昨日は、日曜日。
夫はばらの集まりなので、一人で教会に行った。
夫と一緒に行くのとはかなり違う気分だった。
夫婦として行くと、牧師さんのすすめに従って前の席へ行くのも、夫の意向を確かめないわけにはいかない。
ほんとは私ひとりで行きたかったのだと思う。
ほんとのところを、私がなぜ教会に来たかについて、話したいのだと思う。
もちろん話さない。夫がいやがるから。
ともあれ昨日は、素直にすすめられるまま前から3列目の席に座った。
賛美歌を歌い、聖書を読み、お説教を聞く。
20歳前後に、「神は死んだ」と言ったニーチェやカミュを読みふけった私。
神様がここにおられます、なんて話をにわかに受け入れるのは難しい。
言葉で表されるものに、なかなかそうだと頷けない。
この教会に、過去二度、夫とともに出かけた。
夫は私以上に言葉にひっかかった。
賛美歌の歌詞ひとつひとつを考えていると歌えない、と言う。
昨日の私は、牧師の言葉を音楽のように聞いてみた。
言葉として左脳で聞くのでなく、音として、響きとして聞く。
そうするとすとんと身体に入ってくる。
なんとも心が洗われる。
これを素直に?神が降りてきた、と感じたときが、入信のとき、らしい。
私にそんなときが訪れるかどうかわからない。
現時点では、それはある種の憑依じゃないかと思っている。
あるいは集団ヒステリーでは、とか言ってみる。
小賢しい女だね。
そんな目で教会にいてもつまらないので、言葉を聞くことを放棄してみたのだ。
これは心地いい。
少なくとも、わけのわからぬ夫にマインドコントロールされるよりは、安全な気がする。
そう、私が神を求めたのは、理解不能の夫とそれに囚われている私を包摂する物語が必要だと思ったからだ。
私vs夫。
いつも二項対立。
しかも私には相手は現実検討能力にやや難ありと見える。
相手は同じく、私が変だと思っている。
よって、二者の対立はエンドレス。
互いが互いを裁く構図が、常に生まれる。
これはたまらない。
私もあなたもおかしい人。それでもいいと第三者の審級(突然浮かんできた小難しい言葉だけど、意味はあっているかなあ)を求める。
よくわからないけど、こんな小難しい言葉で夫とおしゃべりするのはやめよう。
理屈っぽい話はここだけ。
ここで私はその種の煙突掃除をする。
突然だけど、「言語化」って何?
ま、そのようなことをしないではいられない私がいるのも確かなの。
だから書くんだと思う。
ところが、理屈ってのは、とても防衛的なものなので、じつはもっと深いところで動いている感情に蓋をしている場合が多い。
今度の「事件」ではつくづく思った。
防衛的な言葉が空回りしていると。
空中分解しそうなほど。
感情というのは、言葉でやすやすとすくいきれるものではない。
どうしても納得できないモヤモヤを抱えて、私が神より先に求めたのは「短歌」だった。
夫の作り上げた物語(これはこれで彼にとって必要なものだったろうが)にどうしても納得できない。
その枠組みに納得すれば、そこはらはみ出した感情が暴れ出す。
この得体の知れないものを、毒々しい言葉で相手にぶつけるのはよそう。
できたらそれを昇華しよう。
そうだ短歌をやろう、と思った。
で、カルチャー教室の門を叩いた。
わき上がってきた感情に垂れ流しの言葉を乗っけるのをやめたわけ。
ああでもないこうでもないと、言葉を選ぶ。
伝えたいことは、ある。
当然第三者の目に触れる(リアルに)のだ、軽々しいことはしない。
暗喩を使う。
自分にだけわかるのでもいい。
誰ががちょっと感じてくれたら嬉しい。
これはこれで私を少し元気にした。
しかし、「事件」への囚われから逃れられたわけではない。
いつまでも古傷を眺めて酒をちびちびやってるやさぐれみたい。
なかなか「昇華」とはいかない。
そこで「言葉」への囚われから一気に脱出しようとしたのか。
自分でもよくわからない。
分からないことは分からないでいい、そう思った。
とにかくくだびれた。
繰り返し繰り返し「事件」の、それも夫の気持ちをなぞる作業。
これはいわゆる「嫉妬」というやつですね。
しつこい、ほんと、しつこい。
これを言葉でなぞることにくたびれた。
