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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

冨岡寅吉日記 昭和20年4月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月31日 | 冨岡寅吉日記

四月一日 日 晴・夕方大雨
根刈り59
本日は三人で根刈りに行った。とても静かなよい日であった
午后少し風が出てきた。
根刈りも今少しで終る。今日は三人で五十九束刈った(た)
今晩隣組常会あり。
大風となる   以上
米軍、沖縄上陸。

四月二日 月 晴
根刈り20
車を引いて行く。坂を登るのは骨だ。根刈りも午前中に終った。
午后四篭で二車掃く
餅つき
根刈りタバ計二百八〇束
昨夜空襲警報あり
明日は、団、分会、青年団で三十三社拝礼   以上

四月三日 火 晴
青年団の三十三社拝礼。神社出発八時十分過ぎ。山方面へ行く。鎌形、田黒、玉川、五明、本郷、別所、桃ノ木、明覚、番匠、一ト市、大蔵神社である
嵐山写真部で大蔵の生徒五名で記念写真を取る
午后は土地で遊ぶ   以上

四月四日 水 雨
雨降りなり
金井宣久の家へ行き、二人で藁細工を一日中てし、足中一足、ぞうり四足つくる
マッチの配給。一戸三ツ

四月五日 木 晴・風が寒い
朝作くりにマッチの配給を配って歩るく。
父、隆次、ひで掘り。
祖父さんと二人で馬小屋の肥出し。
母、小生、まきと三人で田麦の作切り。二番作
一日中風が寒いので早しまひ
明日は入学式である

四月六日 金 曇
青年学校の入学式である。
入学生、男子部四十二名、女子部二十四名なり
九時より開始。校長先生の訓辞あり。吉野文子先生、都幾青へ、内田もよ先生、菅国より菅青へ来る
長島軍曹殿より軍隊の事についてお話をして呉れた。なんとなくなつかしい
午后、田の仕事

四月七日 土 晴
田麦のつぶてに行った。今朝は少し氷ってゐる
午前中に空襲警報あり
午后草刈りかごつくり。六ツふちをまくばいに仕上げた
今日も寒い日であった   以上

四月八日 日 晴
草刈りかごの底を組む。二ツ
馬小屋をなをす。
草刈りかごのふちまき。全部で八ツ。上唐子へ二ツ。子供用五ツ、腰をおこしてつくり上げる
植木山へ新聞持ちに行ったがなかった
父、翼壮の事について村役場へ

四月九日 月 曇
子供の草刈りかごをつくる。祖父さんは将軍沢の方へ使に行く
五ツつくり野本へ二ツ、将軍沢忍田忠次郎へ草刈りかご三ツ
午后草刈りかごのたてを割る
父青鳥の広場へ

四月十日 火 雨
草刈りかごの縦を割る
そこを組む 十二
腰をおこす
将軍沢の福島賢治宅へ草刈りかご四ツ
夕方迄に十二廻しを入れる
父、母、まき、山仕事。
守平お客に来る。
一日中雨降り   以上

四月十一日 水 晴
草刈りかごのふちまき
午前中に十二まき終る。守平帰る
午后大風が出た
子供用の草刈りかごのたてを割る
夕方七ツ底を組む
青校より手紙が来る
十六日吉野先生の告別式*。全員参加   以上
*転任・退職などの際、別れを告げる儀式をも「告別式」と言ったことがある(『岩波国語辞典』第四版)。

四月十二日 木 晴
召集日
四、五年の召集日なり
八時三〇分に学科を始めた
約一時間やると警戒となり空襲となる。授業中止で家へ帰る。解除になり出かけると又警戒となり帰ってきたら小沢君が迎えにきて、菅谷の丸通へ勤労奉仕。吉野と小生、士官学校の荷物運搬の手伝ひ*
樋口一等兵殿をおぼえる
*[資料]
 士教演乙第八四号
   演習実施期間再変更ノ件照会
  昭和二十年三月二十三日          陸軍士官学校幹事 印
   菅谷村長殿
当校(教授部)生徒現地戦術演習実施ニ関シ三月十九日士教演乙第八三号ヲ以テ通牒シタル期間更ニ左ノ通リ変更致シ度ニ付便宜取計ハレ度
  左記
 自五月十日至五月十九日 十日間ヲ
 自四月十四日至四月二十三日 十日間ニ変更ス
追而準備並ニ残仕来ノ関係上要物件ハ自四月十一日至四月二十四日頃ノ間借用致シ度ニ付申添フ

四月十三日 金 晴
草刈りかご子供用のふちまき
九時頃警戒警報あり。伝令として第二*へ行く
十時十五分解除となる
午后も警戒ありしも伝令に行かぬ。ラヂヲを聞いてゐた
ミソコシを三ツ作くり始めた。今晩夜計(夜警)なり   以上
*談:鎌形植木山にあった第二駐在所。この頃は警官は駐在していなかったが、警察電話があった。

四月十四日 土 晴
祭典
青年団の入団式あり。七時にラッパを吹く
九時近くなって始まる
入団者九名、女三名、計十一(ママ)名の入団者あり
金井宣久君と一日たのしく遊ぶ
河原の土手で寝ころんだり号令調製をやる
大蔵神社の祭典である
銀供出代一円四六銭   以上

四月十五日 日 晴
ミソコシ作くり
南瓜の種子を播く。
今日もしづかでよい日である。少し南風があって仕事がしづらい。将軍沢忍田福三氏へ草刈りかご四ツ
新聞配達を夕方した。
ミソコシ七つできる。
明日は告別式あり   以上

四月十六日 月 晴
菅谷青年学校の独立開校記念日である
式が十時頃始まる。終りて吉野先生の告別式あり
記念撮映(影)もやる。男百一〇名。男女別。
午后田仕事。三人で。父、柴田方。
一日、いい(結い)がへしに

四月十七日 火 晴
午前中、隆次の共同作業で子供に父はきき運搬
将軍沢より。四十四束。
母、まきと小生二番つぶて、二番作切り
大仕事ができる
午后子供組がきたので早く打ち終り。三番作、二時頃より三人で。新田の方を切ってしまう。   以上

四月十八日 水 晴
目かいつくり。七ツ出来上がる
半ザル。底八寸五分、高さ六寸、口径一尺一寸五分の奴を二ツ
父、母、まき、午前中山仕
午后田麦の三番作   以上

四月十九日 木 曇
召集日
父、柴田方へ仕事に行く。祖父さんはかごや
小生、召集日。午前中学科。第一時修公、第二時普学、四、五農業実習
空襲警報あり
午后教練   以上

四月二〇日 金 晴・雨
午前中小生まき割り
父、馬糧の配給受けに行く。代十二円三〇銭。油粕六円三〇、大豆粕六円。
まき、松山へ春祈トに行く
午后草刈りかごつくり。一ツ。
上唐子より粉二〆。井田嘉平方より一〆五匁
午后雨降り。
タバコの配給

四月廿一日 土 晴
草刈りかごつくり。
九ツ。今日のはたてがしっかりしてゐる。
金井廣吉方へ二ツ、野村忠平方へ二ツ、上唐子荻野音吉方へ一ツ。
父、一日仕事を休んでゐた。
明日は道普請。むしろ、叺代拾二円はらう   以上

四月廿二日 日 晴
朝づくりにまき割り。
大字の道普請へ父が行く。山王前の桑原へ堆肥を出す。五車
桑園の手入れ、午后は五人でする。油面も終った。   以上

四月廿三日 月 晴
馬糧切り。堀さらいへ父が行く
桑園の中耕。庭畠、坊ノ上四号畠もする。午前中でこれだけ
午后一号畠も終る
嵐山写真部へ行く。染屋へも行く
吉野君の家へも寄って見る。異常なし   以上

四月廿四日 火 晴
今朝はとてもゆっくり起きた。目かいつくり五ツ。二ツ力をさす
背のひくい奴を一ツつくる。三目位の高サ。三十二枚ひね
ビクのそこをつくる三ツ
父母は山仕事を一日する   以上

四月廿五日 水 晴
ビク作くり。始めの奴ハ大変ふくらんでしまった。二度目の奴ハ上が細くなった
松根を川島へ運こぶ。父とまきで。小生早昼飯で米の配給を受けに行く。三円十七銭
三ツ目のビクはだいたい上とする。金井屋へビク一ツ七円。今日は風邪もなく静かだった   以上

四月廿六日 木 曇
四年、五年の召集日なり。午前中普通学科。数学約二時間。塀つくり、四五年一しょ
明日の行軍の話と持参品の整理をする。
長島水車へ押麦を持ちに行く
岸又治方より甘藷六〆   以上

四月廿七日 金 曇
昨夜来の雨も今朝は止んでいた。青年学校の行軍である
七時出発。玉川で休ミ番匠より六粁行軍をやる。瀬戸で休む。女子ハ場馬より二ツ岩の方へは入る。弘法山で休む。十一時出発。越生より泉井へ。国民校にて休む。鎌形八幡宮で休む。

四月廿八日 土 晴
昨日の行軍が少し身体にきいて今朝は寝過ぎた。
煤煤掃きである。とてもよい日だ。半日で終る
長島水車へ押麦を持ちに行った
菅谷へ電球を取り換へにも行く。今日より六〇ショクである   以上

四月廿九日 日 晴
天長節
青年学校で式をする。教官殿の話あり
神戸へ千人針の絵を頼みに行く。ビクつくり一ツ
山岸良之助君出征
馬蹄鉄す

四月卅日 月 晴
朝の中は曇ってゐた。ビクのふちまき一ツ。草刈り籠のたてを割る
空襲警報あり
国民登録あり*
かご七ツくみ上げる   以上
*五月一日を以て国民登録が施行された。


冨岡寅吉日記 昭和20年5月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月31日 | 冨岡寅吉日記

五月一日 火 半晴
曇天である
草刈りかごのふちまき七ツ
あとたてを割り腰をおこす十一
上唐子へ五ツ、菅谷へ二ツ   以上
大蔵で春季清潔法実施。

五月二日 水 雨
雨模様である
草刈りかごの廻しを入れる。金井小市君の出征*を嵐山駅迄送くる。雨が降り出す。午后も草刈りかごつくり。廻しを入れる
ふちまきもする
今晩新聞部長の宅へ行く   以上
*大蔵金井小市、東部八三部隊応召。

五月三日 木 晴
召集日なり。くもってゐる
午前中執銃、軽機もする
銃剣術をやる
半日で終る
草刈りかご七ツ出る
番匠の写真やへも行く。四月三日ノ撮影ができてゐた
豆ノ配給あり

五月四日 金 晴
村葬*
目かいつくり
父、勤労奉仕に行く
菅谷村で六柱の村葬あり。参加す。午后
警戒の番である
受信 千葉県千葉市陸軍歩兵学校粟井隊 内田清臣
*故海軍飛行兵曹長小峰與市、海軍一等兵曹岡本九次、陸軍伍長杉田良吉、海軍一等機関兵村田七郎、海軍軍属田島喜代松、陸軍軍属高橋信雄合同菅谷村葬執行。

五月五日 土 曇
米の配給を受けに行く。十日分三〇K六〇〇g、十円五六銭。
午前中、川へあそびに行き魚を九串取る
午后将軍沢へ使に行きあそんでくる。雨降る   以上

五月六日 雨 半晴
千人針のゑができた
召集日なりしが学校へ行く途中雨が降り午前中よくふった。
身体検査。身長、胸囲、体重。校ゐの診ダンあり
午后三時頃終る
配給の米つき。
父、演習召集で松山中隊へ   以上

五月七日 月 晴
霜がおりてゐた。目かいつくり。冷たい。十二出来上がる
ミソコシを三ツ、始めた
受信 東京都立川市立川郵便局気付 晴第一九五四部隊 小沢武夫
ドイツ無条件降伏。

四((ママ))月 八日 半晴
一年生の召集日で其の助教に五年は行く。不動の姿勢。中々むづかしいものである。でも一年生はとても熱心である
午后、あそぶ
内田政二君、令状来る

五月九日 水 晴
草刈りかごつくり六ツ
ミソコシ一ツつくる
夕方、父、松山中隊より帰って来る
タバコの配給品   以上

五月十日 木 晴
昨夜隣組長が区長殿の家へ集る。色々の配給ケンが少糧((量))きた。
苗代田の馬耕。祖父さんと父、小生の三人でやる。ミソコシ一ツつくり上げ、中指を鋏で切る。
菅谷へ。田幡新吉宅へ一つ。草刈りかご、ミソコシ一ツヅツ
根刈りつけ かつぎ出しに行く   以上

五月十一日 金 曇
根刈り束運び。父、馬でつけ出す。母と車で運ぶ
雨も降りだす
でも夕方迄天気がもつ。合計二七四束。配給品靴下三七銭   以上

五月十二日 土 雨
雨降りとなった。半ザルを二ツつくる。ミソコシも三ツつくる。一日中雨降る
半ザル一ツ、ミソコシ三ツ出る
明日、内田政二君入営す   以上

五月十三日 日 晴
内田政二君入営*を送る
小川の方へ使に行く。本日定休日なり
遠山へ廻る。世田谷の叔父母さんにあった
祖父さんは小川へ役員会で行く。父、小沢角太郎宅へ馬の子ができてお客に行く
隣組長会議   以上
*志賀内田政治、幡一二六一六部隊入営。

五月十四日 月 晴
今日も小川の方へ使に行く。求める品少々あり
畜産組合費を納める。五円
小川の買ひ物七拾円
午后金井元吉君の出征*を歓送ス。三時〇六分発
金井宣久君へ兎の仔二匹やる   以上
*大蔵金井元吉、横須賀海兵団入団。

五月十五日 火 雨
小川町へ教育召集
山下三三男君の入営*。六時二四分発。今日より小川国民学校へ教育を受けに行く。八時集合もずい分ゆっくりだ。
午前、各個教練
午后、敬礼、銃剣術
全体を通して指導方法に研究する所、甚だ多大なり。ましてや教官たるもの口ばかしなり。
帰りには雨でびしょぬれとなる   以上
*大蔵山下三三男、東部六部隊入営。

五月十六日 水 半雨
教育
雨降りになりそうな天気だ。金井、大沢君と今日は電車で小川へ行く。
大塚の八幡様の参道で教練。雨降る。
午后は小杉((菅))航空の前の道でやる。ほふくを長時間にわたってした。ひじがいたい
川越幡一二六一六部隊西島隊 内田政次君

五月十七日 木 雨・晴
今朝も雨だ。電車で行く。とてもこむ
執銃教練。小川駅前で格闘、射撃をする。小杉(菅)航空の前でほふく。
午后、青山の方へ行って、対空射撃、後は休んでゐる。戦闘、各個教練もする   以上

五月十八日 金 晴
教育 インキ使用開始
すっかり晴れて初夏の気候となる。今日も電車で行く
午前中、小川の警察で平沼曹長殿の学科。軍隊内務、総則、入営等の事について話して頂いた
午前中、明日の査閲の予行をする。四時〇三分の電車で帰る
父勤労奉仕   以上

五月十九日 土 晴
教育
未教育者の訓練も本日を以て終了するのである。電車で行く。四日間の中で今朝が一番こんだ。宮崎中尉殿の学科約二〇分。査閲官加藤中尉殿、安藤参吉大佐殿がお見えになった。査閲は良好なり。
午后二時五十分小川駅発で帰る。小隊長タカ野さんはよい人であった。大河原村安戸   以上

五月二〇日 日 雨
又、雨降り天気だ。
祖父さんと二人で目かい作くり。祖父さんが竹を割る側から組む。今日のはうまく出来る。夕方迄九ツ組み上げ。三ツ腰を起す
父、遠山水車へ。祖父さん、杉山の叔父の家へお客に行く。月ノ輪京之助さん、迎えに来て。

