海辺暮らし

都会を離れて海辺でスローに暮らす…のはいいんだけど

「若々しい」より「にこにこ」がいい。

2008年02月27日 | Weblog
「若々しい」より「にこにこ」。
おそらくこんなコピーだったと思う。
いえね、雑誌の新聞広告の中から目に飛び込んできたの。
養老先生の写真のとなりに書かれていた。
中身を読まずともわかるわかる。
高齢者向けの雑誌だからね。
まったくそのとおり。
私も実践中ですよ。
で、夫に向かってこのタイトルを読み上げた。
「……」
そうだよね、彼は「若い」のが自慢だものね。
だけどさ、年取っていないひとに向かって「若い」とは言わないでしょ。
ぼくは八掛けだとか、言って悦に入っている。
ニュージーランドではこんなことがあった。
バスの運転手さん、背中の曲がったおじいさんと思いきや、なんと夫と同い年。夫はいつものことながら言いました。
「おや、ぼくと同じ年ですよ。いやいやぼくは特別ですから。ははは」
周りのひとが、「まあ、お若い」と言うのを予定に入れて彼は謙遜の姿勢。
でもでも明らかに自慢なのよね。
日本人のガイドさんが「日本人は若く見えますからね」とさらりと言った。
運転手さんにも配慮したのね。
夫は「……」、たぶん何も感じてはいない。
ほんと、自慢したがりのおじいさんである、わが旦那さま。
(私の「自慢欲望」はおもにこの日記で満たされる)
かの地で「どちらから?」と聞かれると、「四国です」と答えればいいだけなのに、「いえボクはもともとずっと東京と大阪で」なんて持って回った言い方をする。
四国在住と言うのがいやなのかしら。
まず「○○です」と答えるのが、私は好きだ。
最後まで聞かないと答えが分からない話し方は、好まない。
しかしわが夫には、どうもこの傾向が強い。
おじいさんになる前からね。
英語圏に留学していたくせに、主語と述語がはっきりしない。
ぐ~んと遠回りの言い方をするひとだ。
単刀直入、これが私は好きなのである。
なので、何が言いたいのか分からないのは、とてもじれったい。
私に何を求めているのか分からない電話も、だから苦手。
いさぎよく、ぽん!と答えて、と言いたい。
でもこれが出来る人と出来ない人がいるのもたしかだ。
何の差かしら。
まあ、そんな話はどうでもいいわ。
若々しいよりにこにこ、の話。
「若々しい」ははた迷惑だ、と私は言いたいの。
これで利益を得るのは、当人だけだということ。
「わしは他人より若いんじゃ」とほくほく顔の自己満足に過ぎない。
「若い」と思っているひと、思いたがるひとが、はた迷惑なのは…。
ほら、高速道路を逆走するドライバー。
アクセルとブレーキを踏み間違えるドライバー。
どちらも、自分の年令、あるいは自分の老化を自覚していない。
ほんと、田舎の交通事故の多くは高齢者なのだ。
笑い話ですませられる問題ではない。
80のおじいさんの車に乗って、びゅんびゅん飛ばされたときは、はらはらだった。
「ぼくは他人より若いんです。運転には自信があるし」
こんなことを言うけどさ、ちゃんとお年寄りなんだな。
ね。「若々しい」ははた迷惑なの。
若々しくなくていいから「にこにこ」していたいね。
きげんよく「にこにこ」、ね。
「ぼくもそうしてるよ」と夫が言う。
「えー? まあね。ときどき機嫌が悪くなるから、私は怒るのよ」
そうなのだ。彼が機嫌良くにこにこ顔でいる限り、私は怒らない。

しかし。
それにしても、早すぎる?
高齢者にどっぷり仲間入りしている私。
しょうがないよね、12歳も年上の男と結婚したんだから。
「私はまだ花鳥風月を愛でる気になれない!」といきり立っていたころが懐かしい。いえ、ついこの間までそうだった…。
隠居ばあさんになるのを決めたのは、やっぱりニュージーランド行きあたりからか。
「隠居ばあさん」を受け入れたら、いろんなことがうまく回りだした。
まず、息子が驚くばかりの大人になった。(だと思う。半信半疑)
「年寄りをいたわる若き息子」って感じになってきた。
そりゃそうか。
母親がいつまでも「若々しく」てばりばり稼いでいたら、子どもはいつまでも「お子さま」でいたいかもね。

と、以上、私の自慢話。
そうよ、私は「若々しい」にはこだわらず、毎日「にこにこ」暮らしているわよ、という話デス。
自分に対する要求水準が低いと他人に対しても求めなくなるみたい。
おや?
「求めない」とかいう本があったことを思い出した。
ほら、中国の老子の「道(たお)」を加島なんとかという人が訳した本。
数年前、老子の「道」の本を読んでは心を落ち着かせていた。
今、そんな本を読まなくても落ち着いている。
わお、なんてすごいことかしら。
ああ、毎度のことながら自画自賛。
最後まで読んで下さった方には、ごめんなさい。

