OPALな日々

”Old Person's Active Life”をモットーとするOld Womanのフォトを交えたエッセイです。

松本で震度5強 旅は延期に

2011-06-30 23:45:41 | 
あずさ9号十番線11号車と、9,10,11、なんだか順番だな~。なんて車両のドアの開くのを待っていたら「ただいま長野方面で震度5強の強い地震がありました。」とのアナウンスあり。その後震度5は松本と報じられた。

「なんですと?」今まさに、松本在住の伯母を訪ねて旅立とうとしているところにとんだニュースである。

震度5強といえばかなりの揺れのはず。

80歳を超えた伯母の様子が心配で電話をすると、落ち着いた声でしっかりした応答でまずは一安心する。

乗車予定の電車は運休となり、その後も架線が切断されたとかで復旧せず、運行されたにしても座席指定はとれず自由席で立ちっぱなしも辛いので、旅は延期とした。

まあ、乗車してから変なところで止まられて、降りるに降りられず缶詰状態になるよりはましと諦めた。

そのまま何処かへ行く先を変更しようかとも考えたがご亭主の同意を得られず、購入してしまっていた駅弁を抱えて帰宅した。

駅弁を買いに行ったようなものだった。やれやれ。

帰宅後、伯母に訪問は延期と電話をすると「昨日から揺れてたのよ。大きな断層が近くにあるから、これからももっと大きな地震があるかもね。こちらは大丈夫、何かあっても逃げるところもあるし。今回は残念だったね。」と淡々と松本市内の様子なども知らせてくれた。

人生経験が豊富な人は、事あった際にも浮足立ったりせずにしっかりしたものである。

夫婦共に田舎のない我が家は、子供の小さい頃にはこの伯母の持家が大糸線沿いの木崎湖にあったので、毎夏長期滞在させてもらっていた。

毎日静かな湖を眺めたり、電車に乗って大町まで買い物に行ったり、近くの山をハイキングしたり、子供も勿論であるが、私にもいい思い出が沢山あって、伯母一家には今でも感謝している。

いつの間にか伯母も私も年を重ねている。お互いに元気なうちに松本へも出直そうと思っている。


        

朝は隣のワンコに見送られて家を出たのにね~。

        

車窓を眺めながら…の筈が、我が家での昼食となった駅弁。

サラリーマン風 金沢の味

2011-06-27 23:32:50 | 食あれこれ
先日の北陸ツアーは食事は朝食のみが付いていた。夜は自分の好きなところで食べられたので嬉しかった。


        

初日は久しぶりに会った息子と親子3人で、それなりに豪華な加賀懐石を楽しみ美味しい日本酒をちょびっと飲みすぎた


        

二日目は息子に振られたので街中のこんな漁師小屋のような店に入ってみた。ボンカレーのエナメル看板もかかっている。懐かしいというか…。

        

どのテーブルにも魚を焼くコンロが置いてある。予想とだいぶ違って焼き物が主体の店なのか?サラリーマンの憩いの場という雰囲気だ。

いかにも旅行者風の私たちはちょっと場違いな感じもしたが、この刺身の盛り合わせが1000円もしないリーズナブルさ。そして美味しかった。コンロの上に刺身というのは変な図ではあるが。

        

サラダが宙に浮いている訳ではない。真上から撮ったらこんなになった。メニューが敷物代わりだった。

        

加賀野菜の金時草のお浸し。色がまっ黒け。

        

つい、葉っぱを広げてしまった。味はほうれん草みたいに穏やかだった。

        

折角コンロがあるのだから喉黒を焼いてみよう。これだけはちょっといい値段だったが、魚は小っちゃかった。

        

そしてマッコリ!!

小さなアルミの薬缶に入っていて韓国みたい~。行きたいな~韓国。いいや、当分は国内旅行と決めている。けどね、やっぱりね~



そして

        

金沢の小道にあるキャットバー「ゼロクール」の小さな看板。今回の金沢旅行の目的の一つがこの店を訪問することだった。

        

この黒猫ちゃんがここの「店長」という名のニャンコ。綺麗な可愛い猫。でも暗い中の黒猫で、写真の撮り難いこと。やっと猫だとわかるのがこの写真

        

動物写真家の岩合光昭さんのサインもあった。岩合さんもご来店だったのね

これも節電の一環

2011-06-24 22:53:00 | 日々のあれこれ
6月というのに昨日今日と猛烈に暑い。暑いことで有名な熊谷では40℃近かったそうである

去年の夏から復活したアセモ、何故か今年は肘の内側の柔らかいところに出現した。

窓という窓を開けて風を通す。カーテンが翻っていかにも風が通ってますよ~という雰囲気である。

でもその風がム―ーッとしているのが悲しい

タオルで汗を拭いながらクーラーをジッと眺める。

我慢できないことはないけれど、やっぱりかなり辛い状態だ。一度スイッチを入れたらもう切れないだろうな


そこで映画館に避暑に出かけた。

図書館とも考えたけど、きっと同じことを考える人が多いのでは?と避けた。

ウイークデーの映画館ていつも凄く空いていて、「大丈夫かな?」と心配になるほどなので、これはいい避暑先じゃないかしら。

だって、大混雑といわれていたマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」だって、ガラ空き状態で私は観られたし。

映画は「東京公園」。

家族写真を撮るカメラマン志望の青年が、東京の公園をベビーカーを押しながら散歩する美しい女性のスナップを依頼されるという、ちょっと不思議なスタートをするこの映画は、観終わった時、人の思いへの温かさと優しさが快く残った。

