続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

美僧は後生のさはりとなる事

2019-01-27 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 鎌倉建長寺の傍らに、念性という僧がいた。生まれつき美くしく器量の良い僧で、学問も人に優れ、書を良くし、心映えも優しかったので、人々から持て囃され、老いも若きも念性念性と言っては馳走し、仏事があるときは必ず呼び、争うように衣類なども差し上げ、皆、何かとこの僧の面倒を見ていた。
 それほど評判が良かったので、ゆくゆくは似つかわしい寺にも入って、心よく菩提を弔う僧になってくれればと思う者も少なくなかった。
 そうした折、地頭の世話で、亀谷坂の辺りに草堂を建て、念性をここに据えたところ、僅か半年ばかりの間に、近郷の百姓たちは皆この僧に懐き、そればかりか、鎌倉へ来る旅人の宿として、あるいは貴人の御馬をも寄せられる程にもなった。
 念性の草堂近く、粟船という所に、小左衛門後家という女がいて、歳は六十を過ぎ七十近くになっていたが、子は一人もなく、僅かな田地を人に貸して身の助けとしていた。もう歳でもあり、明け暮れ寺詣りを欠かさず、仏道を怠る事なく、行いの正しい人であったので、このような人がきっと仏になるのだろうな、などと世の噂に言われていた。
 ところがこの後家は、過ぎる元禄十年の冬、腹を患って死んでしまったので、念性は、この後家を弔い、位牌などもこの草堂に据え、毎日の勤めを怠らなかった。
 ある夜、仏事があり、念性は夜遅く帰ってきて、今朝の勤めが終わっていなかったので、いつものように仏前に向かい、香を添え、灯明の油を注して、勤めにかかろうとした時、突然、かの後家の位牌に手足が出来て動き出した。
 これはどうしたことだ、狐か狸が自分を誑かそうとして、このような怪しい事をしているのかと思い、心を静め、座っていると、この位牌が仏壇より降りて来て、念性に取り付き、
「おお悲しや。私がこの世にいた間は、年の程に恥じ、人目を思って、露ばかりも言わずにいましたが、死んでからは、この迷いによって成仏できず、中空に漂うばかりです。私は貴方の庵に毎日訪れ、仏様を手ずから奉り、衣の洗濯や縫い物など二心なく勤めてきましたが、語り出すも恥ずかしながら、私は貴方に心があって、人知れぬ恋を続けてまいりました。しかし、こうなってしまった今は、儚い姿ながら、ひとたびでも枕を交わし下されば、浮世の妄執が晴れて、私も成仏できましょう」
などと言う。

 念性は恐ろしさのあまり、振り切って逃げようとしたが、足元の火桶から無数の雀が飛び出て、念性を取り囲んで包み込み、「おお悲しや。助け給え」と大声を上げて泣き叫ぶ。
 その声に驚いた近辺の人々が、何事かと駆けつけて、何はともあれ念性を引き据え、気付け薬などを呑ませて事情を聴き、念性は、先ほどの様子を語った。
 しかし人々は、あまりにも不思議過ぎる話だったので、まさかそれほどの怪異ではなかろう、きっと気が疲れていて、怪しい事を見たに違いないと、薬を飲ませ、念のためにその日は皆で見守って夜を明かしたが、特に何事も起らなかったので、皆、安心して引き揚げた。
 次の夜は、近所の人も、万一何事かあってはいけないと思い、宵のうちは代わる代わる見舞いに来ていたが、何事も起らず、薬を勧めて、また明日来るからと言って、帰って行った。
 それから二三日も過ぎたある朝、草堂の戸が遅くまで開けられないので、人々は、何かあったのか、法事に出かけて行った様子もないがと、不審に思って、窓から覗いて声をかけたが、答えがない。戸は内側から閉められていて、門口から入ることができなかったので、心配しながらも、生垣をくぐり、庭から居間へ入っていくと、念性は仏壇の間で、喉笛を喰い切られて死んでいた。何があったのかと辺りを見れば、後家の位牌に血が付いていて、喉笛の皮や肉がその前に散らばっていた。

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