五月二十一日 月 晴
青年学校役員会に行く。九時ごろ修了す。
目かいつくり
午后、有馬国民学校の生徒、向徳寺へ移転する*。入寮式に組(**)級長として参加す
こう言ふ所へ行くのも中々為になる事である  以上
*松月楼の嵐山学寮が閉鎖され、学童集団疎開の有馬国民学校の児童は、既存の玉川村町田学寮のほか、亀井村西福寺、菅谷村大蔵の向徳寺と安養寺に分散して再疎開することになった。
**隣組。

五月二十二日 火 曇
今年始めて草刈りに出た。何こ(何処)にもない。でもどうやら一篭刈る
目かいつくり。二十四出来上がる
上唐子へ一ツ
山下光平二ツ。山下福三一
他へ二ツ。金井親治一ツ
鈴木静子一ツ
金井廣吉一ツ
教官殿に召集来る   以上

五月廿三日 水 雨
朝の中、雨が降ってゐた
今日は味曽(噌)コシザル作くり。半ザルも一ツ作くる。ふちをまく前にした
味曽(噌)コシ六ツ組み上げた
植木山へ新聞持ちに行った
酒の配給五合
父、勤労奉仕□□
有馬国民学校
入寮式□□□代拾円   以上

五月廿四日 木 晴
ミソコシ作くり
計十出来た
金井親治二、同上柳作壱ツ、同上猶次郎二ツ、軍造一ツ、半ザル、植木方へ一ツ。計拾九円。柳作方へ夜一ツ三円
山下光平宅へ二斗ザル、米六升交換

五月廿五日 金 晴
朝作くりに嵐山写真部へ行く。今日は全部出来てゐた
草かりかごつくり。三ツつくり上げ、上唐子定ぢいさん(七十六才)へ一ツ、植木山長島勇三郎ランプやへ一ツづつ
味曽(噌)コシ、上唐子の定さんへ   以上

五月廿六日 土 晴
教官小林少尉殿の出征*を送る
五時三十七分発。
草刈りかごのふちまき。
全部で六ツ出来上がり六ツ出る
十時頃より作入れの手伝ひ。陸稲、ゴマ、トウモロコシ、モロコシをまく
*鎌形小林才治、浦和聯隊区応召。
菅谷村役場内防空用サイレン竣工式挙行。

五月廿七日 日 晴
山王前で草刈り
目かいつくり。祖父さんは竹を割るたけ
今日もよい日だ。午前中四ツ組む
夕方迄に□組みあと[以下不明]

五月廿八日 月 晴
今朝はとても草が多くあった。目かいのふちまき。午前中十六まき終る
午休みに吉野勇作君の家へ行った。まだ東京から来てゐない
草刈りかご四ツ組む。夕方吉野君来る。
藁の供出 十五〆   以上

五月廿九日 火 曇
午前中、自転車のパンク
[以下不明]   三ツ
篭四ツ出る。午后は何もしない。吉野栄一君がきた。吉野勇作君の家へお客に呼ばれた
えらい御馳走になる。下田先生も一しょ

五月卅日 水 晴
耕地で草刈り。今朝も草があった。
半ザル作くり。午前中一ツしかできぬ
煙草の配給に行く。二、二五。
午后半ザルのふちまき三ツ
夕方とても悪い風が吹いた   以上

五月卅一日 木 晴
草もなくなった
半目かいつくり、五ツ
中目かい一ツ。
とてもよい日であった
堀之内のそ開の人へ色々の篭をやる   以上

六月一日 金 曇
草刈り。今朝はほきてゐる所があり、ふんだん刈れた
青校へ甘藷苗を持って行く。大蔵男生八百六〇本
松山へ写真持ちに行く。よく出来てゐた。
目かいつくり二ツ。軍造、武治
入営兵の壮行会に招待され行く   以上

六月二日 土 雨
雨降りとなる。今朝はぬれた
目かいつくり九ツ
三目かい四ツ
吉野勇作君より日ノ丸の旗を頂戴す
明日は出達である。二人の仲も五箇年間。夢の如くに過ぎてしまった。

六月三日 日 晴
まきと草刈りに行く。よい天気である 半日
三目かいをつくる
十時頃より支度をして吉野勇作君の入営*を送りに行く。松山駅迄一しょに行った。吉野はオート三輪で行く。アー此で何時吉野とあへるのだらう   以上
*鎌形吉野勇作、東部六部隊入営。

[ここで、新しい日記帳となる。六月一日~三日は重複しているが記述は若干異なっている。]


冨岡寅吉日記 昭和20年6月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月31日 | 冨岡寅吉日記

六月一日 金 曇
草刈り。今朝はほきてゐる所があり、ふんだん刈れた。青校へ甘藷苗を持って行く。大蔵男生八百六〇本供出。松山へ写真持ちに行く。よく出来てゐた。山岸良之助宅へ一枚やる。目かい四ツつくり、二ツ軍造、武治氏へ。入営兵の壮行会に招待され行く。豆いりの馳走なり。   以上

六月二日 土 雨
雨降りとなる。今朝は草刈りでぬれた。目かい九ツつくる。三目目かい四ツ。
吉野勇作君より日の丸の旗をもらう
もう明日は出発するのである   以上

六月三日 日 晴
大工の家へ目かい六ツ
まきと草刈りに行く。よい天気になりそうである。半日、目かいつくり
十時頃より支度をして吉野君の入営を送くりに行く。八幡様より駅迄行き、電車で松山迄行き一しょに下りた。菅谷駅を発車してからの気持ちは入営兵と同じになれた。涙ぐむ。吉野は大元気なり。松山よりオート三輪を運転して東京に向ふ。吉野君よさらば   以上

六月四日 月 晴
大蔵耕地のずっと上へ行って草刈りに行く。目かいつくり。九ツつくり上げる。三目目かい七ツつくり上げた。
半ザルのそこを組む。三ツ
二ツヒネをちらす
目かい、大工の家へ五ツ
明((昨))夜山下明君へ三度目の応召くる   以上

六月五日 火 晴・暑い
中島街道で草刈り。早く刈れた
今日も半ザルつくり。午前中三ツつくり上げあと二ツ分そこをくむ
山下明君、三度目の出征を嵐山駅迄送くる。十三時二〇分発。菅谷村より二名*
目ぐすりを買ふ。三拾銭。五升入れの半ザル一ツつくる   以上
*大蔵山下明・志賀内田伊平、東部八五部隊応召。

六月六日 水 晴
昨日の続きで草刈り。少し刈る。半ザルのふちまき。小五ツ、大一ツ
味曽((噌))コシを四ツつくり、新藤福次郎方の疎開者へ半ザル大一、小一、味曽((噌))コシ一
大工の家へ半ザル小一、味曽((噌))コシ一、富岡元之吉方へ味ソコシ一。計二十四円
箒の柄一三六本拾三円六〇銭。くまで一本三円   以上

六月七日 木 雨・夕方大雨
耕地で草刈り。もうなくなった
まきと魚を百匹位取った
草刈りかご一ツ。唐子の人へ一ツ
味ソコシを一人で三ツ始めた。一日中雨降りで夕方はどしゃ降りとなる。桑をこしらへる手伝ひをした   以上

六月八日 金 晴
昨夜は大夕立で大雨であった
今朝ブッタイを持って草刈りに行く。魚を大へん取る。くさは少ししか刈らない。ミソコシ三ツ作くり山下明宅へ一ツ。草刈りかご四ツ組み上げた。今日も夕方、夕立雨あり
雷雨   以上

六月九日 土 晴
草刈りをやらずに魚取り
堀を干してしまったらキンブナが大変取れた。ナマズ三匹。計三百匁位取れたらう。銭にして十五円位だらう。草刈りかご五ツ出た。将軍沢の吉沢氏へ一ツ、子供用四ツ、目かい二ツ出る
米の特配四升位   以上

六月十日 日 晴
草を半分刈って魚取り。昨日程取れぬ。草刈りかご小四ツ作くる。空襲警報発令せらる。我が字にも弾丸落る*。数発のみ
草刈りかご二ツつくり上げる
よい日であった。蚕の方の手伝ひ   以上
*談:新藤義治宅の蔵の屋根に落ちた。
[参考資料]井原和一日記Ⅴ(『与野市史別巻』)六月十日
 午前七時頃より空襲となり、九時四十分の間、B29約三百機、P51約七十機が来襲、三波に別れ、第一波は、B29約百二十機、内九十機は駿河湾より侵入、富士山、京浜西北方を経て千葉に出て、鹿島灘より脱去。別に三十機は、房総より侵入、千葉上空で主力と合流した後、銚子より脱去したが、海上で反転、さらに東北軍管区に侵入、脱去した。第二波は、B29百二十機、P51約七十機、駿河湾より侵入、富士山、京浜西北方、帝都西北方の広範囲を通過、鹿島灘、銚子方面より脱去。第三波は、約六十機、駿河湾より侵入、京浜西南方、三浦半島、東京湾を経て房総方面より脱去した。本日は主として爆弾使用、一部に焼夷弾を投下したが、散発的で関東全域に亘り、攻撃目標は主として航空施設を狙った模様であるが、雲上よりの盲爆のため、我方の損害は軽微であったと云ふ。……

六月十一日 月 晴
松根油がまへ勤労奉仕に行く。六時開始。十時休み迄松根割り
それより油取りの手伝ひ。中々よい油が取れる。かまの故しょうで昨日より少いのだそうだ。五時開(解)散す
蚕上蔟し始める

六月十二日 火 半晴・雨あり
耕地の鉄トウの下で草を刈る。割合にほきてゐる
家の蚕の上蔟。おもやだけ。
午前で終り、午后柴田宅へ行く
米の配給あり   以上

六月十三日 水 雨・梅雨なり
植木山の方へ草刈りに行った。山草を刈る
物置きの中の蚕の上蔟。柴田きぬさん、朝から来てくれた。十時頃より富岡テイ、同かめ、神戸のタネさんの三名が手伝ひにきてくれたので早く終る
あと片付け。父とまきと三人で。一日中雨模様   以上

六月十四日 木 晴
今朝は草がとてもあったと言ふ程でもないが早く刈れた
坊の上四号畠の桑こぎ。半日約一畝強をこぐ
午后、山王前の畠へ行く。高台だけ約三坪大豆を播く。
夕方はとてもよい日になりそうであった。
杉山の叔父来る   以上

六月十五日 金 半晴
家の廻りで草刈り
福島清一君の入営を嵐山駅迄送くる。パンクはり。一斗五升ザルをつくる
午后兵隊がきた。西の山へドラムカンをおろした*
今夜青校生徒二年以上にてドラムカンの歩哨をやる   以上
*ガソリンや弾丸を隠した。警防団員・青年学校生徒・有馬国民学校の児童等が警備に動員された。談:場所は現在丸梅そば店の南の山。

六月十六日 土 曇
出張仕事
昨夜は西山の警備を二年生以上全員でした。約八時間八人。今朝はゆっくりねた。杉山の家へかごやに行った。自分一人で草刈りかご五ツくみ上げた。
あとたてを割る。そして夕方迄ニ八ツそこをくむ   以上

六月十七日 日 晴
出張仕事
早起きで杉山の家へ行く
あさめしをもらって喰ふ
草刈りかご八ツの腰をおこし廻しを叔父さんと二人で四ツヅツ入れる。
午后、ふちまき。十三出来上がる
少し腹具合がわるい

六月十八日 月 半晴
草刈り欠 病気
腹具合がわるいので草刈りにも行かないでゆっくりとねてゐた。まゆかきの手伝ひ。少ししてあとは休んでしまふ
天気具合も悪い   以上

六月十九日 火 晴
今朝も草刈りを休む
まゆかき、午前中。昼めしの時に警戒警報あり。番となり行くとすぐ解除となる
まゆの毛羽取り。本まゆ三十二貫位ある。志賀の家*へ甘藷苗千百五〇本やる。拾円もらふ   以上
*談:米の検査員をしていた大野虎吉宅。筆者の祖母の妹の嫁ぎ先。

六月廿日 水 晴
耕地にて草刈り。何処をあるってもきれいな所ばかりだ。
まゆの出荷。壱等参拾参〆六百匁。草刈りかごつくり、六ツ。形もおこす。夕方迄に七ツつくり上げた
小沢啓介氏へ一ツ
父、母、まき、大麦刈り   以上

六月廿一日 木
昨日の朝の近所で草刈り。
半ザル二ツつくる
一斗入れビク一ツ、計三ツつくり上げた
祖父さん今晩役員小林岩五郎氏宅*へ行く   以上
*談:鎌形の篭屋。

六月廿二日 金 晴
大沢伊三郎方より割麦五升、粉二貫借用ス
もう耕地にも草がなくなった
目かいつくり。七ツでき上がる。柴田方へ二ツ、成沢力造方、金井勇三郎方へ一ツヅツ。
半ザル一ツ作くりあげる。しっかりしてゐる。小ビクのアジロを組む一ツ。
大麦の脱穀。父、馬で。母、菅谷へ玉、中、繭を持って行く。   以上

六月廿三日 土 半晴
前の方の山へ行ったが草など刈れぬ。とてもきれいになってゐる
今日は大麦の脱穀を小生がやる
前畠だけ脱穀。西原畠も少し脱穀す
清酒配給四合五勺 三円八〇銭

六月廿四日 日 雨
家事上ノ都合
雨の為、草刈り中止す
大麦の脱穀。半日に五十束
午后二十七束で終る
一日中曇ってゐて雨が降ってゐた。
色々の様(用)あり   以上

六月廿五日 月 晴
家事上の都合
今朝も草刈りは中止。納税を富岡茂八宅へ持って行く。
鶏小屋つくり。米の配給。三〇、六〇〇 十円五六銭。又鶏小屋つくり
今日出来上がる。守平お客にきた   以上

六月廿六日 火 晴
草がとてもあり早く刈れた
供出の篭つくり。中々うまく出来ぬ。守平帰る
午后四時、故富岡實准尉殿の英霊還る*   以上
*大蔵富岡実。一九四四(昭和一九)六月一七日、中国湖南省で戦死。

六月廿七日 水 晴
今朝も草があって早く刈れた
供出の篭つくり。なれてきたのでうまく行く
昼休みに竹取りに堀之内山下暉夫、小林元一郎、小林新平方より計三束。竹代十二束 八拾四円

六月廿八日 木 晴
村田久雄君の入営*。皆大元気にて嵐山駅迄歓送す。六時二四分発。
供出のかごのふちまき。十一本
ふたをつくり始めた。中々面白いものでつくりよい。十二作る
受信 柴田美作
*大蔵村田文雄、東部六部隊入営。

六月廿九日 金 晴
草刈り。早く刈れた。供出の篭つくり。たてを割る
夕方迄に六本あみ上げる
大麦俵こしらへ。三俵。検査受
昨日も三俵つくる 五斗入れ
父、昨日より防召*六日間   以上
*防衛召集。

六月卅日 土 雨
雨の為、草刈り中止。
供出の篭作くり。午前中七本。六本だけ廻しを入れる
午后十本、菅谷役場の庭へ持って行く。十二本ぶん、ふちを巻いた
父、防召三日目


冨岡寅吉日記 昭和20年7月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月29日 | 冨岡寅吉日記

七月一日 日 曇
耕地で草刈り
供出の篭作くり
午后休み頃より小麦刈りの手伝ひ。坊の上二号、計四十七束刈り脱穀を始めた

七月二日 月 曇
まきを連れて耕地へ草刈り。もうほききってゐる
小麦の脱穀。午前中乾物に出す迄にした。今日供出のかご十二本持って行く。酒の配給一戸八合。午后麦刈り。坊の上一号畑の麦刈りで捕獲物あり

七月三日 火 曇
勤奉
二時起床。川島のひで工場*へ奉仕。四時少し過ぎて開始。ヒデ割り。
六時に休み、十時に小食をする
十二時開((解))散す。五円
午后、麦刈り。畠だけ終り、田を刈り始めた。父、防召より一時刈(帰)る   以上
*菅谷村大字川島にあった松根油製造所。