アンタニイワレタクナイ

2008年02月25日 | Weblog
「アンタニイワレタクナイ」について考えている。
団塊の世代の本を書くという女性の取材を受けたときのことだ。
「この世代のひとって、あんたに言われたくない、って言いません?」
私は返事に困った。
この「あんたに言われたくない」が、私たち世代に特有の態度なのか、わからなかったから。
だってそうでしょ。
何歳だろうと一人前(だと本人が思っているだけにしても)の大人なら、そんな反応をするだろう。
むしろ誰に向かって発せられるか、に問題の核心がある。
「あんたに言われたくない」とは、
「あなたは私に上から目線で何か言うほどのひとじゃないですよ」とイコールなのよ。
ね、上から目線。
最近よく耳にするけど、これを私たちはとてもいやがる。
私もいやなの。
お説教もされたくない。
ところがそのくせ、権威あるひとやお墨付きのあるひとには、頼ろうとするところがある。
「あんたには」言われたくないけど、私が認める権威(たいていは幻想ですが)には、何か言ってもらいたい。
そうそう、これに似ています。
私が子育て真っ最中のころ、よく言われていたこと。
近所のおばさんやおばあさんに頼ればいいのに、最近の母親は子育て本にばかり頼っている。
ね、これと同じこと。
つまりメディアが権威づけをしたもの、媒体を通すことで「物語化」されたものに、人々は敬意を表する。
(テレビに出ているだけで、ある種の権威となるのがまたおかしいけどね)
近くにいる母親や近所のおばさんの言うことなんかには耳を傾けない。
「本に書かれたもの」や、「メディアが編集したもの」は、まさに切り取られた一部だ。
一部だけ。しかも恣意的に切り取られた一部。
受け手に拒まれぬよう、心地良い言葉が並んだりもするだろう。
きれいにまとめられていたりもする。
ここに唯一正しいものがありますよ、とね。
世の中にこれが絶対唯一の正義だ、というものはない。
にもかかわらず、何かに頼りたいひとは、それを求めているように見える。
正しいやり方なんてないのよ。あれこれやってみて、間違ったりしながら歩いていくものだ。
実体のないものに頼ると、思考停止状態におちいる。
だから、「何か」に頼るひとは、自分の頭で考えない。
身近なひとの助言も、たぶん、きかない。
傷つきたくないからね。
傷つかないほどの距離のあるところに、それを求める。
どこか遠くに、「どうしたらいいか」を聞く相手を求める。
それは書物であったりもする。(かれらの吐く言葉がときに空疎なものになるのは、本を読んで知識をなぞっているに過ぎないからだ)
ハウツーを聞いてそれを実行したら万事うまくいく?
相手からきつい反撃のある場所に、かれらは行きたがらない。
自分の問題点を指摘されたくないものね。
そう、「あんたに言われたくない」のである。
「あんた程度の人間に」という含みがある。
私は「あんた程度の人間に」とやかく言われるような人間ではない。
そのとおり。かれらはとてもプライドが高い。同時にとてもひ弱だ。
メディアの一方的受信者としてだったら、自分のいいように誤読ができる。
肝心かなめの自分の問題点なんかは、スルーできる。
どんな人も、無意識にしらっと避けて通るものである。
読み手、受信者に徹するのは、楽ちんなことだ。
ところがツーウェイのやりとりとなると、そうはいかない。
全人的な対面だからね。
めったやたらに切り込んでくる相手もあろう。
けれど、この手の「殴り合い」こそ、現代の私たちが失って久しいもの。
そしてまさに必要なものなんじゃないか。

引きこもっている女が何を言うか。

はい。そうです。私には「殴り合い」の機会はとても少ない。
唯一闘っていた相手は、とうに白旗上げて、今じゃ二人でデュオを奏で始めたほどですし。ところがこのデュオはとても繊細な音楽でしてね、外からちょっと風が入ったり、雑音が飛び込んでくると、にわかに不協和音を奏で始めます。外から人がかかわってくると、私たちの間は微妙な空気になるのです。それほど繊細な音楽なの。一つ間違えば、その緊張の糸が切れて…なんてことは、絶対回避するつもりで、ここにこうして書いておりますが。まあ、時々外から飛び入り参加があるので完全な引きこもりではもちろんありません。なので、助かってますが。

言い訳はこのくらいにして、さて、どこまで書きましたっけ。
書きたいことは、書いたみたい。
というより、書き始めに書こうと思っていたことを、しまいに忘れるのね。年のせいでしょ。

ところで今朝。
わが家の朝はとても遅い。朝ご飯は八時から九時なの。ニュージーランドは夜の十時まで明るかったけど、あちらでは夜遅くまで起きていましたよ。お日さまと一緒に行動するのよ、と言いたいのです。
であるので、かなりお日さまが高くなってから、外へ新聞を取りに出ます。
玄関の戸を開けると、ふわーっと飛び込んでくるのは朝の空気。
おいしいのよ、まちがいなく。
なんておいしい空気でしょ、と感激しました。
お日さまのにおいもあるでしょう。潮の香りも混じります。ありとあらゆる有機物の混ざり合った空気のおいしいこと!
というのも、わが家は毎晩いい香りに包まれて過ごしています。
割った薪が生乾きなので、ストーブの上に乗っけて乾かすのですが、そこから立ち上るなんともいえない芳香。
クスノキやサクラが香りのいいのは分かるのですが、昨晩のは違いました。
えっ、何? このにおい。こうばしいにおい。お菓子でも焼いているような…。
何の木なのかしら。文字通り「おいしい」香りに包まれていました。
でもでも、朝の空気を吸い込んだ途端、わあ、これは格が違う!と思ったのでした。
こんな空気を味わえるだけでめっけもん。幸せよねえ。

