し、農民の奮起を要望してきたのである。……」と書いた軒昴(けんこう)たる意気を示している。だが、今にして思えばこれら一連の高姿勢は、余り愛すべき稚気とは言えなかったのではないかと言う反省も起きないわけでもない。
 大学生の時、民俗学を学んだ関根君の感覚は、村の伝統について敏感にはたらいた。「私たちのささやかな生活の端々に、なにげない言葉の一片に、或はさりげない日常の慣習に、地名や呼名に、年中行事に、更には自然の一木一草に、私たちの遠い祖先の血が脈々と流れているのである。…(第九号参照)」と言って、「昔を今にめぐりあるき」の記事が登場したのである。これは彼の建康不調のため、将軍沢の巻と、思想の巻で中絶した。惜しいことであった。然し、これは、彼が教育委員に就任するに及んで再びよみがえり、彼の発想で村史編纂の計画がはじめられた。それをうけて私はしばらく「古老にきく」を書いて連載した。「嵐山町誌」の系譜は彼の「めぐり歩き」に始まるのである。
 (この稿は、関根昭二君からはじめて、関根茂章君、高崎村長など次々と続けるつもりであったが、まだ関根昭二君が終わらぬ中に紙数がつきた。又、こんなことを書いていると、私自身は愉しくてならないのだが、「何を下らぬことを」といって、眉をひそめる人も必ずあると思う。それでこの辺で中断するし、又後日続けて書こうと言う気持も別にもっていないのである。)
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日


「報道」発行二十周年記念に当って 関根昭二 1970年

2009年05月21日 | 報道
   挨拶 「報道」発行二十周年に当って
                  報道委員長 関根昭二
 「報道」の第一号が発行されたのは、昭和二十五年(1950)四月二十日である。二十年の歳月が夢の様に流れ去った。
 関根町長が「報道」二〇〇号に寄せた文章にもあるように自由と「燃えるような情熱と、言論の自由と、政治的・精神的独立を強く心に期して第一号を住民に送ったこの創業の精神が強弱はあったにしろ、この二十年間、底流として「報道」を支えて来た。」確かにそうなのである。この一文ほど適確に「報道」の精神的伝統を語り得ているものはない。勿論、町長自身、当時の参画者であり、知性に溢れた青年だったのである。「報道」は固苦しいとまで云はれたほど品格を高らしめた所以のものは初代の会長であった小林博治氏の該博な知識と軽妙な筆法からなる一文は紙面に一異彩を放ったものである。
 こうして「報道」は他町村に見られない独特なスタイルを編み出したのである。
 更に「報道」の費用はすべて町の財政で賄れてきたのであり、この点歴代の町村長と議会に深い敬意と感謝を申し上げたい。また二十年間にわたって愛読下さった町民の皆さんに心からのお礼を申し上げたい。
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