映画館は涼しかったし映画もよかったし、これからも暑くて大変な時は「映画館へ行こう

みんなで涼めば怖くないってね

一人で外食

2011-06-19 22:26:41 | 食あれこれ
一人で外食出来るのが大人の証拠、のようなことを聞いたことがある。

もしそうだとすると、ずい分長い間大人になれなかったことになる。

一人でお店に入れないばかりに、ペコペコのお腹を抱えて何はとにあれ家に帰る。用事が全部済むまでは空腹でも帰宅するまで我慢をする。

それが、先生一人事務員一人というアルバイトをしたのをきっかけに、なんとか一人でお店に入れるようになった。

結局、本当に困ればなんとかなるということかな。

お陰さまでいろいろと便利になった。一人で旅行にも行けるようになったし。


とはいえ、どうしようかとお店の前を何度も行ったり来たりしたり、なかなか大変なのは相変わらずではある。


        

行ったり来たりしないでも入れるお気に入りのお店

        

突然、いつもは敬遠しているケンタッキーフライドチキンへ。入りやすかったから?

        

ここも一人で入れる大戸屋。あちこちにあるので助かる。


ところが、病院帰りにいつも行くお店が開いているのに誰もいない。声をかけても誰も出てこない。

何と不用心と思いながら「はて困った」

他に知っているお店もないしな~。お腹もすいているしな~。

もう帰ろうかと歩きだすと、ちょっと美味しそうな店が目に留まった。

迷っていると女性二人連れが店に入って行った。

後についていくと、小さな店内には女性のお一人様が二、三人(二、三組?)テーブルについているのが見えた。

先ほどの二人組は「揚げ豆腐のかにアン定食」なんて注文している。

アユの塩焼きと新じゃがの煮付定食とか春野菜のてんぷら定食、生桜エビのかき揚げ定食とかどれも美味しそうで迷う。


        

結局決めたのはイサキの煮付定食。新じゃががコロンと一つとふきが添えられていた。小鉢がなめこのおろし和え。キュウリと大根と白瓜のさっと漬けとアサリの味噌汁。


後から入ってきたおばあさんは常連さんらしく、注文してから生桜エビのかき揚げに気付き変更してもらっていた。

そのお店の人とのやり取りが温かくて気分が良かった。

また一軒、入れるお店が増えたみたい。


        

店内はいかにも居酒屋風。スッポンの殻に何か書いた物が沢山飾られている。スッポンと鱧が売りのお店らしかった。

食いしんぼう

2011-06-13 23:17:07 | 食あれこれ
私の育った家庭は食べ物に関心の薄い家だった。

大体の東京人はそうだったのかもしれないけど、殆ど魚と野菜の食卓だった。まあ、時にはすき焼きなども出てきたけど。

外食もめったにしなかったと思う。

魚も鮭と鯵と鰯、マグロの赤身。忘れているのかもしれないけど、そう種類も多くはなかったように思う。

ただ時代といえばそうだけど、毎朝鰹節を削って味噌汁を造っていたし、野菜も新鮮だったので、今思うとある意味では贅沢な食生活だった。

鰹節を削るのは私の役目で、鰹節も削る面があり逆目にすると粉になって綺麗な削り節にならないとか、子供なりに自分の役目をちゃんと果たそうとしていた。

ある時自分の小指もちょこっと削ってしまい、大人になってからも傷が残っていたが、最近思いだして小指を見たけど傷は消えていた。長い年月が過ぎたのを変なところで実感した。

当時は早朝にとうふ、しじみ、納豆など行商が来て「お豆腐屋さん、賽の目に切ってちょうだい。」と味噌汁の実を買ったりしていた。

良い声の納豆売りのおばさんの「なっとぉーーー、味噌豆ーーーー」の呼び声が朝の楽しみだったりした。

小学生くらいの男の子がしじみを売りに来ていて、「あの子は浦安から来るんだって」と聞いて「学校、間に合うのかな?」と心配したりした。

蜆売りも、今思えばそんな子供に行商なんてと思うけど当時は子供もよく働いていたし、妹や弟をおんぶして遊んでいる子も沢山いた。

遊んでいる子供の年齢も様々で、うんと小さい子は「おみそ」とか「みそっかす」といって、ハンデをつけて遊びに混ぜてもらい、いつもは乱暴なガキ大将もそれなりに面倒をみていた。

今は子供社会も横つながりらしいけど、その頃は年齢幅があり、それなりに縦社会で年上は年下の面倒をみ年下は年上の真似をして、泣いたり泣かせたりいじめたりいじめられたり、子供同士けっこう大変だったが、親に言い付けたりすると仲間外れにされたりしてた。

え~と、味噌汁の実からつながって話は脱線したけど、要するに我が家はなめこが洗ってもぬるぬるしていると言って「腐っている」と捨ててしまうような、食べ物が良く解らない家だった。

私も20才すぎまでバッテラも食べたこともなく、大人になってからはお初な食べ物に沢山出くわした。

親に似ずなんでも「美味しい、美味しい」と食べ、お陰さまでいろいろな人にご馳走していただいた。反応が面白かったからだと思うけど…。

そして父には「お前はなんでもよく食うな」といわれて憤慨していたのも、今になれば可笑しい思い出だ。

父親はおかずの数が多いと「目が疲れる」などという変なオヤジだった。

何でも美味しくいただく我が家唯一の記念すべき食いしん坊となった私は、いまや検診の際「メタボ」の一言を恐れている我が家初のころころ体型となっている。トホホ。