七月四日 水 曇・雨
家事の都合
何時もと違ってゆっくり起きる
供出の篭少しつくり、田の小麦刈りに行く。父、馬を連れて蹄鉄に行く。番匠より小川の方へ廻り、三家目にて打てたそうだ。十五円
午后、田麦刈り。夕立あり。騒々しかった。マッチ配給 五人以下五、六人以上六

七月五日 木 雨・半晴
家事の都合上 大麦俵十二俵
篭のふせまき。父、馬で田へ肥出し。二ダンばかり。後を手伝ふ。
小麦刈りはできぬので、小麦の脱穀をやる。午前中、午后、乾物に出すばへにした。
俵こしらへ、四俵。押麦を長島水車へ持ちに行く。

七月六日 金 半晴
供出の篭作くり
菅谷へ使に行く。医者先生を頼みに行く。小麦刈り
夕方、雨降る。菅谷の先生きて呉れた。車代二円   以上

七月七日 土 半晴
供出の篭作り
毎日さっぱりせぬ天気である
祖父さんのくすりを持ちに菅谷へ行く。小麦の加工証明二俵もらう
田麦刈り。理昌宅より三人来て呉れて早く終った
甘藷の切かけ

七月八日 日 晴
忠魂祠の掃除。大蔵では二人しかだ。金井宣久君と小生。役員は駄目だ。曽利町の田へ石灰窒素をまく。西原の甘藷畠の切かけ。坊の上二号畠もやる
陸稲の除草。小麦俵五斗と二升入れる

七月九日 月 晴
まきを連れて草刈り
昨日の朝見ておいたので今朝は早く刈れた。ふんだん刈れた
田のくろね切り*。昼休みに岡本七五三君がきた。小生にも令状がきてゐるのと事だ。煙草の配給、三七〇。馬耕やる   以上
*田のくろ付けをする前の準備。

七月十日 火 晴
永井教善君出征*
本日は大空襲なり
敵小形(型)機八百も来襲せり(**)
現役兵書受取る   以上
*大蔵永井教善、晴一九〇三部隊応召。
**[参考資料]大本営発表(昭和二十年七月十日十四時三十分)
 一、本七月十日朝来敵機動部隊ヨリ発進セル艦上機ハ、数次ニ亘リ主トシテ関東地方各地ニ来襲セリ
 二、七月十日十三時迄ニ来襲セル敵機ハ、延約八百機ナリ

七月十一日 水 雨
鬼鎮神社にてキトウする
志賀の家で御馳走になる。菅谷の家えもよる。
大沢伊三郎氏、田の馬耕の手伝ひにきて呉れた
午后、馬耕、田かき。夕方迄

七月十二日 木 雨
岡本七五三君と上唐子の床やへ行く。
役場へ行く。国民校へも行く。青校へも行く
今晩、青校青(生)徒で小生の壮行会をしてくれる。

七月十三日 金

七月十四日 土

七月十五日 日

七月十六日 月
十三時二〇分嵐山駅発*
*大蔵富岡寅吉(筆者)・将軍沢忍田啓助・岡本七五三・川島島崎春雄、東部六三部隊入営。
米、ニューメキシコで初の原爆実験に成功。

七月十七日 火
東部六十三部隊着
ポツダム会談(トルーマン・チャーチル・スターリン)。

七月十八日 水
身体検査

七月十九日 木

七月廿日 金
使役 午后

七月廿一日 土 雨
煙草十五本配給

七月廿二日 日 晴
編上靴受領ス一一・〇文
川口古兵殿ニ連ラレテ、リンゴ買ニ出ル。リンゴも此ノ位食ベレバヨイト思ッタ
よき思出となる

七月廿三日 月

七月廿四日 火

七月廿五日 水
十七時二〇分甲府発。二十六日木、午后二時千倉着。
千葉県安房郡千倉町千倉郵便局気付
武甲第二七七四二部隊壮隊に入隊
ポツダム宣言発表。

七月廿七日 金 晴

七月廿八日 土 晴
発信 富岡準三郎、金井廣吉、野口由次郎、吉野栄一、会田露木、兼子正三郎

七月廿九日 日 晴
大隊本部にて身体検査。身長一五九・六。胸囲七八・四。(一三〆二〇〇)体重四九・四
手紙 守平、勇作、内田清臣、富岡林造、下田茂樹

七月卅日 月
早朝点呼後、中隊長殿ノ訓示
要目 「上官ニ絶タイ服従」ナリ
朝ヨリ空襲警報発令

七月卅一日 火
第一小隊第一分隊第一班
班編成 隊長河野見習士官殿 班長菅沼殿
班長菅沼伍長殿 岡野上等兵殿 佐藤上等兵殿 石川上等兵殿 渡部一等兵殿 石崎一等兵殿
岡本、忍田と使役に行く


冨岡寅吉日記 昭和20年8月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月29日 | 冨岡寅吉日記

八月一日 水
煙草二十本配給七〇銭

八月二日 木
トマト代三円

八月三日 金
ブドー酒代二、六五銭

八月四日 土

八月五日 日
久部お寺ニ移転ス

八月六日 月
B29、広島に原爆投下。

八月七日 火
教[練]

八月八日 水
教練
発信 柴田勝五郎 山岸松五郎
ソ連、日本に宣戦布告、「満州」に進撃。

八月九日 木
発信 富岡準三郎 林造 金井宣久
   千葉県安房郡千歳村大字久保香田(こうだ)様方健道(けんどう)
長崎に原爆投下される。

八月十日 金
会食。大いに張切る

八月十一日 土
衛兵勤務。八時より
発信 準三郎

八月十二日 日
衛兵下番

八月十三日 月
昨夜、夜間演習アリ

八月十四日 火
岡本二等兵、今日ヨリ小隊長殿ノ伝令トシテ行ク
八月十三日 梨五円購入ス
八月十四日九時ヨリ学科試験あり。学科対空射撃。だいたいうまく行ったと思った。午后も学科
十八時後より夜間演習あり。白子海岸にて対戦車攻撃。約一時間実施。煙草ノ配給六本
今朝、家より便り来る。
父と妹まき、弟隆次ヨリ
御前会議でポツダム宣言受諾を決定。

八月十五日 水 晴
正午、戦争終結の詔書放送(玉音放送)。
談:「玉音放送」は上官だけで聞き、その後出てきて、軍刀を抜き「無条件降伏」と言ったのを覚えている。

八月十六日 木
なつかしい久保を後に豊田村ニ移転。農家ニ分宿。佐久間四郎方ニ。
受信まき、隆次

八月十七日 金
東久邇内閣成立。

八月十八日 土
千歳村川合ニ移転。加藤弥一方に分宿

八月十九日 日
受信 兼子正三郎 富岡守平

八月二〇日 月
加藤宅ヘ援農シテ御馳走ニナル

八月二十一日 火
オ寺ニテ教官殿ノ精神訓話
モウ此ノ頃ハ何モ目的ナシデ活(くら)シテ居ルノデツマランワ

八月二十二日 水

八月二十三日 木
使役として千倉駅へ行く

八月二十四日 金
千葉県夷隅(イスミ)郡浪花(ナミハナ)村村小澤(オザワ)長岡、鶴岡義久ニテ休ケイ

八月二十五日 土

八月二十六日 日
千葉県夷隅郡長者町三門、松崎貞助方ニ分宿
受信 まき

八月二十七日 月 晴

八月二十八日 火
煙草二十四本配給
奉(俸)給二十一円収入

八月二十九日 水
三門ノ工場ニ昨夜ねる

八月三十日 木
大原へ使役に行く*
三時起床。二十九日、岡本君復員として帰る。別れる事のつらさよ。自然涙が出る。
我等一分隊ハ後発として残るのである。三時起床、大原町へ、食糧持ちに行く。
工場ニゐて後片付け。中途で農家に分宿す。十三時汽車で大原駅へ行き、米俵の運搬。十名で百六〇俵を倉庫より駅へ、又貨車へ積む。皆一生懸命やり能率すこぶる旺盛なり。カンパン一袋。煙草十五本もらイ、配給が五本あった
腹具合が悪い。帰りはトラックで三門迄来る
*談:米俵をかつがされた。
連合軍最高司令官マッカーサー厚木に到着。

八月三十一日 金
本日は一日休養。煙草、小隊長殿より五十本もらう(中きんし10本)


冨岡寅吉日記 昭和20年9月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月29日 | 冨岡寅吉日記

九月一日 土 雨
長者町宮前発。十一時四十四分発。五時頃木更津着。工員ノ寄宿舎ニトマル

九月二日 日曜
毛布一枚もらう。袴下一着
千葉県木更津市木更津郵便局気付 木更津憲兵中隊河野隊
煙草十八本配給アリ
米艦ミズリー号上で降伏文書に調印。

九月三日 月曜
発信 富岡林造 準三郎 兼子正三郎 岡本七五三

九月四日 火
今朝点呼欠席ス。腹痛ナリ

九月五日 水
まき受領の使役。発信 妹まきへ
煙草、四十本配給十四銭

九月六日 木曜
四時起床。衛庭ノ掃除。八時より陸軍憲兵大佐山村久雄殿ノ軍装検査アル。無事通過セリ
○師団長閣下  陸軍中将   大場四平閣下
 館山地区隊長 陸軍憲兵大佐 山村久雄殿
 木更津分隊長 陸軍憲兵少佐 田中守殿
夜酒が三合配給になり大いにやる

九月七日 金曜日
使役にていわしの氷づけを持ちにいく。手紙、父へ書く。金井廣吉方宣久君へ

九月八日 土曜
午前予□実施
午后、使役として酒受領に行く。四斗ダル五本。夜は酒配給せらる。二合一、六〇銭

九月九日 日
独立中隊全員にて記念撮影。本日三分の一、復員者に命令出る。

九月十日 月
身上調査
午前中、体操。其ノ後、バレー・排球ヲヤル。小隊ノ対攻(抗)。一小隊ハ第二位ナリ。我ガ小隊ハ岡田上等兵ノ頑張リノ賜ナリ。今日此ノ感激、入隊以来始メテナリ
今日、発地上等兵以下一二三名ハ上等兵ニナリシ申告ヲセリ
不寝番ヲ今夜十時ヨリ十一時迄
憲兵上等兵
11日分奉(俸)給   29円70
即((退))職金  180円00
憲兵加奉(俸)    30円00
上等兵トシテ    72円60
計        252円30銭

九月十一日 火
魚受領に行く
乾パン配給。ハンゴウ一杯、キャラメル一コ三五銭
正午、復員者帰る。見送る
煙草を百本配給、十円七五銭

九月十二日 水
衛兵勤務
小生歩哨掛トシテ 司令菅沼軍曹

九月十三日 木
衛兵下番(かばん)
復員命令出ル

九月十四日 金

九月十五日 土
軍衣袴支給セラル。毛布、襦袢、袴下返納ス
入浴場ノ使役*
*談:忍田啓助と風呂場の掃除をしたのを今でも覚えている。

九月十六日 日
復員式
斉藤大佐殿来客せり。中隊全員にて会食。昨夜は雨があり富岡上等兵大いにのみ、夜は夢中なり。今日は一日使役。自動車ノ助手

九月十七日 月 晴
四時起床。全荷物を庭に出す
九時頃、木更津駅に向ふ。十時四十五分発にて帰途に着く。途中無事。池袋発二時三〇分発東上線にて四時半嵐山駅着。菅谷の家*の自転車を借りて帰る。夜は大嵐なり
*山岸一利宅。

九月十八日 火 晴・風
昨夜は嵐なり。早く起きて煙草をすう
近所、隣組を廻る。半日かゝる
午后、将軍沢の岡本君の宅へ行く。忍田君と二人で根岸の方へ遊びに行く。夕方迄、遊び廻る。憲兵腕章ニ赤帽は派出(手)だ

九月十九日 水 晴
役場へ復員證明書を持って行く。国民学校、青年学校に挨拶に行く。遠山水車へも行く。同級生では、おれ達は最後の復員兵だ
吉野勇作君の家へより、色々と話をした。孝平君、きのどくにも戦死せり   以上

九月廿日 木 晴
堀口上等兵の家へ行く。うんよく栗原上等兵も来た。自転車パンクス
今日は県道の普新(請)あり。父行く
近くでぶらぶらと遊んでゐた
葉がき六拾枚買ふ

九月廿一日 金 晴
かごやの手伝ひ少し。発信、菅沼軍曹、岡田明、吉原、岩瀬、大野、有山、香田和子
吉野孝平君の英霊還る
迎へに行く
昼ねをする。目かいつくり   以上

九月廿二日 土 曇・雨
玉ねぎの種子、十五銭
起床ゆつくりだ
午前中、将軍沢の岡本七五三君、忍田啓助君の家へ遊びに行く。
松山の四中隊の鈴木君、一時頃寄る。神戸の家へ挨拶に行く。
夕方迄ゆっくりしてゐた。雨降る

九月廿三日 日 曇・雨
秋季皇霊祭
曇天なり。発信、秋山勝二、厚澤龍蔵、井上伊助、斉藤玉治、木村良平
する 目かい作くり
午后、添田少尉殿こられた。弟実殿も連れてきた
午后は雨降り続く
彼岸の中日だ   以上

九月廿四日 月 曇・雨
目かいつくり。
午前中に十八組み上げる
午后ふちまき
岡本七五三君きて、夕方迄遊んで行く。目かい二ツ持って行く
成澤良三宅より竹六本六円切ってきて目かい二ツやる

九月廿五日 火 晴
受信 菅沼軍曹
自転車のパンクを作次さんにはってもらった。鬼神(鎮)様、月ノ輪の家、杉山の家で昼を御馳走になり、志賀の家へも寄る
松山へ行き、手帳と甘ランの種子をなくしてしまった
自転車パンクす。新聞持ちに行く

九月廿六日 水 晴
発信 菅沼善一
班長殿に便りを書く
篭箕二ツ作くる。五升位入れるザル作くり。これも二ツ。自転車のパンクを作次さんにはってもらう。堀口君来る。目かい、作次さんに一ツ呉れる
金井親治方へサツマフカシノかご一ツ
斉藤とら一ツ、安養寺学寮へ半ザル二ツ借(貸)。金井廣吉かごみ一ツ

九月廿七日 木
昨夜は、斉藤、金井宣久君の家へ行った。半ザル作くり。四ツアジロを組む
毎日、昼寝をしたくせが出てひるねをする。半ザル四ツ、ふちをまく前にした
受信 岡田明、秋山勝二君
夜、雨が降り出した
田黒の地蔵當(堂)も駄目だ*
*談:「玉川村田黒の地蔵堂の縁日も雨降りで駄目だ」ということ。

九月二十八日 金 雨・晴
発信 宮本豊太郎、石森秀雄・加藤彌一、松崎貞助
雨降り天気なり
半ザルのふち巻き四ツ。唐子のメンヤへ一ツ、柴田方へ半目かい1、半ザル1、九円。植木山へ半ザル1、六円五〇銭
午后、農業会の総会に出席す。我にはこう言った事は不適当だ。
野口君に負けたが悪かった

九月二十九日 土 晴
今日は良い天気だ
仕事場を整理する
味曽(噌)コシ作くり八ツ。アジロを組む
午后、祖父さん、菅谷へ行く
小生一人で、八ツの七廻りをやる。中二ツ、腰を起こす
父、守平、肥積み。自転車を松浦へ置いてくる

九月卅日 日 晴
味曽(噌)コシの腰を起こす
そして八ツ組み上げ、全部仕上げる
もう手がなれてきた
夕方一ツ味曽コシを作くる。そしてふちを巻く前にした
祖父さんと二人でソバの作切り。中々良いソバである。昨夜、糸の配給あり二、五九銭


冨岡寅吉日記 昭和20年10月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月27日 | 冨岡寅吉日記

