旨い処探索同好会

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読書 その十 アート・ステューデンツ・リーグ

2011年01月08日 21時20分06秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
しかし彼はまだ休むことはありませんでした、そして2年後に彼はアート・ステューデンツ・
リーグに、1916年の秋、移りました。 「はにかみだったのかちょっとした異邦人の感覚
だったのか、それまで私には友達がありませんでした。 リーグでは私の人生が本当に有意義
になり始めました。 私の孤独な放浪からの自然な反動として友達や異性との交際をおおいに
渇望していました。 リーグで私は、私に痛いほど必要だった暖かさと優しさを見つけました。
ケニス・ヘイズ・ミラーは、私に対してとても友好的でした、それでも彼を理解するのには
長い時間がかかりました。 私のアートに対する見解を変えたのは彼でした、そして私は
方向性と動機を持ち始めました、それまではそんなものはありませんでした。 それで私が
古い巨匠達を観始めそして勉強し始めたのです。 私は、ドーミエの素描に彼が私を紹介
してくれたのを大変ハッキリ思い出すことが出来ます。」



But he was still restless, and after two years he changed to the Art Students
League, in the fall of 1916. "Up to then I hadn't made any friends, whether out
of shyness or the small feeling of a stranger. At the League my life began to take
on a real meaning. I had a great hunger for friends and companionship as a
natural reaction from my lonely wanderings. At the League I found warmth and
kindness which I sorely needed. Kenneth Hayes Miller was very friendly toward
me, even though it took me a long time to understand him. It was he who
changed my outlook on art and I began to have a direction and motive, whereas
before that I had had none. It was then that I began to see and study the
old masters. I can remember very distinctly his introducing me to Daumier's
drawings."

(写真は現在のアート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニュー・ヨーク)
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読書 その九 アーモリー・ショー

2011年01月07日 21時04分10秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
1914年に彼は、ホーマー・ボスの運営する、ニューヨーク近代派のインディペンデント・
スクールに加わりました。 彼の学生仲間には、スティアート・デービス、モリス・
キャンター、そしてA.S.ベイリンソンがいました。 
「みんなアーモリー・ショーの事を話していました。
キュービズムでいっぱいの雰囲気でした。 ヴァン・ゴッホ、ゴーギャンの複製、そして
後期19世紀の巨匠達の作品が学校の壁を埋めたのでした。私は、いったい何がどうなって
いるか解らないままこの興奮の中にいました。 このとき初めて安堵を感じ始めました。」



In 1914 he joined the modernist Independent School in New York, run by
Homer Boss. Among his fellow students were Stuart Davis, Morris Kantor and
A. S. Baylinson. "Everybody was talking about the Armory Show. Cubism was
in the air. Reproductions of Van Gogh, Gauguin, and the masters of the late
nineteenth century filled the walls of the school. I was caught up in this excite-
ment without really understanding what it was all about. For the first time I
began to feel at home."


(写真は1913年のアーモリー・ショー当時)

(訳注;後にガーチュード・ウィットニーを描いたロバート・ヘンライが始めた学校、
 ヘンライ・スクールをホーマー・ボスが、1910年に受け継ぎ名前をインディペンデント・
 スクールに変えました。)
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読書 その八 ニュー・ヨーク

2011年01月07日 09時40分58秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
1910年(明治43)に、クニヨシは、ニュー・ヨークに来ました。ここでも又、
時たまの半端な仕事にほんの少しの現金、最初の冬彼は、オーバーなしで過ごしました。 
「でもこのときの私は、絵の勉強を続ける事をはっきりと決めていました。どう言う訳か、
この目標は十分しっかりしていたので何をしても何時も我慢出来たのです。」

彼の父親の芸術家の友人が、工房の掃除と引き換えに部屋と食事を与えてくれました。
彼の提案でクニヨシは、ナショナル・アキャデミー・スクールに入りました。 車代も無く
彼は、毎日66番から109番通りまで歩いて行き、そして戻ったのです。 しかし美術一般
教養の教育は、もう彼の好みにそぐわなくなって来ていたので半年後に止めました。
短い期間でしたが、彼はヘンライ・スクールを試してみました。

