“兆”

伝えたいこと、それは、変化の“兆”(きざし)です。

”感謝”できないわけ

2015-01-10 14:37:16 | 日記
 
 今年も年始に新年式を行いました。冒頭会長の挨拶の内容は『まず、こうして健康でいられることに“感謝”する。そして1年誠実に“努力”しましょう。』というものでした。『誠実努力』は弊社の社是でもあります。至極最もで、人として大切な姿勢だと思いました
 しかしこの“感謝”と“努力”について、最近ちょっと感じたことがあります。私自身もそうですが、なかなか“感謝”というのができない。その訳についてです。結論から言うと、人は“努力”するから“感謝”できない、のではないかということです。
 “感謝”というのはある良い結果が出たときに、他者にたいしてするもので、それはその良い結果が他者のおかげでなされたことを意味します。つまり、自分の“努力”の及ばない力への思いです。しかし、自分が一生懸命“努力”して、やっと手にした成功であれば、他者へ“感謝”することができるでしょうか。まして、その結果を『幸運(ラッキー)』だと評価され、だから“感謝”しろと言われれば、意地になって“感謝”しないのが人間ではないでしょうか
 『人間は、努力すればするほど、“感謝”しなくなる。』
 そんな仮説になんとなくひっかかりながら、さまざまな“成功者”のインタビューや著作物を思い出しました。そこには、少なからず他者への感謝の気持ちが表れていました。私の立てた仮説とは真逆です。『感謝の気持ちはありません。』なんて言ったら、大バッシング受けるから、口先だけで感謝してるんでしょうか。その可能性も否めませんが、それでも、自分の努力の土台には、他の人のさまざまな支援や助けがあって、だからこそ努力が報われたことを、真の成功者は知っているのだと思います。『自分一人で成功したのではない。』だからこそ、まず最初に、感謝の対象となるのは、両親なのだと思います。その存在がなければ、自分の成功も、生命すらもないんですからね。
 


TD:『奈良県の小山田遺跡から、最大級の古墳が出土された。専門家も、『コヤマダ見たことないねえ。』と言っているとか。』