教会で牧師の話を「言葉」として聞くのでなく、音として、響きとして聞く。
こう先ほど書いた。
感動というのは、深いところからわき上がってくる。
辻井くんのピアノを聞いて泣いた、と母が言う。
ガンの再発かと不安に苛まれているときだ。
そしたら今朝、夫が辻井くんのピアノを聞いてぐしゅぐしゅに泣いた。
「ロックフェラーの天使の羽根」を聞きながら。
どんな思いがよぎっての涙だったのかは、分からない。
妻がいくら話しても自分の言葉を完全には信じてくれない、との悲しみか。
そうなのだ。
彼は自分の話していることが真実だ、ちゃんと耳を傾けてくれ、と言っている。
たぶん今の彼の真実なのだろう。
ところが私は「事件」の過去に居着いている。
そう病んでいるので、その場所から離れられない。
病んでいるついでに、ここで一つ記録しておくけれど、
彼は、自分の行動を合理化するためにほとんど自動的に「彼(彼女)は自分の気持ちがわかっている」と思い込む。
これは癖というかビョーキと言っていいレベルである。
誰に訴えてもなかなか分かってもらえないけれど。
例えば、彼は前妻と離婚したいという気持ちを持っていた。それで私とつきあっていた。ある日、娘の結納を終えて、駅のホームで別れるとき、娘と目が合った。娘には自分の気持ちがわかっている、と彼は確信した。そう私に伝えた。ところが後日、実際に離婚の話になったとき、一番怒ったのは娘だった。
このように非常に自分に都合よく他人の気持ちを曲解する傾向がある。
自分と他人との境界があやしいところがある。
先日私のジーンズがセクシー(笑い)だと怒ったときは、私の息子も同じ気持ちだったと思うよ、と言っていた。
自分の感覚を補強するために他人を巻き込んでいるのか。
今回の「事件」の相手にたいしても、彼は自分の気持ち、すなわち妻の冷たさ、きつさに対する不満が、彼女は当然分かってくれている、とどこかで確信したのだろう。
だからああいった唐突に「会いましょうか」なんて電話になった。
妻が母親の入院の付き添いに行っている間に彼女と会うことが、どういうことなのか考えることもなく?
彼女が驚くのは当たり前だ。
私を通しての知りあいではあるけれど、一度か二度電話で話しただけの相手である。
どういうつもり?と思うのが自然だ。
それが可能だと思った彼の、現実誤認。
彼女のしぐさ、あるいは視線を、手前勝手に「自分の気持ちをわかってくれている」と思い込んでの行動だったろう。
しか彼がこの事実誤認をみとめることは永遠にないだろう。
ある種のビョーキだと私が言う所以である。
私もそこにへばりついていることにおいては、ビョーキだけどさ。
彼は自分の言動を正当化するために、他人の気持ちまで自分のペンで描いてしまう。
ひとり妄想している分にはいいのだが、それを実際に行動に移すと、迷惑を受ける人が出てくる。
今回の事件では、彼女と私。
私はこういう人とこれから先暮らしていくわけだ。
またいつ事実誤認によるトラブルが起きるかもしれない。
そのときのための記録なの。
それはともかく、今日の結論。
彼の言葉、私に言わせれば「きれいな嘘」を言葉として聞くのではなく、音楽のようにハートで聞く。
彼の「現在」が言わせている言葉ということでは、真実なのだろうから。
「現実」、ただいまの、彼の感情が、そう言わせている。
だとすれば、いいではないか。
今の彼を信じることはなんとか出来るのだから。
過去のある時点での彼の行動が、彼の言葉通りだとは思えないというだけの話だから。
彼は思った以上に気が小さい。
私が冷たいとかきついということもある。
人に嫌われることを極度に怖がる人である。
もしかしたら、冷たく拒否的な妻を嫌っていたのかもしれない。
単純に考えると、よくある男の話になるけどね。
まあ、もういいわ。
私もじつは今年の1月には、かつて好きだった部分がいやになることもある、なんて日記に書いている。
お互いだったのかもね。
ただ彼のほうが追いつめられていた。
孤独感はひとしおだったろう。
私に振り向いて欲しかった、という彼の言葉も全くの嘘ではないだろう。
というわけで、私は「今」の彼の言葉を、ハートで聞くことにする。
ハートにじんとくるよ、あなた。
まったく。
