昨日の続編である。(5/4 が佐伯周子のコンサートなので、いろいろと雑用で疲れてしまった。)
偉大な補筆完成版先人2名の「形式観」の問題点
- パウル.バドゥラ=スコダ補筆 = ヘンレ版
- マルティノ・ティリモ補筆 = ウィーン原典版
は偉大な著作であり、
「シューベルトピアノソナタ研究家のバイブル」と呼んで差し支えない名著である。この2人の著作が無かったら、私高本が「シューベルトピアノソナタ補筆完成版」に着手する勇気が湧いてきたかどうかもわからない。私が大学1年の時(遙か昔で両手の指では数え切れない!)に手にした「バドゥラ=スコダ補筆版初版楽譜」を「北の丸」で開かれていた「
第1回ドイツ楽器&楽譜展」で入手し、帰宅してからむさぼり読んだ日を思い出す。 相前後して、LPでの全曲録音(1回目、ベーゼンドルファーインペリアルらしい)があったとのことだが、インターネットも無い時代なので情報が全く無く、「ただただ楽譜を読み、自分の頭の中で再現する」作業を繰り返した。時代が過ぎ、バドゥラ=スコダ補筆版の2回目の録音 = フォルテピアノ演奏のアルカナ盤 と ティリモ補筆のEMI盤とウィーン原典版 が 相次いで発売されたのは 「1997年 = シューベルト生誕200年」前後であった。
当初は「凄い!」と思っていた バドゥラ=スコダ補筆 であるが、何度も読み直している内に「ここ変だ!」と思った箇所が出て来た。
- D840/3 第3楽章主部が「第2主題で終曲」していること
- D840/4 第4楽章再現部で「第1主題が縮小再現」されていること
の2点。ヘンレ版やペータース版やユニヴァーサル版や旧シューベルト全集に目を通し、「変だ」の感想は強まった。
他のシューベルトのピアノソナタでは、実在しないから
である。第4楽章の件は、また別の機会に述べたい。本日は「第3楽章主部終結」だけ述べよう。
昨日号に掲載した「シューベルト作曲ピアノソナタの舞踏楽章」を聴いてほしい。「最後の最後は第1主題で終結する」のである、必ず!
バドゥラ=スコダ補筆とティリモ補筆が「第2主題で終結させた理由」は、今すぐここに書くことが可能。
バドゥラ=スコダ補筆とティリモ補筆 → 舞踏楽章を「完璧なソナタ形式」と勘違いした
からである。ベートーヴェンにはあることはある。しかし、「ベートーヴェンを手本としたシューベルト」には残念ながら無いのだ!
- バドゥラ=スコダ補筆 に続き
- ティリモ補筆 に続き
- プリュデルマシェール補筆
まで(楽譜出版は無いが)CD録音の発売はされた。これまた「第2主題で終結」である。何でだ???
シューベルトは「第1主題を展開する必然性」は感じていなかった作曲家である。例えば ピアノソナタ第20番イ長調D959 の 第1楽章 の展開部を見てほしい。「第2主題の終結部にある動機」だけで埋め尽くされている。しかし「再現部は、ハイドン&モーツァルトの通りに再現」するのが「シューベルト流」。私高本は昔も今もヒマ(?)なので、シューベルトの音楽を聴きまくっている。(ピアノ曲だけでは無いぞ!)
シューベルトの舞踏楽章 ≠ ベートーヴェンの舞踏楽章
これを理解していないと勘違いする。
シューベルトは「舞踏楽章」に関しては、ハイドンやモーツァルトに近い感性で作曲したようである。つまり「完全なソナタ形式」では作曲しない。
第1主題で打ち切り!
である。
5/4 の「佐伯周子 ミニコンサート 14:00 の部」では、この D840 第3楽章 と 第4楽章 を新補筆完成版で聴いてもらうことができる。4年ぶりだ!
第3楽章は「きちんと第1主題で終結の原則」に従った補筆完成版。「佐伯周子の シューベルト弾き としての腕の良さ」が 引き立ててくれるだろう > 4年前 と同じく
もしよろしければ、「無料コンサート」なので ニッセイプラザ丸の内(JR東京駅丸の内北口徒歩1分)にお越し頂き聴いた上で「あなたさまの耳に響いた音」の感想を聞かせて下さい。