公民館の落成と嵐山町報道発行二十周年に際して 関根茂章 1970年

2009年05月19日 | 報道
   公民館の落成と報道発行二十周年に際して
                  嵐山町長 関根茂章
 公民館は期待通りに落成した。題字の揮毫(きごう)をいただいた知事さん、ご指導をいただいた県関係者、土地を提供して下された地主の皆さん、設計・監督・施工にあたられた業者の方々、更にこの建設を献身的に推進された建設委員の各位、またご指導やご協力をいただいた多くの方々に心からの敬意と感謝をささげたい。
 公民館はわが嵐山町の「シンボル」である。そして多くの夢と期待がかけられている。「新しき酒は新しき革袋に」のたとえのごとく新公民館長を中心として、町民のための学習と集会の広場として、さらにこの地方の会場として活用されることを期待して止まない。
 尚この公民館の建設には旧菅谷農校任意組合及びそのP・T・Aよりの資金が建設費の一部としてつかわれた。菅農卒業生並びにその関係者のために、新公民館の一室を「菅農会」と呼び、「菅農」の名を留めさせたいと思っている。
 尚、この建設に当り、自主的に多額の寄附をよせられた、鶴田又男、安藤専一の両氏及び岡田■■氏描くところの「飛鴨」を寄贈された長谷川黙龍氏に対し深甚なる感謝をささげたい。
 また公民館の落成を祝福して、自らの手によって磨き作られた素晴らしい贈り物「未来」をよせていただいた大島元先生を中心とした菅小アスナロ学級の生徒諸君に、心からお礼を申上げたい。
 「報道」は自治体の新聞として、戦後G・H・Qの管理統制のきびしかった時代、理想と願いをこめて誕生したのであった。あれから早くも二十年の年月が流れた。よくもたどり来しかなの感がに深い。
 ガンジーの糸つむぎ機が彼の手によって静かに廻転し始めた時から、印度民族の独立運動の第一頁が綴られるのであるが、わが「報道」も、敗戦後の自由・独立・民主化の嵐の中を創業期の理想と意志を一貫して堅持して来た。自治体当時の大部分の新聞が、市町村の単なる「お知らせ」程度に変容してしまった中にあってわが「報道」は、毅然として屹立(きつりつ)する秀峰を仰ぐ感がする。
 また同寺に「報道」二十年の記事は、そのままわが嵐山町の歴史を物語るものであり、多くの人々の辛酸と努力、汗と苦汁、喜びと哀しみが包蔵されているのである。
 二十年の報道の歴史を築かれた関係者の皆さん、また支援された町民の各位に深い敬意と感謝を捧げるものである。
 更に今後、この栄ある歴史の上に、この栄ある歴史の上に、大いに努力され公正なる客観的手法と、厳正なる批判精神を基調として活動されるとともに、変貌する時代の中に、町民の行く手を示す「ともし火」であってもらいたい。
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

初期の報道 小林博治 1969年

2009年05月17日 | 報道
   「報道」の初期 
             初代会長 小林博治
 「報道」第一号が出たのは、昭和二十五年(1950)四月二十日、丁度二十年前になる。その第一号に、私は「昔の村民は、殿様の言いなり次第に生活したが、今は民主々義の時代であるから、村のことは何でも自分たちでしなければならない。面倒でもあるが張り合いも多い。村長や村議を選んで、村政の計画をたてたり、それを実施したりしなければならない。学校を建てる、道路をつくる、治水や防火や防疫や、産業振興など、全て自分たちで計画し実行しなければならない。そしてその計費も自分たちで出すのである。殿様に絶対服従の時代より、うんと自由になったが、その反面重い責任がかゝって来ている。よい村にして幸福になるのも、悪い村にして不平不満で暮らすのも、みんな自分たちのやり方次第である。そこで、そのよい村をつくるためには、村の現情をよく知ること、村民お互の意思の疎通をはかること、国や県の法律規則などにも通ずることが是非必要である。この必要に即応して、報道委員会が生まれたのである。」と書いて、会長の挨拶に代えた。「報道」はよい村を建設するためのパイロットだというのである。
 今、ふりかえって見ると、当時の委員の胸中には、この意気込みがみなぎっていた。「報道」を拠点としてよい村をつくってやろうという夢がふくらんでいた。このことを物語る一つの例は、委員会の論議である。午後からの会議が夕飯を食って、九時、十時に及ぶことがたびたびあった。革新のチャンピオン金井元吉君などもメンバーで保守革新の間に仲々調子の高い論争が展開されたものである。
 「報道」は役場の御用新聞ではないという気がいもあったから、委員会の村政批判は辛らつであった。村長や村議に対しても遠慮がなかった。それが紙面をにぎわした。「若し村で金を出さぬといったら俺たちで出し合ってでも発行していこう。」と意気巻いていたのは今の町長関根茂章君であった。
 委員会に呼応して、村内にも言論縦横の火の手が上がった。第三号では、中島年治君が二十五年度予算を批判して「報道が出来たおかげで、村民一般がはじめて、村予算の全貌に接することが出来た。委員会の努力の結果である。」と前書きし、さてといって「この予算を前年度と比較すると相変わらずどこにも目玉のない平板予算である。村長は重点主義を取ったというが建設的意図が不充分である。これでは何とか村を興そうとしている青年たちにも熱はあれど足場がない。」といって、噛みついている。議論の当否は別として、当時の若者には、こんな気風が溢(おういつ)していたのである。「報道」を中心に村のヤングパワーが結集していたというわけである。
 こんな話をも少し続けてみよう。稍々後になるが、闘病生活から帰ってきた関根昭二君の論説が長い間「論壇」をにぎわした。初期のものを上げると「予算審議を傍聴して」「選挙を顧みて」「転換期に立った高崎村政」などがあり、いづれも、議会や村政に対する鋭い批判である。そしてこれを受けて立ったのが議会の論客山下欽治、高橋亥一、出野好の諸氏で、若い関根君と真剣にわたり合って、堂々の論陣を張った。「報道」の「論壇」は正に百家争鳴、議会の花盛りであった。
 然し「報道」紙面は右のような論戦ばかりで飾られたわけではなかった。若い層では、今の農協組合長長島実君の「農業経営と煙草栽培」現町議山田巌君の「酪農問題」など、農業経営の将来の展望とその対策などが掲載されているし、教育・文化面では教育の老大家根岸良治氏、女流評論家の根岸き氏などが健筆をふるっている。村長高崎達蔵氏、農協長侭田雪光氏なども殆んど毎月筆をとって村政の報道と解説につとめた。
 この調子で書いていては切りがないから、この辺でやめることにするが、今まで言ったことでも分かるように「報道」は若い人たちが中心となって、よい村づくりの推進役をつとめようという真剣な意気込みの下でつくられていた。そして、当時の壮年及至老年層はそのしたむきな気持ちをまともに受けとめて、青年層と一緒になって、村政を論じた。今のような、新旧世帯の断絶はなかったのである。
 私が挨拶に書いたような報道委員会の使命と目的は達成されたかどうか。私としてはその功罪は論じない。言えば独断になる。只一つ、その当時の若者が「報道」を舞台に、青春の情熱をたぎらせたその連中が、今、町政の枢機にたずさわって町を動かしている。これを言えば「報道」の評価も自ら決定されるであろう。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