十月壱日 月 半晴
受信 添田勇
まきの代理として新聞配達をする
草刈りかご2、子供用1ツ作くる
午后、祖父さん、菅谷へ行く。軍手配給七十銭。
金井貞次郎方へ目かい一
金井示夫方へ目かい(1)三円
草刈りかご(二)十七円
同右 子供用(一)七円五〇銭
計 二拾七円五〇銭
差引弐拾円五〇銭也

十月二日 火 曇・雨
受信 田中賢治 井上伊助
朝作くりに半ザルのアジロをつくる
三ツ。午前中、曇天なり。金井小市方へミソコシ二
昼休みに実行組合の班長集合して相談あり。半ザルを笠松先生に一ツ
夕方、神戸の三吉氏へ篭箕一ツ
半ザル、将軍沢の鯨井十郎氏へ一ツ
半ザル一ツ又作くる

十月三日 水 雨・半晴
発信 田中賢治
    懐かしい貴兄よ 懐かしい貴女
雨模様だが降ってゐる
一人で味曽コシ作くり。うまく出来た
背負ひ篭作くり
自分は大した手が出せぬ
でもだいたい良く出来た
午后は晴間も見えてむし暑いと言っても過言ではないだらう   以上

十月四日 木 雨
茶ワン篭を始めから一人で始めた。丁度午前中に出来上がる
うまく出来た
午后、目かい作くり。祖父さんが割る側で組む。二ツ組み上げて、二ツ腰を起こし、夜四ツ腰を起こした
父、春蚕残金もらいに養蚕組合長宅へ

十月五日 金 雨
受信 斉藤玉治 父へ菅沼善一
発信 坂本義行 山口正男*
昨夜は目かいを四ツ組み上げた
目かいのふちまき□出来上がり
戸口丑三氏へ二ツ、野口由次郎氏へ一ツ、斉藤トラ方へ茶わんかご一ツ三円
一日中雨降りで気持ち悪い
父へ菅沼班長より手紙がきた
小生へ 斉藤玉治君より   以上
*談:志願で来た同年兵。富山県立山町在住。現在でも年賀状のやりとりをしている。

十月六日 土 晴・曇
受信 宮本豊太郎 厚澤龍蔵
早朝めしで岡本君の家を訪ねた。彼は草刈りに行き、帰りがおそい
待って居てきのこ取りに行った
始めの中はない。岡本氏の縄張りの山へ行った「あるわあるわ」。夢の如くにある。目かいに一パイ取る
金井宣久君へ少しわけてくれる
畠山の博労のせがれきた
唐子飛行場へ米軍進駐。

十月七日 日 晴
発信 佐藤嘉信
からりとした良い日だ
軍衣袴の洗濯をする
シャツも二枚やる
まゆの毛羽取り。向徳寺より竹五本。六寸二本、五寸三本、四寸一本、計五本、四拾円
大豆こぎ。まだ青いのがある   以上

十月八日 月 雨
今日も雨降り天気なり。
仕事をするのがかったるい。畠山の博労に依頼されためん上げザル四、直径一尺二寸、外一尺三寸弐を作くる
茶わんかご二ツ 計四ツ
将軍沢の岡本徳方へ目かい1、くまで2、計九円五〇銭。新藤武治方へ目かい1

十月九日 火 雨
発信 岡田明
朝作くりに班長さんの家を廻る
茶わんかごつくり。四ツ出来上がり。新藤武治方へ一ツ、同戸口丑三方
午休みに社務所で常会あり
小生宅で実行組合で作付反別の割当あり。夕方迄かかる
一日中雨降りなり   以上

十月十日 水 雨
今日も雨降りだ
ナキリミ作くり。ヒネを割ってもらって一人で始める。午前中二枚。午后も二枚。全部同じ様によく出来た
作くり上げる。父、菅谷の方へ使に行く。実行組合で買った勝札七枚の中、二枚四等で十円があたってゐた
目かい、唐子沼坂上の人2、茶わんかご1

十月十一日 木 雨
又雨だ
茶わんかご一ツ作くり上げる
半目かいを始めた
昼の時、懐しき岡田君来る
二人で岡本君の家を訪ねて大いに御馳走になる。でも、雨が小止みとなり大きに都合よし。岡本君もあそびにきた。岡本君の家の千本汁*、実にうまい。午后は休養なり
*千本シメジの汁。

十月十二日 金 晴
昨夜は岡本、岡田の両君が泊る。
雨もからりと晴れてよい天気だ。三人できのこ取りに行く。あまりとれぬ
岡本君の家で昼飯をやる
岡本と二人で岡田を送くって行く
帰りに床屋へ寄る
砂糖の配給、一人十五匁、六十二銭
今夜、鎌形へ行くぞ

十月十三日 土 晴
半目かい作くり
戸口丑三方二ツ、山下明方一ツ、柴田勝五郎方三ツ、金井栄一方一ツ、藤縄方二ツ
吉野勇作君の家へ遊びに行く、夕食を御馳走になり、二人で玉川へシバイ見に行く。一円也。帰りは、自転車をころがしながら? 来る

十月十四日 日 晴
班長の家を廻る
目かい作くり八ツ
夕方迄に組み上げた
豆じのうやる
甘藷の俵四俵作くる
昨夜のしばゐ、だいたい良好なり
しばゐよりも良いコトあり
吉野勇作君と一しょなり

十月十五日 月 晴
四時起床、守平と二人で横須賀行。菅谷発一番六時〇九分
無事、下宿の家へ着く
添田少尉殿のおくさんの宅、府川兵蔵宅をお訪ね、守平の組長沼田さんの家も訪ねた
夜は府川宅で添田さんと大いに話す。夕飯を御馳走になる
小母さんの家へ泊る

十月十六日 火 晴
小母さんの家で昨夜は花遊びをする
ゆっくり起きた。
府川宅のおかみさんと追濱の添田さんの家へ行き、すぐ添田さんの弟の稔宅を訪ね、守平と三人で海へ舟で行き、魚釣り。中々舟に乗った時はあぶなかったが、すぐなれた
おもしろくつれる。夕方迄

十月十七日 水 晴
昨夜は添田勇さんの家へ泊る。ちく音機をかける
朝食をして横須賀の不入斗((いりやまず))町へ帰り、小母さんの家で御馳走になる。色々と頂戴してきた。一時頃出発。電車こむ。菅谷迄、五時間かヽった   以上

十月十八日 木 晴
受信 岡田
今朝もゆっくり起きた
半日ぶらつき、添田兄弟と府川さんへ手紙を書く
午后、庭の廻りをきれいにする
受信 岡田明
今夜は十三夜なり   以上

十月十九日 金 半晴
受信 岡田
どうしても起きるのがおそい
目かい作くり。竹割りもうまく出来る。十一箇出来る
父、車へ行く。遠山
昨晩、和田の演芸会を見に行った。中々上手な者ばかりだ
大蔵で秋季清潔法実施。

十月廿日 土 曇・雨
父、昨夜遠山水車へ行く
神社の旗立て。幾人も来ない
目かい、金井猶次郎方へ三ツ、柴田一ツ、成沢力造一ツ、斉藤娘一ツ、将軍沢三ツ、野村トク一ツ、計十ツ
鎌形水車より粉五〆持って来る
吉野と二人で江綱((えづな))神社*へ。そして馳走する   以上
*談:南吉見にある江綱神社。出征する時、武運長久祈願に行った。

十月廿一日 日 雨
雨降り。早く起きる。岡本君がきた
嵐山発七時〇九分、池袋着、渋谷着。玉川電車上馬下車。岡田君が渋谷迄迎えに来て呉れた。昼食をやり、三人で菅沼班長の家を訪ねる
夕方五時過ぎ迄、御馳走になってゐた。生麦、鶴見、品川、池袋
東上線十八時九 十八分発少しおくれて間に合った。雨も止んでゐた   以上

十月廿二日 月 雨
発信 菅沼善一 岡田明 佐藤嘉信
昨夜の家へ手紙を書き、靴みがき
四升入れの半ザル作くり四ツ
又も雨が降り気持ち晴々としない
半ザル四ツつくり上げる。大麦の配給三〇、五十〇十円〇七銭   以上

十月廿三日 火 雨
昨夜、支部長の家より大衆文学の本を借りてきた
半ザル一ツつくり上げた
ミソコシを始めた。十そこをつくる。中々まだ腰のいたいのがなれぬ
今日も雨降り   以上

十月廿四日 水 半晴
何時もながら起きるのはおそい
みそこしつくり。十出来上げる。学校へ会議に行く
目かいつくり
夜なべに三ツつくる   以上

十月廿五日 木 晴
風が強い。でも秋晴れのよい天気だ。昨夜は目かいを三ツつくる
今日も目かい作くり
もううまく出来る。全部で十三だ。夕方、夜にかけて五ツふちまきをした。祖父さん、午后、菅谷へ行く
父、社務所で相談あり。行く。小麦一俵供出するわけ

十月廿六日 金 半晴・くもり
朝から寒けを用する天気だ。目かいのふちまきをする
背負いかご作くり。中たけ一ツ
目かい、唐子へ二ツ、富七方二ツ、石や一ツ、山下暉夫一ツ、「富岡二三郎一ツ呉れる」
ミソコシ、金井栄一一ツ
半ザル、二三郎二ツ、野村とく一ツ

十月廿七日 土 晴
秋晴れのよい天気だ
大小麦の種子の配給あり
肥引きざるつくり。七廻りがよく出来、ヒネが良く散る。七ツ始めた
夜、菅谷のしばゐを見に行く
人ごみでしばゐは駄目と言ふわけ。家へ帰ったらまだ十時前であった   以上

十月二十八日 日 晴
どうしても朝起きるのがおそい。でも早起き会が始れば如何なりや?
肥引きザル、七ツつくる
今日も昨日に負けぬよい日だ
肥引きざる一つ。野村忠平方へ八円五〇銭
祖母しばゐ見に

十月二十九日 月 晴
受信 佐藤
今朝もおきるのがおそい
肥ひきかごのふちまき
全部で六ツ
五升がまのセンベイ一ツ。中々始めてとしてはうまく出来た
午后、いねかり。近江を
畠耕ひ。よい日である
添田実((稔))君来られ、駅迄送って行く

十月卅日 火 晴
まだまだ起きるのがおそい。今日は篭箕作くり
だいたい悪戸だけがむづかしい
六ツ。祖父さん、菅谷へ行く。万能の先がけ七円。吉野大尉の家へ、かごくまで七円
向徳寺より猛宗二本六円

十月卅一日 水 雨
天気予報があたりそうだ
篭箕作くり。昨日つくった奴へふちつけ、六ツ。植木山へ一ツ。それから四ツつくり、計十一出来た。一日中雨降り   以上


冨岡寅吉日記 昭和20年11月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月27日 | 冨岡寅吉日記

昭和二〇年十一月一日 木 晴
受信 山口正男
又、早起会が始った。風があるが暖い。大ぜい出席す
かごみ一ツ作くる。甘薯ふかしのかご三ツ(四升一、三升二)
かごみ七ツ出る。唐子へ三ツ、金井廣吉、金井や、戸口丑三、植木氏

十一月二日 金 晴
発信 山口正男
早起き会から帰ってすぐ朝食して山王前の畠耕ひに行く。あさの中、曇っている
小生が畠に出ると仕事がはかどる。午前中に終る。午休みに菅谷の富沢方へかごみ一ツ。帰りに床やと言ふわけよ。坊ノ上一号畠耕ひ。暗くなる迄働き終す
守平、役場に勤める事に決定せり

十一月三日 土 晴
明治節
守平、まき、青校へ。早起き会にもにも小生はでる。もう寒さを感じる
山王前畠へ大麦蒔き。午后、前畠をやる。二時半頃、菅沼班長殿が来られた。将軍沢へ案内す。夜、忍田、岡本君来られ、十二時頃迄にぎやかだった

十一月四日 日 晴
早起き会。植木山に新聞持ちに行く。読者も五十五けんだ。中々手間が取れる。班長殿泊る。忍田、岡本来る。嵐山駅迄お送りする
坊ノ上一号畠の甘薯掘り。約半分掘る
よい日であった。

十一月五日 月 晴
早起き会。今朝は向徳寺へ行けた。今年は出席が良い
守平、今日より菅谷村役場へ出始めた。坊の上一号畠の甘薯掘り。夕方、休み頃、掘り終り。二号畠のツル刈り。約半分刈り西山へ掛けた。今日も一日良い日だ   以上

十一月六日 火 晴
早起き会。昨夜、金井宣久君の家でラヂオをきいてゐた。酒の配給券きた。一戸五合、菅谷にて、四円。坊ノ上二号畠の甘薯掘り。一日で約五畝半掘れた。八日甘薯の供出あり。電気をつくる昨夜   以上

十一月七日 水 晴
早起き会。西原の畠の甘薯掘り。沖縄は太白よりふとってゐる。午前中十一俵掘れて家へ運ぶ。午后、五俵掘る。前の庭畠が三俵ばかりあった
俵こしらへ。今日も少し風があったが良い日であった。   以上

十一月八日 木 晴
早起き会。もう寒くなった。
甘薯の供出。二〇俵検査場へ持って行く。坊ノ上二号畠の甘薯掘り。午前中終る。西原へ行く。今日はとても風が強い。一日中
組合費をおさめる

十一月九日 金 晴
受信 吉野
早起き会。今年は休まぬ人が多い。西原の甘薯掘り。午前中終る。父は昨日供出した甘薯を青鳥へ運般((搬))す、一日中。坊ノ上三号の里いも掘り終了。大へんとれた。今日も良い日だ。

十一月十日 土 晴・暖い
早起き会。今朝より五時起床だ。もう暗くなった。昨夜、班長さん集る。金井愛輔君復員す。西原へ大麦を播く。午前中、ソバ刈り。実はない。其の後を耕す、夕方迄。おはる
今日もよい天気だ   以上

十一月十一日 日 晴・暖い
吉野勇作様
早起き会。ソバ畠へ大麦を蒔く。坊ノ上一号畠へ行き、甘薯蔓をかける。整地もする
午后、大田の糯(モチ)を刈る
一号畠の畝つくり。約半分
今日も暖いよい日だ   以上

十一月十二日 月 晴
早起き会。坊ノ上一号畠へ小麦播き。午前中終る。風があり仕事がやりにくい
二号畠のうねつくり。三号畠へもつくる。近江の米、からうす引き。水車へ父、持って行く   以上

十一月十四((三))日 火 晴
早起き会。坊ノ上二号、三号畠と午前中に播終る
午后、桑原等の甘薯掘り
ゐのこ様。ぼたもち*を守平の所(**)へ持って行き、鎌形の方へ。吉野孝平君に見舞す
*亥の子にはぼたもちを作った。「亥の子のぼたもち。生でも十四、五」と言われる位、この時期の農家は忙しく働いていた。
**菅谷村役場に勤めていた。

十一月十四日 水 曇・雨
早起き会。稲刈り。新田の関東を刈る。一反四畝刈り切り、大田のもちを上げて脱穀を始める
雨降り出す
十日夜、三島様*なり
*鎌形植木山の星野家にある三島様の縁日。

十一月十五日 木 雨・曇
今朝は早起き会に行かぬ。稲の脱穀、午前中終る。雨降り。
今日は色々の人がきて、お昼が二時だ。煙草の配給。二、二五銭。くまでつくり。夜迄して七本作くる。まき、新聞配達   以上

十一月十六日 金 晴
くまで三本
早起き会。とても空の澄んだ良い天気だ。脱穀したもみ(籾)を干物に出す。大田のぶつ作り。父、甘薯の供出へ行く。四俵
大田作切り終り。六畝刈り切り帰り熊手つくり。五本

