単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい――誰もが無頼派と呼んで怪しまぬ安吾は、誰よりも冷徹に時代をねめつけ、誰よりも自由に歴史を嗤い、そして誰よりも言葉について文学について疑い続けた作家だった。どうしても書かねばならぬことを、ただその必要にのみ応じて書きつくすという強靱な意志の軌跡を、新たな視点と詳細な年譜によって辿る決定版評論集。
出版社:新潮社(新潮文庫)
僕は安吾の人生を大して知らないし、彼が鬱になったとき、どんな苦悩を抱えていたかということも知らない。
だが、少なくともこれらの評論集を読む限り、坂口安吾という作家は人間というものを信頼し、それを中心に据えて物事を考えていたのだな、と感じる。
たとえば、『FARCEに就て』。
安吾はその中で、自然描写そのものではなく、その描写の中に混じる人間の空想を賞賛し、その空想を含めた人間の全的存在を褒め称えている。
それを記す安吾の文章は実に冴えている。
安吾は一つの作品の中から、人間の心というものを読み取ろうとしているのだろう。
それこそ彼なりの人生賛歌と僕には映る。
同じことは『特攻隊に捧ぐ』にも言える。
彼は特攻隊が死の直前に抱えたであろう葛藤を推察し、その姿を徹底的に賛美している。
それはイデオロギーを越えた、人間に対する愛や信頼を見るようだ。
もちろん、その思想を突き詰めると『日本文化私観』のように、人間の必要性から生まれるものにのみ、美を見出し、法隆寺は焼けてしまって一向に困らぬ、という挑発的な極論にもなる。
彼の思想は、見ようによっては実に危険だ。
しかしその危うさの中に、人間に対する極限の信頼を見るようで、逆に胸を熱くしてならない。
安吾がそんな風に、人間に対して極限の信頼を寄せるのは、解説の言葉を借りるなら、人生というものに対して絶対的に肯定しているからなのだろう。
その趣向を端的に示すのが『教祖の文学』ではないだろうか。
「人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。(略)自分の一生をこしらえて行くのだ」という文章はすばらしいし、胸がすく思いだ。
また人間が孤独なのは決まっていると語りながら、それでも人生を生きていかねばならない、と語るパワフルな言葉は読んでいてもすがすがしい。
そしてそこからは、人生においてのっぴきならない状況に陥る人間の姿を、文学という形に昇華しようと誓う安吾の姿勢が見えてくるのだ。
その心意気に。強く胸を打たれる。
もちろん、安吾の文章には論理の飛躍がかなり見られる。
たとえば『文学のふるさと』。
この中で安吾は、むごたらしいことが、唯一の救いだ、と語っている。その言葉自体は心に響くのだが、それはなぜかという、理由に関してはこれっぽちも記されていない。
あるいは『堕落論』。
ここでは、人間の堕落を容認し、それを見すえた上で、新たな価値を創造していこうというニュアンスのことを言っている。それには、個人的に大いにうなずくところがあるけれど、論旨は幾分抽象的だ。
だが、論理的とは言いかねるのに、変に納得させられてしまうパワーが安吾作品には漂っている。
そしてそれこそが、坂口安吾という作家の魅力に他ならないのだろう。
評価:★★★★(満点は★★★★★)