追伸。
毎晩、薪ストーブの上で熾(お)きばさみ片手に、薪をひっくり返しながら悦に入っている私です。テキ屋のおにいさんになった気分で「らっしゃい、らっしゃい!」。お店屋さんごっこですね。なんだなんだ、還暦だからってこの子ども返り状態は。


母はなぜ強いか

2008年02月24日 | Weblog
いろいろ思うところはありますが、まずは昨日のテレビの話。
フジテレビだったかな。
「母が強い理由」はDNAにあった!
ま、そういうような番組。
どこかの誰かが「少子化に歯止めをかけん」と仕組んだものかもしれないけれど、私にはうふふって感じの内容だった。
女性が子どもを産むと、オキシトシンという女性ホルモンが活溌に分泌され、それが大脳の海馬や扁桃体に働きかけるという。
海馬は記憶を司るところだし、扁桃体は恐怖や不安、ストレスを抑制するところだそうだ。
ふむふむ。
近ごろ流行の脳については、かなり聞きかじっている私は、身を乗り出した。
そうそう、女性ホルモンの働きも最近の私の関心事。
何たって、閉経期以降の女性たちが周りで何やかや悩みを抱えているのでね。
まあ、気になるのですよ。
みのもんたがますます喜びそうなのは、不満だけど。
女性ホルモンにもいろいろあるらしいけど、このオキシトシンの働きは、前述の通り。
女が赤ん坊を産んで母親になると子どもを守らなければならない。
(最近は守らない母親も多いけどね)
なので、記憶力や耐性を強くするようにホルモンが出るんですって。
こんなこと科学的に立証されなくても、だろうなと思う人は多いだろう。
母性とは本能である、なんて話につながらなきゃいいと思うけど。
やっぱりどこかに、「子どもを産め」という女たちへのメッセージが込められているように見えるなあ。
視聴者の無意識に働きかけることぐらい、テレビは朝飯前だ。
私は子どもを産んだ女だから、そうかそうか私が強くなったのは女性ホルモンのせいであったか、なんて納得するだけだけれど。
子どもを産む人も産まない人もいていいのに、世の中の流れはどうも「子どもを産んで母親になるといいことあるよー」といったムードが溢れ始めている。
母親になるのはいいよ、私のような出来損ないの母親でも、いいよー、と言いたい。
しかし、何が何でも子どもが欲しい。しかも自分の子ども。どうかすると自分だけの子ども。男なんていらない、賢い精子だけ頂戴、てな話も出てくる。
こうなると、もちろんヒトも、他の生物と同じく自分の遺伝子を残そうとするものなのだろう。
けどね、精子バンクで買った精子で子どもを産んだ女性が老いて、犬の交配をしている姿は、なんか違うぞ、と思わせるに十分な映像だった。

おっ、だんなさまが呼んでいます。
パソコンでお便りを制作中なのですが、最近ではちゃっかり「手伝ってよ」と言ってくるのです。私になんか負けるもんか、という意地はどこかに消えたみたい。
なので、行ってきます。

さっき、雪が舞いました。

上質な暇つぶし

2008年02月23日 | Weblog
「私が本当にやりたかったことは何かしら」
60歳前後の女性が集まるとそんな話になる。
なんてことが書かれているコラムを見た。
えっ?
おやおや還暦の女性が「自分探し」ですか。
と、私などは思ってしまった。
「本当にやりたかったこと」なんて、あると言えばあるしないと言えばない。
ご本人がそう思えば「ある」のだ。
本当はやりたくないことをやり続けてきた、と思う人が多いのかもね。
私のように「やりたいことをやってきた」と言えるのは少数派なんだ。
遠慮しとこう。

話は変わって。
還暦の女性に限らず、時間を持て余した人々は多い。
何かしなくちゃ。
何をしようかしら。
彼女たちは、カルチャーセンターをまずイメージする。
そのような人たち向けにセッティングされた「場」を、彼女たちは探す。
それはコミュニティではなくてアソシエーション、なんだそうだけど。
彼女たちは賢明なので、家にじっとしているとろくなことはないと知っている。
その通りだ。
小人閑居して不善を為す。

カミュのシーシュポスの神話(シジフォス?)を、いつも思い出す。
岩を山頂に押し上げる人がいる。
一生懸命に汗を流して山頂まで岩を押す。
山頂にたどり着くと、あああ、岩はふもとへと転がり落ちていく。
その人は、再びふもとから山頂に向かって岩を押して行く。
三度、四度、五度……その行為は延々と繰り返される。
40年も前に読んだものを、わかったふうになぞっているが。
まあ、私の記憶の中ではそういう物語であったのだ。
その印象が強烈だったから、今もたびたび思い出すのだろう。

人生は大いなる暇つぶしよ。
なんてことを言ったら、真面目な優等生のTさんが絶句した。
天下の往来で言うことじゃないね。
18歳で父が死んだことと、関係がないわけではないだろうと思う。
なんだかんだ言っても、そんな人生観に辿り着く。
けれどこの歳になると、悪くないのだ。
上手に暇をつぶすことは、私、あんがい得意みたい。
世の中の「ねばならない」と折り合う必要がないところで、上質な暇つぶし。
どんなことでも楽しんでおみせしましょう、ってね。
賽の河原の石積み、なんて笑ってる。