彼は、メトロポリタンに行くまでは美術館の中に入ったことはありませんでした、そこで
彼の最初の賞賛の対象は、ピエール・コットのポール・アンド・ヴァージニアでした。
全てこの間彼は、自分で生計をたてて行かなければなりませんでした、それで彼の絵の勉強は
長い間途切れたのです。 ある一冬彼は、シラキュースのホテルで働きました― 1913年、
アーモリー・ショウの年、それで彼は見損なったのです。



In 1910 he came to New York. Again, odd jobs and little money; that first
winter he spent without an overcoat. "But by this time I had definitely decided
to continue studying art. Somehow that aim was firm enough so that no matter
what I did it was always bearable." An artist friend of his father's gave him board
and meals in return for having his studio cleaned. At his suggestion Kuniyoshi
entered the National Academy school. Lacking carfare he walked every day
from 66th to 109th Street and back. But academic teaching was no longer to his
taste and he stopped after a half year. For a short time he tried the Henri school.
He had never been inside a museum until he visited the Metropolitan, where his
first admiration was for Pierre Cot's Paul and Virginia. All this time he had to
make his living, so that there were long gaps in his art study. One winter he
worked in a hotel in Syracuse - 1913, the year of the Armory Show, which he
missed.

(写真は1910年当時のニュー・ヨーク)

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読書 その七 ロス・エンジェルス

2011年01月05日 22時59分07秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
しかしクニヨシは、くじけるには強すぎる性格でした。 オフィス・ビルで雑役夫の仕事を
得て、床をごしごし磨き、そして同時にミッション・スクールで英語の勉強をしました。
数ヶ月後に彼は、南、ロス・エンジェルスに移るのに十分なお金を貯めていたのです。
その頃には、「私は、とどまる事に身を任せていて、家に帰る気はありませんでした。
でも私が、こんなに長く定住したり画家になったりするとは思いもよりませんでした。」

ロス・エンジェルスの公共学校の先生が、中国の絵地図の中へ彼が上手に描いた人物に
気づきました、そして彼に絵の勉強をすることを勧めたのでした。 そこで彼は、ロス・
エンジェルス・スクール・オブ・アート・アンド・デザインの夜間クラスに入りました。
それは、厳格な学問のコースでしたが、でも彼は随分気に入ったので公立学校を止めて、
美術学校で約3年間働きました。

その時のみならず、その後も彼は、実家から金銭的援助を受ける事はありませんでした。
彼は、生活費を冬はホテルのボーイをし、夏にはブドウやキャンタロープの収穫をして
稼ぎました。 「私の態度は、まだロマンチックなものでした。」と彼は告白しています。
「画家に成ることはすばらしい事です。 でもそんなに真剣に考えていませんでした。
私は絵を描いていましたが、まさか画家に成れるとは、考えたこともありません。」

彼が決断をするにはほど遠い状態の時に、ロス・エンジェルスで航空関係の集会が開かれ、
学生操縦士として登録して臨時に絵画の勉強を諦めました。 「何度か私は、教官と
昇って行きました。」と彼は、ふり返ります、「私の知り合いがみんな死んだので、
それで止めました。」



But Kuniyoshi had too tough a character to give in. He got a job as porter in
an office building, scrubbing floors, and at the same time studied English in mission
school. After a few months he had saved enough money to move south to
Los Angeles. By then "I was resigned to stay and not to go back home. Still I
never thought of becoming an artist or of staying as long as I have." In public
school in Los Angeles a teacher noticed his skillful drawing of figures in an illustrated
map of China, and suggested that he study art. So he entered the night
class of the Los Angeles School of Art and Design. It was a strict academic
course, but he liked it so much that he dropped public school and worked at the
art school about three years. Neither then nor later did he receive any financial
help from home. He earned his living as a hotel bellhop in winter, and in the
summer by picking cantaloupes and grapes. "My attitude was still a romantic
one," he confesses. "To be an artist was a wonderful thing. Yet I didn't think too
seriously of it. I painted but I never thought I would be able to become an artist."
So far from decided was he that when an aviation meet was held at Los Angeles
he enrolled as a student aviator and temporarily gave up studying art. "I went up
a few times with an instructor," he recalls, "but everybody I knew got killed, so
I stopped."