十一月十七日 土 晴
早起き会
曽利町のいね刈り。午前中終り、大田へ種子を置く
午后、土かけ終り、苗代よりいね上げ。関東なり。くまでつくり

十一月十八日 日 晴
くまで二本
早起き会。甘薯の干燥切り。七畝、三畝の稲をかへす。元の苗代のぶつ作くり。午后、七畝、三畝の稲、上げ終る。関東百二〇束あり。今日もよい天気なり   以上

十一月十九日 月 晴
七本
昨夜、上唐子ノオ十夜*ヘ行ク
早起き会。今朝はとても大霜だ。新田の作切り。午前中四人で一反。父は馬で肥積け。午后、馬で稲上げ。新田終る。旭、六畝で七十七束。曽利町の田を少し上げた。十六束
オカマ様   以上
*談:上唐子の白山神社のお籠もり。素人演芸会があったのだろう。

十一月二十日 火 曇
くまで二本 卵 初・二箇
早起き会。今朝はしももない。新田へ肥引き(二反)。元の苗代へ種子を入れて土かけ。曽利町のいね上げ。計一二三束。夜、雨降る。くまでつくり   以上

十一月二十一日 水 曇
卵三 十一月二〇日ヨリ卵、産ミ始メタ。
第二回早起き会休む。くまで作くり。糯藁を物置にしまふ。曽利町の田を振リ万ガーで振る。雨降り模様だ。でも一日で曽利町が振り終り、作切り終る
夜、くまで作くり   以上

十一月二十二日 木 雨
くまで十二本
雨の為、早起き会欠席す。
くまで作くり。祖父さんと二人でする。買手もきた。十二本でる
午后、雨も止む。酒特配*一升八円   以上
*駅前井上酒店で稲刈慰労の酒の特配。

十一月二十三日 金 晴
卵4 くまで6
早く起きて早起き会の信号を待つ。とても良い天気になる。大田の一番作切り、元苗代もやる
曽利町を蒔く。新田の三畝を蒔く。新嘗祭。農士学校の角力。一日中とても良い日だ

十一月二十四日 土 曇
ゑびす講
早起き会にたいこより早く行った。午前中、七畝の麦蒔き
午后、六畝。夕方早く終るが、今日もくもってゐてさっぱりせず
昭和二〇年度の麦蒔き終る   以上

十一月二十五日 日 半晴
くまで21
早起き会。今年は毎朝、暖い。
金井廣吉方へ手伝ひに行く。
しめったい天気だ。かけ稲、ぶつ作り
昼、夜、御馳走になる。父、大沢伊三郎宅へ手伝ひに   以上

十一月二十六日 月 晴
くまで5本 発信 班長殿 山口正男君 卵5
早起き会。星が輝き良い天気になりそうだ。今日は朝からくまで作くり
父母でいねの脱穀をする
昨日より、くまで三円五〇銭が八円となる。今日二十四本柄をつける   以上

十一月二十七日 火 雨
くまで二本 卵六 卵7
雨の為、早起き会中止
くまでけづり。午前中九本。午后もやる。計二十一本
夕方までに皆曲げた。
雨も止む

十一月二十八日 水 晴
くまで六本
早起き会。くまで作くり。祖父さんは千手堂の方へ竹買ひに行く。午前中、十五本分穴を掘る
午后、復員軍人の身体検査*。注射をするだけ。帰りに唐子の床やへよる   以上
*菅谷国民学校で昭和二〇年度(第二回)国民体力検査実施。二八日はツベルクリン注射。第一回は八月一〇日・一二日に実施されている。

十一月二十九日 木 雨
くまで3本 卵8 9
早起き会。今朝は寒い。
くまでつくり。午前中、五本しばってあと新しく始めた。
十六本、夕方迄全部つくり曲げた。添田稔殿来られた。

十一月卅日 金 曇・雨
くまで四本 卵10
早起き会。添田稔さん、昨晩泊る。くまで作くり十六本
午后、復員軍人の身体検査*。三時頃始まる。BCGの注射をする。いたくない
雨降り出し、吉野と話した。父、鎌形内田武一宅へお客に
*三〇日の検査は疾病異常検診。


冨岡寅吉日記 昭和20年12月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月27日 | 冨岡寅吉日記

十二月壱日 土 晴
くまで6 卵11
もう十二月だ。早起き会
今年の早起き会は寒いと思ふ朝もなくあと十五日と元日だけになった。目かいつくり、十二
初冬のよい日だ。もう外の風はつめたい   以上

十二月二日 日 晴
くまで八本 卵12
目かい作くり。今日十二作くり上げ成沢力造方のミソコシ、半ザルの修善((繕))。
唐子岸方へくまで四本、かごみ一。
昨夜、鎌形に演芸会あり。見物に行った。中々うまい所もある。帰りは吉野と二人で

十二月三日 月 晴
くまで六本
少し風気である。山下長平宅へ目かい二ツ、成沢力造方へも二ツ
成沢方で竹八束と八分位切る。金井猶次郎方で一束半切る。金井小市方で細い竹六束半(草刈りかご四ツと銭二十五円)。此れで夕方迄かヽる   以上

十二月四日 火 晴
くまで五本 横須賀の小母さんお客
風気なので、朝おそく起きる。成沢力造方より竹を運ぶ。
百二十八円の所、目かい二ツ、くまで三本で二十八円差、百円を竹代とす。小沢与四郎方へ竹切りに行く。十三束半。くまで三本、目かい二ツノ代、竹三束とす   以上

十二月五日 水 晴
くまで5 卵12 13
昨夜、小母さんと娘さんが泊る。小沢与四郎方より竹を運ぶ。十三束半。半ザルと茶わんかごをつくる。小母さんへ土産とする
水車の叔父一周期((忌))、父行く。
今夜も小母さん泊る

十二月六日 木 晴
物置きへ藁上げ。横須賀の小母さんを嵐山駅迄送って行く。守平も一しょに横須賀へ行く。九時〇九分発
向徳寺で竹の枝取り。一日中しづかなよい日

十二月七日 金 晴
向徳寺の竹やぶへ行く
孟宗の枝まるき十七束
まきも手伝ひをする。一日中、竹運び。下田先生、篭頼みにくる。守平、横須賀より帰る   以上

十二月八日 土 曇
くまで2本 受信 山口
毎朝起きるのがおそい
木ノ葉かごつくり。三ツ
今日はよく曇ってゐる。三ツつくり上げる。食用油の配給あり。一人五勺(セヤク)。五合五セキ、一円七二銭

十二月九日 日 晴
卵14 くまで3本
五時起床。団員でキケン物を片づける
唐子の床やへ行く。遠山へ遊びに行ってくる。三時頃帰る。農休み   以上

十二月十日 月 晴
卵15 農休み
祖父さんと二人で菅谷の叔母の家へ薪を持って行く。青年学校へ行き、木銃を六本もらってくる。家の廻りでぶらぶらしてゐた

十二月十一日 火 晴
卵16
何時も起きるのはおそい。
祖父、父、と三人で馬耕。苗代と馬鈴薯を作くる所
ゐん居のも耕った。午前中
農休みが一日余分。もらって遊ぶ。松山へ行った。   以上

十二月十二日 水 晴
17 18
早起き。金井元吉君がからうすにきて呉れた。九時頃より開始。旭一反八畝で八俵二斗。関東一反四畝六俵余。理昌宅より二人来て呉れた。終りて理昌宅へ行く。父とまきと小生三人で行く。生いかの配給あり。第一* 百三〇円
*大蔵第一農事実行組合。

十二月十三日 木 晴
此の頃は毎日、大霜である
木の葉かごつくり。三ツ。菅谷青校のかご。
小一ツ、新藤嘉助方
草刈りかご大二ツ、金井示夫方の竹で   以上

十二月十四日 金 晴
19
草刈りかごのふちまき
くまで作くり。午前中五本、柄もはめる。午后八本。夜、曲げて置く。風出たがしづかになる
発信 斉藤国平

十二月十五日 土 晴
20 くまで6
早起き会、出席悪し。
農業会へ甘ランの苗もらひに行く。くまで作くり。青校へ丸篭三ツ、くまで四本。唐子大西へくまで三本
新藤、斉藤、小生等で大鳥様へ

十二月十六日 日 晴
くまで四本
子供用の木ノ葉かご作くり。五ツ。神戸へ二ツ、金井歌吉一ツ、くまで一本。長島水車へ粉持ちに行く。5〆。   以上

十二月十七日 月 雨・晴
今朝は曇だ。とても寒い。くまでつくり。
十七本曲げた。でも夕方、日が出て暖くなった   以上

十二月十八日 火 晴
くまで六本
くまで作くり。柄はめ、穴掘り。良く日が出て暖い。
父、理昌宅へ米俵つくりに行く。淀さんぢいの前で草履二足求める。小生のは二〇円   以上

十二月十九日 水 雨
くまで七本
今日は皆で山仕事だ
支部長きた。二十五日、青年団の総会。新林((しんばやし))へ行く。木ノ葉まるき。始めとしてはうまくまるける。夕方、くまで三本、柄をはめる   以上

十二月二十日 木 晴
くまで五本
祖父さん、理昌宅へ行き、テイさん代りにきて呉れた。神戸山へ行く。大変に掃れてある
一日に五段まるき、篭へ四ツつめ車で引いて来る。北の方に火事あり   以上

十二月二十一日 金 晴
22 くまで二本
くまでの柄はめ。金井孝作、植木宅のくまでをなをす
ナキリミ作くり。午前中一枚
午休みに理昌宅より梨の木をもらって来て植える。父、木ノ葉を馬ではこぶ

十二月廿二日 土 晴
ナキリミ作くり。もう一人でよく始められる。父、母、まき、山仕事。吉田の箒(ホウキ)屋ノ伜(セガレ)、竹の枝持ちに来る。ナキリミ、今日六枚と七枚目を始めた   以上

十二月廿三日 日 晴
雪でも降りそうな天気である。十時頃よりすっかり晴出した。ナキリミノふちつけ。午后、祖父さん、理昌宅へ行く。十一枚出来上がる

十二月廿四日 月 晴
祖父さん、理昌宅へ行く
半日、家の甘藷ふかしのザルつくる。ナキリミ四枚出る。目かいつくり。竹割り
唐((床))やへ行く。二円二五銭
底を組む。夕方は寒   以上

十二月二十五日 火 晴
七時半にラッパを吹く。青年団の総会あり。向徳寺へ行く。役員改選
支部長金井亀二、副金井愛輔君なり。役員、野村収一、野口由次郎、金井宣久、小生の四名。
支部長宅で新旧役員にて一杯やる。よくよった。

十二月二十六日 水 晴
くまで一本
目かい作くり、十一
全部出来上がらぬ
くまで一本出る
父山仕事   以上

十二月二十七日 木 曇
目かいのふちまき。八ツ。一人でまく。理昌宅へブリキヤ来る。米俵検査。三等。三俵出す。半ザル一ツつくる。ふちがまだまけぬ   以上

十二月二十八日 金 晴
くまで三本
味曽((噌))こしを作くる。
三ツ仕上げ、菅谷へ半ザルを持って行く。一人一品の配給あり。九二円一五銭
菅谷松浦で綿を交換す

十二月廿九日 金 晴
23
金井亀二君がきた。此の間の投票用紙の代金五拾銭持ってきた。午前中に四升入レのザル二ツ。
添田稔氏来る。山岸良之助氏も来る。目かいのひね割り。夜な[変体仮名使用]べに一ツつくり上げた   以上

十二月卅日 日 晴
24
昨夜、目かいを一ツつくり上げた。分宿してゐた家へ年賀状を書く。目かいつくり。十そこをくむ。七ツつくり上げる。全部出てしまふ   以上

十二月卅一日 月 晴
昭和二〇年も今日限りとなる。目かい三ツつくり上げる。玉川へ草刈りかごと目かい。横町*へ目かい二ツと味曽((噌))コシ。渋谷、金井宅へ御来歳((お歳暮))。目かい小一ツづつ
*大蔵の新籐義治家の屋号。


ローマクラブの警告 嵐山町長・関根茂章 1974年

2009年01月23日 | 戦後史
   ローマ・クラブの警告
     人口と食糧生産のアンバランス

 ローマ・クラブ【以下ローマクラブ】は一九七〇年に設立された民間組織の研究機関である。そして先進工業国の経営者、経済学者、科学者などをメンバーに加えている。日本からは日本経済ケンキュウセンターの大来佐武郎(おおきたさぶろう)氏、経団連前会長植村甲午郎(うえむらこうごろう)氏、日本電気社長小林宏治(こばやしこうじ)氏、東電会長木川田一隆(きかわだかずたか)氏等がメンバーとして参加している。 ローマクラブは一九七二年三月に報告書をまとめた。『成長の限界』と訳され刊行されている。 「世界の人口増加と経済成長の悪循環にブレーキをかけることが、世界中の国の経済発展の現状を凍結してしまう結果をもたらしてはならないという主張を強く支持する」として、先進諸国が物的成長をダウンさせ、発展途上国の経済成長に対して援助、協力していく必要を力説している。しかし、この表面の言葉とは別に、人口増加のアンバランスに関心がよせられ、発展途上国の「人口爆発」が、世界の食糧危機を、招いているという議論が極めて強く主張され、人口増加と利用可能な資源の問題で、よく引用され著名になっている。 「一六五〇年には、世界の人口は約五億、年率一・三%の割で増加していた。一九七〇年には、世界人口は三六億となり、成長率は年間二・一%であった。この成長率で三三年後に、七二億となる。」 このような人口の増加に対して食糧供給はどうであろうか。地球上の潜在的な農耕適地は最大限に見積って約三二億ヘクタールである。その約半分は現在すでに利用されている。残りの土地は開発するのに巨額の費用がかかるが、巨費を投じて耕作可能地を開拓し、そこから可能な限りの食糧を生産したならば、どれ程の人口を養うことが出来るだろうか。ローマクラブはこう設問して、現在の生産力水準では、約七〇億の人口、即ち二〇〇〇年の時点までであり、生産力を二倍にあげても三〇年しか先に伸ばすことは出来ず絶望的土地不足。従って食糧の不足が到来するであろうと報告している。 更に土地、食糧だけでなく、水についても大きな制約要素になっている。 日本の食糧の自給は総エネルギーに於て、四三%にすぎない。輸入する食糧と飼料の総面積は日本の耕地面積七〇〇万ヘクタールに相当する。然も輸入路は長距離である。だれがこの海の保全を保証しているであろうか。オイル・ショックが経済と心を撹乱したことを想起すれば、食糧飼料が国際外交戦略に用いられたらと想像すると慄然たるものがある。 土地があれている。心が荒(すさ)んでいる。やがてこのままでは日本沈没である。 民俗の保全と定義して、農村の振興に最大のエネルギーを投ずることが、国政の第一義であろう。ギリシャやローマの滅亡をくり返してはならぬからだ。農村と農民、土地と心を軽んじた文明は、すべて亡び去っている。
     嵐山町興農青年会『興農ニューズ』創刊号 1974年(昭和49)9月1日