このくらい開き直れると、日々楽に生きられるのだけれど。
多くの人は、なかなかそうはいかないようだ。
暇つぶしが苦手なのか。
楽ちんはいけない、と思っているのか。
はたまた青い鳥を求め続けているせいなのか。
隣の芝生ばかり見ているからなのか。
まあ、どうでもいいんだけどね。
暇つぶしの下手な人は、不幸探しがうまいときている。
「他人の不幸は密の味」とは、うまいこと言ったなあ。
ほんとは自分が不幸なんじゃないかと見えるんだけど、それは認めたくない。
そこで他人の不幸話で、帳尻を合わせる。
より不幸な人をつくりあげて、自分を支えるのね。
だけど、これが母親と子どもの間で行われる場合は、悲劇である。
母親というアイデンティティのみで生きてきた女性が陥りやすい罠だ。
幼子を保護する私、という生き方のほかに何があるのか、彼女にはわからない。
まず、モデル探しをする。
理想体型を求めてダイエットする若い女性のようだ。
そうじゃなくてさ。
なんだってあるのよ。
隣のおしゃべりな奥さんの隣人である私。
口やかましい姑の嫁である私。
子どもの母親という顔のほかに、いくつもあったほうがいいね。
けっこう身近なところにあるかもしれないよ。
だけど、外にあると思うから、出かける。
お金を少し出せば、面倒なことなく「孤独の埋め合わせ」が出来る。
そう、孤独の埋め合わせなのよね。
もちろん「外」で埋め合わせができるなら、それもいい。
しかし孤独はどこまでもついてくる。
ぽっかり空いた心の空洞…。
いつの間にか、不幸探しを始めている。

一方で「空の巣」を予測して(?)準備万端の賢い女性もいる。
こちらは、嫁や娘という役割をせっせとこなしてきた人である。
やりたくもない仕事、かもしれないけれど、これをやってきた人のほうが、上手な時間つぶしができそうだ。
先日、そのような「45歳子ども一人」の女性に誘われてランチを食べた。
「とても刺激になりました」とお礼のメールが来た。
意外でしたね。
田舎に隠居している60前の女の話が「刺激的」って。

上質の暇つぶし、彼女も探しているのね。
でも、他人の不幸探しをしないところには、拍手を送りたい。
不幸は不幸を呼ぶからさ。
不幸探しの好きな人にはご用心。

ムラと葬式

2008年02月18日 | Weblog
田舎では葬式は日常茶飯事だ。
今朝もまたお年寄りがひとり亡くなった。
まずお悔やみに行き、その後通夜、葬儀と続く。
同じ集落ではないので、お手伝いには行かなくて済む。
ところで、冠婚葬祭、特に葬儀なのだが、
私の夫はどうもこれが好きらしい。
好き、というと少しニュアンスが違うのだけれどね。
そう、葬儀と聞くと、やたら張り切るのである。
近所の女性にも、そういうひとがいる。
腕まくりして(勤めを休んだりして)、私の出番よ!と張り切るのである。
そんなひとを見るにつけ、私はふううとため息をつく。
今日はそんな夫が、薪割り中の私に「止めよう」と言った。
「どうして?」と訊ねると、
「今日はほら、こういう日だから」
近所とは言っても、喪中の札が貼ってある家は、
私の薪割りの音など聞こえない、畑をいくつも越えたところにある。
「えーえ?」私は明らかに不服であった。
納得いかないのだ。
しかし、何度も「そろそろ止めようよ」と言う。
この言い方、どこかで聞いたな…。
慇懃ではあるが、じつは強引な圧力を内に秘めている。
そう、あのとき。私は中学生だった。
バレーボールのチーム練習。
下手なくせに選手に選ばれて難儀していた。
カワムラというお姉さまっぽい女子が、ボールをうまく返せない私に言ったのだ。
「こう打とうよ」と。
あら親切でやさしいことば。でも感じ悪い。
昔も今も素直じゃない私であった。
「はいはい」
返事をふたつすることで何とか溜飲を下げて、薪割りは早々と切り上げた。
そう。私は、他人に指示されるのが何につけ嫌いなのである。
楽しい遊びを中断された子どものようなものである。
そうそう、割った薪を積み上げる作業はね、積み木遊びなのよ。
そのスケールの大きさといったらないでしょ。
積み重ねた積み木が崩れないように、絶妙のバランス!
私が楽しんでいたせいかしら。
夫は「ぼくもやってみるよ。その方が肩にいいかもしれない」なんて言いだした。
ほら、ね。
私が楽しそうにしていると、やりたくなるの。
で、あんまり楽しんでいると、止めさせたくなる。
大義名分をつけてね。
冠婚葬祭については、自分の土俵だと思っているからさ。
そう。冠婚葬祭。
「あなた、お葬式が好きだよね」と言ったの。
そしたら「いや、好きってわけじゃないよ。会社では冠婚葬祭はとても重要だからね」とのお返事。
だから、この間の葬式のときは、手伝い方で近所の奥さんとつばぜり合い。
両者とも仕切りたがりだったので、どうなることかと思ったけど。
そんなことを思い思い薪を割っていて、気がついた。
会社と田舎って、似ているじゃない。
よく言う「ムラ社会」。
見事に重なる。
グローバリズムに追っかけられている今の会社はどうだか知らないけれど。
会社社会で出世したわが夫のようなひとは、このムラ社会ととても親和性が高いのだ。
これを年齢のせいだとばかり思っていたが。
いやいや、彼のムラ社会的慣習に対する従順さは、会社員生活で培われたところが大きい。
そして、このたびのニュージーランド行きで私が生き生きしたことと、深くつながっている。
私および長年女をやっている人々は、ムラ社会的うっとうしさから逃げ出しこそすれ、進んで飛び込もうとはしないだろう。
田舎生活を夢見るのがたいていは男であること。
それには必ず妻が伴われること。
などなど考えると、男が自分の土俵で相撲をとるためにどれほどの執念を燃やすかが分かるというものだ。
橋下大阪府知事のことを、「正直でいいよ。東国原の方が遥かにずるい」なんて言っている夫を見ると、私のバカ正直でノー天気な振る舞いを、どのように見ているかが想像できる。
ま、それでいいんだけどね。
バカでノー天気な女。
それで上等!

