もうひとつの視点

ー「いつの時代も真理は少数から始まった」ー

「教育が人を作る」ー体罰についてー

2024年04月28日 | 日常

「子どもの頭をたたくのは体罰であり、やってはいけないこと」と世間ではなっているが、そもそも「体罰=いけないこと、犯罪」ではない。そこに客観的・普遍的な根拠も真理もない。ちなみに、アメリカの約半分の州では、教師による児童への体罰を容認している。イギリスでは、家庭内での体罰禁止を法制化したが、その結果学校の規律を守らない子供が増えたため、教師が体罰できる権利を法制化した(例えば、おしりをたたくのは6回まで、などの規制がある)。体罰を禁止し、仮定でも学校でも子供のエゴを優先させるから、他人をいじめたり犯罪を犯したりする人になっていく。当たり前の論理である。「体罰はいけない」という人々は、その結果(国民性や社会)にも責任を持ってもらいたいものである。

 体罰反対派は、「子供の人権が・・・」、「けがをさせるのはいけない」、「力を使うのは犯罪だ」などと言う。しかし、我慢のできない自己中の狂暴な性格に育てあげることが人権に配慮した行為なのか、過去に生きた数億人は親や教師に頭をたたかれて育ってきたがけがなどなく恨むこともなく立派な大人になってきたのに非現実的な極論(たたけば怪我をする)を持ち出すのは議論として間違っているのではないか、暴れている犯人を警官が力を使っているのは犯罪なのか等々、物事は単純な話(1つの詭弁のみ)ではないのである。

 一部の反対派の声によって体罰を禁止された教師や親が、子供から文句を言われ嫌われるようになった。子供達はモンスター化する一方である。体罰が普通であった昔(昭和30年代ごろまで)は、自分をたたく教師や親を憎み文句を言い反抗するなど皆無に近かった。教師や親は威厳があり尊敬の対象であり、目標であった。結論ありきを捨て、一つ一つゼロから考え、総合的に判断して取り組むことが、今求められているのではないだろうか。そうしないと教育まで偽物になってしまう。

 いったいどのような人を作りたいのか、どのような社会にしたいのかよく考え、それではどのようなことをすればよいのか現実に即して効果や結果を想像しながら、ある程度客観性と不易性をもって誠実に教育方法を考えてもらいたいものである。

 最後に一言。繰り返しになるが反対派はやめないと思うので言わせてもらう。「体罰とは、けがをさせるほど強くたたくことではない。軽くたたいて、子供自身に熟慮させることである」。万が一、病院に行くほどけがをさせた場合、それは警察云々の話になるだけである。

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