新設高校へのわが課題 長島喜平 1975年

2009年01月17日 | 自分史

 畑知事さんが「ベテラン知事になりたくない」と題して、随想だろうと思うが発刊したと聞く。
 私はそれに肖(あや)かったわけではないが、「ベテラン校長になりたくない」と思う。
 知事さんは、埼玉県の知事というだけでなく、法学政治学の大家であり、到底私の及ぶところではない。
 だが、知事さんは県民のことを熱心にお考えで、私は新設高校の校長として、学校と生徒のことを真剣に考えている。
 ただ知事さんは県全体を考え、私はその末端の一底辺を考え、強いて言えば、対象面積の差であろうと思う。
 私は三十年来の教員生活に、その時その時私なりに生徒のことを考えてきたことは確かだったと、今にして思う。授業のことも、クラブ指導のことも、そして卒業期の進路指導についても、走馬灯のように思い浮かんでくる。
 やがて何時しか高校の教頭になっていた。
 その学校は大変忙しい学校で、朝六時半頃家を出て、帰るのが殆んど夜の九時か十時だった。時には一晩じゅう帰れないことも何度かあった。
 そんな忙しいなかで、校長になろうなどと考える暇もなかったのに、時の教務主任が、半ば冗談に「教頭さん、この学校からは直接校長に出られませんよ。今まで出たものもないのです」とジンクスめいたことを話され、私にとっては、どうしてこんなことを話されたのか不思議であった。
 ところが、一昨年(1973)十二月の年末休暇に入り、教育局から急に呼びだされた。
 なんのことかわからないので、時の校長さんに「校長さん、また呼びだされて注意されるのですか」とただした。
 実はこのことより二週間位前、校長と私が教育局へ呼びだされて注意されたばかり、そのくらい大変な学校であった。
 ところが寝耳に水と言った校長を拝命、ジンクスを私は破ったのかと思った。
 さて校長になったが、授業の自習のクラスへ出て、授業をやった。やはり教師は授業が生命なのだと強く感じた。
 私はある校長に「校長になっても、授業をするのは楽しいですね」と話しかけたら「長島さん、校長は教諭ではないのだから、授業しなくもよいのだ」そうかと思って、しばらくすると、校長一年生も忙しくなり、書類の検印<ハンコ押し>来賓の応接、翌日は出張また出張、授業もそうそう出られなくなった。
 所謂ベテラン校長は、もっともっと多忙でハンコと応接と出張の連続で明けくれてしまうのだろうと、同情したくなった。
 また私の学校では、度々教職員総出で生徒とソフトやバレーなどの球技試合をする。私は下手ながら何時も参加する。
 或る教師が「校長さんもやるのですか」と私にただした。その先生のいい分は、転任した先々の各学校の校長さんは、殆んど球技の試合など出たことがないという。でられないのであろう。やがて私もこうなるのかと思うと淋しい。こうなりたくない。
 私が自習のクラスへ授業に出たら、四月に転任して来た教師が「校長さんは校長室に一人でいるのが淋しいのでしょう」と想像し同情してくれた。やがて授業へも出ていけなくなるかも知れない。
 昔の校長さんを思うと、松高旧松中時代の恩師の山本洋一先生や木原元三先生、また埼玉師範の三田主市先生、教頭の別所千賀照先生方は、よく授業に出てきて指導してくださった。そのことは感銘深い思い出である。
 その頃は、今のように校長は多忙でなかったこともあろう。今日では書類一つをとっても、毎日山ほどある。それを校長はいちいち検印する。なにかといえば会議会議の出張の連続である。
 今の校長は余程自分を見つめない限り、機械の歯車となり、出張やハンコ押しで自分を見失って滔々と押し流されてしまう。
 ある学校の卒業式に、あの人が俺達の学校の校長先生だったのかと言った生徒がいたというが、殆んど生徒の前に顔をださない校長さんもいる。ださないのではない。だせないのだ。そうなりたくないものである。
 一年たっても小説一冊も読めないと言った校長さんがいた。教育雑誌を読もうと思っても、カバンに入れておくが、やがて次の号が発売され、入替えるだけで目次すら読めないと、ぼやいた校長さんがいた。
 もうこうなったら教師としての校長ではない。
 私はある教師から「校長さんの生徒への訓話は変っていますね」と言われた。
 私は月並のことや抽象的なことを、長くだらだら話すのは嫌いだ。そんな訓話をしても今の生徒には、なかなかうけない。私は何時もこれを警戒している。
 どうかして生徒の心に何か訴えたい。生徒に何か課題的なものを持たせたい。何時もこう思う。
 そこで生徒一人一人に、これだけは自分のものだというものを、しっかり持たせたいと思っている。
 私がかつて教えた生徒に、修学旅行に行っても、ほかの生徒より朝早く起きてその町の中を駈歩して来た生徒がいた。その生徒は毎日走らないではいられないという。
 また私の友だちに、一年間に本を高さ一メートル読んだというものがいた。この努力はすばらしい。
 更に現在、私の学校(日高町高萩下車)に秩父の野上町から朝六時十分の電車に乗ってかよってくる生徒がいる。私はこの生徒と話して勇気づけた。
 「容易でないが頑張りな。あなたは、この学校で誰もしないことをやってのけているのだ。やがて卒業の喜び以上、何事にも負けない自信がつきますよ。」
 涙をたたえて去っていったその生徒は、寒い日でも遅刻もせず頑張っているので、陰ながら私は喜んでいる。
 いくつか例をあげたが、こうした者達は、何かにつけて自信がわいてくるだろうし、生き甲斐を感ずることでしょう。
 どんなことでもよい。クラブ活動でも単なる趣味でも、生徒達が、本気で青春をたたきつける場所を私は教えて行きたい。
 これが私の考える生徒への課題である。   (埼玉県立日高高等学校長)
     筆者は1974年(昭和49)4月-1979年(昭和54)3月埼玉県立日高高等学校初代校長。


冨岡寅吉日記 昭和25年1月(1950) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年01月14日 | 冨岡寅吉日記

昭和廿五年一月元旦 日 雨
昨夜来より小雨降りだす。一九五〇年の元旦も雨だ。昨年の収支のしめくヽりをする。収入二四九四四九円也。支出二五一八一九円也。午后、守平迎えに駅へ行ったが、一時の下りで帰らなかった。中島運竝宅で一時間待った。二時のでもこないので帰ってきた。支部長宅*へ理髪箱の代百円持参した。夕方まで話した。朝から晩まで本当によく雨降り続いた。山口正男より年賀状来る。
*金井宣久宅。

一月二日 月 くもり
河原のチビ公*がきた。今日もくもりでうすら寒い。牛の運動。成澤勝二君宅へも寄る。二人で牛を連れてきたら、鎌形のきみさんがきて居た。菅谷と唐子の土方連中がまぐれこんだ。三三男方で蓄音機をかけたのを一時間以上聞いた。戦争中の物ばかりだ。以上
*談:河原のうしさん(富岡丑造)宅の大きな犬の名前。

一月三日 火 晴・くもり
新春初の日本晴れ。岡田君より年賀状来る。早速返信す。まき、やすさん*と東京へ行く。午后わ雲がでた。社務所で農電関係者の祝あり。牛の運動。火の見の下へ由次郎さんと純平さん**が牛を連れてゐて、暫し一しょに居た。すっかり曇り風も出た。以上
*金井元吉さんの妹。同級生
**野口由次郎さんと新藤純平さん。

一月四日 水 晴
七時の電車で工事に行く。菅谷の米山幸助、根岸國、與、小生の四名だけで。後の連中わ一時間おくれた。ヒューム管入れ。午前中早くおわり、片板(かたいた)*を入れた。午后一時過ぎに仕事初めの祝。十七名で酒二升、いか一枚、蜜柑四つあて。三時の下りで帰り、牛の運動。以上
*型枠のこと。

一月五日 木 くもりのち晴
七時五分過ぎに家を出た。唐子の連中わおそい。ヒューム管の廻りへコンクリー打ち。入れ手をする。呑口のうなぎ*まで午前中おわる。午后、ジョニト**へかぶせたり、上ぬりをする。二時頃より二号へ行き、壁の両側を埋める。玉木で借りたエンピ***の柄を折った。うすら寒い日だ。
*うなぎ止め。
**ジョイント。
***円匙。泥専用の大型スコップ。

一月六日 金 晴・風
まき割り、約一時間位。小学校に農業センサスに付いて説明があるので成澤勝二君と行く。十時開始。細目にわたり説明して呉れた。十二時三〇分頃終了し、校舎の日暖で昼食した。菅谷で使いして帰る。寒い日となり、吹(ふっ)こし*も来た。牛の運動で根岸から将軍沢の方へ廻り、七五三宅へ行った。以上
*風に雪がちらちら舞う風花のこと。

一月七日 土 晴
六号の現場へ行く。流川*の小川と山下と小生の三人だけ。直営より綱子**を借りて、流しの杭打ち。根取り***をした。午前七本、午后十本打ち三時頃わ終った。今夜四Hクラブの件に付き集合あり。以上
*ナガレカワ。西吉見の地名。
**綱を引っ張る人。杭打ちには八人位必要。
***杭が曲がらない様に杭の根本にいる役。

一月八日 日 晴
昨夜の集会わ不集合だった。七時すぎ岡部先生*おいでになる。四Hクラブも物になりそうでない。夜警だった。午前、山下と根岸で六号をやる。午后、片わくつくり。静かな良い日だった。平沢の叔父**、昨夜死去し、西さん***話にきた。唐子でトラック衝突す。以上
*埼玉県技師農業改良普及員岡部文彌。
**吉野梅次郎。
***談:西忠一さんか。

一月九日 月 晴
唐子の二人と一しょ。六号わ、江野、深沢、鈴木、飛田、小生と親方二人。片わくをなほし。セメン打ち、昼前おわる。午后わ、ぶらぶら仕事。静かな良い日だった。太陽のある中に帰宅す。以上

一月十日 火 雨・くもり
松山町には入る頃、小雪となる。小屋であたりながら、さつまをふかして喰う。雪はげしくなり、仕事は出来ず。一時過ぎ帰宅。新聞代集金す。以上

一月十一日 水 晴・大風
昨夜わ大風だった。寒くて、ねていてもゆっくりねられぬ。停電す。今朝も大風。午前中、鉄きん組み。まあ良くできた方だらう。あとわぶらぶら仕事、片わくの掃除など。須江の父、年始にきた。以上

一月十二日 木 晴
電車で行く。六号の基礎、午前中だけ。二号の目つぶし。静かな良い日。夜、学校で役員会議。村内駅伝の件。鎌形の杉田君*一しょに帰る。まき、遠山へ炭買いに行った。以上
*談:杉田弥市。

一月十三日 金 晴
五号へ移る。あまり仕事もなく此の頃わひまだ。六号より、たこ等運ぶ。以上

一月十四日 土 くもり・雪
朝からくもり。今朝わ始めて居た*。五号の杭打ち。午前五本、午后六本、計十一本。休み過ぎより雪降りだし、昼頃にわそうとう積った。一時頃唐子の床やへ寄る。
*談:仕事が始まっていた。

一月十五日 日 晴
玉川へ麦ぬか*一俵買いに行く。道が悪い。須江へ年始に行く。十時一寸前、でかけた。将軍沢の家のすみさん**と途中一しょ。十一時頃着いた。竹本の初治氏、来訪してゐた。風の強い日だ。四方八方(よもやも)の話しにふける。面白いあそびもした***。
*談:豚の飼料。
**談:忍田政治さんの妻。
***談:須江の妻の実家に泊まった。

一月十六日 月 晴
ゆっくりねた。朝食したらすぐ初治氏来訪す。松治君や尚治君と五目ならべ。始めの中、負けてばかりゐたが、誰にも負けなくなった。二時頃暇した。センサスで少しあるく*。以上
*談:センサスの調査員をしていた成澤勝治さんと一緒に。

一月十七日 火 晴
鋸を目立に持って行く。今日わしづかな良い日だ。五合((号))の杭打ち。三本ですぐ基礎を打つ。午后、六号のながしの壁のコンクリー。柏崎の鈴木ともっこかつぎ。二時三〇分頃おわる。のこぎり目立て五〇円。二尺物さし(鯨尺)十五円。夕方まで静かな良い日だ。

一月十八日 水 くもり
朝の中わ雨模様だった。少し降ってきたが、天気わ一日持ちそうだ。杭のめつけ*。十時休みより土俵作くり。一日中曇ってゐた。お客わ未だ帰って来ない。何時も何時も我儘で困る。以上
*談:のめつけは杭の先を尖らせること。

一月十九日 木 くもり
今日もはっきりしない日だ。五号の石管入れ。六号の土俵作くり。約三〇俵入れた。山下と二人でけたへ杭をボルトでつけた。三時三〇分頃しまって玉川の小峰と一しょにきた。

一月廿日 金 晴
あけ方わ大風。六号の石張りの手伝い。発動キで水かえ。いく度か水がは入った。昼わそうとうおくれた。午后わ休みもしない。

一月廿一日 土 晴
唐子の新井と一しょ。朝から静かな良い日だ。柏崎の鈴木と砂利かつぎやセメン切り。石張屋わ今日も二人。

一月廿二日 日 くもり
青年団で農道へ砂利運搬。運動部長*を引受けた。皆まじめに働いた。山下福三君**の牛車の手伝いだ。明朝六時頃、駅伝の選手選出の練習会。以上
*談:菅谷青年団大蔵支部の運動部長のこと。
**談:青年団員。弟の守平の同級生。

一月廿三日 月 晴
朝六時頃、青年団で駅伝の練習。工事。石張りの目じ。発動キで水をかえて目じをした。きれいに出来た。十五日までの会計一六五〇円。

一月廿四日 火 晴
唐子の新井わ今日、広野へ行った。六号の土俵を五号へ運ぶ。五号のしめ切り。バーチカルの具合が悪い。午后、水中へは入る。小屋で青鳥の飛行場の話がでた。長サ一五〇〇米の中、五米の勾配があるそうだ。

一月廿五日 水 晴 特に静かな良い日
朝から静かな良い日だ。五号のけた入れ。今日わ、和三さん、飯塚さん、小川、、山下、鈴木、米山と小生だけ。水の堰がきれて仕事は不可となる。六号の手なをし。夜、植木山へ行く。

一月廿六日 木 晴
今日も朝から良い日だ。昨夜々警で三時三〇分までつとめたので今朝わ朝ねした。五号の杭打ち。でかいかけやで打つ。午后、石張り。仕事もずいぶんできて早仕まい。

一月廿七日 金 晴
良い日だ。五号の石かつぎ。発動キを返す。六号の片づけなど。今日も静かな良い日だ。以上

一月廿八日 土 晴
今朝わ割合に暖い。五号の石張り。十時頃、所長がきて、作業中止をさせられた。でも午后わ、すっかり手なをしして又始めた。大野忠造氏、夕方まで居た。以上

一月廿九日 日 晴
昨夜、成澤勝二宅へ伺う。金井宣久君訪ねてきた。今朝もきて、今夜、本団の役員会。支部の常会もある。五号の石張り。午前中いくらも残らなかった。風つよく寒いので早くしまう。夕方わ風も止んだ。牛の運動。以上

一月卅日 月 雨
六時集合で駅伝の練習。小雨降りだし、工事は休む。軍造宅へセンサスに行く。午后、センベイやき等をした。貯金払下げ二七〇〇円。以上

一月卅一日 火 晴
今朝わ練習に四人しか集合しなかった。一番早く工事の小屋へいった。午前中もうたいした仕事もなく、ぶらぶら。五号の仕上げ。午后、小屋の片づけ。三時三〇分頃おわる。自転車がパンクして三〇円修繕費。十一月廿五日より今日まで二月と一寸と良く勤めた。


冨岡寅吉日記 昭和25年2月(1950)

2009年01月14日 | 冨岡寅吉日記

二月一日 水 晴
駅伝の練習。今朝わかけた。六番、一分一〇秒。前の山で根子ほり。身体が一寸とジンマシンの気配だ。大田の作切り。風が冷たい。午后、六畝と七畝を切る。以上

二月二日 木 晴 根刈り43束
今朝わ出席率割((悪))し。小生わかけなかった。父とすけと三人で峠の山の根刈り。くもって居たが風がでて晴れた。山わ暖い。木の葉も積ってゐる。四十三束刈れた。夕方、大野氏会計を持ってきた。丁度二〇〇〇円。

二月三日 金 くもり・雪・晴 節分
寒けいこも今朝でおわる。父と二人で山仕。かごを四つで木の葉をはくだけ。雪降りだす。午后わ止んだ。区民大会あり。父出席す。牛に車を曳かせて運搬す。以上