(写真は20世紀初頭のロス・エンジェルス)

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読書 その六 シアトル

2011年01月04日 19時43分48秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

シアトルに着くと彼は、金塊を実際に道から簡単に拾い上げることが出来ると信じて、
50ドルを残して全部父親に送り返しました。 日本人のホテルにあったポスターを
通してスポーケンにある鉄道構内の仕事にありつきました。

ここで彼は、百人もの同じ日本人がテントで暮らし、板の上の小さなゴザの上で
寝ているのを見たのでした。 彼は、円形車庫で機関車を洗う仕事を与えられました、
掃き掃除や水運びで、これが厳しすぎると分かったとき。 この二日後にシアトルに
戻りました、彼の理想のアメリカは完全に粉砕してしまいました。

彼は、大変困惑し、そして孤独を感じていました。
「私は、故郷を切望し始めていました、」 と語ります。
「もし資金があれば、帰ったでしょう。」



On his arrival in Seattle, believing that gold could practically be picked up in
the street, he sent back to his father all his money except fifty dollars. Through
a poster in a Japanese hotel he got a job in a railroad yard in Spokane. Here he
found hundreds of his fellow countrymen living in tents and sleeping, on a little
straw on pieces of lumber. He was put to work cleaning engines in a roundhouse,
and when this proved too hard, to sweeping and to carrying water. After two
days of this he went back to Seattle, his ideal of America completely shattered.
He felt very confused and lonely. “I began to long for home,” he says.
“I would have gone back if I had any funds.”

(写真は1906年頃のシアトル・ウォーターフロント)
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読書 その五 後楽園

2011年01月04日 13時44分11秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

冒険好きな事は、彼の最も強い性格の一つでした。 彼は幼少の頃から旅に出たい
と思っていました。 オカヤマには多くのアメリカ人やイギリス人の旅行者を引き
寄せる美しい公園がありました。 そこに来た外国人とその上等な衣服は、彼らに
ついて行って頭をなぜてもらっていた、少年を魅了しました。

アメリカは友達の間で、好機の地として話題になっていました。 そういった
全てがこの国を見たいと言う情熱を彼の心の中で駆り立てていました。 
日本では、全国的な軍事訓練を実施していた時期でした。
ヤスオは父親に士官学校か、アメリカのどちらかに行きたいと伝えたのでした。
彼の父は、アメリカ行きを渋々承諾したのです。

1906年の秋、彼は父親からもらった約200ドルを持って出航しました、アメリカに
友達はなく、ほんの少しの単語しか知らず、通訳するのに十分な英語を学ぶ事以外は
これと言った計画もなく、そして2~3年後には日本に帰る、彼の将来は約束されて
いました。 この度胸と無邪気さを併せての所業には敬服されてしまいます。
「これから見るであろう多くの魅力的ですばらし事を考えていました。」と彼は
話します。 「そして出発の時には、感傷的なものや涙はなく行きました。」



Adventurousness was one of his strongest traits. From the time he was a small
Boy he wanted to travel. Okayama had a beautiful park which attracted many
American and English tourists. They and their fine clothes fascinated the boy,
who used to follow them around and be patted on the head. Among his friends
America was talked of as the land of opportunity. All of this aroused in him a
Passion to see this country. Universal military training was in effect in Japan.
Yasuo announced to his father that he must go either to an officers’ training school
or to America. His father reluctantly consented to the latter. In the fall of 1906
he sailed with about two hundred dollars from his father, with no friends in
America, with only a few English words, and with no plans except to learn English
well enough to translate, and then after two or three years to return to Japan,
his future assured. The combined courage and innocence that this meant can only
be admired. “I thought of the many exotic and wonderful things I would see,”
he says, “and when the time came to go I left without sentimentalities or tears.”
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読書 その四 オカヤマ