報道二百号発刊挨拶 関根昭二 1969年

2009年05月15日 | 報道
   挨拶
             報道委員長  関根昭二
 「報道」は今号を以て二百号に達した。昭和二十五年(1950)の四月に第一号を発行して以来、約二十年の幾月が流れたわけである。第一号の当時から、休み休みではあったがこの仕事にたづさはってきた者として感慨の無量なるものを覚える。二十年の私は若かった。今、第一号から第十三号までの自分の書いたものを読み返してみると、どうしてこんなことを書いたのかなあと恥しい思いをするものもあるし、よくこういう文章が書けたものだと苦い感傷を甦らせるものもある。
 ただ、今も昔も変らざるものは「報道」に対する情熱である。私は誇りと自信をもって、この仕事に取り組んできたつもりである。県の広報課では嵐山町の「報道」のような行き方を非常にきらっている。この「報道」にように、町政の批判的記事を書いたり、議員の議会発言を掲載したりすることは、好ましくないというのが県の考え方である。いはば「お知らせ」をするのが町村の「広報」の在り方だというのである。
 「報道」は終始、そのような在り方に対して、県下で唯一つ、独特な紙面を以て今日まで続けてきた。従って、県の「広報コンクール」などで表彰されたことは未だに一度もない。然し、私たちはそれを残念だと思った事はない。「報道」がこれから先、どれだけ長く続けられるかわからないが、少くとも町の政治に住民の声が反映されるような紙面でありたいと念じている。
 町民皆さんの今日までの御声援と協力を心から感謝すると共に、今後の御叱正をお願いする。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

嵐山町報道二百号発刊について 山岸宗朋 1969年

2009年05月13日 | 報道

   報道二〇〇号発刊について
                 山岸宗朋
 報道は嵐山町の特殊な性質をもった機関となって町民全体の心の内にしみこんで、報道を読むことが我々はどのくらいたのしみであるかしれない。
 いつの間にか二〇〇号となった拾年一昔と言うが、拾数年も継続して来たことはよろこびにたえません。
 然しながら此の報道が継続発刊されて来たことには、裏方として並々ならぬ努力をはらわれて来た方々がおります。私は真先に此の方々に心から感謝を申し上げます。過去を思い起こしてみるとづいぶん色々な事がありました。
 ある時は夜を徹して編集のことで議論したこともありました。ある時は報道がきびしすぎると議論の基になって議員から強く批判を受けたこともありました。或いは原稿を委員会に提出しても報道にのらなかったと言はれ、強いおこゞとを申し込まれたこともありました。町の出来事が正しく報道を通して町全体の家庭に配られて来たので味力が町民にもたれ、たのしまれて来たことゝ思われます。
 今後とも嵐山町の発展のために発刊が永遠に続きますことを祈念申し上げまして二〇〇号発刊記念の挨拶といたします。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日