踊る。

2008年02月16日 | Weblog
アッという間に時が過ぎていく。
寒波が上空に居座っている…と天気予報士は言う。
しかしお日さまサンサン、わが家の20数畳のリビングは春でござる。
今日は数独を手に、井上陽水を聴いた。
暮れにカラオケをご一緒した友だちが、先日貸してくれたCD 。
いい。
なかなか、いい。
音楽は、からだに、いい。
言葉にするとえげつないのでやらないが、たしかに効く。
古い記憶の脳やら、いつもと違う脳のパーツが刺激を受ける。
ある種の電気が走るんだなあ。
陽水がまたうまい。
人の声がこれほどに私を揺さぶるとは。
うん、私は陽水の曲が好きだったんだ。
そういえば…。
夫と24時間一緒の暮らしになってから、ずーっと遠慮していた。
私にとって音楽は、自分の世界に浸る時間。
夫には心地よくないかもしれない音を、家中に響き渡らせてよいものか。
なんてことを思った。
ipodなるものを入手しようとしたが、頓挫した。
わが家のリビングには、夫がどさくさまぐれに買った5チャンネルのスーパーオーディオが、まっ黒に煤をかぶっている。
まあ、使っていないということだ。
夫がいても音楽が聴けるまでになった。
私の自縄自縛が解けたんだ。
もちろん、踊りながら、聴いた。
私にとって、音楽と踊りはセットなの。
音楽が鳴り出すと、からだが動く。
20数畳のリビングで、足を滑らせ、ステップを踏む。
もちろんテキトー。
夫の目を気にしなくなった。
そう、彼が私のあれこれに疑いの眼差しを向けなくなったのだ。
よかったねえ。
私の中の何かが蠢いたと見るや、ジェラシーに身を焦がしたかつての彼は、今
いない。
私が彼の「もの」になったと安心したの?
そんなことはどうでもいい。
私は私が生きたいように生きる。
「うるさかったら、言ってね」
「うるさいなんて。ぼくは、音楽が好きだよ」
「そう。でも聴きたくないときだってあるでしょ。だから、言ってね」
というようなお断りも、ちゃんとした。
数独を解きながら、陽光差すへやでダンスする老女。
おやおや。
夫が数独をはじめた。
新聞の土曜版に載っている、やさしいヤツ。
へえ。
私のやることなど意地でもやらないひとかと思ってた。
しばらくして、「解けた」と大喜び。
「見てよ。間違ってないか」なんて私に言う。
こら! 甘えるンじゃない。
「やーだよ」と突き放した。ふう。

水道工事のおじさんがやってきた。
2トントラックいっぱいの切り株や枝。
これで三回目だ。
あちらは産廃にするとお金がかかるので持ってくる。
もういいよ、と言いたい気分だけど。
しかし、来年のためにまた明日から薪を割る。