二月四日 土 晴 40束
氷った。きりも深い。三人で山仕事。午前わ静かで良い日だった。午后わ風もでヽうすら寒い。今日わ木の葉もしめってゐる。将軍沢まで背負いだす*。重かった。
談:路が悪いので、高城橋の手前の車の置いてある所までカゴを背負い出した。、

二月五日 日 晴 村内駅伝競走
村内駅伝選手の件で昨日、常会ありしも中々決定しず、金井支部長の出馬となる。スタート富岡誠一君、二コース庸治(つねはる)君、三コース将治君、四コース宣久君、五コース竹治(たけはる)君、ラスト正美君と決る。九時五〇分スタートす。参加チーム、志賀AB、平沢、千手堂、鎌形、大蔵、菅中ABCDの十チーム。第五中継所の役員をする。一位志賀A、二鎌形、三平沢、四千手堂、五大蔵、六志賀B、七菅中A、八D、九C、十Bの順序、一位四九分一〇秒。午后、支部の慰労金、茶菓一人五〇円。高坂の種子屋*来る。種子代五九五円の所、三〇〇円払い二九五円の借りとなる。
*蚕の種屋。

二月六日 月 晴 21束 月田橋
今日より月田橋の人夫。始めてなので勝手がわからず面白くない。けた上げで仕事わひまだ。午后わ少し仕事になれた。静かな良い日だ。帰りに唐子の江野や深沢と一しょに根岸正次宅へ寄る。父とすけ、根刈り。二十一束刈った。醤油しぼりの道具を山下福三方へ持ちに行く。以上

二月七日 火 晴 第一日
昨日に負けぬ暖い良い日だ。月田橋の人夫。けた上げ。午后、ほうそう植え*。醤油しぼりやさん来る。一斗一八〇円、五斗九〇〇円。千葉の叔父がきて、父、実家へ行く。今日も静かな良い日だった。
談:妹のしまが四月から小学校に入学するので種痘をしたこと。

二月八日 水 晴
昨夜十一時頃植木山に火事発生。星野久治方、〃利作方、星野平五郎方、長島方、高倉方、疎開二戸全焼す。第八部わ道南の井戸へ配置。長島英治(ひでじ)方を守る。一時わ空が火の海となり、でも風は静かだったので、其の後わ警備だけ。今朝八時頃引上げた。器具をそうじして帰る。祖父と牛車で菅谷の製板へ行く。樫一本と栗三尺物を棒と板にした、五〇円。午后わ夕方までぐっすり休んだ。今晩わうすぐもりで暖い。

二月九日 木 晴・暖い
かり橋の修理。東よりころがし*をならべる。今日わむし暑い程に暖い。午后くもり、夕方より小雨となる。報償酒配給五合一七二、五〇銭
*談:丸太のこと。当時、月田橋は土橋で自動車が橋上ですれ違う幅はなかった。

二月十日 金 晴 27束
朝の中雨だったが休んで晴となる。ころがし並べ。大工の手許。午后、風吹く。ころがし運び。父とすけ、根刈り。大沢知助君見合、口固め、玉川村小倉。以上

二月十一日 土 くもり 23束
ころがし並べ。役所より材料検査来る。油ぬり。午后けたの下へかい物をする。夜わ雨となる。以上

二月十二日 日 雨
役場へ農業センサスの調査票を提出す。中島運竝宅へ寄り四方八方(よもやも)の話で時間をついやす。朝から小雨。新聞代集金。牛車で共組の加工所へ押麦と粉を持ちに行く。すけ、あと押しに行った。夕方、雨も止む。夜警。

二月十三日 月 晴・風寒い
昨夜々警で今朝四時まで勤めたので七時ごろ起床する。月田橋のけた、唐子より第一こまの上、下流を中へキリン*で押寄せた。風強く寒い。ころがしならべ。夕方の寒さわ格別だった。父とすけ、根刈り。
*ジャッキ。

二月十四日 火 くもり・寒い
朝から雲があり寒い。月田橋でころがしならべ。はしの上わ寒い。着物が油でよごれる。毎日、たいした仕事もない。夕方、植木山の長島の運送*に乗って来た。夜わ雨となる。
*談:小運送をしていた長島石平さんの車。

二月十五日 水 小雪・くもり・晴
昨夜来より降った雪が少し積った。青年団で菅谷まで雪掃き。新聞配達。玉川まで行ったら植木山で持って出たあとだった。十時に配達し始めた。堀ノ内から廻りだした。斉藤の家で十一時。根岸直次方へ寄り、約一時間半話して居た。午后、岡松屋へ百円持って行く。小手縄を少しなった、四〇尋なった。

二月十六日 木 くもり・寒い
同じ様に毎日寒い日だ。與一さんと江森さんと三人でけたを動かす。橋の上わ寒い。今日は下青鳥の飯塚大工もきた。午后も同じ仕事。寒くてふるいだしそうだ。金井宣久君、明晩常会をやらうと話しにきた。

二月十七日 金 くもり
古いこまの所へ足場かけ。高い所わどうも苦手だ。風わないが寒い。江森と忍田又治君と油ぬり。午后休み頃おわり、足場片づけ。夜わ常会の予定。

二月十八日 土 晴
朝から良い日だ。與一さんと江森と三人でけたよせ。橋の上わ寒い。七コマよせた。午后、会計七人九一〇円。早く小屋であたった。以上

二月十九日 日 晴
早おきして理髪へ行く。兄弟三人で二〇〇円。武州上岡の馬頭観音様へ行く。鎌形の杉田峯吉さん、小林君と途中一しょ。九時三〇分出発した。十二時頃帰途。絵馬、鎌形の人達と一しょに買う。最初、五枚で三五〇円と出たのを二二五円まで下げ、一枚四五円で買う*。今夜、ナトコ映画上映の予定だったが、機械フィルムの都合上、中止となる。祖父、胃が悪るく菅谷の根岸先生、夜七時頃来診。十五分位で良くなった。朝から良い日だった。
*談:古い馬の絵馬を観音様へ納め、新しく牛の絵馬を買って帰る。昭和二四年に牛を飼い始めたので。

二月廿日 月 晴 子育観音様
月田橋へ仕事。油ぬり*。午前中わ風も無かった。十時頃より根岸の観音様への参詣人が通行する。ころがしならべ等する。昼すぎより風強くなる。運竝氏の妻君もお詣にきたそうだ。以上
*談:防腐剤を塗ること。

二月廿一日 火 晴
山下二郎君と行く。村田わ休み。ころがしならべなど、かつぎもした。今日も風あり。油ぬり。忍田元*と大野弟と三人で夕方までやる。成澤いと方の祖母さん、一昨日死去。今日、葬式。以上
*忍田元治。

二月廿二日 水 晴
朝から静かな良い日だ。忍田元治君と油ぬり。午后、氷川様の暖場(ぬくとば)*で雨受け板の油ぬり。日一杯でぬりおわる。きょうわ、おそくまでやって居た。今夜、常会。以上
*談:日当たりのよい場所。ぬくとばっこ(日向ぼっこ)。

二月廿三日 木 晴
昨夜、常会で月、水、金曜日に珠算練習と決定す。今朝わ竹割り道具を持参し、竹を二束割った。杉皮をならべたり、押ぶちを打つ*。菅谷の四人と一しょ。夕方わ寒くなる。
*談:ころがしの上に杉を並べて、その上を割った竹で押さえて釘で打つ。

二月二十四日 金 晴
朝七時頃、月田橋へ行き、竹を二束位割った。今日の火の見の人夫*。人夫が大勢で皆ぶらぶらだ。かぐらさんまき**、木闇***、鈴木両電気屋さんきて親方になりやる。午前順((準))備。午後、立てた。案外簡単に行くものだ。肥料の配給五四〇円八〇銭。
*談:菅谷消防団第八部(大蔵・根岸・将軍沢)の火の見櫓。四脚の鉄の火の見櫓は戦争中供出され、代わって木の梯子の火の見がつくられた。これが危ないので三脚の木の火の見櫓を立てた。現在大蔵の火の見櫓のある場所。
**月田橋の工事で使っていたものを借りてきて使った。今でいうウィンチ。柱を立てててっぺんに滑車をつけてロープで引き上げて建てた。
***木闇柳吉。

二月廿五日 土 晴
今日も朝から静かな良い日だ。大工の手伝い。十時過ぎより、西より杉皮ならべ。大工の正ちゃん*、腹がいたくなり家まで送って行く。午后も鈴木と和三さんと三人で、夕方日の落ちるまで。夕方もしづかで暖い。
*富岡吉造の長男、正作。

二月廿六日 日 晴
月田橋でころがし並べ。大工の足場作くり。昼にきて*行くのがおそかった。村田と油ぬり。ころがしならべ、和三さんと小沢と三人で。夕方少し風がでた。以上
*談:昼食を家に食べに帰ったこと。

二月廿七日 月 くもり・風 寒い
朝から寒い日だ。竹を少し割る。雨受板運搬、ころがし上げ、鈴木と江野と一しょ。とてもさむい。昼にわ鈴木と江野来た。午后わ色々。油ぬり、足場片付け、ころがし並べ。寒くも夕方早くおわりにしなかった。以上

二月廿八日 火 晴・風・寒い
良い日になりそうである。河原で籠箕つくり。天気わ急に一変し、大風となり、昨日に負けぬ寒さだ。午前二つ形を作くる。思ったより上手にできた。午后一つで仕上げた。日一杯で三つ出来上がる。ずい分寒かった。もう今日で二月もおわりとなる。守平、月掛貯金に加入す。一ヶ月五〇〇円。


冨岡寅吉日記 昭和25年3月(1950)

2009年01月14日 | 冨岡寅吉日記

三月一日 水 晴
今日わ良い日だ。昨日に続いてかごみ作くり。向徳寺より竹二本(五〇円)買って行く。今日のもうまくできた。午后休み前おわり。トロ二台ばかり押し、砂利ふるきの万石作くり。もう此の頃わ人夫の出てが多い様だ。明日、会計の予定だ。今晩、夜警。新藤方。

三月二日 木 晴
トロ押しをしたり、ランカンつけの手伝い。午后、トロ押し。風がでた。杉皮はり。会計一四八〇円(十一人)。家へ一二〇〇円だす。夜、守*の算術の事で一平方キロメートルの件で面白かった。
*談:弟の守平は東武鉄道の養成所へ行っていた。

三月三日 金 くもり・晴
うすぐもりの天気だが静かだ。神山と橋の上へ土運搬。もっこでかついだり、トロで押す。皮張りもした。夕方迄トロ押し。二人だけ。他の者わ全部トロ押し。しまの入学身体検査。

三月四日 土 晴
月田橋の上で仕事。手摺りつけの手伝い。今日わ静かな良い日だ。大工の手伝い。人夫も少くなった。午后、少し風がでたが暖い。日没すぎまでやる。帰り道で吉野勇作氏来訪せり。少し話して行った。自警団ができ、第二駐在所へ届けに来たのだそうだ。以上

三月五日 日 晴
橋の上でらんかんつけ。杉皮はり。午后、皮が不足し、小屋の屋根のを使用す。休み過ぎより、トロ押し。忍田元と二人で初(はな)を始めたが、途中で最後へ廻る*。夕方わ風も静まり暖い。
*談:トロッコ押しは一台を二人でやる。トロッコが何台もある時、先頭の一両をハナ、最後尾を尻トロと言う。尻トロは一番最後に出て行って一番最初にかえってくるので一番楽だった。

三月六日 月 晴・くもり
現場へ行くのは早かった。忍田とトロ押し。随分暖い。午前中、十台位しか押せない。今日は夕方遅くまでやってゐた。今日で一応人夫わおわりとなる。

三月七日 火 くもり・雨
昨夜、新藤武治さんがきて、大原組*へ出てわと言うので今日より出勤す。純平さん、次郎さん、理昌さんと小生、下小川の八宮神社の裏の田。鉄塔の基礎のほりだし。始めの中わ簡単に行けそうだったが? 沼野さんと言う親方がきて、おねがいした。午前中一生懸命働いたが水がでて土が崩れてうまくない。途中で常用にしてもらう。二時頃より雨となり中止。センサスの間違いあり。役場より票が返る。以上
*談:東京の電気工事の会社。

三月八日 水 晴
昨日の連中と同じ。いくら掘っても崩れてしまう。今日わ暖い。四時頃しまう。帰りわ少し寒い。大野で農士学校前が始まるので出る様にときたので、明後日から行く事にした。父、菅谷へ大麦二俵持って行く。

三月九日 木 くもり
昨夜、雨降る。今日わくもってゐて寒い。昨日のつヾき。冷い。地下足袋をはいてやる。夕方やうやう一本ほれた。清水、山下も一しょ。一日中くもっていた。明日から農士学校前。農業センサスの訂正。

三月十日 金 くもり
今日より農士学校前の工事。江野ともっこかつぎ。昼わ十二時すぎ。電気やの手伝いの様ではなく、一日がながい。午后、学校ばしの下で石拾い。夜、金井君がきて農業センサスの訂正をす。

三月十一日 土 晴
朝の中わくもってゐる。今日も江野ともっこかつぎ。野本の鈴木もきた。午后も同じ。三時頃よりのりができ上ればおわり。ジンダン棒の根*をかついできた。夕方、床やへ行き、中島運竝宅へより明日の話をしてきた。以上
*談:クヌギの幹はまき等に使い、根っこをシイタケ栽培に使っていた。

三月十二日 日 晴
餅つき。松山町の初午祭。十一時頃仕度して中島運竝氏宅へ伺う。十二時五〇分の臨時電車。人ごみだ。若い頃と変って誰も探す訳でもなく、足の向くまヽに右往左往する。キグレサーカスには入った。最後の空中サーカスわ感心させられた。帰りに駅は人ばかり。電車も満員。次を待つ。臨時はがらすき。今夜、観音様でとうがらしの種子分配。

三月十三日 月 晴
初午で多少わつかれた。ゴム長をはいて行く。根岸國君と「ヂャッカチ」*。大野は来るのがおそかった。與一さん休み。昨日わ初午で全部休み。昼わおそかった。須江より節句の祝**とヾく、夕方。
*二人でやる仕事。スコップに長い竹の柄をつけて一人が柄の先端を持ち、スコップの先端につけた綱を三米位はなれた足場から他の一人が引っ張って、水中の砂利をさらう。
**談:子供ができてもできなくても嫁にいった初節句の祝に内裏びなを送った。

三月十四日 火 晴
根岸とジャッカチ。野村宇平君等と隣づかって*始めた。十時休みより受取り。江野、鈴木、根岸與平君等は一号をする。三時頃にはおわった。一時間位小屋であたってゐた。田へ作切りに行き、大麦の残りを切る。以上
*隣に並んで。

三月十五日 水 晴
ジャッカチの受取り*。江野と田島の組は先に上から取る。米山と三番目を始めた。だいたい良いのでどんどん前へ出た。午前中、早くおわる。菅谷の連中わ皆帰る。午后、根こほり。腹がへる。夕方早じまい。以上
*常用でないこと。

三月十六日 木 晴
七時三〇分頃家を出る。とうがらしの種子を肥ま*に入れてあるのを見る。大丈夫らしい。今日わ隆次が行く。菅谷の連中と砂利かつぎ。江野、神山、小生わ根っ子ほり。隆次わそうとうつかれたらしい。夕方、河原へセメントの杭持ちに行く。鉄線かご、原留のトラックで四時三〇分頃きた。それをかついで今日わおわり。以上
*談:堆肥場は熱があってあったかいので、早く芽が出るようにいれておいた。

三月十七日 金 晴
菅谷の米山と沼はもうきて居た。與一さん休み。スコで土はね。暖い良い日だ。菅谷の田島と根岸の二人わ福田*へ砂利ちらし。田島が居ないと静かだ。米山がさつまを持ってきてドウコでゆでヽ喰う。休み過ぎより鉄線かご組み上げ。四人で七本、三米と五米をつなぐ。此の仕事わあきない。以上
*福田村(現滑川町北部)。