嵐山町報道二百号発刊に際して 関根茂章 1969年

2009年05月11日 | 報道
   二百号の発刊に際して
               嵐山町長 関根茂章
 報道が遂に二百号を出すにいたったことを知り、全く感慨はかり知れないものがある。
 報道二十年の歴史は、そのままこの我が嵐山町の歴史であり、幾多の人々が、それぞれの時期に於て孜(し)々として努力された軌跡の集積である。
 今日、県内市町村の報道は、殆んど官報的な「おしらせ」の形式内容に変わってしまった。その中にあって、我が町の報道は、新聞形式をとり、町民の広場としての役割を演じていることは、まことによろこばしいことであり意義深い。
 G・H・Qの強い管理統制下に、燃えるような情熱と、言論の自由と、政治的、精神的独立を強く心に期して第一号を住民に送った。この創業の精神が、強弱はあったにしろ、この二十年間、低流として報道を支えて来た。
 報道の使命は、客観的、実証的手法と、冷厳な批判精神をもて、権威に屈せず、俗におぼれず毅然とした言論活動にある。
 関係された志に深く敬意を表すると共に今后の絶ゆみない御精進をお願いする次第である。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

嵐山町報道400号記念・編集委員からのメッセージ 1991年

2009年02月14日 | 報道

   -報道四〇〇号を記念して-
          編集委員からのメッセージ
 嵐山町の報道、その特色は、編集委員の企画による特集記事にあります。
 報道の歴史は、昭和25年(1950)の第一号発行から現在に至るまでの四十一年、その時代時代の背景を、紙面に反映し続け、取材等、皆様のご協力などにより今回、四百号を迎えることが出来ました。
 そこで現在の編集員から四百号を記念するとともに、この場をおかりして、皆さんへのメッセージをお届けします。

   私たちは、こんなことをしています(武谷敏子)
   http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/takeya/2009/02/1991_051d.html

   報道の使命をたいせつに
 最近、地方の時代を迎えて多くの市町村がモニターを設置して広聴活動を実施しようとしていますが、嵐山町「報道」は報道委員会が編集発行し当初より広聴活動による住民参加の「報道」を発行し四百号となりました。このことは嵐山町の誇りと思います。町民の皆様をはじめ、町当局、編集に携わってこられた諸先輩に心から敬意を表します。
 前会長が言われた「報道」の使命とは、知らせる 気づかせる そして行動をおこさせる をモットーに努力していきたいと思います。皆様の声を「報道」に生かせるよう、忌たんのないご意見をお待ちします。(藤井俊子)

   新鮮な心と感動で
 「報道は、そのまま町の歴史である。」(主旨)-委員委嘱のときの、町長の言葉です。
 町の歩みを残しつつ紙面を通し、読者との対話が生まれるよう編集会議ではあらゆる角度からの提言に花が咲きます。いざ原稿依頼、取材にと携わらせていただくとき、私は自分に新鮮な心と感動がなくてはと、感じました。
 読まれ、親しまれることを目指し、報道は町民のためにあることを、忘れずに、未熟ですが、頑張ってまいります。(小澤磨里)

   みんなで考えてほしい
 創設され丸二年経った「草の根フォーラム」。報道の読者のかたにはもうおなじみのページと思いますが、投稿の少ないのがとても残念です。町おこしのこと、福祉のこと、教育のことそして環境問題から国際交流、平和問題まで、素晴らしい意見を持っているかたがたによく出会います。
 この町を少しでも住み良くするために、どうか投稿して下さい。みんなで考えながら、自分たちの町をより良い町にしていきましょう。せっかくの町民のページをたいせつに生かしていくお手伝いをしたいと考えています。(石原紀子)

