世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

自分の本性を目の当たりにする

2018-09-17 20:37:31 |  キリストの裁きを経験する証し

   

   教会での働きの必要性から私は配置転換となり、新たな場所で働きをすることになりました。当時その地での伝道活動は低調で、兄弟姉妹たちの状態も概してよくありませんでした。それでも聖霊に心を動かされた私は、任された仕事を全て自信をもって引き受けました。仕事を引き受けた私は、大きな責任感と神からの導きと示しに満たされ、自分は相当意志が固いとさえ思っていました。自分には能力があり、この仕事を上手くできると信じていました。でも実際には、聖霊の働きについて、そして自分の本性について、私はまだ何も分かっていませんでした。完全に自己満足と自画自賛に浸かって生きていました。

   私の心が自尊心でいっぱいだったちょうどそのころ、あるホストファミリーのお宅で、私の担当する働きの責任者をしていた兄弟と出会いました。彼に仕事の進捗状況を聞かれたので、きっと私の能力や優れた洞察力に感心するだろうと思いながら、彼の質問にひとつひとつ答えていきました。ところが私の予想は外れました。私の話を聞き終わると、彼は感謝して頷きもしないどころか、私が十分成果を出しておらず、人の動員の仕方も不適正で、何の成果も出していないなどと言ったのです。彼の不満げな表情と自分に対する評価に、私の心は突然冷めてしまいました。そして思いました。「成果が不十分だと言うの?もし私が何も成果を出していないと言うのなら、成果を出したと言えるには一体どれだけやれば良いの?こんなつまらない仕事を嫌がらずに、進んで引き受けた、それだけでも十分なはずなのに、彼は私が仕事を上手くやっていないと言うの?」私の心はひどく反抗的になり、傷ついて涙がこぼれそうになりました。そして私の中の傲慢、反抗心、不満といったものが突然姿を現しました。「私の力ではこれが精一杯よ。私なりに最善を尽くしたわ。不十分なら誰かほかの人を探せばいいのよ・・。」私はひどく落ち込み、どうしてよいか分からなくなり、彼がその後何を話しているのか分からなくなりました。その兄弟と会った後の数日間で、自信にあふれていた私は憂鬱になり、落ち込み、数日前まで自分を誇らしく思っていた私の心は悲しみでいっぱいになってしまいました。私は喪失感に包まれました。その暗闇の中で、私は思い出しました。「ペテロは、神を愛する人の姿を実現してみせること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)「それに比べて私はというと、成果が不十分なことを少し批判されただけで腹を立て、辞めたくなっている。これが、自ら進んで神による刈り込みや取り扱いを受け入れようとしている人間か。これがペテロのように神を愛そうとすることか。私の態度は神が嫌われるようなものではないのか。人から仕事ができないと言われたくない、賞賛されたい、褒められたいという思いだけではないのか-これは最も卑しい目的ではないのか。」そう思った瞬間、私の心の中に一筋の光が差しました。私が本を開き、読んでいくと、次の個所が目に留まりました。「あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。……あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。……これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。」(「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)これらの言葉は鋭い刃のように私の本質を刺し通し、私は言葉を失いました。私は自分の姿に深く恥じ入りました。私の理性、そして心の中の葛藤は煙のように宙を舞って消えていきました。その瞬間、私はこれらの神の御言葉の力と権威を心の奥底で自分のものとして理解できました。これらの御言葉の啓示を通して、私はやっと知りました—自分に与えられた働きをするなかで、私は、神に満足して頂くために常に精一杯働き、最高の結果を出そうとしていなかった。現状に満足し自己満足に浸っていただけだったと。神は次のように言われます。「神の前において、人間はいつも子供である」それでも私は、神は自分のような人間をお嫌いになると自覚しないばかりか、誰かに批判されると、不当な扱いを受けたと感じていました。私は実に無知で分別に欠けていました。いつも僅かな実績にも称賛を求め、すぐに称賛を得られなければやる気が失せました。自分のした事を感謝されずに疑問視されればイライラと不機嫌になりました。そう思った瞬間、自分の顔は偽善に満ちていると気づきました。私の働き方は自分の要求と取り引きを伴うもので、不純物でいっぱいであると気づきました。神に満足していただくためでも、神の愛に報いるためでもなく、隠れた動機によって働いていました。

