作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 ミンス内紛勃発 】

2012-11-13 17:49:18 | 02 華麗な生活

起こるべくして起きたと言えそうである。

輿石の支配に耐えかねた、野田が反乱と見られたようである。
綱領もないミンスには、党代表にも党を代表する権利が無い。

サルが「ウソツキ」呼ばわりに、泣きそうになって、年内解散を
行なおうとしたら、猿回しが怒ってサルをイジメに掛かったと
見れば事態が良く分かる。

しかし何度も同じ事を言うが、この党の人材難は目を覆いたくなる。
枝野・細野・前原・玄葉・岡田あたりが、当の中心人物だ。

これなら橋下維新の方に、より良き人材が集まるのではないか。

小沢はチャンス到来の筈が、動けない。
動く人材が居ないのだ。いずこも秋の夕暮か。
ボクは完全に出遅れていた。

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【 ハイデルベルグ 】

2012-11-13 15:17:52 | 02 華麗な生活

1960年代にドイツを訪問する機会に恵まれるのは、
一流企業と呼ばれる会社の役員と決まったようなものだった。

ボクの世代から五年程も上になれば、殆どが旧制高校を
出ておられ、ドイツに来たからには行きたい場所があると
口々に言われ、何処かといえばハイデルベルグとの答えが
返って来たものだった。

ボクが始めてドイツに行ったのが68年で、丁度フランスが
ドゴール退陣を要求しての、全国的なストライキでパリ空港も
閉鎖。フランクフルトに滞在し、日航オフイスに行っても、いつ
状況が好転するかが分からない。

ボクの南アでのスケジュールは、決まっているから、パリが
ダメとなっては、どこかで時間を潰す必要があった。
そこで列車で簡単に行けたハイデルベルグを訪問することにした。

この時のボクは、ドイツ語はおろか英語も危ない状況だった。

旧制一高や三高では全寮制で、ドイツ語を学ぶ者とフランス語で
寮の部屋割りが変ったという。
旧制高校のドイツ語を学ぶ中に、アルト・ハイデルベルグという
戯曲があり、それを学んだ人々が等しく憧れたという事情があった
ようである。

ともかくボクもハイデルベルグを象徴する、お城に上ることにした。
そのころはまだ日本からの団体旅行は無かったと思う。

稀に日本人と出会うと、お互いに名刺交換をし、その夜は一緒に
食事を取るのが普通の事であった。

ボクもお城で、一人の日本紳士と出会う。
中米諸国のコーヒー生産者が集まる、珈琲連合の人で大森さんと
いった。大森さんとは、その夜落ち合って一緒に食事をし、ワインも
飲んで語り合った。

コーヒー生産者から見て、二つの重要な国があると言う。
アメリカとドイツだとの事だった。
アメリカは品質は良くないが、とにかく大量に買い付けてくれる。
インスタントコーヒーになるから、品質はあまり考慮されないとの事で
逆にドイツは高級品を狙って買う。

ところがと、大森さんは浮かぬ顔で言った。
ドイツで飲むコーヒーですが、美味しいと思われましたか。
そうだ。ドイツで出るコーヒーは美味くない。
焙煎が下手なんでしょうかねと、大森さん。

ボクは未だにドイツのコーヒーは不味いと思っている。

ハイデルベルグの話をもう少し。
ボクがまだヨーロッパとは全く無縁の64年に、当時劇団四季が、
「若きハイデルベルグ」という劇を公演し、梓みちよが主題歌を歌った。

その曲をyoutubeで見つけた。
梓みちよで検索し、リンデンバウムの歌を探せば出てくる。

♪リンデンバウムの大きな幹に 愛の言葉を彫ってきた
 リンデンバウムは緑の木陰 忘れな草が咲いていた
 角笛がわたる夕べの空 二人の愛の星が上ってくる
            (以下 略)