   これからの歴史を刻むために
 今年は自分の一番苦手な文を書くことに挑戦することになりました。
 何度もお断わりしようと考え、気の重いまま報道委員会に出席したのですが、委員さんの知恵袋の大きさと、一人ひとりが自分の意見や町のこと、そして報道の取り組みについて真剣に話し合う姿に、後からついて行き、勉強させてもらいたいと思いました。
 報道四百号は嵐山町の歴史を刻み、多くのかたのお力添えで築き上げられたものです。
 今後も報道を通し、嵐山町の様子を少しでも身近にお知らせできるよう頑張りたいと思います。(大工原三千代)
     『嵐山町報道』400号 1991年(平成3)10月1日


嵐山町広報350号記念の「報道縮刷版第1巻」完成 1987年

2009年01月10日 | 報道
   嵐山町広報350号記念の「報道縮刷版第1巻」完成
     町政施行20周年の嵐山町
 比企郡嵐山町(関根昭二町長)の町政施行二十周年と、町広報にあたる「嵐山町報道」の三百五十号発行を記念した「報道縮刷版・第一巻」ができ上がり、このほど各市町村や公共機関などへ発送した。
 縮刷版は、二十五年(1950)四月二十日の「菅谷村報道」一号から、昨年(1987)一月二十五日の「嵐山町報道」三百五十号までを収録し、裏表紙には四十一年(1966)と六十年(1985)に撮影した武蔵嵐山駅周辺と地産団地周辺の比較航空写真、冒頭に、菅谷、七郷の二村合併で新村菅谷村が誕生した三十年(1955)から、四十二年(1967)への町政施行を経て、町制二十周年式典を行った六十二年四月三十日までの年表「わが町のできごと」を付けた。
 「報道」は他市町村のような役所広報担当の編集ではなく、町が住民から報道委員を選んで編集を委嘱し、作られている。現在、町立図書館長の開発欣也さん(六九)を会長に、元町婦人会長、日本舞踊の先生、園芸農業生など八人の報道委員が、四人ずつ二班に分かれて取材、執筆している。町側窓口の総務課自治振興係【略】は「町からの一方的なお知らせでなく、町づくりについて住民の目で、自由に考えて足で取材していただけるように努めています」。
 「報道」は現在、毎月一回発行で、B5版十四ページ。「縮刷版」はB5版千二百二十九ページで、一部二千五百円。千部の限定出版だが、すでに六世帯当たり一冊以上の約八百部を、住民が購入したという。【略】
     『毎日新聞』1988年(昭和63)1月20日

『報道縮刷版第1巻』は完売。在庫はありません。図書館等でご利用ください。

「報道」三〇〇号に寄せて 報道委員会会長・関根昭二 1981年

2008年12月22日 | 報道

 「報道」は今号をもって三〇〇号に達した。昭和二十五年四月に第一号を発行して以来三十一年の歳月が流れている。第一号以来、引き続いてではないが関係してきた者として深い感慨を覚えざるをえない。今でも当時の文章を読み返してみると私も若かったなあという感情が甦(よみがえ)ってくる。情熱を傾けて「報道」に取り組んだ時代のことが思い出されてくる。
 今、手もとにある創刊当時の記事を読みながら往事を回想してみると、それは私にとって見果てぬ夢であり、青春の一頁でもある。
 第五号に『山王台上絢爛(けんらん)の偉容成る!!』という見出しで菅谷中学校新校舎の竣工を記事にした。この校舎は新制中学の発足にともない菅谷小学校の木造校舎に付属して建てられたもので、当時は立派な建物に感じられたが、「絢爛な偉容」とはオーバーな表現でありすぎた。今この校舎は取り壊されてない。
 第八号は「熱戦敢闘第三回村民体育大会終る」の記事。
『澄み切った青空、紫紺の秩父連山、黄金なす畑々、秋の香り冷やびやとする大気、白きライン、万国旗のいろどり、緑の大アーチ、そして青空をとどろかす花火の音。すべてがこの日、山王台上に繰りひろげられる精鋭五百の菅谷健児の敢闘に相応(ふさわ)しきものばかりである』
 何という若々しい稚気に溢れた文章であったことだろう。
 第九号に『昔を今に、めぐりあるき』という題名で連載ものを書く予定にしていた。しかし長く続かず、将軍沢の巻その一、その二、思想の巻その一、大正時代。で終ってしまった。その序文に云う。

