時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

音楽に関する英語記事いくつか

2011年12月30日 | 
英語を教えることになって、教材探しのため、以前よりも一般向けの、自分の専門とは関係のない英語メディアのニュースを頻繁にチェックするようになりました。音楽大学で教えているので、音楽に関わる、新しい話題を、と考えて、BBC、NPR、New York Times、Forbes、Financial Timesあたりの記事を(Webで)チェックしています。Billboard、BBC Music Magazine、Rolling Stoneといった音楽の専門誌も見ていたのですが、音楽そのものに対する批評が多くて、ビジネスや科学など他の世界と関わらせて論じていないので(なおかつ、私がついていけないので)、最近は一般誌中心。今年読んで面白かったものをいくつか紹介したいと思います。

Battle of the Bands (and Egos) for the Rock Hall of Fame

危機に瀕した音楽産業界やアーティストにとって、殿堂入りはただの名誉というより、現実的な儲けのため、のどから手が出るほど欲しく、水面下でバトルが進行中という記事。グラミー賞ならそのアルバムだけだが、殿堂入りすると過去の作品全ての売り上げが伸びるとか。過去の殿堂入りについてハードロック偏重という批判があり、過去の業績のわりに殿堂入りが遅かったケースで(例えばBee Gees)、マネージャーが選考委員に直訴なんてこともあったそうです。

'Vocal fry' creeping into U.S. speech

米国で、Creaky voice、いわゆるVocal fryについて、構音障害の症状としてでなく(また、一部の言語のように音韻論レベルの音声として用いるのでもなく)、ある種の社会的流行としての使用度が上昇中、という科学誌サイエンスのニュース。米国にいたとき、(主に若い)女性研究者で、発表時にこの発声をさかんに用いる人が実際にかなりいて、スペクトルやピッチの情報が不明瞭になるからか、ノンネイティブの私にとって、聴き取りを難しくする厄介な現象でした。Britney Spearsがさかんに使うとの記述があったので、Hold it against me(全く知らなかった)の音声情報を「ある方法」で取得。上の画像で選択してある部分が一例。バックの音も一緒にボンボン鳴ってるのですが、Creaky特有の、声帯の開いている割合(Open Quotient)の低さを反映した断続的な波形がはっきり見られます。どういう効果を狙っているかは記事に書かれていませんでしたが、たぶん、賢いとかセクシーとか、そういうふうに聞こえるということなのでしょう。

How can musicians keep playing despite amnesia?

これも、音楽誌ではなくて、BBCのニュース。脳に障害を受け、1分前のことも想起できないミュージシャンが、昔習った曲をほとんど間違えず演奏できたり、新たな曲を学習できたりと、音楽に関する記憶能力が失われていないことが知られており、一般のエピソード記憶と、音楽に関わる手続き記憶とが脳の別の機能を利用しているという証拠を提供すると。重要なのは「人間の能力って凄い!」ということではなくて、このような症例の研究を手がかりに、音楽による記憶能力回復のための療法を開発しよう、という研究が始まっているという点。NPRでも、音楽療法について、最近の進歩と(音楽療法専門の病院の部門、大学の学部、博士の学位もあるとのこと)、財政補助等の困難について、特集を組んで紹介していました。

こんなのを読むことで、音楽が経済・医療など音楽外の世界とどうつながりうるか、どのように社会に貢献できるのか、なんてことを考えるヒントになったら、という期待があります。今のところでは、「聴衆は静粛に」というクラシック音楽のエチケットの成立の歴史についての記事(La Scena Musicale)を読んだ後、授業課題のための質問紙調査にその項目を盛り込んだ学生グループが現われました。ちょっとした喜びでした。

溝口優司『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』

2011年12月28日 | 読書録
去年から今年にかけて、人類史にとってかなり重要な新発見がありました。その一つが、ネアンデルタール人の遺伝子が現在の人類に少し貢献しているということで、これで、ここ20年ばかりかなり有力な学説だった「人類のアフリカ単一起源説」に若干修正の必要が認められそう。また今年、「光より速い物質を発見!?」という報告があり、「アインシュタインの相対性理論が覆されるか?」が物理学者の大きな関心事になりそう。

科学的研究の真価は、このように、有力な学説であっても、新たな発見によってくつがえされる可能性を必ず残しているところにあるのではないでしょうか。その意味で、「科学的研究によって○○を<証明した>」というのは、数学の定理のようなものでないかぎり、正しい伝え方・理解ではないはず。

また、「△△は科学では証明できない」というのもよく聞きます。これも、無理にでも主張したい考えがあり、それに否定的な判断を下しかねない科学の価値をおとしめるための詭弁に過ぎないことがほとんどと見えます。実際たとえば、Bloomingtonの街角で、ある世界的宗教を奉ずる人が私に対して、この論法で自らが信ずる宗教を弁護しました。しかし、科学によって得られるのは常に、現時点で知るに至った確実性の高い証拠から導き出せる、他と比べて最も信頼性の高い考え方に過ぎません。これは最も誤解されている点の一つであり、かつ、「科学的な言説」と、「(過去は科学だったことがあるにせよ)科学的ではない言説」とを明確に分ける点だと思います。だから、「科学には証明できない!」と言ったところで、(少なくとも真の)科学者ならそもそも「証明しました」など主張するはずもなく、批判になっていません。