心中を美化するな

2008年02月12日 | Weblog
一言書いておきたい。
足立区の事件。
父親が自分の母と妻を殺し、次男の両手を斧で。
この男の子のことを思うと涙が止まらなかった。
このおやじ、勘違いするんじゃないよ。
「お前たちを守れなかった」と遺書にあったらしい。
そうよ。なら、殺すなよ。
子どもも妻も母親も、あんたの所有物じゃない。
あんたがいなくたって生きていけるんだよ!
家長としての責任感?
それはあってもいいでしょう。
でも自分がいなければ家族は路頭に迷う、なんてことはない。
この手の言い換えをしている男は多い。
ほんとは妻や子どもがいないと不安でたまらない男。
しかし「ぼくは一人ではいられない」とは言えない。
彼の超自我がそれを許さない。
「さびしい」とか「弱虫」とか「甘ったれ」という言葉は、彼らの辞書から削除されているからだ。
そういう男たちに格好の物語がある。
妻や子どもは自分が守らなければならない。
妻も子も自分がいなければ生きていけないのだから。
この殺人犯(一家心中という言い方はやめようね)は、自分を守るために家族を殺傷したのだ。
これが真実。
なのに、皆さん優しすぎる。
お父さんが温和な人で几帳面な性格だった。
それはそれ。でも人を殺したらだめ。道連れもぜったいだめ。
彼は一人で死んでいくのがいやだっただけじゃないか。
どんな人も、最後はわが身がかわいい。
彼は家族を殺し遺書を書く段になっても、超自我の支配から逃れられなかった。
男は女を家族を守らなければならない。
男は強くあらねばならない。
最近の世の中も、どうやらこっちに傾いてきている。
いいですよ。
強い男になってください。
でもね、お願いだから死ぬときは一人で死んでください。
家族を道連れに自殺する男は、ぜ~んぜん男らしくありませんから。
一家心中の美談にしないでほしい。
もちろん私が涙したのは、ここまで生活に困っている人たちを、周りの誰も救えなかったのかという憤り。
次男は学校給食の費用が払えないからと、給食を食べていなかったという。
そのことに学校の先生は気づかなかったのか。
何とか手が打てたのではないか。
こちらへの怒りは、だけど二の次。
一番の怒りは、家族を殺した父親に対してだ。
独り言みたいな私の日記だけれど、少しは誰かに声を届けたい。
あなたがいなくても、子どもたちはちゃんと生きていけます。
生き抜いていきます。
だから、殺さないで。


評価のない世界

2008年02月12日 | Weblog
薪を割りながら思った。
見る・見られる、についてである。
最近の私がとてつもなく自由であるのは、このことと関係があるのではないか。
じつは、「見られる」対象であることを、意識的にやめたんだけどね。
ややこしい書き方だな。
こうも思う。
私、評価のまなざしから自由になったのよ、と。
多くの人が、他人と比較され評価される人生を生きている。
競わされ、その結果には当然評価がついてくる。
受験生の皆様然り。
サラリーマンも0Lさんもこのただなかにいる。
子育て中のママだって、例外ではない。
孫育ての婆さまにしても同じである。
私は私、とゴーイングマイウエイの人たちも、無関係ではないのよね。
他人に認められる。
社会的に承認される。
これを求めるのはごくごく自然なこと。
マズローという心理学者の五段階説は有名だ。(最終段階が自己実現だったっけ?)
それはともかく、人一倍「認められたい」欲求が強かった私が、なぜ?
ねえ。
片田舎に引っ込んでるせい?
まあ満たされたってことかな?
理由はともかく、私は「評価の視線」を拒否することにした。
そしたら、といもいい感じになった。
いつまでも女学生じゃあるまいし、「私をもっと認めて」とおねだりする気分は皆無だ。
白雪姫の継母のように、「私はあの人よりキレイ?」と鏡に問うこともない。
だって、比較する他人がいない。他人と自分を同じ鏡で見ない。
鏡っていうのは、言い換えれば「物差し」のこと。
世の中の物差しで見なくなったということなのか。

思えば、長いこと、世の中の物差しで自分をはかっていたなあ。
先日、「私、小学2年生の時、体育の通信簿が2だったのよ」と夫に言った。
すると夫は、大げさにのけぞって「えー、2というのは病気がちの人とかがもらうものだと思ってた」なんて言う。
し、しつれいな。
でもね、確かにこの「2」をいただいたときから、私は体育は苦手なのだと思い込んだ。
田舎の学校から町の学校へ転校してすぐだった。
長縄跳びが出来ず、父と母が庭で練習させてくれたことを思い出す。
あんなものは慣れれば出来るに決まっているのだが、経験がないから出来ない。
ほとんど登校を拒否した私は、母親の太い腕に引っ張られて教室に行った。
乱暴な母ではあったが、これでよかったと思っている。
長縄飛びが出来ないくらいで、また、ぽっぽちゃんという女の子が少し意地悪だというくらいで、学校を休んでいたんでは、どこへ行っても生きていけないよね。
あ、話が脱線しちゃった。
体育が2だった話に戻ります。
もちろん走ればビリかビリ2だし、ボールは投げても飛ばない。
全体に能力が低いことは間違いない。
ほんの小さい頃は家の中で本ばかり読んでいた。
しかし小学生ともなるとけっこう行動派で、ニッキ掘りの探検隊なんて思い出もある。
お転婆の素養はちゃんとあったのだ。
しかし内弁慶でどうしようもない娘だった。
年をとるにつれ、私はぐんぐんお転婆になっている。
体育の評価とお転婆とは別物なのだよ。
薪割りをしながら「おっ!これは剣術じゃないの」と気づく。
女だてらに剣を持ち…という人生にならなかったのが不思議ね。
いえいえ不思議でも何でもない。
これまで生きてこなかった「影」の部分が、目覚めたのだ。
そう、これはユングですね。
評価の視線にさらされ過ぎた私が、評価のない世界に住んでいる。
身体を動かさず、頭でっかちだった私が、毎日薪割りに精を出す。
そう、これがじつに快感なのだ。
腰に負担がかかるので、限度は自ずとあるけれど。
薪割りはスポーツでも何でもない。
だから一等とかビリとか関係ない。
上手とか下手とかは、自分の中にだけ存在する。
丸太に節があるかないか、木の種類によって、斧の切れ味が変わる。
やればやるほど、技術は確実に上達する。
それを自分で満足しているだけ。
これだけだ。
それが何か?