2011年01月03日 13時16分07秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
国吉康夫は、1893年(明治26)に日本の南部、岡山市でそこそこの事業家の
一人息子として生まれました。 子供の頃に彼が、絵画に接することはほとんど
ありませんでした。

岡山には美術館はなく、そして彼の見たことのある数少ない絵は、友達の家に
あった全て伝統的な日本画でした。 彼が覚えている唯一の西洋的な絵は、
6~7歳の時、町に来たリアルな戦闘シーンのパノラマ画だけでした。

「それを見て大変動揺してしまいました。」とクニヨシは、最近になって書いています。
「なぜなら、それは本物みたいに生きているようで、私の子供の頃の周りの絵画には
見られなかったものでした。 そこには飾り物とか儀式的な物以上の何かがありま
した。」

学校では、素描は本の中の絵を模写することで教わったのです。 その後、彼は
工業学校で織物と染め物の勉強をし、そして織物の柄のデザインをしました。

絵を描くことが好きでしたが彼は、画家になるだろうとは思ってもいませんでした。
彼は元気で活発な少年で、なかなかの運動選手で、よく学校の陸上競技の代表でした。





Yasuo Kuniyoshi was born in the city of Okayama in southern Japan in 1893,
the only child of a businessman of modest means. As a boy he had little contact
with art. Okayama had no museum and the few pictures he saw were those in
friends’ all in the traditional Japanese style. The only painting in the
Western style that he remembers was a realistic battle panorama that came to
town when he was six or seven. “It stirred me greatly,” he wrote recently,
“because it was so real and lifelike, a factor that I had not been aware of in the
works of art that surrounded my childhood. Here was something that was more
than decorative and dignified.” In school, drawing was taught by copying pictures
in books. Later in technical school he studied weaving and dyeing, and
made designs for textile patterns. But though he liked to draw he had no idea
of becoming an artist. He was a strong, active boy and a good athlete, and often
represented his school in track meets.


(国吉の生まれた年が原文では1893年とあるが、1889年9月1日である。)
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読書 その三 ガーチュード・ウィットニー

2011年01月02日 06時14分47秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
今回からカタログの翻訳に入る予定であったけれど、その前に当時のクニヨシの
住んでいたニューヨークの美術界も大きく動いていたので、その事情を少し。

彫刻家でコレクターであったガーチュード・ウィットニーは、彼女の気に入った
画家の作品をウィットニー・アート・クラブで買ったり展示したりしていました。
このクラブを運営していたのが、ガーチュードの義理の姉妹の秘書をしていた
歯科医の妻、ジュリアナ・フォースでした。

二人がクラブを辞めて集めた作品をメトロポリタン美術館に寄付しようとした
ときに折り合いがあわず、ガーチュードは自らの美術館を作ることにしたのです。 
そして初代館長がジュリアナで、正規の美術の教育を受けていない彼女は、
ここで学芸員としてロイド・グッドリッチを雇うわけです。

ほぼ時を同じくしてアビイ・ロックフェラーが、近代美術館を作りアルフレッド・
バー・ジュニアが初代の館長に就くわけですが、彼のアシスタントがダンスを
マーサ・グラハムと一緒に専攻した、若くて美しいクニヨシの新しい妻、
サラ・クニヨシだったのです。

兎に角、翻訳など初めてのこと。 新しいモノへのチャレンジは好きであるが、
50のパラグラフを一日に一回ずつやると50日、一週間に一回ずつだとほぼ一年、
どんなペースで投稿して、どのような日本語にするか、これからである。
なんとか、ちゃんと仕上げたいと思っている。



(絵はロバート・ヘンライによるガーチュード・ウィットニー,1916年)
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読書 その二 ロイド・グッドリッチ