夫はばらの集まりなので、一人で教会に行った。
夫と一緒に行くのとはかなり違う気分だった。
夫婦として行くと、牧師さんのすすめに従って前の席へ行くのも、夫の意向を確かめないわけにはいかない。
ほんとは私ひとりで行きたかったのだと思う。
ほんとのところを、私がなぜ教会に来たかについて、話したいのだと思う。
もちろん話さない。夫がいやがるから。
ともあれ昨日は、素直にすすめられるまま前から3列目の席に座った。
賛美歌を歌い、聖書を読み、お説教を聞く。
20歳前後に、「神は死んだ」と言ったニーチェやカミュを読みふけった私。
神様がここにおられます、なんて話をにわかに受け入れるのは難しい。
言葉で表されるものに、なかなかそうだと頷けない。
この教会に、過去二度、夫とともに出かけた。
夫は私以上に言葉にひっかかった。
賛美歌の歌詞ひとつひとつを考えていると歌えない、と言う。
昨日の私は、牧師の言葉を音楽のように聞いてみた。
言葉として左脳で聞くのでなく、音として、響きとして聞く。
そうするとすとんと身体に入ってくる。
なんとも心が洗われる。
これを素直に?神が降りてきた、と感じたときが、入信のとき、らしい。
私にそんなときが訪れるかどうかわからない。
現時点では、それはある種の憑依じゃないかと思っている。
あるいは集団ヒステリーでは、とか言ってみる。
小賢しい女だね。
そんな目で教会にいてもつまらないので、言葉を聞くことを放棄してみたのだ。
これは心地いい。
少なくとも、わけのわからぬ夫にマインドコントロールされるよりは、安全な気がする。
そう、私が神を求めたのは、理解不能の夫とそれに囚われている私を包摂する物語が必要だと思ったからだ。
私vs夫。
いつも二項対立。
しかも私には相手は現実検討能力にやや難ありと見える。
相手は同じく、私が変だと思っている。
よって、二者の対立はエンドレス。
互いが互いを裁く構図が、常に生まれる。
これはたまらない。
私もあなたもおかしい人。それでもいいと第三者の審級(突然浮かんできた小難しい言葉だけど、意味はあっているかなあ)を求める。
よくわからないけど、こんな小難しい言葉で夫とおしゃべりするのはやめよう。
理屈っぽい話はここだけ。
ここで私はその種の煙突掃除をする。
突然だけど、「言語化」って何?
ま、そのようなことをしないではいられない私がいるのも確かなの。
だから書くんだと思う。
ところが、理屈ってのは、とても防衛的なものなので、じつはもっと深いところで動いている感情に蓋をしている場合が多い。
今度の「事件」ではつくづく思った。
防衛的な言葉が空回りしていると。
空中分解しそうなほど。
感情というのは、言葉でやすやすとすくいきれるものではない。
どうしても納得できないモヤモヤを抱えて、私が神より先に求めたのは「短歌」だった。
夫の作り上げた物語(これはこれで彼にとって必要なものだったろうが)にどうしても納得できない。
その枠組みに納得すれば、そこはらはみ出した感情が暴れ出す。
この得体の知れないものを、毒々しい言葉で相手にぶつけるのはよそう。
できたらそれを昇華しよう。
そうだ短歌をやろう、と思った。
で、カルチャー教室の門を叩いた。
わき上がってきた感情に垂れ流しの言葉を乗っけるのをやめたわけ。
ああでもないこうでもないと、言葉を選ぶ。
伝えたいことは、ある。
当然第三者の目に触れる(リアルに)のだ、軽々しいことはしない。
暗喩を使う。
自分にだけわかるのでもいい。
誰ががちょっと感じてくれたら嬉しい。
これはこれで私を少し元気にした。
しかし、「事件」への囚われから逃れられたわけではない。
いつまでも古傷を眺めて酒をちびちびやってるやさぐれみたい。
なかなか「昇華」とはいかない。
そこで「言葉」への囚われから一気に脱出しようとしたのか。
自分でもよくわからない。
分からないことは分からないでいい、そう思った。
とにかくくだびれた。
繰り返し繰り返し「事件」の、それも夫の気持ちをなぞる作業。
これはいわゆる「嫉妬」というやつですね。
しつこい、ほんと、しつこい。
これを言葉でなぞることにくたびれた。
教会で牧師の話を「言葉」として聞くのでなく、音として、響きとして聞く。
