ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

人が生きている現場、という方向から

2007-01-26 | 知床
 最近のちょっと嬉しかったニュースは、道議会議員やすむら啓二(保村啓二)さんが斜里町の町長選への出馬を決めたことだ。
 ちょうど現町長の牛来さんの任期満了が迫っていて、牛来さんは再出馬はしないと宣言していたので、斜里町やもと開拓者の皆さんと、次は誰がなるんかね、とよくお喋りしている所だった。知床の旧開拓地は斜里町の一部だ。知床開拓の歴史は、歴代の斜里町長が次々に打ち出す方針に翻弄されてきた歴史でもある。取材を続けていて、前町長から今に至るまでこまごまとした裏話や、人々と町長との間の繋がりについていろんな人々の口から聞くにつけ、斜里町長という知床の歴史と切っても切れない重要な存在が今後どうなっていくのか、複雑な気持ちで見ていた。

 という所へ先日、保村さんとばったり会ったら、「明日、出馬を表明します」と言う。よっしゃ、やった、という気持ちである。というより、保村さんは斜里町という北海道のすみっこの方よりも、もっと中央の方に出て行ってしまうんだろうなあと勝手に思っていたので、この土地にとどまってこの土地の政治家の長になるという話に、私は斜里町民でもなく選挙権も持っていないのに、思わず喜んだ。

 初めて保村さんに会ったのは、もと開拓者の方々の敬老会だった。斜里町の防風林から外にはずれた、昭和40年からの団地に40年前から建っている小さなコンクリートの集会所前の草むらには、政治家の先生方の車がピカピカと駐車されていて、「知床が世界遺産に登録されたものだから、今頃になって、開拓者を尋ねてきて」と、ぶつぶつこぼす人もいた。私は敬老会での開拓者のじっちゃんばっちゃんの写真を写していた。議員さんは複数いたが、ダルマストーブや古ぼけたテーブルの周りに車座になって話し込んでいる皆の様子を見ていて、一発で保村さんが気に入った。というのは、保村さんが実によく、「人を見て」いたからだ。政治家が開拓者を見に?くる、というのではなく、一人一人のもと開拓者と正面から会話にはまりこんで、一つでも二つでも何かを汲み取ろうとする意識が感じられた。この人とは話ができる、と、私は端から自分勝手な品定めをした。
 敬老会が終わってからもと開拓者の人たちにその話をすると、ああ、あの人は国鉄にいたからね、一緒に働いた人だからね、サークルも一緒だったからね、と笑って言う。でも私が「人を見ている」「話ができる」と感じたのは、もっと別のところにあるような気がした。
 その後も保村さんと会うことが度々あり、道議会議員保村啓二の取り組みについての記事を読むこともあり、そして思ったのは、この人はあくまでも地域密着の、現場の人だ、ということだ。それも、まさに「人」に焦点をあてて現場を見ている人だった。
 私は政治家には、中央にいて政治を管理しながら、時々地方の現場を「見に」来る人と、地方の現場にいながら、中央にその現実を持って行く人がいると思っている。保村さんは明かに後者の人だ。
 そして、なんで自分が「気に入った」のか突然理解した。