他人と比較する視線は、欲望を生む。
欲望とは、まあ「意欲」と言い換えてもいいけど。
その意欲で、人は頑張る。
しかし競い合いが過ぎると、ストレス過多になる。
ほんと、過ぎたるは及ばざるがごとし。

他者の視線を物差しに、頑張ってきたんだなあ、私。
誰が何と言おうと、どう見ようと、いいじゃない。
そんな気分の昨日今日。
なかなかいいでしょ?

成田離婚!?

2008年02月11日 | Weblog
世の中は三連休。
されど私はずーっとお休みなので…。
ニュージーランドの現地ガイドさんが羨ましがってた。
羨ましがられると、うーん。
諸手上げてバンザイの「お休み」とは、ちと違うのよね。
とは言え、毎日おまんま食べるためにせっせと働いている人から見れば、「いいなあ」のご身分なのだろう。
働ける幸せ。
働く場のある幸せ。
…なんてことをしつこく考えてた私。
しかし今は、「ここ」こそ働く場である、と思い直したところだ。
お金を得る仕事だけを「仕事」と思うと、うまくいかない。
ならば発想を変えよう。
目の前のこの男の切なる要請に応えて、そばにいようではないか。
それも一つの仕事と心得て。
ご飯をあれこれ作り、掃除機を引っ張り回し、洗濯機をガンガン回す。
最近は薪も割る。
嫌味を言いたい御仁には、それって小間使いの仕事じゃありません?
とかなんとか言われそうだ。
しかも無給の。
アンペイドワークとか名前もついている。
まあね、その通りでもありますが、大きな違いがあることにお気づき?
誰かに働かされているのではなく、自ら進んで働くところに、その違いはあるのですよ。

そうそう、旅行中の夫婦喧嘩について書くと言いながら忘れていました。
時間もないので要約いたします。
一言で言うと、主導権争いですね。
夫は何もかも自分で把握していないと不安なひとです。
航空券の往復チケット、ホテルのバウチャーなど、必要な書類はすべて自分で持ちました(さすがに小銭とパスポートは私の手にありましたが)。
ところがクライストチャーチに着いて一時間も経たないのに、書類などの入ったブリーフケースごと空港の両替所に忘れてきてしまったのです。
いざタクシーでUターン。
何とか見つかりましたが、それでも彼は主導権を手放さない。
バスに乗るために時間を気にする私に「そうあくせくするなよ」とにこにこ顔。
笑顔で言われては口出しも出来ず、遠慮がちについて歩いておりました。
時間など気にせずのんびり行こうよ、ということですからね。
さて夕刻を過ぎ、ホテルへのシャトルバスを待ちます。
彼が言う時間を信じて。(確認したいのは山々なれど、時刻表は彼の手に)
ところが待てど暮らせどバスは来ず。
寒くなりました。
あちらの夏は、日が暮れるのは夜の10時だし、夕方はとても冷え込みます。
う~、さむ。
あまりの寒さに、意を決して言いました。
「あなたの言った時間は間違っていない?」とは言えないので、
ホテルに確認してみない?私の携帯に番号登録してあるから。
と携帯電話を渡しました。(こういう時に役に立ったドコモの携帯!)
彼は先方と何やらぺらぺら。
おう、やっぱり!
あと45分待たなければならないようです。
と、突然夫がキレました。
「あんたのせいだ。あんたが間違った時間を言うから!」と激昂。
それを聞いた途端、私もキレました。
な、なにをおっしゃる!
さんざん主導権を握っていながら、いざというときには「あんたのせい」。
そりゃないでしょう。
頭に来たら私の血流は猛スピードになります。
このひと、強引に妻を自分のそばに縛り付けといてうまくいかなくなるとすべて妻が悪い、と言うひとなのかしら。
一気に加速して、ああ成田離婚、いえ関空離婚だわ。
もうプンプンのプンです。
じつは、どちらが間違っていたか、真相は闇の中です。
今思えば、主導権と同時に責任も一人で背負っていた夫に、ストレスがかかっていたのでしょう。
似たような夫婦喧嘩を翌々日目撃しましたもん。
そちらは奥方が主導権を握り、大人しい夫さんが叱られていましたけど。

このケンカを機に、私は自らも主導権を持とうと決めました。
相手に任せていて、最後に「あんたのせい」にされるのはかなわない。
それを言われるくらいなら、多少の摩擦はあっても主導権争いをしようとね。
私だってね、時間の管理くらいできるのよ。
それに、夫を振り切って片言の英語で交渉もいたしました。
できるもんですよ。
表情と手真似足真似、あとアイコンタクト。
私の表現力もなかなかのものだと、自信を深めましたよ。
そんなこんなの小競り合いを繰り返しながら、もちろん譲り合いも重ねて、円満に旅を終えたのでした。