2011年01月01日 00時21分13秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
今から100年前と言うと1911年、明治(44年)最後の年で、ニューヨークに移って
程無い頃のクニヤスは22歳でした。 3年後には第一次世界大戦を控え彼の生きた
時代は芸術革命の真っ直中、ニューヨークのモダニズムの台頭と同じ時期でした。
当時は産業革命後の工業化された社会の発達で、近代化と市民革命の地球規模での
大きな変化の流れがありました。

丁度、今の現代生活の基礎作りがこの頃から始められていました。
中産階級の成長で消費社会の定着、都市化、移動手段の発達によって貿易の拡大と国際
分業化などが始まっていった時代で、石油による重化学工業への移行のなか、文化・
政治・経済などあらゆる面で、そして人々の意識の中も大きく変わりつつありました。

芸術の分野も同じで、今までの古典的な写実性に重きを置いた価値観は変わりつつある
時代にそぐわないと、ポスト印象派以降のもっと自由で新しい観念を主張するモダニスト
達の動きが、当時中心であったパリから1913年ニューヨークのアーモリーショーを
通して広がりつつありました。

こういった流れのなか、クニヨシは2回ヨーロッパを往復し、大恐慌を経験し、そして
第二次世界大戦終了数年後の、1948年の3月27日から5月9日まで、ニューヨークの
ウイットニー美術館でクニヤスの回顧展が開かれたのです。そのときに作られた
カタログがこれから翻訳するもので、ロイド・グッドリッチによって書かれています。
このときクニヨシは59歳で、ロイドが51歳の時でした。

アート・ステューデンツ・リーグでクニヨシの後輩だったロイドは、ヨーロッパに
渡ったときに芸術がアメリカより広く理解されている事に驚き、それには学者、
評論家達が大きな役割をはたしているからだと感じました。彼は、画家の道を諦め
ニューヨークに帰って近代芸術の理解者、サポーターの道を選んだのでした。

ロイドが、多分天井まで届く大きな窓のある部屋の机の上にある、まだ手動であろう
タイプライターを使ってこのカタログの原稿を書いたウィットニー美術館。彼は後に
館長を10年間務め、歴史家として多く芸術家を助け文化の発展に寄与したのです。

この激動の時代をくぐり抜けた一人の画家の生涯と作品を通し、当時の雰囲気を
これからの翻訳で伝えられればと思っています。




(写真はロイド・グッドリッチ)

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読書 その一 ヤスオ・クニヨシ

2010年12月30日 14時19分15秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
読書のカテゴリーを作っていてまだ一度も投稿していない。 なぜかと言うと
大した読書家でもないし、読んだ本の数も少ないし、しかし本は好きだし、で、
この場を借りて新しいプロジェクトを始めようと思っていたからである。

もう十年以上になるかも知れない、いつもの様に岡山に帰ると会う人ほとんどに
「クニヨシ・ヤスオ」を知っているかと聞かれた。 聞いた事がないと答えると
怪訝な顔をされたのをよく覚えている。

不思議に思って尋ねてみると、岡山出身で早い頃アメリカに行って画家になった人で
ベネッセ本社にあるギャラリーに作品が、展示されているとの事だった。
当時はベネッセと言われても分からず、昔の福武書店だと知って驚いた。

兎に角、行ってみた。 立派なビルでロビーにはワホールのシルクスクリーンが
飾ってあったのを覚えている。 二階の画廊に行くとかなりの作品があったように
思うが、なんだか暗い印象が強く早々に引き上げて来た。 第一印象は重くて暗そうな
感じで好きなタイプの絵ではなかったが、なにか強いものがあったのを覚えている。

その後、関心は無かったが彼の名前は覚えていた。 今年の春にどう言う訳か
ネット・オークションで国吉康夫の1948年にニューヨークで行われた展覧会の
カタログに出くわした。 そしてなんとなく興味本位で落札してしまった。

全部で50ページちょっとの薄いカタログだがなかなか良くできていると思う。
最初のページには、カラー印刷まであるし、かなり詳しく当時の状況が書かれている。
これを翻訳するのが、今回の読書ジャンルへのプロジェクトである。


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