 病院で、患者を診ている病院や大学で、自分が突き当たる一番大きな壁は、いつも現場と管理者の大きなへだたりだ。現場には患者が生きている。生きて生活している。でも病院の経営は、患者が「生きている」こととはまったく関係のないところで、なんで?と思うようなやり方で進んでいく。この1年で有無を言わさず始まった厚生省の医療制度改革もそうだし、それに巻き込まれた病院経営側の苦労もよくわかるのだが、それでも、「こういう辛い時は、ファイト!ファイト!」と唱えてがんばるんです、とニコニコしている病院管理者の言葉を聞くたびに、ファイトと唱えなくていいから、1度でいいから現場に来て、詰所のその椅子に座って、現実に何が起っているのか見てみろよ、患者がどういう状態でベットに寝ていて、どんなふうに毎時間を生きていて、家族がどんなふうに付き添っていて、看護師がこの人数で実際にどのように動き、医師がどのように動き、介護士が実際にはどう動いて何をし、何ができ(できないで)いるのか見てみろよ、患者がどれだけ「生きて」いて、周りのスタッフがどれだけギリギリなのか1日でいいから、いや半日でいいから、いや、1時間、そこにじっと座って見ろよ、そうしたらもっと違うやり方が見えて来るだろうが、と胸の中で毒づいてしまうのだ。
 自分は現場の側から離れられない。現場とは、現実に人が生きて生活している場所だ。その側から、いつも中央で管理してくる側に向かってばかやろーとふっかけている、現実を見ろよ、現実に生きている人を見ろよといつも思っている。夕張市に1時間だけ視察に来て、それじゃ足りないんじゃないですかという問いに対して、勉強して来ているんだから夕張のことはわかってる、と言い切った中央政治家の姿に、ばっかじゃねーのと毒づきたくなるのも、同じことだ。そういう自分のインスピレーションが、保村さんを目敏くマークしたのだった。

 「保村さんねえ、町長選に落ちたら農家やるって言ってるよ。」なんて人が笑いながら話す噂話が、どこまで本気なんだか知らないが、私はやっぱり保村さんだなあと思って笑ってしまう。町長という政治家と、農家という地方地域の現場の最前線が、無意識のうちにも保村さんの中では見事に表裏一体になっているのだ。
 現場の側で人を見る目と人を聞く耳を持つ人物が、政治家の肩書きを持ち、さらに町長になるかもしれない。
 これはやっぱり、最近の嬉しいニュースなのである。


*******************

  子供の時、医者と政治家にだけは絶対なるまいと思っていた。テレビニュースの汚職や事件のイメージが強烈だった。その自分は医者になり、今度は政治家の応援をして喜んだりなんかしている。
 政治家も、医者も、汚職だの犯罪だのとヤリ玉にあげられるのは、それだけ人の現実の生活に深く根ざしているからこそ人の心やのっぴきならないお金がからんでくるのではないか。逆手にとって悪いことをする余地がある分、それだけ人の命や生活に深く関わって助けたり役に立ったりできる位置にいるのではないかと、今は思っている。

(2006.1.26)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知床開拓スピリット

2007-01-25 | 知床
 今日流れたニュースでは、夕張市の若手市民が中心となって「自分たちの夕張は自分たちが守る」と、次々新会社やNPOを立ち上げて、破たんした市の施設の運営を買って出ていたのでよかった。私が最近微妙に感じることのあった違和感は、間違いだったのかな、と、少しだけ安堵したような気持ちになりました。
 というのは、最近毎日のようにTVに流れる、夕張市が財政再建団体になった一連のニュースに、時々ふっと違和感を覚えることがあったからです。

 じっちゃんばっちゃんが住んでる田舎が好きで、歴史がありながら過疎になっていく地方の記憶を聞き書くことを生業にしていて、そして医師である自分は、ニュースで夕張が取り上げられる度に、すぐにでも飛んで行って、閑散とした団地にぽつんぽつんと残されたように住んでいる爺ちゃん婆ちゃんの健康状態をチェックしたり、いやそれ以前にまずただ、じっちゃんばっちゃんと一人一人しっかり顔を会わせたいと思ったり、踏み止まって全身全霊をかけている市立病院の先生が1時間でも休めるように当直を代わりたい、と落ち着かない気持ちになるのが正直なところです。が、実際自分が今働いている老人病院でちゃんとじっちゃんばっちゃんを診れているのか、自分が担当している人の一人さえも守れているのか、夕張ほどではないにしろ、同様に医師が足りなくて呼ばれて行っている小さな知床の街で、ちゃんと自分の責任を果たせているのか、こちらの街の病院の先生が1時間でも休めるようにちゃんと当直できているのか、知床で生きてきた人々の取材を全うできているのか、今ニュースを見て飛びつきたくなるような諸々を、まず身近な札幌や知床の人々に果たしてできているのだろうか、等々、自分の足もとを見ると、浮ついた気持ちも一挙に消沈する現実の自分の姿があるので、目の前の己の本分にしっかり足をつけて全うできないうちは、それ以外の何処へ行っても何もやることはできないと思ったり、今やっていることを本当に自分で「できた」「責任を果たした」と思える時までは、余計なことは考えずに目の前の道を進むだけだ、と思ったりするのです。