三月十八日 土 くもり
菅谷連中わ平沢へ行く。鈴木、米山、江野、小生四人わ鉄線かご組み上げ。今日わ馴れた。夕方暗くなるまで使れた。三十三本組み上げた。休みに馬鈴薯とさつま、現場へとヾいた。父、中学校の義務人夫。会計五人五分七一五円。以上

三月十九日 日 晴
朝めし前、精米をする準備。昨日の連中とかごの組み上げ。午前十三本、午后八本。午后は米山と二人だけ。昨日の会計は少いので皆むくれて居る。今日は太陽のあるのにしまった。夜警の宿。以上

三月廿日 月 くもり・雨
根岸と米山、小生は鉄線かごの組み上げ。大野の弟も相手をする。午前中十五本、午后休みまで九本で十本目を始めておく。休んで居たら、雨が降りだし中止する。大野と與一さん、雨具借りに寄り、三〇分以上やすんで行った。以上

三月廿一日 火 晴 彼岸の中日
昨日の雨もすっかり晴れた。隆次と大野、與一さんと四人で鉄線かごのふせこみ。午前中おわる。午后、石入れ。水の中へ入れる。夕方、石つめをしたが、中々無頭かしいものだ。風わ冷たい。玉川会館*にのど自慢あり。まき、聞に行く。
*二本木座のこと。

三月廿二日 水 くもり・風
今日わ根岸、米山と小生の三人で鉄線かご組み。午前中十三本。朝から寒い。午后休みもしない。四時過ぎに小屋で火をもす。茶わんも割る。もっこもす。十二本、計二十五本仕上げる。日没まで。以上

三月廿三日 木 晴
今日も風があり寒い。昨日の三人でかご作くり。サイレンが鳴っても昼にしない。一時二〇分前頃昼を喰う。風があっても暖い。小学生の学芸会。夕方、農士校生徒がマッチ棒貰いにきたので、いく本かやる。今日も二五本つくった。

三月廿四日 金 晴
朝から良い日。鉄線かごをふせる。丑造氏宅よりゴム長を借りてきて、午前中五〇本。午后、石入れ。水の中だけ入れる。今日わ大野休み。昼休みと午后の休みには種々の面白いことがあった。太陽のあるのにしまう。牛の運動。

三月廿五日 土 晴
今日は三人でかご作くり。静かな良い日だ。午前十三本。三〇本つくればしまってよいと言うので、午后張切る。休みまでに二六本、五時頃までに作くり上げたが帰って良いと言わないで石つめをしろと言う。菅谷の二人わ帰る。小生わ少し石つめをする。大野の気持ちわ、わからない。馬鹿野郎だと思うこともしばしばある。中学生の学芸会あり。祖母、見に行く。藁、高本*へ百貫、麦から八〇貫(親治方)。
*下唐子の小字名。

三月廿六日 日 雨
夜明けより雨となり、今日わ雨。砂利箕つくり二つ始めた。最初のわ、ひねがうすかった。二つ目わ良くできた。十時頃より区民大会*ありしも、区長決定せず。父、おひまちで菅谷の根岸宇平方へ。夕方、雨も止む。
*談:会場は大蔵神社の社務所だった。

三月廿七日 月 くもり
かぜ気味でおきるのがおそい。新聞配達。玉川まで行ったら持って出た後だった。八時一寸前始め、九時三〇分にわおわり。農士学校前の工事へ行く。かごの石つめ。まだよくなれない。休みごろより寒くなる。以上

三月廿八日 火 くもり
工事休み。隣組へ回覧板をだす。今夜、区民大会。一日ぶらぶらして居るのわつまらない。みやの電鈴*を作ってやる。父、砂利ふるき。煙草の配給三月分五四〇円。
*談:ベル。学校の工作の宿題。

三月廿九日 水 半晴
かぜもなほり気味だ。今日わ大野の弟と大沢忠ちゃんの三人でかご組み。午前中十四本、暖過ぎる程良い日だ。午后十七本、計三一本。静かな良い日だ。夕方は何時もおそくまで働く。以上

三月卅日 木 くもり・小雨
くもりの天気なり。今日は石つめをする。まだ思う様に上手にできぬ。午后、小雨降りだしたが、たいしたこともなく一日つとまった。

三月卅一日 金 くもり・俄雨
朝の中、小雨。仕事を始めるのはおそかった。大野と若衆(わかしゅう)*を相手にかごをふせる。午前中四十四本、昼休みに俄雨あり。午后、石つめ。おわりのはだいたい良くつまった。以上
*談:学校を下がって(卒業して)まもないのを言った。


冨岡寅吉日記 昭和25年4月(1950)

2009年01月14日 | 冨岡寅吉日記

四月一日 土 雨
早朝より雨。朝めし前、現場へ足場板上げに行く。どしどし雨降る。一時間位かヽる。丑造宅でお茶をのみ八時三〇分頃帰宅。物置きで藁すぐり。風も出て雨も降る。夕方は止んだので川の水を見がてら、牛の運動。元の乾燥場の所より久保口*を月田橋へ行く。清水屋に大野と鈴木が居て御馳走になる。親方も遠い所を大変だ。金井屋で根岸正次、金井正二の二君が菓子を喰ってゐて一しょに喰った。父、河原へ行ったら万石とふるった砂利二〇〇箱位流出せり**。
*クボグチ。柏俣長助宅付近の地名。
**談:ランプ箱で二百箱くらい。十二箱を一台の荷車にのせる。

四月二日 日 晴
向徳寺へ竹持ちに行く。河原のチビが早朝から来る。印籠つくり。最初の一くるはひね巾が広過ぎた。午前中、腰をおこす。かぜ気味なのでぶらぶらだ*。祖父さんも手伝う。夕方、床やへ行く、六五円。一日中大風。牛の運動。
*談:ろくに仕事をしないこと。

四月三日 月 くもり
玉川一ト市へ豚の飼料買いに行く、三〇〇円。まきに頼まれ小峰きみさん宅へ伺った。吉野勇作宅へ行ったら不在だった。吉田又五郎先生と一しょに昼を頂いた。みね子姉さんの子供健ちゃん(三才)が良くなついて自分にだっこして、勇作君をむかえに出た。彼のワイフもきてゐた。午后、八幡様へお参いりし、だんごなげを見た*。河原のチビを連れて一日あそんできた。夕食後、月の輪に火事あり。ポンプを出動せしも鎮火せり。
*鎌形八幡様の春の祭典。ハルギトウ。

四月四日 火 晴
少しくもって居る。橋がないので川こし。すこしの被害あり。一号ののりの石つめ。ずいぶん暖い。昼もおそかった。帰りに潮干狩の件で金井元吉君に逢い、今晩、常会す。だいたい行く事に決定した。新しい団員も見えた。以上

四月五日 水 くもり・雨
小雨模様の天気。深沢は早かった。昨日のつヾきの石つめ。始めるとすぐ雨降りだす。午前中だけで。午后、潮干狩の件の集会。金井元吉宅に集る。集金して支部長宅へ伺ったら、野村宗次宅に居た。村田、金井勝、富岡将君等もおり、何か感情を害したことで中止すると言って居たが、話し合いがつき行く事に決定す。夕方までずっと雨降ってゐた。潮干狩会費一人二八〇円の所、青年団より一二〇円の負担。

四月六日 木 くもり・雨
青年団で汐干狩。朝の中は雨も降って居ない。集合も順調。嵐山六時十七分発。池袋、秋葉原、錦糸町で乗かえ、葛西橋行都電終点よりバスで浦安行新田下車。雨降る。十一時頃より海には入る。沖へ沖へと行ったがはまぐりはいない。かえって近くで取って居た者の方がたくさん取った、丁度、狩をする中は雨が止んで居た。池袋七時発。又、雨。嵐山についたら雨が止んで居た。心配した程雨にもぬれず、無事に帰宅す。男十八名、女十四名、計三十二名へ金井元吉さん加る。以上

四月七日 金 雨
昨夜々警だった、三時頃まで。今朝も雨。朝食後昼まで寝た。午后、足中三足こしらえた。はまぐりを料理する。一日中雨降り止まず。すけは何時もお客に行くと中々帰ってこない。本当に我儘だ。よその人の話を聞くと、すけなどらく過ぎる気がする。実家の親達もかまわぬ人だ。雨が降っても傘と言うものがあるのに。以上

四月八日 土 晴
今朝わ良く晴れた。隆次、学校。昨日の雨で水が少しました。のりに石つめ*。夕方わ寒い。青鳥の博労さん、夜、訪れる。別に大した用件でもなさそうだ。守平、與瀬(神奈川の相模ダム)へ行く。
*談:のりの蛇籠に石をつめること。

四月九日 日 晴
菅谷の連中は花見で休む。今日の花見は天気に恵まれて幸だ。昨日の続きの石つめ。昼休みに菅谷の精粉へすま買いに行く。一俵五四〇円。センベイも三〇円買った。午后、少し雷名((鳴))を聞く。以上

四月十日 月 晴
少し寒い朝だ。日中は暖い。石つめ。もう上手になったと思える。一日に今日は十米位つめたらう。しまの先生は渡辺泰禅氏。以上

四月十一日 火 晴
すっかり春となり四方八方の桜も万開((満開))と言うところだ。菅谷は半分休み、三人しか来ない。石つめ。今日は水の中より始めた。午前中、六米と少しのぼる。午后、八米が一寸かけた。夜、新聞代集合((金))す。以上

四月十二日 水 晴
大野は小生より少し早かった。今日も石つめ。石は悪いので昨日程つまらない。昼は何時もおそい。ひるねをした。夜、入団式と汐干狩の会計報告。男女入団者、五、十、計十五名、総計四十五名。

四月十三日 木 晴
「鍔鳴浪人(つばなりろうにん)」の小説を読んで居る。先を思はせるのでつい時を忘れて読みふける。工事も毎日同じ石つめ。今日は伊三郎さんと村田清治さんの運送*が手伝いにきた。水の中がせいせいして良い。
*談:馬力運送をしていた。

四月十四日 金 くもり・晴 春の祭典
石つめ。昨日の水上がりは良く出来た。今日は石入れがいないので十米できなかった。社ム所にのど自まんあり。小生、ぼん踊りをお面をかぶってした。多勢の人出だった。プログラムもにぎやかだった*。
*大蔵神社の春の祭典。

四月十五日 土 晴
七時十五分頃家を出た。誰もきておらなかった。河原で深沢*の運送車へ乗って小屋へ行く。今日も石つめ。隆次も石入れ**の手伝い。あまり良過ぎる天気でもないが、水の中は割に良い。地下足袋の洗たくをする。十二米石をつめた。
*談:上唐子の人。
**談:なれている者は石つめ、なれていない者は石入れをした。

四月十六日 日 半晴
少し寒い朝だ。今日は石拾いは居ない。隆次、沼、八郎さん、神山は石入れ。午前中、六米位つめた。午后八米。最後のかごは良くつまった。風が強い。アベック組がいく組も通る。さくらの花も皆散った。木の芽は青くなった。にしんのねが下った。一匹五円となる。以上

四月十七日 月 晴
よい日が続く。午前中、石つめ。七米つめた。午后、床ほりとのり作くりの半日。受取り三時頃おわり、あとかごふせ四二本。気持ちよい日だった。以上

四月十八日 火 くもり・晴
くもりの天気。雨具持参。牛が加工所へ裸と小麦各一俵、車で曳いて行く。川の向うまで小生が行く。午前中くもりで雨が降りそうだったが午后晴となる。会計九人五分一二三五円〇〇。隆次、七人五分六七五円。今朝めし前、一ト市へ麦ぬか買いに行く。以上

四月十九日 水 晴
隆次、今日より玉木組へ行く。何と言っても大野組では仕事をする割に安い日当だから。今度の入札で下唐子をやるそうだ。今日は石がいくらもつまらない。よい日となる。唐子の二人は休み。午后の休みにはさつま粉のセンベイを十五枚づヽ、根岸與平君が買う。父、砂利ふるきおわる。以上

四月廿日 木 雨
小雨。植木山へ山代二五〇〇円渡す。新聞を持って来る。隆次配達する。くまでの柄の穴ほり十一本。飼料の藁二束切る。午后、みの作くりを教はる。思ったより簡単だがうまくできぬものである。やっと一つ仕上がった。随分でかいのができた。一日中雨降る。以上

四月廿一日 金 晴
今日も雨。藁仕事を始めたら山下の庫さんが頼みにきたので行って、つきで籠をつくる。七寸八分の竹一本。たて四一本。下の直径二尺三寸、高さ一尺六寸、口の経一尺六寸。昼ごろ形ができたがうまくないのでほどしてあみ返す。だいたいよく出きた。牛の運動。小雨一日降る。以上

四月廿二日 土 晴
どうやら天気が良くなりそうだ。川の水が少しました。石つめ。昼頃、深沢の馬の蹄鉄の釘が取れたので釘持ちにきた。夕方は少し冷たくなった。まき、祖父、山あそび*。父他、桑園のほっ返し。夜八時、新しい道**。今夜はよい所だ。以上
*談:ゼンマイでも採りに行ったのだろう。
**ラジオ番組。

四月廿三日 日 くもり・晴
春の大掃除。くもりで雨の降りそうな天気。十時頃までにわ、雨の降りそうな天気。十時頃までにわ家の中のすヽはらいおわる。午后、農士学校前の現場へ行く。石つめ、三米かご二本、六米つめた。くらくなるまでやる。以上

四月廿四日 月 晴・くもり
朝は良い天気だ。菅谷の四人、浜、田島、根岸二名、神山と小生六人で床つくりの受け取り。午前だいたいおわり、午后かごを入れ三十四本。早くおわり、魚つり。くもって寒くて釣れない。でも十匹位釣れた。家の者は田麦の作切り。深沢にたけのこを貰う。川島の豚屋へ豚を売る約束をする。以上

四月廿五日 火 雨
小雨模様の天気。現場へ行く。菅谷の田島、根岸二名、沼、木村と大蔵三名だけ。かごへ石入れ。始めるとすぐ、大野来る。雨降りだし中止。金井屋よりあめを買ってきて、わけてなめる。午后、丑造宅へ行き、うけの竹割り、七寸二本。暗くなるまでやり、おわす。つきで十串貰って来た。

四月廿六日 水 晴
昨日の雨も止んだ。母、杉山の家へ病気見舞に行く。まき、保険料納めに行く。農士学校より茄子苗二〇本買う、一本三円。現場は半日で丑造宅で竹割り。うけの中の輪を作くる。二五コだが中々面道((倒))で半日かヽってしまう。チビのくさりをといたら喜んで家へきた。夕方、丑造氏宅の進ちゃんを背負ってやる。丑造宅のみつ子ちゃんは良く働く。いね、高崎の観音様へ遠足。以上

四月廿七日 木 晴
朝寝坊する。石つめ。午前六米出来なかった。誰もがあきがきて居るのだ。夕方、何時も何時も暗くなるまでやる。小学校の遠足。しま、嵐山。みや、岩殿。以上

四月廿八日 金 晴
現場へ行ってすぐ梅の木をこいだ。村田馬力、今日は来た。のりの石つめ。午后、水際より腰立て。屋根屋さん二人きてくすぐり*。夕方早くしまうかと思ったらしまいそうもないので意地になって暗くなるまでやる。以上
*雨の漏る所を補修すること。

四月廿九日 土 晴
朝、丑造氏宅で豚肉を頂く。石つめ九〇米残って居るのをつめおわれば一升買うと言うので、皆張切る。午前七米、午后は三米でおわる。最後に大野と二人で共同したのは上手くできた。六時ごろより、焼ちゅう二升を十五人、いか一枚。以上

四月卅日 日 くもり
くもりの天気。水の中で砂利はぐり。神山と関根。鉄線かごの口しめ。夕方はうすら寒い。明日は堀さらいの人夫。今日、農協の総会あり。父、出席す。