土佐っぽ

四国は土佐国のもんが、日々の中で思いゆう事や、得手勝手な考えを書きよります。どうぞよろしく。

光市事件に見る「正義」に隠された凶悪性

2012年02月19日 20時11分01秒 | Weblog
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あなた方が「正義」という名目で
誰かを裁き処刑するならば、
それは、人々が好き勝手に隣人を裁いていた
暗黒の中世と同じだ。

民主主義社会において、
法の精神は高く尊ばれるものでなければならない。
それは、その精神が地に落ちないよう、我々が支えることで、
始めて実現できるもののはずだ。

もし、それが崩れてしまったら文明社会は
すべての拠り所を失ってしまう。

そして、それ以後は神の手に委ねるしかない。

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誰にでも、職業や立場、社会的身分など関係なく、
生きる権利があり、
幸福になろうとする権利もある。

だから、
殺人は、絶対に許す事のできない犯罪だ。

ただ、
このミクシという中の書き込みを見ていると、
「正義」を振り回す人たちがあまりにも多い。

「殺せ  殺せ」という合唱が聞こえてくる。
30歳になった彼の罪は、万死に値するだろうことは、
もちろん、わかるし、あの行為が許されるものではないのも、
こころにずしっと響く。

ただ、じゃあ、
リンチのような感情を、そのまま表現する。
それが、「表現の自由」だとしても、
どうしても、納得できない。

死刑を求める人。
ただ、殺すよりは、苦しめろと言う人。

要は、「罰」を与える。
そして、それにより、自分の心が満足する。
まるで、
ギロチンで断罪された中世の広場の群衆のように。

そこには、どうしようもない違和感というよりも、恐怖を感じる。
そして、
そういう人々の感情を、非常に有効に活用しているのが、
この事件での被告の弁護士を排除しようとした、
大阪の前府知事で、今の大阪市長。

民衆の感情を非常に友好的な道具として、
誰かを攻撃し、「正義」を振りかざす。

個人個人の中に、「正義感」はあろうと思う。
ただ、それが、きちんとした公のシステムの中で、
丁寧に、正確に、慎重に公の手順をふんでこそ、
意味があると思う。

60%の民意で「正義」振りかざし、大なたをふるう。

これほど、おぞましく恐怖に満ちた事実はない。

「正義」を声高に言う人たちほど、
対極にある人たちの「正義」を踏みにじっている。
それは、歴史が証明してきたはずだ。
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