朝刊に角田光代さんが書いていたのですが、旅慣れたツーリストの話。
奇妙きてれつな風景を見て、「これは長野に似ている」「これは北海道のあそこみたい」と口々に言い合う恒例の旅行者たちを見たそうです。モンゴルで。
これと似たような感じを、私も目撃しました。
大きな赤い花を見て、そのインパクトの強さに私はびっくり仰天。
わあ、すごい!とかなんとか興奮しました。
そしたら傍らの奥さまが、「これはねキムジョンイルが大好きな花なのよ。名古屋の近くにこの花がたくさん咲いているところがあったわ」と、口を挟むのです。
豆知識は良いのですが、私は単純に「わあ」と言っているわけで、この花を見にそこへ行きたいとかの話ではないのです。
そんな感じで、クライストチャーチのお庭巡りをしたのですが。
どうも、自分の何かをひけらかしたい風の方でねえ。
来週はお友達とドバイなの、とおっしゃる。
へえ、すごいですねえ。私は感心するばかり。
今回同行のご主人は、ドバイは留守番なんだそうです。
いいなあ。ほら、よその奥さまはこのように旦那を置いてドバイですって。
夫を攻める格好の材料にはなりましたが。
このような旅行者が、おそらく増えているのでしょう。
とにかく数をこなしていらっしゃる。
自分はあそこに行った、あれも見た。
これってね、気の毒ですね。
感動が私より格段に少ないんだもの。
はじめての海外旅行の私は、何を見ても感動感動。
この幸福感は、負け惜しみではありません(たぶん)。
角田さんは、私が今回の旅で味わったような「子どもの心」を持ち続けたいものだ、と書いておられました。
日本人はお金持ちになったのですが、上には上がいるので「お金を持っています」の自慢比べみたいなところも見えましたね。
旅に出ると、そんな比較をしてしまうのでしょう。
あの高級ホテルに長逗留してリッチな方なんです、とかね。
おかげさまで、私はまったく違う次元にいる感じだったので、ありがたかったですね。
それもこれも、夫さんが「お仕着せのツアーはいやだ」と言ったことに始まります。
(そういえばわが家を建てるときも、同じような経緯を辿りました。建て売りはもちろんハウスメーカーの企画ものも嫌い、何と私がテキトーに設計したものを大工さんに頼んだのです。床板も照明器具もネットの通販で購入しましたから、それは手間ひまかかりました。安く上がったのでしょうけど)
パッケージものを嫌う旦那さん、いやなかなかのもんです。

話が終わりません。
そろそろ正午になりますのでおしまい。
いいお天気。春みたいな陽光ですよ。


不寛容な人々

2008年02月08日 | Weblog
倖田来未バッシングに、かなり違和感をおぼえます。
今朝も、夫相手に口角泡を飛ばしたのですが…。
あれですね。
柳澤大臣の「女は子どもを産む機械」発言とつながりますね。
女は結婚して子どもを産むものである、と誰が決めたのでしょ。
結婚しない女もいていいし、子どもを産まない女もいていいじゃない。
若い女性たちの間では、結婚して子どもを産む人たちを勝ち組とでも言っているのかしら。
女性誌の類を全く見ないので分かりませんが。
あまりに過剰でヒステリックな反応だと感じます。
この反応に、35歳過ぎて子どもを産む人や子どもを産めないで悩んでいる人たちは、はたして被害者なのだろうかと思います。
子どもが欲しい。でも出来ない。
子どもが出来る出来ないは、自分の意思でコントロールできることではないですね。
台風や地震と同じところに本来あるはずです。
そう「自然の営み」。
欲しいと思ったら何が何でも手に入れると思わない方がいいと思うんですけど。
女は子どもを産む機械ではないんですからね。
いろんな生き方があっていいでしょ。

この問題でもう一つの側面はメディアの言葉狩り。
メディアの片隅で仕事をしていたころ、ある種の言葉は使ってはならないと厳しく定められていました。いわゆる放送禁止用語ですね。
ちょっとでもひっかかると、その団体から突き上げが来ます。
連載が即刻中止になったこともありました。
その種の団体に、女、結婚しない女、子どもを産まない女も含まれるようになるのかしら。
いえいえ、それだけではない。
格差社会と言われる世の中で、自分は不遇だと思っている人たちの数だけ、その種の禁止用語が増えていくのかも、と思ったのです。
ネット社会が呑み込んでいる「憎悪」「嫉妬」は、かたちを変えて次々とマスコミを襲うでしょうね。
マスコミの側はとても神経質に言葉を選ぶようになり、「目の不自由な人」「足の不自由な人」といった不自然な言い換えが広がっていく。
「情報の送り手」として長年君臨してきたマスコミ。
情報の送り手の力、影響力は恐ろしいものがあります。
ネット社会は、その権力に対抗し、警鐘を鳴らす役割であるところもあるのですが。
既得権!
そう、これを奪われまいとする大マスコミ(テレビですね)と、いざ奪わんとするネット社会の攻防。
こう見ることも出来ますね。

でもねえ…。
世の中がとても懲罰的になっていると感じます。
不寛容な人々。
これでいいじゃん、と生きている人間を嘲笑う風潮がありませんか。
誰かを貶めることで自分のプライドを保とうとしている人が多くありませんか。

ね。
そんなことを感じた朝でした。
私はというと、毎日薪割りに大忙しです。
近隣の人が、伐採した木をトラックで運んでくれたのです。
あるわあるわ。
割っても割っても、まだまだです。
おかげで退屈知らず。
少しずつ要領をおぼえますね。
夫は、そんなに薪割りが気に入るとは…と驚いています。
私はこれでなくて、あれが欲しいの!
という生き方をやめただけですけどね。
今ある状況を大いに楽しもうと思っています。
何でも、いやいややるより楽しまなくちゃ。