 

   それまでは、神の御言葉が人間の醜さを露わにするような時でも私の心に光が射すことはなく、神の御言葉は誇張され過ぎだと思っていました。私の目が開かれたのは、ひたすら神が示して下さったからです。今日私が自分の働きを全うできるのは、神が引き上げて下さったからで、神の素晴らしい愛によるものです。それでも私はその事実を大切で価値あるものとせず、何の価値も意味もないものばかりを追い求めていました。人に褒められ、称賛され、注目され、そして誰にとっても存在感のある人でいることを追い求めていました。そのようなものにどんな意味があるというのでしょうか。人はパンだけで生きるのではなく、キリストが語られる一つ一つの言葉によって生きると言われています。でも私は何に頼って生活していたでしょうか。他人が私にどのように振る舞うか、どのように私を見ているか、そればかりを気にして生きていました。そしてそのようなものが私にどのような損得をもたらすかをよく心配していました。僅かばかりの誉め言葉や称賛、慰めや優しい言葉で元気になり、そうかと思えば、非難の言葉を少しでも聞いたり、否定的な表情を見たりすれば意気消沈し、無気力になり、どの方向へ進めば良いか分からなっていました—結局のところ、なぜ私は神を信じているのだろう、人々に認められたいからなのだろうか、と。神の御言葉が明らかにしているように、私にとって重要だったのは、真理でも、人間として生きることの原理でも、神の偉大な働きでもなく、私の肉が愛するもので、私の人生に何の利益ももたらさないものだったのです。周囲が私に示す熱意など、神の私に対する称賛の証明となるでしょうか。私が神の御旨に叶わないなら、私の仕事は無意味ではないでしょうか。神様、私の目を開いて下さり、感謝します。私自身の啓示の体験から、私はキリストの存在と、人類を救うためにキリストが世に来られたことを思いました。人々の神に対する態度はどうだったでしょうか。神は聖なるお方であり、崇められるべきお方、栄光なる神ご自身であるのに、いったい誰が神を尊いお方とし、心の中に神を受け入れ、心から神に栄光を捧げているでしょうか。反抗心や抵抗だけでなく、人が現わすものは神への冒涜であり、拒絶です。それでもキリストは不平を言うことも、人をその罪に従って扱うこともなさらない。神は人々の荒れた心と迫害を拒むこともなく、静かに耐えられます。キリストのその謙虚さや優しさ、寛容を心から褒めたたえる者がひとりでもいるでしょうか。キリストと比較することで、私は自分の心がいかに狭いか、何かあれば不平を言い、いつでも人に褒められたい、認められたいと思う自分に気づかされ、自分勝手で卑劣で、恥知らずな自分の振舞いに気づかされました。このような卑しい性格でも、自分は金と同じくらい尊いと考えていたのです。人間の理性はもはや人間には制御できないまでになってしまった、そう神が言われるのも当然です。私は神の御言葉に深く納得しました。この時、万物の主であるキリストの傍にいたいという強い思いが、私の心の奥深くで自然に生まれました。私は神に祈らずにはいられませんでした。「ああ神様、あなたのご性質、本質、そして善良さを羨望して止みません。あなたと比べることができる人間などいません。あなたが示し、明らかにされ、見せて下さったことはすべて、あなたの美しさ、徳、義、そして権威です。ああ神様!あなたは私の心を開き、私を恥じ入らせ、首を垂れさせました。あなたは私の自尊心やうぬぼれを良くご存知です。あなたのすばらしい指揮と采配なしでは、私を扱うためにあなたが兄弟を送られなかったならば、もうとっくに自分がどのような人間かを忘れていたでしょう。あなたの栄光を盗んでおきながら自分を誇りに思う私は、何と恥知らずだったことでしょう。ああ神様。あなたの啓示と御守りに感謝します。自分の真の姿がはっきりと見え、あなたの素晴らしさを発見しました。ああ神様!私はもう後ろ向きでいたくありません。もう卑しいもののために生きたくはありません。私の唯一の願いは、あなたの刑罰と審判、あなたの鞭と鍛錬を通してあなたを知ること、あなたを求めること、そしてそれ以上に、あなたの取り扱いと刈り込みによって私のなすべき働きを成し遂げ、あなたに報いることです。」



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