熊野川の一番河口に近い支流、相野谷川沿いの被害を受けた家屋
2011年9月に紀伊半島を襲った台風12号による災害について、当時現地を歩いて見たこと/知ったことをシリーズで書いています。
前半は土砂災害(土石流)について1)~5)に書いたので、後半は水害(河川氾濫)について書いています。
7)洪水は下流から来る - 相野谷川の場合 -
水というのは上から下へ向かって流れるのだから、洪水も上流から襲ってくる、と思い込んでいたら、台風12号ではまったく違いました。洪水は下流から襲ってきました。
「下流から上流に向かって家が流された」
これを聞いたのは、熊野川の支流、相野谷川沿いの話です。
相野谷川は紀宝町に位置し、熊野川の河口からわずか3kmくらいの、最も本流河口近くに注ぐ支流です。山がちな熊野地方としてはめずらしく、川沿いにはおよそ2kmもの幅にわたって上流6kmくらいまで広々と平地が開け、田んぼが広がっています。(実はこれが重要なんですが、後述します)
この相野谷川が熊野川に注ぐ場所には、ハイテクを駆使した巨大な「鮒田水門」というのが建設されていて、来るべき南海トラフ地震による津波が熊野川河口から相野谷川に入り込んで遡らないように、ガッチリ固めています。近寄ってみると、まるでダムのような巨大なコンクリート施設で圧倒されます。
この鮒田水門は熊野川が氾濫した時に、その氾濫が支流の相野谷川に逆流しないようにという目的もあるそうなのですが、熊野川が氾濫するような大雨時には当然、相野谷川も相当な水量になるわけで、水門を閉じればいいという単純なものではないことが想像がつきます。(熊野川は流域が長いので、例えば上流域だけが大雨で、下流域で本流のみが増水している、というような場合ならいいのですが。)水門が閉じられれば相野谷川の水は流出口を失い、今度は相野谷川が氾濫する。それを見越して(?)相野谷川沿いの集落を取り囲む「輪中堤」というのが2006年に作られたそうなんですが、結果、鮒田水門も輪中堤も、台風12号では用を成しませんでした。
台風12号による熊野川の増水で、鮒田水門は一旦閉じられるのですが、相野谷川の水量も想像を絶していて、数時間のうちに輪中堤が水没……(汗)鮒田水門を再び開門せざるをえなかったのでした。しかし豪雨はやまず、熊野川はますます増水して相野谷川を逆流(流量が熊野川のキャパシティを越えているわけだから、河口付近は特に溢れるわけで……)、相野谷川も同じく増水しているのに本流の逆流に遮られているわけだから、やっぱり逆流したのでした。
過去の水害を知る高台の、古くからある家屋も、屋根まで被害です。
これらの話を聞いて、私は思い出したことがありました。
相野谷川の上流7kmくらいのところにある(正確には相野谷川のさらに支流の相野川沿いの)平尾井集落まで、昔は船が遡ってきたという話です。
「船って言ってもね、たいそうなものじゃないよ、物を運ぶ木の小舟ね。」
平尾井のご老人によると、まだ自動車も車道も一般的でなかった頃、物資を運ぶ小舟が、熊野川河口の新宮から、田んぼの間の用水路を遡ってきたというのです。
それを聞いた時、こんな所まで船が上がってこれるのか?と驚きました。というのは、平尾井は川のかなり上流の山奥に見えたからです。
でも今思えば、
小舟が物を積んで遡って来られるくらい、水も遡りやすかったんですね。
山がちな熊野地方にしては貴重な水田地域であるのも、実は水が溜まりやすい、もしくは、度々洪水で泥土の堆積があることを示しています。幅2kmにもなる広々とした川周辺の光景は、
"洪水原(氾濫原)"だったのです。
ただ、田んぼを作るには、いつでも水を得られ、しかも洪水によって定期的に栄養をいっぱい含んだ水や土が供給される場所が良いわけですから、洪水原であることは悪いことばかりではない。そこに家を建てて住んではいけないということで……。
(実は、鮒田、高岡、大里の3つの相野谷川沿いの集落は、輪中堤が建設された後に(だから大丈夫だろうということで)洪水原に造成された宅地だったりとか、その後水が引く時、輪中堤の中に流入した水が、今度は外へ流出しようとして堤を決壊させてしまったりとか、オチはたくさんあるのですが、詳しくは色々書かれているので検索してみて下さい。
例えば参考→
紀伊半島・高岡輪中堤の崩壊-熊野川左支川・相野谷川の水害調査-)