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前置きが長くなりましたが、表題の本について。著者は、日本人の変遷にかかわる科研費プロジェクトの代表者だった方。その報告Webpageで「本プロジェクトが発足して2年半後の2007年秋、それまでの知識では班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れませんでした」と書かれているのを読む前に知っていたので、この本もそれを反映し、かなり保留つきの、結論を濁した内容になっていると予測しました。

読んでみたところ、筆者はそれよりはかなり踏み込んで、個人的に現時点で最善と考えるシナリオを披瀝してくれている、という印象です。その中には、筆者が、「かなり確実」とお思いの箇所と「ここはまだまだ」という箇所があるのでしょう。個人的に注目なのは、(1)縄文人がオーストラリア先住民等と同系、(2)プロセスはどうであれ、結果としては本土の現存日本人は、3000年前以降というかなり新しい時期に到来したいわゆる「弥生人」にほとんど置き換えられたに近い、(3)そのニューカマーたちは、「中国東北部から江南地域にかけて住んでいた」可能性が高い、というところです。

以前紹介した、系統分岐の統計手法を利用した日本語族の系統の研究について、「朝鮮日報」が「東大教授が日本語のルーツは韓国語にあり」と伝えました。しかし、(3)を参照して考えれば、日本祖語が弥生系ニューカマーが持ち込んだ言語だったとしても、それは中国東北部に3000年前ごろ以前に話されていた言語由来である可能性をまず考える必要があるでしょう。たとえ彼らが朝鮮半島を経由して来たにしても、日本語族に属する言語が日本列島と沖縄諸島にしか見られず、半島に残っていないことを考えると、日本祖語を現在の朝鮮語(やその祖語)に結びつけるのは相当に無理があります。(結びつくんだとしても)たとえば、日本語も朝鮮語も当時中国東北部にいた民族の言語由来で(そこで結びつくが)、たとえば朝鮮祖語も日本祖語も、別系統の言語の影響を強く受けて、各々別の方向に大きく変容してしまったとか... むしろ、「どっちかがもう一方を起源に派生した」というような直線的な結びつきには限りなく否定的な証拠がそろっている、というのが現状でしょう。

(追記:「朝鮮日報」の伝え方につき、記憶違いで勇み足をした部分があり、訂正しました)

ともあれ、人類史や極東アジアにいた(&いる)人々についての歴史について、さらに新たな知見が見出され、以前は定説と見られていた考え方に修正が加えられていくのは科学として健全であり、エキサイティングなこと。現時点での個人としてのベストを伝える努力を払ってくれた著者には(僭越ながら)感謝と敬意を表したいです。

渡辺明 『頭脳勝負』

2011年12月28日 | 読書録
日本に帰って2ヶ月ちょっと、目が回るほど忙しく、ばたばたしているうちに年末になってしまいました。その間、高知、香川、京都、石川(白峰)と研究している方言が話されている地域に行けたのは、幸いでした。

英語を教えることになったこともあり、英語を読み、聴く量はあまり減らしていませんが、日本に帰ってきたので、住むことになった小さな市の図書館にときどき通って、日本語の本も読むようになりました。いちばん最近読んだものがこれ。

渡辺明 『頭脳勝負 ―将棋の世界―』 筑摩新書

印象的だったのは、渡辺竜王本人が書いたに違いないということこと。たまに(ほんの二三箇所)分かりにくい表現があって、逆にゴーストライターによるのでないことを確信します。でも、ほとんどの箇所、文章は非常に明晰。将棋ファンならご存知のとおり、彼は、将棋の解説も明快・流麗。本当に頭脳明晰なのでしょう。

竜王は、ふだんの生活や、研究や、戦略等をかなりあけすけに話してくれる方のようで、奥さんのブログ(嫁さんはこっちのほうが好き)もふくめて、棋士としての勝負の「裏側」をかなり明らかにしてくれています。この本も同様に、渡辺竜王の人物がかなり端的に反映されているように見えます。

前半は、棋士としての生活はどんなものか、対局という勝負をどのようにとらえて日々や一年のシーズンを送っているか等が書かれており、後半は、具体的なタイトル戦などの解説になってます。著者ご本人は後半に苦労して、結果上手く書けたと思っているようですが、私はむしろ前半の方が楽しめました。とくに面白いのが、彼の棋士としての人生設計みたいなものを書いた箇所。システマティックな面も、適度に力が抜けた面もある。深淵で求道者的な羽生善治さんの発言に比べて、人間っぽくて、若々しい。後半も、終盤の秒読みぎりぎりで手が浮かんだ場面の心理(というか彼自身の認知過程みたいなもの)を披瀝してくれたところ等、読み応えあり。

この本が書かれたのは4年ほど前。その後、竜王戦3連敗4連勝もやり、現在8連覇。将棋界の中心となろうとしつつある彼が、このようにプロとしてのサービス精神を発揮して、かなりありのまま内情を見せてくれる(と見えるのですが)というのは、よいことだと思います。

ここ一年ほど、将棋を主にインターネットで観るようになりました(「+ニコニコ生放送」がいちばん好き)。将棋自体の技量はまるで低いわれわれ夫婦にとって、将棋観戦を楽しむ軸は竜王(夫婦)。彼がいなければ、われわれの興味も今ほどにはならなかったことはまちがいありません。竜王本人としても、「棋力が高くなくても将棋は楽しめるということを伝える」というのが執筆の一つの目的だったとのことで、そのことにはかなり成功しているのではないでしょうか。勝負の邪魔になってはいけないとは思うのですが、(将棋戦術の)研究書だけでなく、こういうのもまた書いてくれると、うれしい。