こう先ほど書いた。
感動というのは、深いところからわき上がってくる。
辻井くんのピアノを聞いて泣いた、と母が言う。
ガンの再発かと不安に苛まれているときだ。
そしたら今朝、夫が辻井くんのピアノを聞いてぐしゅぐしゅに泣いた。
「ロックフェラーの天使の羽根」を聞きながら。
どんな思いがよぎっての涙だったのかは、分からない。
妻がいくら話しても自分の言葉を完全には信じてくれない、との悲しみか。
そうなのだ。
彼は自分の話していることが真実だ、ちゃんと耳を傾けてくれ、と言っている。
たぶん今の彼の真実なのだろう。
ところが私は「事件」の過去に居着いている。
そう病んでいるので、その場所から離れられない。
病んでいるついでに、ここで一つ記録しておくけれど、
彼は、自分の行動を合理化するためにほとんど自動的に「彼(彼女)は自分の気持ちがわかっている」と思い込む。
これは癖というかビョーキと言っていいレベルである。
誰に訴えてもなかなか分かってもらえないけれど。
例えば、彼は前妻と離婚したいという気持ちを持っていた。それで私とつきあっていた。ある日、娘の結納を終えて、駅のホームで別れるとき、娘と目が合った。娘には自分の気持ちがわかっている、と彼は確信した。そう私に伝えた。ところが後日、実際に離婚の話になったとき、一番怒ったのは娘だった。
このように非常に自分に都合よく他人の気持ちを曲解する傾向がある。
自分と他人との境界があやしいところがある。
先日私のジーンズがセクシー(笑い)だと怒ったときは、私の息子も同じ気持ちだったと思うよ、と言っていた。
自分の感覚を補強するために他人を巻き込んでいるのか。
今回の「事件」の相手にたいしても、彼は自分の気持ち、すなわち妻の冷たさ、きつさに対する不満が、彼女は当然分かってくれている、とどこかで確信したのだろう。
だからああいった唐突に「会いましょうか」なんて電話になった。
妻が母親の入院の付き添いに行っている間に彼女と会うことが、どういうことなのか考えることもなく?
彼女が驚くのは当たり前だ。
私を通しての知りあいではあるけれど、一度か二度電話で話しただけの相手である。
どういうつもり?と思うのが自然だ。
それが可能だと思った彼の、現実誤認。
彼女のしぐさ、あるいは視線を、手前勝手に「自分の気持ちをわかってくれている」と思い込んでの行動だったろう。
しか彼がこの事実誤認をみとめることは永遠にないだろう。
ある種のビョーキだと私が言う所以である。
私もそこにへばりついていることにおいては、ビョーキだけどさ。
彼は自分の言動を正当化するために、他人の気持ちまで自分のペンで描いてしまう。
ひとり妄想している分にはいいのだが、それを実際に行動に移すと、迷惑を受ける人が出てくる。
今回の事件では、彼女と私。
私はこういう人とこれから先暮らしていくわけだ。
またいつ事実誤認によるトラブルが起きるかもしれない。
そのときのための記録なの。
それはともかく、今日の結論。
彼の言葉、私に言わせれば「きれいな嘘」を言葉として聞くのではなく、音楽のようにハートで聞く。
彼の「現在」が言わせている言葉ということでは、真実なのだろうから。
「現実」、ただいまの、彼の感情が、そう言わせている。
だとすれば、いいではないか。
今の彼を信じることはなんとか出来るのだから。
過去のある時点での彼の行動が、彼の言葉通りだとは思えないというだけの話だから。
彼は思った以上に気が小さい。
私が冷たいとかきついということもある。
人に嫌われることを極度に怖がる人である。
もしかしたら、冷たく拒否的な妻を嫌っていたのかもしれない。
単純に考えると、よくある男の話になるけどね。
まあ、もういいわ。
私もじつは今年の1月には、かつて好きだった部分がいやになることもある、なんて日記に書いている。
お互いだったのかもね。
ただ彼のほうが追いつめられていた。
孤独感はひとしおだったろう。
私に振り向いて欲しかった、という彼の言葉も全くの嘘ではないだろう。
というわけで、私は「今」の彼の言葉を、ハートで聞くことにする。
ハートにじんとくるよ、あなた。
まったく。





