ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

貧困と病者の救済に尽力した光明皇后と忍性の足跡を訪ねて

2019-01-05 23:57:07 | 仏教彫刻探訪

10月6日(土)

今回の奈良への旅の目的は、盛りだくさんだった。

・南山城の観音様を巡ること
・僧形八幡神像のご開扉に参拝すること
・中里恒子『誰袖草』の舞台・當麻寺を再訪すること
・貧困と病者の救済に尽力した光明皇后と忍性の足跡を訪ねること

このうち、3つめまでは着々と実行。
この日は4つめの目的を果たすため、まずは北山十八間戸を訪れた。

JR奈良駅から青山住宅行きバスに乗り、東之阪町バス停で下車。
バス停からそのまま墓地の脇を続く道なりに、なだらかな登り坂を歩くと
坂の上から東大寺大仏殿の大屋根が、思いのほか近くに望める。
そのまま坂を上っていくと、鉄柵の中に特徴的な建物が見えてきた。

北山十八間戸である。
北山十八間戸は、ハンセン病などの病者の救済施設として
明治初年の廃絶まで使用されていたことがわかっている。
現在の建物は江戸時代に再建されたもので、約2畳程度の病室が18戸に細かく区切られている。
写真手前の屋根が一段高くなっている場所は、仏間である。
この北山十八間戸を創建したのは、光明皇后とも忍性とも言われており
はっきりとしたことはわからないが、この後般若寺で伺ったお話から
忍性もしくはその後の時代に建てられたものではないかとも思う。

北山十八間戸の北側の裏戸には全ての戸に「北山十八間戸」と刻まれている。
写真を撮りながらうろうろしていたら、現在、北山十八間戸と同一敷地の家の方が

「せっかく来たんやから、お入り」

と、門扉の鍵を開けてくださった

敷地内に足を踏み入れると、庭の一角に並ぶ石仏群が物悲しさを感じさせる。


先ほど敷地内に招き入れてくださったのは、見学の申し込み窓口となっている三角屋さんの女将で
ちょうど水撒きをしていたところに私がうろうろと通りかかり

「どこからきたの?」

「埼玉です」

「そんな遠くからわざわざここに来たんかい。せっかく来たんやから、お入り」

と、言ってくださったのだった。
女将の話によると、第二次世界大戦中は疎開者の居所になったこともあったそうだ。
また、その後は荒れ放題で、1999年~2000年に解体修理が行われ、現在の姿に蘇ったとのこと。


北山十八間戸を後にし、般若寺に向かう途中にあったのが、奈良少年刑務所である。

最初、土手の上に屹立する煉瓦の壁に、時代色を感じて驚いたが
さもありなん、山下啓次郎設計による1908年竣工の建築物群が現存しているということだ。

正門の門扉から中を覗くと、本館の建物が見えた。
先ほどから、雲行きが怪しくなってきたこともあり、一帯の空気までどんよりと重く感じる。
そのまま般若寺に向かい、最初は楼門の前に出たが、入口は国道側からとのことで
ぐるりと回り、大きな駐車場を抜けて受付を通って境内に入る。

般若寺のコスモスは有名だそうだが、まだそれほど花数は多くなく
いつ降り出すかわからない不安を抱えながら、足早に境内を散策した。
顔に雨粒が当たるようになったので、白鳳秘仏が特別公開されている宝蔵堂へ向かった。
十三重石宝塔の大修理の際に発見された阿弥陀如来の胎内仏として納入されていた
地蔵菩薩立像・大日如来坐像・十一面観音菩薩立像の三尊が公開されていた。
大変小さな像ながら、地蔵菩薩立像の衣の截金は美しく、大日如来坐像の彫刻は細密で
十一面観音菩薩立像の素朴さが、各々際立って見とれるほどだった


宝蔵堂で雨脚が強くなるのを感じながら、暫しの雨宿りと思いのんびりしていたところ
運良く受付の係の方から、忍性の救済活動について話を伺うことができた。
忍性は般若寺を拠点にして、病者や困窮者の救済活動を行ったが
当時は奈良坂の北にあった北宿という場所に救済施設があったそうだ。
そして、奈良坂を南に行った佐保川の河原に風呂を設け
ハンセン病患者や皮膚病患者などの保健衛生のために供していたが
さるところから場所が不適当であると注文がつき、佐保川の河原から移ってきた場所が
現在の北山十八間戸の場所なのではないか、というお話だった。

大変貴重なお話を伺えたことに満足して宝蔵堂を出ると、外は土砂降りだった。
参拝者は皆、本堂で雨宿りをしていた。
ハンセン病の患者を含めたの救済だけでは、かえってほかの差別を助長すると考え
全ての階層の差別をなくそうと尽力した忍性に思いを馳せながら、般若寺を後にした。
忍性の師である叡尊は「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」と、忍性に苦言を呈したが
今となってみれば、忍性こそ師の叡尊を遥かに超えた思想家であり、社会事業家であったのだ。


土砂降りのなか、奈良駅方面に向かうバスはなかなか来なかった。
ズボンはびしょ濡れ。
さてどうしたものかと途方に暮れていると、白く煙る雨の中にバスの姿が見えた。
奈良公園でバスを降りた時は、先ほどの天気が嘘のように晴れて、蒸し暑くなっていた。

明日からの落慶法要を控えた興福寺中金堂では、スタッフが準備に右往左往していた。
国宝館では、興福寺中金堂再建落慶記念特別展示として
廃仏毀釈で離ればなれになった、東金堂安置の梵天立像と帝釈天立像が並んで展示されている。
現在根津美術館蔵である帝釈天立像が、興福寺にお里帰りした、というわけである。
これは行かずにはおれまい、ということで、リニューアル後の国宝館へ。
うーん、リニューアル後の動線は、かえって混雑を招くような印象で
落ち着いて見学できず、どんどん流されていく、早く早く動け動けと急き立てられる感じ
好みとしては、断然リニューアル前の展示の方が好きだったな。


いったんホテルに戻り、服を乾かしてから、再びバスで法華寺へ。

法華寺は、聖武天皇の皇后である光明子が、父・藤原不比等没後にその屋敷を皇后宮とし
その後、総国分尼寺・法華滅罪之寺とし、その略称が法華寺である。

境内に設けられた浴室(からふろ)は、薬草を煎じた蒸気を利用した蒸し風呂で
光明子が病者救済の施設として建てた。
敷石の一部には天平時代の物が残されている。
ここではたと気づくのは、風呂の大切さである。
保健衛生の知識とその機会が遍く行きわたることによって
病者が救済されるばかりでなく、治癒した人は社会に復帰できるようになるのだ。
忍性は、ハンセン病の患者を背負って奈良坂を下り、奈良の市まで連れて行き
回復した病者は石材業者として、運搬や加工に従事させたそうだ。
病者ではないが、平氏による南都焼き討ち後、東大寺再興の大勧進の任を負った俊乗房重源は
東大寺の大湯屋を再建し、鉄湯船まで作らせて風呂を設けた。
私も無類の風呂好きで、多少具合が悪くても風呂には入ってしまう。
もし、私が風呂に入らずに寝込むようなら、それはけっこうな一大事である。


法華寺からバスに乗り、平城宮跡へ。

再現された遣唐使船。
よくこの規模の船で、唐へと渡ったものよ。
先人の苦労がしのばれる。

朱雀大路の広さに圧倒されながら、朱雀門に向かっていく。

朱雀門からは、遠くに足場を組んで復元されている南門が見える。
ボランティアガイドの方の説明で、南門の復元は、現代の技術であれば短期間で完成するものの
当時の道具を使用し当時の方法で復元するため、完成までに30年かかること
これは大工技術の伝承のためにも必要な過程であることなどを知る。
そして、この日の最後の目的は、昨日立ち寄ったBrighton Tea Roomで入手したチラシで知った
平城宮跡歴史公園特別企画展「美しき都 平城(なら)」。


ここで驚いたのは、この特別展の目玉として、保山耕一氏のトークイベントが開催されたのだが
その司会者は、なんと初めて私がBrighton Tea Roomを訪れた時に
オーナーのNamiさんと共に、奈良の良さを語り合った店員さんだったのだ
その後お店で見かけなくなったので、どうしているのだろうかと奈良を思う度に気になっていたが
まさか平城宮跡歴史公園のスタッフとして働いていらしたとは、感激ひとしおだった。
保山氏のトークイベントも、岡田庄三氏の写真展と岡田ご夫妻との語らいもうれしかったが
なによりも奈良の良さを語り合った元店員さんとの再会は、この旅で忘れられないものになった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。