 …今日生きている年老いた人々は、明治の代に生まれた人々ばかりである。でもそれらの人々に私たちはありし日の私たちの村の姿を尋ねることができるであろう。更にはそれらの人々が遠い日のこととして語り伝えられてきた数々の物語を聞くことができるであろう。そうして私たちは、私たちの郷土の歩みを云わば歴史の影の部分を知ることができるであろう。こうした歴史の影の部分を記録に留め、更にその生活史的意義を解明してみたい念願でこの「めぐりあるき」の企てを起こしたのである。
 これは一つの「思い出の記」である。村人の心の奥底に秘められたささやかな懐古録である。
 そうして菅谷村の現代的風土記である……。

 続いて書いた「将軍沢の巻 その一」は関根【茂章】町長に称讃されたものであるがその一部を紹介する。

 私はある晴れた晩秋の一日この笛吹峠を訪れてみた。将軍沢から亀井村須江に通ずる幅二間ほどの林道は松葉がこぼれ、くぬぎの枯葉が散って歩く度にかさかさと鳴った。焚木でも取っているのか枯枝を折る音が聞える。松とくぬぎの山が幾重にもかさなり、その谷間は田圃になって稲が掛けてあった。松林を抜け坂を上ると道は平になり、行手に石碑が見えた……。
 千軍万馬の関東武士達が鎧甲(よろいかぶと)に身を固め、白刃(はくじん)をひらめかして戦ったのであろうか。どよめく人声、乱れる馬の足音、鬨(とき)の声、太鼓の音、鐘の響、ほら貝の音、そして剣撃の響と人々のうめき声--それらはこの谷々に響き渡ったことであろう。だが今聞くべくもなくしのぶよすがすらない。ただ颯々(そうそう)たる松籟(しょうらい)の音とささたるすすきの揺らぎとちちたる小鳥の囀(さえず)りのみである。この峠に生い繁っている松やくぬぎはそして道ばたの小草は古き日の面影を語ることができるであろうか。
 その昔、どこからともなく聞こえてきた笛の音を今もなお秋風の中にささやくことができるというのであろうか……。
 この碑の建っている所は私の今上って来た道ともう一本の道とが交錯(こうさく)している四辻(よつつじ)になっている。この道は岩殿観音から平村慈光寺観音へ通ずる道で巡礼街道と呼ばれている。白い脚絆(きゃはん)にわらぢを履き遍路笠をかぶった巡礼達が鈴を鳴らしながらこの道を通って行ったことであろう。この道を少し行くと学有林があるが私は亀井村の方へ下りて行った。眼の前が急に明るくなると、よく開けた田圃が見え稲はすっかり刈りとられてきれいに掛けてあった。藁屋根の人家からは炊煙(すいえん)が上り、大きな沼が鈍く光っていた。そうして銀色の鉄柱が果(はて)しもなく小春日和の中に続いていた。遠く秩父の山波は薄紫に煙り、近くの山は青く或は紅葉に色どられていた。日だまりに腰かけてこれらの景にみとれていた私は正午近いのを感じて峠を下ることにした。同じ道を帰るのも愚だと思い途中の分れ道から左へ降りて行った。もとの上り口へ出ると思っていた私は全く見なれない光景に出逢ってしまった。左手は丘ですすきが一面に白くほほけ、右手は松林でその谷間に田圃があり、その向うはスロープをなした畑が続き、さらに笠山が見えるまことにおだやかな自然の美景である。それは嵐山のごとくはなやかではない。云ってみれば素朴の美景とでも云うのであろうか。然しここは一体どこであろう。田圃で稲を刈っている人に尋ねたらオオガヒだという。オオガヒとは何村ですかとさらに尋ねたら菅谷村の鎌形だという。私は驚いて今一度この景を見直してみた。菅谷村にもこんな平和な美しい地があったのかと思わずにはいられなかったのである。

 私がこれを書いたのは昭和二十五年(1950)の秋である。今この文章を読むと当時の光景がありありと脳裡(のうり)によみがえってくる。一人カメラを肩にあの峠道を歩いた頃がなつかしい。しかし、すべてが茫々(ぼうぼう)たる過去の世界であり、吾が青春の形身である。
     『嵐山町報道』第300号、1981年(昭和56)9月25日。