64年か。ボクは29歳だった。もう29歳か、まだ29歳か。
ボクの会社では、同期入社の多くが海外活動に入っていた。
ボクは完全に出遅れていた。

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【 リヒテンシュタインの切手登場 】

2012-11-13 14:19:34 | 02 華麗な生活

オーストリア切手のコレクションが尽き、リヒテンシュタイン
の郵便局(人ぞ知る切手マニアの聖地)で購入したものに
替えて出している。

これが尽きたら、次はハンガリーの切手を出す心算。
ハンガリーは自国をマジャールと呼ぶから、切手もマジャール。

似た話にフィンランドは自国をスオミと言う。
スイスだってヘルベチアだ。

マジャールの後に、今は分裂したユーゴスラビアの切手を出す。
今は亡き国だから、これらの切手も珍しい筈。

リヒテンシュタインには、スイスのバート・ラガーツからタクシーで
行った。ハイジで有名な村の隣の町からだ。

タクシーの運転手が、リヒテンシュタインの街を探訪している間、
待っていてくれて、しかも帰りのタクシー代は不要だと言う。

こんな良心的なタクシーがこの世にあると感動し、相応のチップを
渡したが、受け取れないと拒むのを説得して受け取ってもらった。

クエレンホーフというホテルは、ボクが経験した中でのトップ3に
入る素敵なホテル。なんと荷物を置いて部屋を出たら、従業員の
すべてが、ボク等の名前を覚えていたのには驚いた。

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【 水の都ベネチアが水没 】

2012-11-13 14:17:58 | 02 華麗な生活

イタリアにも大きな雨雲が発生し、ベネチアのサンマルコ広場
でも、人々が下半身を水に取られて難渋している光景が映る。

もう40年も前から、「今に水没するから早く見ておけ」と言われて
いたのが、今もまだ水没はしていない。

元々冬季には海面が上り、サンマルコ広場が水びたしは、さして
珍しい話ではなかった。今はまだ冬季には早いので話題になった
のだと思う。

ベネチアに行ったのは、自分の会社を立ち上げ、それが軌道に
乗ってからの86年。大運河をゴンドラにも乗ったが、水の汚さ
には辟易した。あんなものロマンチックでも何でもない。

偶々6月1日がボクの誕生日だったから、リド島に渡り緑の多い
道を歩いていたら、つるバラが壁に延びて拡がっている建物が
あって、目が合った若いウエーターに、ここで食事は出来るのか
と問い、「どうぞ」と案内され、夕なずむひと時を食前酒で楽しみ
陽が沈むとともに内部に案内されたら、思いがけず本格的な
リストランテであった。

リドで有名なクワットロ・フォンターナがその場所だとは知らずに
入ったのであった。
スズキの良いのがお奨めだと言われ、そいつの焼いたのが
誠に美味であったことを覚えている。

リドに渡った目的がカジノで、食後カジノの位置を聞いたら、
なんと道を隔てた隣の建物がそれで、無料の入場券も呉れた。
あまり稼ぎは出来なかったが、リストランテで白と赤のワインも
飲んだ分ぐらいは、カジノで勝ったから、あの誕生日ディナーは
結果無料になった。

その翌日にベネチアを発って、チューリッヒに向ったのだが、
この時はスイス航空の大阪の支配人の厚意で、ドルダー・グランド
の一泊・ディナー付きが振る舞われ、空港出迎えのリムジンで行った
ところ、大勢の出迎えを受けて、しかも長々とレッドカーペットが
敷かれていた。

おくら厚かましいボクでも、これはオカシイと思ったから、誰か来るのか
と訊ねたら、フランス大統領のミッテランが、もうすぐ来るとのハナシ。
ミッテラン氏は、彼のために用意されたレッドカーペットをボク等に
先に踏まれてしまった。

ミッテラン氏は、その夜チューリッヒの要人を多数招き、翌日ベネチア
で開かれるサミットに出席するとの事であった。

後で知ったが、ボク等が去った直後からベネチアの警備が厳しくなり、
観光客も入れない場所が増えたと言う。ボク等が滞在中は、サミット
なんか何処吹く風の雰囲気であった。