 などという身勝手な葛藤を、夕張の外の人間が外側から勝手にやっていることさえが、おこがましい余計なことだと思うのですが、それを置いても、夕張市に関するニュースの中で、特に高齢者の方々が「市や国は今後どうしてくれるんだ」「何をしてくれるんだ」「自分たちは放置されている」という、いたたまれない怒りをぶつけている姿に、一瞬「?」と違和感を覚えることがあるのです。

 というのは、今まで知床開拓を取材してきて、知床を開拓してきた人々には「国はどうしてくれるんだ」「責任は」「何をしてくれるのか」といった感覚が、まったくないからです。
 いや、表に出ないだけで、ないとは到底考えにくい。でも、それを言う余地さえ許されない所から、知床開拓は始まっているのでした。
 そもそも知床開拓というもの自体が、のっけから「国が国民を放棄する」所から始まっているのです。戦後の混乱の時代、日本国内は焼け野原で土地不足、食糧難、でも満州や樺太からは次々に人が引き揚げてくる、農家の次男三男も行き場がなくて溢れている、それを一挙に解決しようと政府がはかったのが戦後開拓で、あぶれた人を未開の僻地へ送り込み、自分で土地をつくれ、自分で食料を調達しろ、自分で作った物は土地も穀物も全部やる、だから後は勝手にやれ、後は知らん、と放り出した。
 「嫁さんだけ連れてくればいい、後は何もかも全部揃っている、家もある、馬も道具もある」という言葉を信じて知床の未開地に降り立った人々は、そこで初めて"国に騙された"ことを知り愕然とした。何も知らずについてきたハイヒールの「嫁さん」たちは、ハイヒールなんかもう無縁の世界に来たことを知るわけです。
 知床の未開の原野に人々を片道切符で置き去りにした国が、人々に「何かしてくれる」もへったくれもないわけですよ。
 でも人々は、「騙された」と愕然としても、自分たちの人生を放棄をしなかった。騙されたと思うなら、怒って帰ればいい。が、人々は帰らなかった。逆に、帰らない、と意地になった。じゃあこの土地でやってやる、というエネルギーを開拓にぶつけた。
 もうその日から生活しなきゃならないわけで、国が何をしてくれるかとか言ってる余裕なんかなかったわけですよ。国から放置された所から、何もない所から、「知床」は始まっているわけです。

 家なんか当然無い。家の建材もない。自分で木を伐って草を葺いて家を作る。見てくれなんか気にしていられません。毎日、毎分ごと、この瞬間も生きてなきゃならないから、貧しいだの悲惨だの言われようが、ボロ家だろうが何だろうが、自分たちの手で一から雨をしのいで、暮らす場所を作っていくわけですよ。
 水道がなければ、自分たちで水脈を探しに行く所から始める。森を分け入って、毎日の飲水に適する水源を探しに行く。そしてあの知床の森の中に、網の目のように水道管をはりめぐらせるまで至る。
 バターの製造機だって、農業試験場に見に行って帰ってきたら、自宅で見よう見まねで機械を作ってみる。そして本当にバターを製造してしまう。
 医者なんていないから、病気にならないように、ケガしないように、まず自分たちが注意する。細心の注意ですよ。誰が何も言わなくたって、予防医学ですよ。医者を送ってくれないとか、病院がないとか、そういうことを言うはるか以前の話なわけで。流氷で海が閉ざされちゃったら、病人を舟で搬送することも不可能。即、命に直結するから、本当に真剣に予防医学です。ケガしてしまった時、腹痛を起こした時、どうしたらいいのか、何の木の汁を塗れば炎症がおさまるとか、何の実を食べたら痛いのが治るとか、子供たちでも知恵を叩き込まれていた。それでも治らなくて、医学が必要で、じゃあどうするかと言ったら、自分たちで医学を調達しようとする。子供を看護学校に入れて、家族に医学がわかる者がいた方がいいから、とやるわけです。

