軌道エレベーター派

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神と科学に関する2冊の本

2012-05-03 22:27:59 | その他の雑記
 このサイトでは政治と並んで宗教の話題を持ち込むのはなるべく控えているのですが、きょうは科学的テーマとして少々。利己的な遺伝子で知られるリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)と、ダーウィン主義の学者でエッセイストとしても人気を得たスティーヴン・J・グールドの『神と科学は共存できるか?』(日経BP社)の読み比べです。
 この2著において、両者が意見を闘わせているんです。乱暴に言いますと

 ドーキンス「神? んなもんいねえよ。宗教に媚びる必要なんてありゃせんわ」
 グールド「科学と宗教は商売が違うから、お互いのナワバリには手出さんとこ、な?」

──みたいな感じです。
 背景には欧米社会、とりわけ米国ではキリスト教のコミュニティが多大な影響力を持っていて、科学の分野にも介入するという事情があり、その辺を意識して読まないと、私たち日本人にはピンとこないかも知れません。米国南東部には信心深い層の人口密度が高い「バイブルベルト」などと呼ばれる地域がありますし、その大票田は大統領選を左右し、思想は司法制度にも影を落とします。
 そして科学や研究、教育の面では進化論を排除したり、排除はしなくても聖書にもとづく創造論やID(インテリジェントデザイン)理論を持ち込んだりといったことが知られています。最近では「宇宙の起源はビッグバンと天地創造のどちらか?」というアンケートに、後者と回答した割合が米国では6割を占め、先進国の中で突出しているのだとか。土地柄や宗派間などで違いはあるでしょうが、そんな中で無神論者をカミングアウトすることは大変なデメリットをこうむり、キリスト教的な教義を否定する研究は、我々の想像以上に攻撃の的になるらしい。ましてや2人とも進化論の大家ですから。前置きが長くなりましたが、今回の2冊はその事情に対し、科学者の拠るべき立ち位置を問うものです。

 読後の結論から言うと(読んだのは数年前なんですが)、説得力においてドーキンスに軍配が上がります。自分が神も仏も信じていないので、おのずと彼を支持してしまう傾向があるのは否めないんですが、例証の多様さと筆致からうかがえる自信、その結果生み出される説得力の強さで、グールドはドーキンスの足元にも及びません。
 ドーキンスは書中で、神がいたらという仮定も含めて、自論への反証をかなり丁寧に潰していきます。その上で神が存在しないことや、彼が宗教を害悪とみなす根拠を挙げ、「罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである」(452頁)と、嘘への耐性のない子供への教義の刷り込みを糾弾しています。
 一方、グールドは「私は信仰を持たない」(16頁)と述べつつも、「NOMA」(非重複教導権)という造語を用い、科学と宗教は扱う分野が違うので、お互いマナーを守って住み分けできると主張。究極的にはお互いのことに答えを出すことなどできないので、口出し無用という意味あいのことを述べます。グールドのいうNOMAは「科学と宗教のそれぞれの立場を大切にする」(233頁)とのこと。
 
 なるほど、私も人様の信仰には、迷惑でない限り口を出す気にはならない。こう書くと、他者を尊重するグールドの方が聡明に思えるかも知れませんが、結局宗教をハレモノ扱いして、「触らぬものに祟りなし」の態度にしか見えないんですよね。NOMAというのは、創造主義が幅を利かせる社会において、自分の研究を守るために苦心してひねり出した全方位外交なのでしょう(グールド本人はNOMAは外交手段じゃないと訴えてますが)。ドーキンスは宗教界と不可侵条約を結ぼうとするグールドを名指しで「(宗教に対し)犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとる」(86頁)と、それはもうボロクソにこき下ろしていて、鬼籍に入ったグールドが気の毒にも思えます。ドーキンスは先制攻撃、グールドは専守防衛といった立場でしょうか。代わりに、ドーキンスは書き方が少々過激に感じる部分もあるので(相当お怒りなのだろう)、グールドの方が大人の態度に見えなくもない。

 ですがそうした部分を差し引いても、「人間という生命および、より広く解釈された生命体の(略)道徳的な問題なのである。この種の疑問についての実り多い議論は、科学とは別のもう一つのマジステリウム(注・教導権)で進められるべきだ」(62頁)などとグールドが宗教に意義を認め、尊重して住み分けしようと懇切丁寧に説くご高説も、聖書の一節を基にしたアンケート(イスラエル人の子供を対象に、異教徒を虐殺したというヨシュア記のエピソードの是非を問うたら66%が「正しい」と回答したが、主語を中国人に置き換えて質問したら回答が真逆になった)などの例を挙げて「聖書は道徳の根拠や手本ではない」(354頁)、「宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである」(378頁)というドーキンスの前には無力にしか見えない。
 この説得力の差は何なのか? ドーキンスは仮説を立てて神の不在を論証する「科学」をして、根底から宗教の存在意義を否定しているのに対し、グールドは本質をスルーして、もっと浅いレベルで処世術を正当化する「政治」をやっているという違いなのでしょう。そのため、ドーキンスのテーゼは普遍化できる一方で、グールドの書くことは限定的な教条主義で、読者は学者の本分をまっとうしているのはドーキンスの方だと感じるでしょう。ほかならぬグールド自身が学者の領分を踏み出ている=NOMAをないがしろにしているように思え、「学者なんだから慣れないことおよしなさいな」となんだか痛々しく見えるんですよね。もっともドーキンスはドーキンスで、そのうち原理主義者に殺されちゃうんじゃないかと心配になりますが。

 ドーキンスは「文句あるなら神サマに罰してもらえばいいじゃん、そんなもんがいるならな」と言わんばかりです(はっきりそうは言ってないけど)。それができない以上、神という空論と世界を分かち合う余地などなく、それを説くのは害でしかないと。この論理にはなかなかツッコむ隙が見えせん。

 この2冊を読んで一番感じたのは、研究以外のことにこんなにも振り回され、余計な気を遣い、しなもくてもいいケンカに時間と体力を割くというのは、さぞや神経をすり減らされ、虚しいことだろうな、という点ですね。こんなことさえなければ、場外乱闘もなく、研究のみでしのぎを削り合って、もっと科学が発展したかも知れないのに。。。世界的に見れば、特定の信仰を持たなくても支障なく生活できる日本のような国の方が少ないわけで、そう考えると私たちは、非常に恵まれた社会に生きているんだろうなあ、とも感じます。
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