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【 財務省の意のままに 】

2012-11-13 10:15:00 | 02 華麗な生活

三党合意が漸く決まり、15年度まで法案不要で
赤字国債の発行が認められる事が決定。

そうでなくても、復興予算の流用などで、中央官庁の
役人の思いのままに予算が使われている。

かつて自民の長期政権の中で、大平大蔵大臣が、
頑として連続利用が出来る法案に反対した場面を想起した。

あれが政治家のあるべき姿だった。

大平さんは香川県の人だった。
香川顔という言葉があるそうで、平家の武者が大勢屋島で
死んだから、海の中のカニの顔が無念の形相をしているのだと
聞いたことがある。
太平さんは、典型的な香川顔であった。

大平さんの上司に当る人が目を付けて、お嬢さんとの縁談を
決めたという。後の大平夫人は、三日三晩にわたり泣き明かした
と言う。ご面相はまさに平家蟹だったが、優秀な官僚を経て
優秀な政治家になった。

今のミンスはもとより、自民党にも大平さんのような人物が少ない。


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【 桜井センリさん追悼 】

2012-11-13 10:13:16 | 02 華麗な生活

御本人を知っていたわけではない。
あれは1977年だったかの、ウイーン駐在時代の事。

まだウイーンまで足を伸ばす団体客も少なかった。
そんな時、ボクが居た総合商社の副社長が退任と決まり、
当時の会社の余裕で、退任する副社長がヨーロッパ旅行を
貰って、ウイーンにもやって来た。

柄にもなく、オペラを見たいとのたまう。
演目が何だったか覚えてもいないが、三階のベランダ席を
用意した。序曲が始まると、「やはり本場のオペラは良いな」
と言っていたお方の頭が、揺れ出して一幕が終わるまで
グッスリとおやすみになった。

幕間に廊下をそぞろ歩きをするのが、オペラ観賞の流儀で、
ボク等も天井の造作や壁に掛けられて絵画を見ながら歩く。

ふと向こうに一人の日本人が佇んでいた。
あれっ、誰だったかな。知っている顔だ。
向こうも近寄ってくるボクの目を見ている。その人の前を通り
ながら、目礼をしたら目礼が返ってきた。
やはり知人だ。誰だったかな。

その時副社長が「今のはクレージーキャッツだな」と。
あっ、そうか。桜井センリさんだった。知人じゃないが、テレビで
お目に掛かる人だった。

86歳の孤独死が報じられた。
TYCMでキンチョールを逆さに、ルーチョンキなんてやっていた
姿が思い出され、唯一度の目礼の相手ながら、孤独死と聞いて
哀悼の気持ちが湧いてきた。


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【 サルが猿回しにキバを剥いた 】

2012-11-13 09:10:56 | 02 華麗な生活

客観的に見たら、野田佳樹は立派な「大ウソツキ」で、
態度もふてぶてしい嫌なヤツだ。
その野田が「誠実な人」でありたいとは、厚かましいにも
程があるが、猿回し(輿石)にコケにされて、サルの意地が
出たという感じ。

折りしも小沢が東京高裁で無罪となった。
事もあろうに、一審で有罪判決を受けた石川などの秘書連も
無罪になりそうな有様で、弘中という弁護士は腕利きだろうが
あいつはワルだな。

この件は改めて書くとして、小沢にくっついて行った連中が
息を吹き返す事になった。
野田にTPPで反対する山田以下の農業族は、小沢のところに
逃げ込む道が出来たことになる。

石原が新党を立ち上げて、その名も「太陽の党」。
なにやら「太陽の季節」で売り出した昔の名前が忘れられない感。
新進党が分裂した後にも、たしか「太陽党」があったと思うが。

テレビ番組は、第三局論議で姦しいが、大同団結は所詮無理。

関東は「みんな」で関西は「橋下維新」の選挙協力でオチと見る。

日本のGDPが年率で3.5%の落ち込みと。SONYの美濃賀茂工場
が閉鎖するとのニュースも流れ、日本経済はどこまで落ちるのか。
ミンスには経済通が誰も居ない。どうにもならぬ。

オバマが勝って、予想通り株価が下落を続けている。
アメリカがどうなろうと知ったことはないが、日本の株も下がるのは
迷惑なハナシだ。

円高もどんどん進む。GDPが大きく落ち込む国が、なぜ円高になる。
政治の責任としか言えない。

ミンスの能無しは、この際全員選挙で落ちろ。


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