 もう40年以上も昔の北海道の辺境の話と、現在の夕張市を比べること自体が無理があるかもしれません。が、それでもそういう知床の、人々の生きる姿を取材してきた身からすると、夕張のニュースは時々ちょっとだけ、「?」と思ったりする。夕張の市民を被害者として報道するニュースの向こうに、まだまだもっと、夕張の人々の潜在的な力が眠っているような気がするのです。

 本来北海道というのは、"開拓スピリット"で出来上がってきた土地です。たぶん、日本の他の地域よりもどこよりも。だからこそ本州の人々の憧れを集められたのだし、「遥かなる山の呼び声」や、「幸福の黄色いハンカチ」「北の零年」といった、今や夕張の目玉の一つともなっている、フロンティアスピリット溢れる映画が次々と北海道を舞台に作られたのだと思うし。
 そして、戦後開拓で国に騙されて来てみたらとんでもない原野だった、でも頑張って今日の土地を作り上げたんだよ、という話は、知床に限らず、弟子屈や根室など北海道の至る所に転がっている。知床だけが特殊例ではないのです。
 北海道はせっかく、他のどこにもない開拓スピリットを持っているのだから、それを北海道人の中に眠らせたまま年老いさせていくのはものすごくもったいないと思う。北海道のいろんな自治体が悲鳴を上げていて、財政難だとか過疎化とか高齢化に直面しているけれど、この北海道開拓スピリットをもってすれば、北海道、まだまだ全然力を持ってるんじゃないかと思ったりするのです。

(2007.1.25)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだフィルムと会話したい

2007-01-18 | 写真
 最近続いた1番のショックは、何と言っても写真界の大きな変化でした。
 デジタルカメラがどんどん市場を拡大し、写真というものがカメラマンにしか撮れない限られたものではなく、誰でも親しめて誰でも傑作を撮れるものになり(それはとても素晴らしいことではあるのですが)、フィルムカメラ業界が大きな変革を迫られているのです。

 小さい頃、憧れながら見ていた雑誌や展覧会の写真のクレジットには必ず、神社仏閣歴史遺産関係には「世界文化フォト」と、世界旅行や人物、スタイリッシュな写真には「オリオンプレス」と明記されていて、それはそれは憧れの2大ライブラリでした。私はその世界文化フォトと契約させていただいているのですが、昨年ライブラリの吸収合併があれよあれよと進み、別の名前になってしまいました。さらに先月、同様に老舗の「オリオンプレス」もそこに吸収されてなくなってしまいました。2つがくっつくなんて考えたこともなかったし、その2つの名前が消えるなんて、大ショックです。それでもまだ世界文化フォトの母体が存続会社として残っているので、幸いとしなければなりません。

 また、私は20年近く一張羅のようにペンタックスを使い続けているのですが、ペンタックスもHOYAと合併して、今年中にペンタックスではなくなってしまいます(HOYAが存続会社)。とはいえ、ニコンがフィルムカメラ自体の製造を一切やめてしまったことを思えば、まだ自分の愛機のペンタックス中判カメラは製造され続けているので、幸いとしなければなりません。

 と言っているうちに、今月、日常的にお世話になっている全国的なフジ現像所チェーンのCREATEが、会社を解散して閉鎖することになってしまいました。北海道で最後に残っていた唯一の現像所が、なくなりました。3月に併設ギャラリーで写真展を予定していましたが、それも保留になってしまいました。

