ぶっちのお念仏生活

いかされていきる

あゆみ

2012-03-31 21:58:30 | インポート

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし等

私は北海道教区、札幌組、福住寺様にお世話になっております岩淵幸治と申します。農業を営む農家に生まれ、仕事に励む祖父母や両親を見ながら田畑に囲まれたのどかな環境で育ちました。高校を卒業と同時に農業に従事し、稲作を中心に、スイカやメロンの作付に精を出しておりました。その後結婚し、2人の娘に恵まれました。今から10年ほど前、二番目の娘に発達障害があることが分かりました。「なぜ、どうして自分の娘が」という思いがあり、「何が原因はでそうなったのか」と、我が子の障害を受け入れることができず、原因を突き止めなくてはならないと右往左往しました。

子供なんて放っておけば育つと勝手な思いを持っていましたし、仕事が大事、お金第一、儲けて生活を良くすることが一番だと思っていましたので、子供のことを省みることが少なかったのかも知れません。それは自分にとって思いもかけない衝撃的なことでしたので、いろいろ考えた末に、農業を離れ、娘の療育に必要な施設の整った町へ移り住みました。

30歳過ぎてからの転職に不安はありましたけれど、葬儀関係の仕事に就職することができました。毎日のように行われるお通夜お葬儀に、こんなに多くの人が亡くなるものなのか。と思う一方で、人の死にふれ、命を考える機会をいただいたように思います。時間のある時には、娘の通う療育施設へ行き、様々な障害をかかえた子供達とふれあい、その光景に暖かいものを感じました。歌や踊り、身体機能の訓練など、そこでは子供たちが精一杯に命を輝かす姿がありました。

しかしながら、その反面、私の心の中には、他の子供と比較する気持ちがあり「娘の障害はあの子よりもまだましなほうだな」とか、大変な思いをしている子供達を目の当たりにして、正直に言いますと「自分にそういう障害がなくてよかった」と、優れている、劣っているなどと優劣をつけて安心したり、能力が劣っている子供たちを見下すような、どうしようもない思いが自分の中にあることに気付きました。その後、様々な縁が整い、浄土真宗の教えに出遇わせていただきました。

今年12歳になる、自閉症の娘は言葉が出ませんのでお念仏を称えることはできません。しかも、待つことがとても苦手なものですから、阿弥陀様の前に黙って座って合掌礼拝することもできません。さらに、お念仏が聞こえたかと聞いても答えてくれません。そんな娘は浄土に往生できるのでしょうか。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人がお敬いされた中国の高僧、善導大師様が「二河白道の譬え」によって、次のように教えてくださいます。人生は旅だと言われますが、旅人が西へ向かって行こうとした時に、目の前に行く先をふさぐ河が現れました。南側には荒れ狂う火の河が、北側には同じように水の河があり、その河は無限に続いています。その火の河と水の河の中間には、幅わずか四、五寸、約15センチ、人が一人やっと通れるような細くて白い道が、東から向こう側の西へとつながっています。それは長さ百歩くらいの道で、絶えず炎と水が襲いかかり、とても渡れそうにありません。しかも、振り向いてみると猛獣が追いかけてきて、すぐそこまで迫ってきているのです。西へ進めば火の河か水の河に飲み込まれ落ちてしまいそうですし、立ち止まっていても猛獣に命を取られることになってしまいます。

そんな時、東の岸から「行きなさい」という、お釈迦様の励ましが聞こえ、西の岸からは「私を信じて来なさい」という呼び招く阿弥陀様の声が聞こえてきました。そして、旅人は、ためらうことなく一筋の道を歩んで往くものでした。このたとえは、東の岸を、悩み、苦しみ、欲望のままに生き、いつかは空しく終えてしまう私達の迷いの世界としてあらわされています。このような世界から荒れ狂う煩悩を越えて到達するのが、阿弥陀様の世界、お浄土という西の岸です。欲望にまみれ悩み苦しむ迷いの人生を送る私達に「二河白道の譬え」は歩むべき道を教えて下さいます。

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

親鸞聖人がお示しくださったこのご和讃は、阿弥陀様のご本願のはたらきに出遇うことができたならば、空しい人生を送ることはない。南無阿弥陀仏のはたらきは、宝の海のように満ち溢れていて、煩悩という濁水を抱えようとも、それは浄土に生まれ仏様に成ることの妨げにはならない。と示されました。

阿弥陀様のはたらきは能力が有るから無いからといっていのちを区別するとは聞いておりません。お念仏を称える能力の無い娘が浄土へ往生できるのか、できないのか、もしも出来るとわかっても、「本当だろうか」と疑いを持ち、出来ないとわかったとしても、自分にはどうすることもできない。どちらにしても迷いが深まるばかりで何の解決にもならないのです。疑いを持ち、儲けたとか損したとか、優れているとか劣っているとか、有るとか無いということにこだわり続ける煩悩まみれのこの私を阿弥陀様は心配してくださっているのでしょう。娘がこの世に生まれ、空しい人生を送っていたかもしれない私に、都合の良いことも悪いことも、その事実から逃げずに受け止められるようお育てをいただきました。それは娘の問題ではなくて、私自身の問題であったのだと気付かせるものでした。阿弥陀様の方から私に届けられている功徳、宝の海のように満ち溢れているいのちのはたらきは、煩悩にまみれているこの私をお包みくださっています。いつでも、どこにいても、どのような状況になろうとも、支えて下さっている阿弥陀様のご心配の中に生かされ、穏やかな心をいただき、充実した人生を送らせていただいております。

今ここで私にはたらいてくださっている、阿弥陀様のはたらきに感謝を申し上げます。


車のキー

2012-03-29 21:19:38 | インポート

車のキーについているドアの開け閉めボタンが使いすぎたせいか、穴が開いてしまった。

修理に出そうかと思いましたが、ちょっとまてよ・・・。

岩淵工務店の出番です。

穴の開いたところに、ちょうどいいくらいのビーズを一つ入れてビニールテープを貼り付け抑えて・・・。

またしばらくは大丈夫なようです。

私の特技は、ある程度の壊れものなら、なんとか修理して直します。


布教使課程Cコース

2012-03-28 23:24:59 | インポート

布教使課程Cコースに挑戦するご縁をいただきました。

100日間伝道院にて勉強する布教使課程Aコースを受けられている方でも厳しい難しい状況であるのに、

そうは簡単にいくはずありません。非常に困難な挑戦であると思っています。

しかし、何かの目標を掲げ、そこに至るまでの道筋、学びが大切だと思いますので・・・・。

結果はどうであれ、学びを大切にしたいと思っています。

そのプレッシャーが心地いい。私は変人かも・・・・。


お話

2012-03-27 23:03:21 | インポート

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし等 「高僧和讃 親鸞聖人」

私は北海道教区、札幌組、福住寺の衆徒、岩淵幸治と申します。農業を営む農家の長男として生まれ、一生懸命働く祖父母や両親を見ながら田畑に囲まれた環境で育ちました。高校を卒業と同時に規模拡大されてきた農業に従事し、稲作を中心に、スイカやメロンの作付に精を出しておりました。その後結婚し、2人の娘に恵まれました。

あるとき、二番目の娘に知的障害があることが分かりました。「どうして私の娘が」という思いがありました。子供なんて放っておけば育つと勝手な思いを持っていましたし、仕事第一、お金第一、儲けて生活を良くすることが一番だと思っていましたので、子供のことを省みる余裕がなかったのかも知れません。それは自分にとって思いもかけないことでしたので、いろいろ考えた末に、農業を離れ、娘の療育に必要な施設の整った町へ移り住みました。

30歳過ぎてからの転職に不安もありましたけれど、葬祭業関係の仕事に就職することができ、人の死という、命を考える機会を多くいただきました。時には、娘の通う療育施設へ行き、様々な障害をかかえた子供達とふれあい、療育する光景に暖かいものを感じました。それと同時に、不自由な体を抱えた子供達が大勢いることに驚かされたのも事実でした。

歌や踊り、機能訓練など、そこには精一杯に命を輝かすという姿がありました。その反面、他の子供と比較し「娘の障害はあの子よりもまだましなほうだな」と優れている、劣っているなどと優劣をつけて安心したり、大変な思いをしている子供達を目の当たりにして、正直なところ「自分にそういう障害がなくてよかった」というどうしようもない思いがあるのも感じました。そんな中、仏教に触れるきっかけをいただき、お念仏の教えに出遇わせていただきました。

親鸞聖人がお敬いされた中国の善導大師様が「二河白道の譬え」によって、次のように教えてくださいます。

人生は旅だと言われますが、旅人が西へ向かって行こうとした時に、二つの河が現れました。南側には荒れ狂う火の河が、北側には水の河があり、その河は無限に続き行く先をふさいでいます。その火の河と水の河の中間には、幅わずか四、五寸という人が一人やっと通れるくらいの細くて白い道が、東から向こう側の西へつながっています。それは長さ百歩くらいの道で、絶えず炎と水が襲いかかり、とても渡れそうにありません。しかも、振り向いてみると猛獣が追いかけてきて、すぐそこまで迫ってきているのです。

西へ進めば火の河か水の河に飲み込まれ落ちてしまいそうですし、立ち止まっていても猛獣に命を取られることになってしまいます。そんな時、東の岸から「おまえは、ただ心に決めて、この道を尋ねて行け」という、お釈迦様の励ましが聞こえ、西の岸からは「おまえ、ただ念仏してただちに来たれ」という呼び招く阿弥陀様の声が聞こえてきました。そして、旅人は、ためらうことなく念仏申しつつ一筋の道を歩んで往くものでした。

 このたとえは、東の岸を、悩み、苦しみ、迷い、欲望のままに生き、いつかは空しく死んでしまう私達の世界としてあらわされています。このような世界から荒れ狂う煩悩を越えて到達するのが、仏さまの世界、お浄土という西の岸です。欲望にまみれ悩み苦しむ迷いの人生を送る私達に「二河白道の譬え」は歩む道を教えて下さいます。

娘がこの世に生まれ、様々な縁が整って、今この世を生きる私はお念仏の教えに出遇わせていただきました。

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

親鸞聖人がお示しくださったこのご和讃は、私をお導き下さる阿弥陀様のご本願のはたらきに出遇うことができたならば、欲望、悩み苦しみを抱えたまま、空しい人生を送っていたかもしれない私に、自分に都合の良いことも悪いことも、しっかりと受け止められるような人生を気付かせてくださいました。

そして私に届けられている功徳一杯、宝の海のように満ち溢れている南無阿弥陀仏のいのちのはたらきは、煩悩一杯の私をお包みくださいます。いつでも、どこにいても、阿弥陀さまのご心配の中に生かされて濁った水のような愚かな心を抱える私自身であっても、それが往生の妨げにはならない、とお示しくださいました。

私といつでも一緒にいて、支えて下さっているお念仏様とともに良かったと言える充実した人生を歩ませていただきたいと思います。