 それでも「フィルム」で写真を撮り続けるのは、フィルムでなければ自分が理想とする写真が撮れない、と頑固に思っているからです。本当は、デジタルカメラも日々進歩しているのだから、うまく使えば思う通りの写真が撮れるのかもしれないし、フィルム代、現像代という莫大なコストから解放されて、生活もやっと楽になるかもしれない。何百枚もの写真をルーペで1枚づつ選びながら、一々スキャンしてCD-Rに焼くという、膨大な作業からも解放されます。

 今、ふっと空を見た時、「この時間帯のこの天気のこの光の状態なら、○○のフィルムを感度いくつにして後で××の現像をすればこんな色に発色する」と自動的に頭に浮かびます。それを計算しながら、理想の色やコントラストになるように撮っていきます。目の前の景色はフィルムでは違うように仕上がってくる、というのは、「見た通りに写らない」困った事実かもしれないけれど、目の前の景色以上の写真を作り上げるフィルムとのコラボレーションでもあるのです。フィルムと会話しながら、目の前の光や湿度や空気の濁り具合と会話しながら撮っていく、という共同作業を、世界が変わりつつあるからと言ってすぐに捨てることができません。

 あと4日で、現像所が解散します。
 お世話になった方々に、一体どうしたら御礼ができるのか見当がつかない。
 デジタルカメラを導入する必要性を背後から感じつつーーーデジタルカメラとも、いろいろ会話はできるのだろうと思いつつ、自分はまだもう少し、自分のやり方を押し通そうと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再度ブログ

2007-01-16 | 雑記
 もうずいぶん長いことウェブ日記や個人サイト運営を行ってきて、放置のままのブログもちらほら、ネットの持つ可能性には堪能し、同時に限界もそれなりに感じて、しばらくは自分のサイトを持つことはないだろうと思っていました。
 今まで個人サイトを運営してきて一番強く感じていたのは、やっぱりリアルの現実世界の方が自分には生きやすい、というごく自然な感覚でした。ネットは現実世界では到達できない諸々を可能にする無限の可能性がある一方、現実世界なら出来るほんの簡単なことが何一つできないのでした。
 自分は人と文字を打ち合うよりも、面と向かって、その呼吸や、ほっぺたの皺の微妙な動きや、微妙な姿勢や、声の調子や、微妙に漂ってくる体温や、笑ったり怒ったり、喜んだり責めたりしてくる顔を見ながら、人と向き合う方が、目の前のその人のとめどない無限の情報量と、人間でいることの素晴らしさを感じ取ることができて、はるかに楽しく嬉しいです。
 ありがとうの気持ちを伝えるために、必死であれやこれや文字列を考えてキーボードの前でフリーズしているよりも、直接この嬉しそうな声で、この嬉しそうな顔で、「ありがとう」と一言だけ言いたい。
 どんなに部屋をきれいに気持ち良く整えた中でモニターと向き合っていても、それよりも一歩玄関の外へ出て、その日の冷たかったり暑苦しかったりする風や湿度を感じたり、靴をはいて、地面の微妙な硬さや質感を足の裏に感じる方が、はるかに楽しく、歩きやすいです。
 メールを1本書くより、1本電話をしてその人の声を聴いた方がはるかにいい。機械をこまごまいじって1枚の写真を貼付するより、1時間かけても車を走らせて直接会いに行った方がはるかに楽ちん。
 だからもう、自分のサイトを設定して、その画面を通して人と会話をしたり、自分を表現したりすることはないんだろうと思っていました。ネットに失望したのではなく、もう今まで十分ネットを活用した、もう満足した、という、十分な気持ちでした。

 ところが、仕事の上で、なんだかどうしてももう一回サイトを作らなければならないことになってしまった。
 同時に、どんどん日々過ぎていくことはどんどん右から左へと忘れ去っていくので、自分のために、雑記として書き留めていく必要性も感じるようになりました。
 というわけで、もうやめようと思っていたブログをもう一回つくりました。
 自分の覚え書きのような場所なので、読んでくれる人には親切ではないと思いますが、これの必要性がなくなる日まで、もうしばらく続けてみようと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする