大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

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魂のささやき

2008-10-03 14:57:12 | Weblog
48 生花信心

 真宗には信者は多いけれども生花信心が多い。
盛られ飾られた花は美しいけれども根が無いから実を結ばない。
安価な妥協でなく、尻馬に乗る合点でなく、自己の魂の解決の付く迄、
本当に道を求めた真剣味の有る御同朋なら実を結ぶ事が出来るのである。
一体信仰をどんなに考えているだろうか。
内に向いて有難うなったのが信仰か、
外に向いて御報謝の出来る様に成ったのが信仰か、
共に眼目を失い、根本を誤って居るから信仰の本質に触れて居ない。
何故なれば自分は有難うなり得る根機であろうか。報謝し得る人間であろうか。
静かに考えて見れば感情だけの有難いものに誤魔化されては居ないか。
悪魔は決して悪魔の姿をして騙さない、すなおらしい心に騙されては居ないか。
其儘と聞いて其儘になっているか、唯と聞いて唯に成って居るか。
自分が自分に詐されてはいないか。自分の胸を見ずに有難い方ばかり見て
何時自分の腹が満足するか、自分に救われた自覚が有るか、決定がついたか、
自信があるか、真仮の分斎が明かに立ったか、苦悩の心が楽に成ったか、
絶対のお慈悲が届いたか。念には念を押して聞かねば目は覚めない。
他力も他力になるまで聞かねば他力には成らない。
覚えたり知ったりして次の様な気持ちだけでは未だ信心に決定がついては居ないのである。
 (1)佛様の仰せには間違いが無いのだから疑うては居ない。
併し佛様の仰せには間違いはないが魂様が臨終に成って機済みがしないと言って
間違うから始末が付かなくなる。
 (2)自分の機を見るから何時迄経っても決定が付かない。
而し機を見ないのは有難くて賑かで花やかであるが、根がないから八十年経っても
機を見れば不定の思いがする。
 (3)十劫の昔に機法一体に成就してあるから法を見ればよい。
併し今迄迷うているのは理屈は成就していても私のものになっていないからである。
私の上に今一体の自覚がなければ満足は出来ない。
 (4)凡夫は死んでからの往生じゃから今は明かな事はない。
併し死んだ後は弥陀同体の証を開くのじゃが、現在決定往生の約束が出来なければ
正定聚の分人とは言えまい。
 (5)戴いた戴かぬは親が知っている。
併し親が知っている安心なら佛智満入の時子供も知らなければ一体ではあるまい。
 (6)往生の一段は凡夫の計うべき事に非ず、佛智の不思議と信じたらよい。
併しそう合点しても計らうまいと計い、疑うまいと疑い、思うまいと思う心は
どうしたらよいか。
 (7)文句言う人は宿善がない。
併し不実の心が続々出るのに宿善がないと諦める訳には行くまい。
 (8)堕ちる者をお助けと思い、御恩報謝さしていただくのが真の同行である。
併し機と法と並べてそう思わねばならんお慈悲でもあるまい。
又一念の信の解決が付かずに、報謝々々と務めていると、
何時とはなしに雑修の仲間入りをするであろう。
 (9)判らんその儘を、お助けと安心したらよい。
併し無理矢理に安心を塗るけれども、そのままごかしでは合点まではするけれども、
自由の天地には遊べない。判らんと言う心が判らんのであるから、
判らん心が判らんと判るまで、行かなければ判らん心は判らん。
 (10)何もかも御恩と思うている。
併し思わなくなったらどうするか。
 単にうわべを繕い悪い心を御承知でと蓋をして自分を抜きにして法ばかり見て、
御教化を知って美しい花を飾り他人の言葉を覚え、善知識の証明で薄暗い心を押え、
その儘と仰有るから疑わない様にして、と腫物にでも触れる様にし、
強く握れば崩れそうに成り、軟く握れば離れそうになる。
根のない浮草の様な信仰を持って居るのが真宗同行の九分九厘までではあるまいか。
そうしか思えない同行なら仕方がないが、私は根性が悪いから、
まだまだ底の方に「てれっとした」自分ながら判らん心が居たのに気付かせて頂いた。
自惚強い私に見える迄、調熟の光明に照されて来たのであった。
さあ後生は一大事!!唯が判らん、其儘が判らん、判らんという心が判らん、
他人事に有難がって居た時には真剣でなかったが、自分の心に火が付いて見れば、
思わして貰うて居る位では済まなんだ。
学問もしている、御教化も知って居る、三信、三心、一心、憶念、三不三信、
無上信心、二種深心、信疑決判、三信釈も机の上で講義を聞き、
合点して脳味噌に畳みこみ、信じさして戴いた積りで居たけれども、
潮の様に押寄せて来る散乱粗動の心の前には、知ったのも覚えたのも、
心得たのも、戴いたのも、三文の価値は無かった。
其時の苦悩の心は千尋の谷底に蹴落された様な心持で、身に添う善根は微塵もなく、
知らん顔している心、地団駄踏む悪性見れば見る程地獄一定、
やめるにやめられず、進むに進まれず、御飯も進まず、睡入られもせず、
一週間は寝食を忘れ、無我夢中、真に生命がけで求めていた。
(第四編入信の道程に詳し)
立って居る儘が火の世界ではないか。苦悩の心の儘が火柱抱えた姿ではないか、
この姿、この魂、法龍の五尺の体が火を吐いて居るではないかと、
自分へ立ち戻った時の恐しさ。
その一刹那々々が火に焼かれる思いであった。
最後の叫びは恐ろしい呪いであった、
教えて呉れる知識はないか、救うて呉れる佛はないか、
只と言っても、此の様に苦しまねばならんとすれば、何処に只があるか。
泣くに涙なく、叫ぶに声の尽きた時、(之から先は体験だから、言っても判らん)
地獄一定の儘が、極楽一定の大自覚は底が知れないから、高さも知れない不思議。
其の一瞬時から心機は一転して底を叩いた法龍が極楽一定の大自覚を獲た。
暫くの間は嬉し涙で声も出ず、唯じゃ唯じゃと踊り舞いして慶んだ。
 (1)疑うまい疑うまいと思うて居た恥しさ、
疑いなく堕ちる法龍が疑いなく助ける親に抱かれて疑いなく本国に帰るので御座いましたか。
 (2)親様すみませなんだすみませなんだ
自分の機も知らずに此の儘此の儘と臭い物に蓋をして居ましたが、
本当に箸にも棒にも掛らん此儘で御座いました。
 (3)十劫已来うわつらばかり聞いてすなおらしく粧うて却って親様を泣かしましたが、
私がうんと言って上げなければ、親様も正覚お取りなさらなかったので御座いますか。
法龍の往生が決まらなければ親も正覚取らないとはどうしたよい親であったろうか。
 (4)この大自覚は死んで得らるるのかと思って居ましたら、即得往生住不退転、
現生に不退の位に住するとは。
 (5)親子の名乗が挙って見れば、親の物は法龍の物、
親の苦労も今こそ明かに知られました。
 (6)本に佛様のお助けの方は計ひませんでしたが、私のきかん機を計うて居ました。
愈々唯になって見れば動く儘が親様に計われて居るので御座いました。
 (7)死人同様の無宿善の法龍が廻心皆往とふりかえり、
無量寿の生命を得さして頂き、生死の苦海が希望に満ちた光明の広海に転じたとは、
佛智の不思議で御座います。
 (8)まあまあこんなお粗末な心で実機も見ずに御恩報謝なんど大それた事ばかり
申してゐましたが、御恩報謝どころか、御恩知らずでございます。
 (9)判らん心ですごすご堕ちるを見抜いて唯じゃの勅命一つで。
 (10)この幸福を得た現在は、動く儘が南無阿弥陀佛であります。
佛恩、師恩、衆生の恩、天地の恵み、父母の恩、しみじみと感ぜずには
居られませんと、全身汗みどろになり、合掌してお礼申上げた。
嗚呼現在のこの心六字と一体のこの魂。
思わにゃならぬ思ひでなく、繕はにゃならぬ考えでもなく、
声もなく姿もないけれども心の底からほとばしり出る信念は、
やむにやまれぬものがある。
堕ちとも無いの恐れもなく、往生せねばならんの力みもなく
堕ちりゃ元々、上りゃ不思議、飾る事もいらなければ、諂う必要もない。
善悪浄穢を離れ、倫理道徳を超越し、心を弘誓の佛地に樹て、
無碍の大道を闊歩し得るこの心、これ程広大な境地があろうとは夢にも知らなんだ。
血みどろに求めた法龍は、血みどろになって倒るるまで名号不思議の念力を
人に注がなければならない。
葉は枯れ花は散り枝は折れても土に思いの根は残る。
若しこの広大難思の慶心を説くのが悪ければ、罵詈讒言譴責破門、あらゆる迫害も蒙ろう。
一切の人々の中に自分の罪悪の程も知らず、法の手元を覚えて善人らしく、
報謝が出来るらしく、誤魔化して居らるる同行、何の煩悶もなく、何の苦痛もなく、
唯を唯と知って居らるる信者達が有ったならば気の毒ではないか、
逆境に立たず、悲劇に逢わない間は調子合わしても行かれれようが、
今臨終となり、感情は間に合わず、実地問題になった時は、
如何に御教化の花は飾り立てて有っても、根本がないから後生の一大事の関所は越せないぞ。
泣くに泣かれん不実の心が救済された大自覚がなければ生命掛けの奮闘は出来ないぞ。
(『魂のささやき』p.116-125)
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魂のささやき

2008-09-22 12:45:06 | Weblog
47 一念の決勝点

 後生は一大事と口では言ってるけれども小指が折れた程にも考えて居ない。
何は措いても聞かねばならんと言いつつもお寺を年寄の遊び場位にしか
考えて居ない。信心戴かねばならんと言いつつも何時とはなしと槍放しにしたり、
一人合点できめ込んで居る。
唯じゃ唯じゃと言いつつ、悪性に蓋をして法水を注ぐから佛智満入する時がない。
 何故だろう。何故だろう。何故一大事をかけて聞かないのであろうか。
何故法龍ははっきりと教え得ないのだろう。
あれだけ鮮かな本願じゃもの。あれ程切れ味のよい勅命ではないか。
助けるに間違いがないと言う勅命が届いたのなら助かるに間違いがないと
満足出来ねば如実の信ではない。
如実の信の上からの起居動作でなければ一切の作業は
悉く自力の域を離るる事が出来ない。
この真仮の分斎を混淆して現在の儘の浮き雲の様な教化では、
今後二十年を出ない内に真宗は破滅するぞ。
何故真剣にならないのか。
絶対の信仰の前には覚えたのも、知ったのも、合点したのも、
信じたと腰掛けたのも、すなおらしくしているのも、疑うまいとするのも、
皆役に立たない事も知って居るだろう。
唯も唯になるまで聞かなければ唯には成らない。
他力も他力に成る迄聞かなければ他力には成らない。
易いも自力の蓋をして、その儘ごかしにする易いのではなく、
私の儘が南無阿弥陀佛の易さでなければ絶対とは言えない事も御承知であろうに、
何故よい加減に信仰の妥協をするのであろうか。
 信念の溢れを語る説教でなければ人を動かすことは出来ない。
大衆に迎合する様な調子を合わして賑かに派手にするのが
真宗の盛大さを物語るものではない。
一宗の繁昌は導く僧侶の信念如何にあるのだ。
姿の僧侶よりも心の僧侶、真佛弟子と成って殉教してこそ僧侶の本分ではないか。
法龍は自分の信念を発表して受ける迫害なら破門でも流罪でも死罪でも、
甘んじて受ける。地獄一定の魂が救済された大自覚は誰様の前でも遠慮なく
叫ばずには居られない。
法龍自身の後生は一大事とスタートを切って見れば
一念一刹那も清浄の心もなく真実の心もなく三塗めがけて走り込む姿、
じっとして居らるるか、泣かずに居らるるか、求めずに居らるるか。
この法龍の血みどろの姿、この不実一ぱいを不実の儘で許して下さる
大慈悲の声なき声に呼びさまされ、魂の底から湧き出づる感謝の涙、
往生は一定の決勝点に入った嬉しさには飛上って喜んだぞ。
罪障の軽い善人なら、晴れたか晴れぬか判るまいけれども、
法龍の親は夜が明けたとも日が暮れたとも判らない様な水臭い親ではない。
 調熟の光明に照されて動きの取れぬ罪悪を見せつけられ、
にっちもさっちもならぬ心を見貫いた親じゃぞー の叫び声一つで満足し、
久遠劫から法龍一人に成就した名号と名乗を挙げた時、親も正覚取ったのではないか。
親に逢うて逢うた刹那の味を知らんでよいか。
広大勝解の者とか、この人を分陀利華と名づくとか、
妙好人とか希有人とか讃められて、とぼけて居てもかまわぬか。
平生に業事成弁して他人事の話で済まされるか。
久遠劫からの重荷とられて晴れたか晴れぬか判らぬでもよいか。
死刑の罪人が無罪放免を慶ばずに居らるるか。
無明の闇が晴れてもはっきりせんでよいか。電燈はついてもまだ暗いか。
佛智満入して魂一つが正定聚の菩薩の自覚を得さして貰っても
明かになれないなりでよいか。
凡夫にははっきりした事はないと言うが、信一念の決勝点に入っていない証拠じゃ。
凡夫には信一念はわからぬと言うが時間の事か妙味の事か、
凡夫にはわかるまいが、信受本願前念命終、即得往生後念即生を体験し、
正定聚不退転に住して居る者なら一念の味ははっきりわかる。
併し今が一念じゃぞー と時間の前触はして来ないぞ。
実地に胸と相談するが一番好い。胸以外で法を並べても死物じゃ。猫に小判じゃ。
私の心が満足してこそ、法も生きるのではないか。
私の往生と佛の正覚は同時じゃぞ。しかも一念で解決は付くのじゃぞ。
わかる、わからんの文句があるか。
わからん者には判らんのが本当。わかった者には判ったのが本当。
第十八願成就の文には、

  聞其名号信心歓喜乃至一念

と説き、三輩の文には

  若聞深法歓喜信楽不生疑惑乃至一念

と教え、聖人は

  信の一念とは信楽開発の時剋の極促を彰し、広大難思の慶心を顕はす。

に仰せられ、又口伝抄には処々に一念を説き、
蓮如上人は領解文に

  たのむ一念の時往生一定お助け治定と存じ

又、御文章の処々に

  一念の信定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら

と申さるるのは、御教化のみや、空論ではあるまい。
実地自分の魂が白状し救済さるる自覚を得たから、
信楽開発と同時に雑修や自力の心の手が離れたのである。
 決勝点に入らなければ六字の優勝旗が我物には成らないぞ。
一切の群生海から選ばれた必堕無間の選手じゃないか。
祖先の人達を代表して聞きに出て居るチャンピオンではないか。
何故月桂冠を求めない。何故永遠の生命に憧憬しない。
進め進め解決の付く迄、仮令火の中でも水の中でも、
取とめのつかない散乱放逸の心が無形の親の念力と一体になるまで、
無形と無形、魂と魂、煩悩即菩提、不実即真実、穢悪即清浄、佛凡一体の境地まで、
信仰の道程にも関所が多い、(「入信の道程」を参照)
難関を突破するのだから難中の難ではないか。
恒沙の諸佛の証明を要するから極難信ではないか。
自力の執心が離れないから、
「無上の妙果成じ難きには非ず、真実の浄信実に獲ること難し」
ではないか。
多くの難関、多くの障害物を通り貫けて、一念の決勝点に入った時からが
あら心得易の安心や、あら行き易のお浄土や。
私の動く儘が南無阿弥陀佛じゃ。本願や行者・行者や本願と苦抜けした大自覚、
それから後が生命掛の奮闘報謝の生活となるのであるぞ。
(『魂のささやき』p.110-116)
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魂のささやき

2008-07-15 14:33:46 | Weblog
46 信仰の妥協はせぬ

 南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、歓喜の泉より湧き出る称名、
信海流出の報謝の大行称うれども称うれども機には止らず、
行じて行功を見ず、悉く願海に帰る正定聚こそ
如来廻施の賜たる法体大行の顕現である。
この真実功徳大宝海の名号が私の心中に印現した時、
天上の月の儘が水上の月、本願の名号の儘が私の信心、
本願や行者・行者や本願であるから、賜った信仰も大信心海である。
 この宇宙に遍満している大真理、自然の大道、如来の念力を注がれ
佛智満入した者が晴れたか晴れぬか判らぬで済むだろうか。
諸有の群生海の中から選抜された正定聚の分人が信の一念の決勝点に到達し、
「是人名分陀利華」或は広大勝解の者と讃歎されて居て、
救済された自覚が無いとは情ない哀れな信仰ではないか。
それで本当に済むだろうか。
もしも自覚があるならば覚他と働くべき筈である。
自信が有るならば教人信と進むべき筈である。
願作佛心は度衆生心となり、広大難思の慶心は常行大悲の徳となるべき筈である。
それが無いのは法を知っただけで、如来と一体の大自覚を得ていないのである。
私も初めは此者をお助けと此者が判らんなりで慶んで居た。
法のお手元を見れば一寸も疑う余地はない。
只で助けて下さる事も知っていた。その儘も心得ていた。
堕ちる者お助けも合点して居た。
信心も安心も、お領解も一念も多念も、後念相続も知って居た。
安心起行作業も納得し疑いなく信じて、報謝を営むのが真の同行
と言う事も承知し信じて居た。
併し氷の上に建てられた御教化のみの信仰は、調熟の光明に照さるれば
地盤が薄くなるのは尤もである。
実際に行詰った自分、嗚呼私、見苦しい法龍の姿、浅間しい法龍の魂、
如来のみ前に跪いた時、一切の罪悪を照し尽された時、
懺悔せずには居られなかった。悪性を白状せずには居られなかった。
罪を罪とも知り得ない魂、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても慶ばず、
真剣に求むれば他所見する心、聞くまいと投げれば火が付いた程急ぐ魂、
右とも左とも落ちるとも上るとも知り得ない散乱放逸の心、
押うれども押うれども鎮まらない意馬心猿。
何処が私の本性か、何が私の魂か、私が判らなくて泣いた私。
箸にも棒にもかからぬ私。
梃子にも匙子にも乗らない心、手綱を寛めると十方に飛出す横着な魂、
知らぬ顔して居る心、この心こそ業流転を続けて来た無明の暗である。
 これを根本として枝葉は繁茂し花は開き実は結ぶのであるが、
私の見苦しい始末は日々延びて居る。夜々憎悪の葉は栄えて行く、
飽く事知らない貪慾の渦、押えても燃え上る瞋恚の焔、
歓楽を粧うても素地の出る愚痴の心、利害関係の前には総てを忘れて
親兄弟を殺し妻を殺し善知識を殺し一切の人の不幸を見ては冷笑し、
禍を聞いては横手を打って楽む悪鬼の心が動いて居る。
手には出さなくても他人を押し倒し他人の目をかすめても得たい
貪慾の餓鬼の魔の手は延びて居る。美しい婦人を見た時の心!
皮を剥げば膿血の流れる・・・と理屈は知って居ても
邪婬を行う畜生の心は暫時も離れた時がない。
心口各異の偽りは上手である。誤魔化しは名人である。
他人の名誉を憎み、友人の出世を怨み、他人を裏切って平気でいる心、
他人から誉められたい自惚心、何処々々までも図々しい心、
名誉や地位や財産に、又は婬慾や食慾や睡眠慾に至るまでも我身勝手より
他に考えない無明業障の恐しい病の私が、血みどろになって求むれば求むる程
真実になり得ない。五逆十悪の私、総てをふみにじりたい謗法闡提の私、
行住坐臥心常念悪口常言悪身常行悪の私、露塵程も善根のない唯知作悪の私、
三千世界の悪を一人で荷っている下々品の私、勇猛心をも喪うた寧弱怯劣の私、
もがけばもがく程、出離の縁有る事ない私、地団駄踏めば踏む程必堕無間の私、
無限無辺の罪悪深重の私、極悪最下と底を叩いた私、泣くに泣かれぬ地獄一定の私、
比べ者のない絶対不二の機の私、ぶるぶるぶるぶる沈むより他に道を知らない私、
じゃと心の眼を開けた処、声なき声の聞えた処、バチッと音の出た処、
右の手の音か左の手の音か、それは両方一致した時でなければ音は出ない。
法の手元を心得たのでも、機の脚元を知ったのでも、堕ちる者をお助けと
並べたのでも、信の一念の火花は散らない。
 地獄一定の前には、あうのかうの道理理屈や言葉は尽きて居る。
慎まれるから報謝が出来るからと言う雑修も役に立たない。
疑いさえせねばよいと敬遠して居る小さい自力の心は飛んで居る。
唯残る者は不実一杯の悪性!!
どうしようか、只ぞーの一言値千金。
「うーん」で充分じゃ。
その信念、その体験、その自覚、私は大地にひれ伏して声を限りに泣いた。
私は地団駄踏んで躍舞して喜んだ、久遠劫から待ち侘びた親に逢うた嬉しさ、
佛智満入の一刹那、佛凡一体機法一体の妙味、天地の揺いだこの情景、
親の心は子が知る、子の心は親が知る、絶対不二の世界、無我の境地、
地獄一定が極楽一定と噴き上げられた信楽開発の此の一念、
暗から闇に泣かねばならぬ私が、即得往生住不退転と正定聚の菩薩に
産れ出た記念日を知らんでどうする。
(解決の日時を覚えて居なければ行かれないのではないぞ)
自覚した日を言うから異安心じゃ。
裁断の御書には時日を論ずるなと書いてあると申さるるかも知れぬが、
親に逢うたのを知って悪いとは一度も書いてないぞ。
不実一ぱいと真実一杯が一念で勝負を付けたのではないか。
この一念こそ真宗の骨目、往生の肝腑、
聖人の真仮の分斎を明らかにされた処ではないか。
 一、明信佛智、佛智満入、親の大宝海を只で貰った一念の妙味を
知らんでよいか。知らないでは報謝も出来まい。
 一、よく衆生の一切の無明の闇を破しよく衆生の一切の志願を満足せしめ給う
とあるが、夜が明けたとも、日が暮れたとも判らない様な信仰で闇を破す
と言わるるか。五十二段の約束が成立って渦巻く苦悩の心が、
希望に満ちた光明の世界に変って、踊躍歓喜せずに居らるるか。
何時とはなしで済まさるるか。
 一、たちどころに他力摂生の旨趣を受得せり、とあるは知らん間に、
信楽開発は出来ると言うことではあるまい。
 一、御文章にも、「今こそ明らかに知られたり」とあるが
他力不思議に催され、悪性が白状さされた時、
信受本願前念命終、即得往生後念即生、『うーん』と言った時が、信一念で、
凡夫の魂の命終った時、次の息は凡数の摂ではないぞ。
正定聚不退転の菩薩の仲間じゃ。
それから南無阿弥陀佛と一声出た時が行の一念であるが、
併しその場合これが信の一念、之が行の一念とそんな事を考える余地は微塵もない。
万歳、万歳、万々歳と泣くより他に手はない。
今迄の煩悶の全部、十方に遍した散乱放逸の心が今は罪業深重も重からず、
散乱放逸も捨てられず、の勅命通りに生きている。
今迄の法ばかり眺めて喜んでいた時の心と、今は天地雲泥の差がある。
何故なれば箸にも棒にも掛らぬ実機が救済された自覚があるから、
今迄は罪を恐れ悪を慎んで参ろうとする他人親の雑修の根性が
止まなかったけれども、今は佛凡一体で心の命ずるままに進退し
無碍の大道を闊歩する大決定を得て居る。
今迄は御教化を覚えて多くを知って他人に説いて聞そうと思っていたが、
今は一言一句、私一人へ注がれた如来の生血であって、
かく迄の御苦労がなければ私は呼び覚まされないのであったと
自分の満足した事を話す様になった。
今迄は之も御恩報謝、あれも御恩報謝と思っていたが、
今は御恩知らずの不実者を見さして頂き、じっとして居られなくなった。
 この偉大さ、この威神力、底の知れない不思議の力、親より賜わる歓喜の光、
悪に強けりゃ善にも強い。のるかそるかの一念を生命懸けで求めさされたのだから
生命掛けの報謝をせずには居られない。
杉浦重剛氏が日露の講和談判に行かれた小村外相に
『四面楚歌の声するも屈せざるは是れ男子、信じて行えば天下一人と雖も強し』
と打電されたそうなが、機なげきとか地獄秘事とか、間違い者とか異安心とか、
邪儀とか異解者とか四方から攻撃の声は聞えるけれども、
いくら上手でも理屈の物尺では、体験の世界は計られないよ。
不実一杯を貫く他力至極の金剛心は親(弥陀)の物であり子(法龍)の物である。
私の往生の解決の付いた時が、親の正覚を取られた時である。
私を離れて弥陀は無い。身も南無阿弥陀佛、心も南無阿弥陀佛、
口も南無阿弥陀佛、彼此金剛の心じゃないか。
この無碍の大道の前に障碍する者が何処にある。
聖人様が

  然るに濁世の群萌穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、
  半満権実の法門に入ると雖も真なる者は甚以難く、
  実なる者は甚以稀なり。偽なる者は甚以多く、虚なる者は甚以滋し。

と仰せられてあるが、自己反省なく、親子の名乗の体験もなく、
獲た積り、信じた積りでは死出の関所は通れないぞ。
畳の上の水練も、机の上の講義も知ったり覚えたりしたのでは
生死の苦海は渡れない。
 真宗の同行よ、本当に他力不思議の信心が獲得出来ましたかい。
真仮の水際が明かに味わえましたかい。権実の分斎がはっきりしましたかい。
 聖浄二門は勿論、正雑二行、専雑の得失、三願転入、
此は僧侶の学問ばかりじゃない。
誰しも通らなければならない信仰の経路ではないか。
この従仮入真の経路こそみ佛様が調機誘引して大願海に帰入せしめる
善巧摂化ではないか。
方便の方便たることを知らない者は真実の真実たる所以を知らない。
我等一切の群生方便より真実に転入してこそ本願を生かすことが出来たのだ。
信仰の真の生命は妥協でもなければ迎合でもないぞ。
絶対他力の信仰は素直な仮面を覆った誤魔化しでは
(いや本人は疑わないで信じさして貰うて居る積り)あるまい。
進め進め絶対の境地まで。方便の真門を去って真実の弘願に達するまで。
その昔法然門下の異安心の中、聖人は信一念の邪義に加えられてあり、
終に御流罪に逢いながらも、『唯佛恩の深きことを念じて人倫の哢言を恥じす』
と八方攻撃の唯中ににっこり微笑まれた光りこそ、
末代の今日を照して居るではないか。
野中の一本杉には風当りがきつい。
併し地獄一定が極楽一定に生かされた大自覚、此心深心せること由し金剛の若し
の前には恐るる者がない。
十方世界を我心とした魂一つの大満足は、権勢も曲げる事は出来まい。
威武を屈する事は出来まい。況や富貴や名誉を以てせんをやだ。
箔や飾では往生の解決は付かないぞ。
法龍は信仰の妥協は出来ない。三界六道は客舎ではないか。
客舎に執着して永遠の生命を失う者こそ顛倒の人間から見れば
間違って居ないけれども、み佛の眼から見れば虚仮ではないか。謟偽ではないか。
 静かに考えると私は驕慢の中の大驕慢、少々の驕慢ではない。
五十二段の後とりは、法龍一人じゃと言う勇しい驕慢じゃ。
身に余る歓喜、心に燃える信念、尊いではないか。
人は人、我は我、救われた御恩報謝には倒れる迄進め。
喉の破れる迄真仮の分斎を叫べ。声が出なければ、ペンで戦え。
ペンが折れたら心で戦え。
法龍の身は八つ裂きになるとも息の根の続く限り絶対他力の進軍ラッパを
吹き続けずには居られない。
救われた信念じゃもの。地獄一定が正定聚不退の身となった嬉しさじゃもの。
 いい親もったなァ、南無阿弥陀佛。
  あら尊と五兆の血しほ飲むわが身
     ささげまつらんはらからのため
(『魂のささやき』p.99-110)
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魂のささやき

2008-07-03 13:46:14 | Weblog
45 調熟の光明と摂取の光明

 佛様の光明には調熟の光明と摂取の光明との二つがあると、
お説教では度々聞くけれども、二の光明は何処で判然と区別するか
一度も聞いた事がない。
根機を調えるのが調熟の光明、戴いた信が真なら摂取の光明というまでは
言い得るけれども、真ならと言っている間は真ではないぞ。
どこで水際をわけるか。凡夫には判らぬだろうか。
先日十七歳になる竹本文子という少女に、二光明の分斎を尋ねると、
『信の一念で分けます』と、考えるひまもなく臆する色もなく返事をした。
 布教する人、説教する人、此処の味を弁えなければならない。
調熟と摂取とごっちゃにしてはおらぬか。
しなくとも皆摂取された積りではおらぬだろうか。
多くの方々には水際は無いのだろうか。
道理が合い理屈がわかれば他力の信仰を得たかの様に思い
すぐに報謝をふり翳し摂取光中の喜びだと言って
金剛心の様に考えて居るけれども、まだまだ進むべき余地は充分ある。
私も調熟の光明で満足していた時は、随分喜びもし素直でもあった。
そして威大な信仰の人を誹謗していたけれども、
自分の手元にたちかえって考えた時、言ひ知れぬ寂しい心が有った。
他所の火事までは気の毒じゃなあ位ですんだが、
自分の家に火が移った時にはたっても坐っても居られなくなった。
此の心が返事するまで、心の曇りが晴れるまで、
大決定を得るまで進まなければならない。
信仰はくづれない様に思っても、心の底から吹上げる罪悪には勝てないぞ。
一大事の後生となって考えると、合点ぐらいではすまされない。
包まず隠さず本当の所を言うと、俗人よりも宗教家の方が道心は確かに淡い。
批評でもなければ反感でもないが、立派な方も沢山あるけれども
中には心得た積りで不徹底のまま、合点し感じたのを他力の信仰の様に思い、
体験等は夢にも考えていない方もある。
そして継子いじめや新聞の切抜き位の話に九分九厘までの時間を費し、
後の一厘でその儘ぞー。と難中の難の関門を突破するから
信仰の入口に居る同行なら満足もしようけれども、
幾百席も聞かされて真剣になった同行は腹の底の本性が泣いて居るから
決してそれでは満足が出来ない。
念を押して求むればすぐに頭から異安心とかぶせるが
本当の異安心はどんなものか知ってるだろうか。
紺屋の白袴、医者の不養生、坊主の無道心ではないか。
御文章に

 一、近年佛法の棟梁たる坊主達、我信心は極めて不足にて、
 結句門徒同朋は信心は決定する間坊主の信心不足の由を申せば、
 以ての外腹立せしむる条言語道断の次第なり。
 已後においては師弟共に一味の安心に住すべき事。

 本当に言語道断の次第ではないか。私は求めた。火がついた様に。
私は進んだ行きつまるまで。私の心は動かなかった大磐石の様に。
私は泣いた親に離れた時の様に。私は苦しかった地団駄を踏む程。
疑うまいと思って疑う私。他力を他力と聞き得ぬ私。
その儘をその儘と信じ得ぬ私。堕ちるを堕ちると知らぬ私。
悪人を悪人とも知らぬ私故、出離の縁が無いのじゃと、
心に思った時と、実際黒い焔の中に逆飛する有様と、唯ぞーの勅命と、
話せば前後はあるけれどもその一刹那の信念は
「不思議」の一言に尽きるのである。
不思議の世界の扉の開かれた時が、久遠劫のきづなの切れた時である。
その信の一念こそ調熟の光明より摂取の光明に移った時である。
この胸裡、この信念、この自覚、この決定は生命がけに依って得たのであるから
生命懸の報謝をせずには居られない。胸に首つっこんで泣いた同行、
間違者と笑れた求道者。異安心と誹られた御同朋。
泣く子に乳は与えられる。貧窮に慈雨が注がれる。進め進め一歩々々を堅実に。
徹底する迄。決定得るまで。歓喜の泉まで。判らなければ判るまで。
法龍の身は破れる迄求道者の為に血を注ぐ。
法に死すればこそ出世の本懐ではないか。
  共に泣き共に笑うて南無阿弥陀
    心の曇り晴れて涼しき
(『魂のささやき』p.95-99)
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魂のささやき

2008-06-29 13:04:30 | Weblog
44 門出の用意は出来たか

 他人の信仰ならいざ知らず、自分の出離の大問題、
人に相談しなければ判らなかったり、善知識の助太刀が無かったら
満足し切れない様な事では往生の解決はついて居ないぞ。
汽車に乗って道を行く時、「何処へおいでになりますか」、
と尋ねられて、「私は何処か知らん」と言えるか。
「親が知って居るから好い」そんなら親に本当に逢っているか。
真に心の悩みが晴れているか。親に逢うた積り、信心戴いた積り、
任せた積り、晴れた積り、積りは百千万並べても、決定ではないぞ。
 汽船は出発しようとして居る。宿に寝ころんでいて切符を買った積り、
船に乗った積りでは生死の苦海が渡れないぞ。
乗った船は他力じゃが、乗るまでは即ち宿善開発までは求道せねばならないぞ。
最初から他力は有り得ない。それに皆十八願の機じゃと言う人も有るが、
夫なら佛様は第十九願、第二十願は誰の為に建立されたか。
後の二願は聞き損ないの機の為ではないか。
万行随一の名号と見るは第十九願の機(自力)、
名号の万行に超過せるを知るは第二十願の機(半自力半他力)、
名号に動かされ無我の世界に入るは第十八願の機(絶対他力)である。
此の真仮の分斎を分別せずして、十把一束に総て十八願の機とは言い得られまい。
名号の殊勝は知って居ても開発の出来ない間は第二十願の桁である。
二十願の機は罪福を信じ、善本徳本の名号を己の功徳とし
佛に廻向する機であるから、廻向出来るか出来ないか、
自力の尽きるまで進まなければ第十八願には開発しない。
自力より半自力半他力へ、それより絶対他力へと進ましむる本願の施設ではないか。
階段が無ければ三階には昇れない。況んや地獄はい出の私が五十二段をや、
第十九願は自力修行の化粧をし、第二十願は他力の中の自力の機功を募る化粧をする。
化粧の間や誤魔化しの間は積りですむ。積りの間は決定心がない。
決定がないから疑いが出る。疑えば往生は不可である。
 第十八願の機は、化粧をし得ない悪性に泣き、誤魔化さず、諂わず、
解決の付くまでは死すとも動かない決心で求めて居るから、
不徹底な妥協は許さない。
地獄一定の大自覚と極楽一定の大自覚を同時に獲て居るから、
光明の広海に遊び、現生に十種の益を獲て居る。
正定聚不退転の益を蒙り乍ら後すだりが出来るものか。
常行大悲の益を得ながら放逸に流れらるるものか。
 邪定聚の第十九願の機にも、不定聚の第二十願の機にも、
門出の用意が出来たか出来ないか、決定がないから判らないのも無理はない。
判らぬから機を見ないで御教化を覚えて親が知って居ると逃げるが、
魂が知らなければ安心は出来ないぞ。
 正定聚の第十八願の機は、堕ちる決定が付いているから
帰る決定も付いて居る。親が知っているから子供も知っている。
親が他力至極の金剛心であるから子供も正しく金剛心を受けて居る。
親の方が助ける若不生者の決定が付いているから
子供の方も助かる必得往生の決定が付いている。
大決定、大安堵、不思議の世界、無我の境地、無疑無慮、疑蓋無雑、
門出の用意は信の一念に成就している。
久遠劫より呼び続けたみ親の声に覚まされている。
堕ちる必定、助かる決定、万歳、万歳、万々歳。南無阿弥陀佛。
現在即得往生不退転と弘誓の船、大悲の願船に乗りこんで、
光明の広海に浮んでいるから、命終の時が本国に帰った時じゃ。
(『魂のささやき』p.92-95)
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魂のささやき

2008-06-24 12:07:13 | Weblog
43 機を見れば手間が掛る

 機を見れば手間が掛ると、一も二もなく自分の核心に触れるのを嫌っている。
佛様のお手元に機法一体に成就してあるから、今更機を見る必要がないと
跳ねつけるが、実機が判らなくて真実の喚声が聞えるものか。
機を見れば手間がかかると言っているが、本当に機を見て手間が掛った人間か。
宗祖、蓮師が機を見るなと教えられたか。
唯々説教本等に面白可笑しく書いて有るのを、金科玉条の如く
思い込んで居るだろう。
真宗は易い易いにかぶれて、極難信を葬っては居ないだろうか。
法の手元では算用が合っても機の手元を見れば金が不足ではないか。
実際世の中の多くの方方が、天上の月ばかり見て
水中の月を知らないのではないか。
五十年八十年聞いて理屈は知っていても、底知れぬ気味の悪い心はないか。
立派な蓋はしてあっても便所は臭いぞ。
自己の真のねうちが知れなければ救済の絶対性も知れないぞ。
機法は二種一具であると言いながら何故法のみに偏するか。
機の醜さは法の尊高を知らしめ、法の威神力は機の下劣を照すのではないか。
極悪最下の機が、極善最上の法に満足し、地獄は一定住家ぞかしの
絶対不二の機に泣いた者が、五劫思惟の本願、絶対不二の妙法を成就せしめた
大自信が有るのではないか。
生死の苦海に溺れた者でなければ弘誓の舟に救われた味は知らない。
親を探した者でなければ逢うた嬉しさを知らない。
何時とはなしに逢う人も居ようが、苦悩のどん底に泣いた私は
正定聚の大自覚を与えて頂いた。宗教は観念の遊戯ではない。
自分の核心を他所にして決定心の樹立される筈がない。
泣き得る者は幸福だ。真剣に成り得る者は永遠の生命を得る。
 佛様のお手元に機法一体の訳は成就して有っても、
現在摂取不捨の利益を蒙った信の一念の名乗が挙がらなければ
私の上に佛凡一体、機法一体は成就しない。
親が知って居るから好いと言う者が多いが、親が知って居るものなら
子供が知って何故悪い。
堕ちる機か、助かり得る機か。法の鏡の前で我が機を繕うて見よ。
繕うた者でなければ醜さは知れない。曇った者でなければ晴れた味は知れない。
泣いた者でなければ笑う時の愉快な味は知らない。
 他人の出来事の様に、堕ちる者をお助けと言った処で、
堕ちる者の知れないのに助かる者の知れる筈がない。
こけ込む雑修の溝は小さいぞ。躓く自力の石は小さいぞ。
私の機を離れて真実の法は生きない。機を見て手間が掛るか掛らぬか
恐れずやって御覧、自分の機じゃから死ぬるまで見ずには居られないぞ。
包んでいた醜い悪性が照し尽されて白状した時と、摂取された時は同時で、
不可思議の妙味が有るのじゃぞ。夫は現在の一息に!!
 救われた者の幸。親が子を呼び子が親を呼ぶ。南無阿弥陀佛、阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.89-91)
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魂のささやき

2008-06-23 15:04:56 | Weblog
42 誰の罪か

 教うる者の罪か、求むる者の罪か。否何れも真剣味は欠けている。
自信の無いのに教人信のある筈が無い。
島地黙雷師が盛岡に移られて、盛岡は山処で猿が多いと聞いたが、
本当の猿は居ないで佛教を聞かざるが多い。
夫は教えざるの親ざるが悪いからじゃと申されたそうなが
私への教訓である。子供を導くは親の念力に有る。
精神的に万人を教化するは指導者の胸裡に在る。
一匹の馬が狂うと千匹の馬が狂う。
針が正しく進まねば糸も真直に縫えない。
指導者に自信の自覚がなくて教人信して真佛弟子を作り得ようか。
師弟子共に極楽には往生せずして、
空しく三塗に帰らなければならないではないか。
 (一)僧侶の方は私を初めとして物知り顔に成りたがる。
説教本を読んだり喩話を読んだ時、自分の心に感動を与えると、
それを直に他力の信仰の様に思い決める。
道理に契い理屈が合うと金剛心の様に思うて威張り出す。
堕つる者をお助け、この儘が唯じゃ、あら心得やすの安心や、
これも他力、あれも他力、其の儘ごかしにこかして仕舞う。
機を見ると手間がかかる、法を見れば直に戴かれるとて、
臭い物に蓋をして罪悪を見ない様にしたがる癖がある。
そして遇々熱烈な求道者が来り、熱烈な布教者を見れば
直に難癖を付けて異安心と言いたがる。
蔭での悪口のみならず高座の上からでも悪口を言うけれども
本人直接には言い切らない。人を批評するだけの自信が有るか。
親と一体の大自覚があるか。佛智満入の体験が有るか。
正定聚の分人の歓喜があるか。
今度の一大事の往生は、声のよいのでも、節の上手なのでも通用はせんぞ。
喩話を知って合点したのも、覚えて成程と上塗りしたのも間に合わないぞ。
最後の一刹那には学問も理屈も及ばんぞ。
我機に蓋をして置いて何時大満足が出来るのだ。
苦悩の心が救済された時大決定が動くのではないか。
広大難思の大自信を獲た者が酒に呑まれて前後を知らなかったり、
色に溺れて道を過ったり、碁や将棋に時を忘れたり、
馬鹿話で門信徒を誤魔化したり出来るものかい。
法龍の一大欠陥は、教人信ばかりやっているが、
自信がぬけて居ては空砲に等しいから人が驚かない。
実弾なら音は小さくても的中すれば即死する。
自信の有るものなら必ず信仰の煩悶は起して居る。
一大事の後生とは切迫つまって考えて居る。
因って救われた嬉しさじゃもの信仰の経路を話さずに居られるものか。
学問は無くとも、真仮の分斎を明かに分ち得る。
信仰は学問ではない。自己の大満足である。
ここはお互僧侶は慎まなければならない。
 (二)聞く方も真剣、一大事となっていない。罪悪の黒い心が出れば、
御布施を包んでは講師や和上に免状貰いに行く。
どうやら腹の虫が治った様だから帰って来るが又復グチグチ言い出す。
元気な間はそれでもよいが、命終の時にどうするか。
誰様はお許しになっても肝心要の魂様が許さんぞ。
真宗の信仰は二の足踏む様に不安定な宗教ではないぞ。
大決定の心が無いから、報謝で極楽に乗込もうとする同行が多いが、
箒では人は斬れないぞ。満足するまでお求めなさい。決定行くまでお聞きなさい。
泣いたり笑ったりするのみが真の宗教ではありませんよ。
久遠劫からの魂の解決が付くか付かぬかの分岐点ではないか。
教うる者も聞く者も能所共に火花を散らせ尽十方の光明は照す。
(『魂のささやき』p.86-89)
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魂のささやき

2008-06-17 13:08:07 | Weblog
41 全滅するまで

 救われた者の幸福、永遠に生くる真生命を得た慶び、
天上天下に類いなき妙法を体験した嬉しさ、往生は一定の大自覚、
身も心も南無阿弥陀佛の生活、摂取光中の法悦、
広大無辺の佛恩を報謝せずには居られないではないか。
貧困の時に恵まれた金銭は僅かでも涙を流し、
難破船の時九死に一生を得た其の御恩を一生忘れ得ぬではないか。
況んや、昿劫已来流転を続け、現在も不実悪性の心に悩まされ、
無常の風の吹くも知らず、名誉に地位に財産に憧れて居た心の夢を覚まし、
大自然の大霊、佛智不思議の救済、大願業力に救われた嬉しさ、
地団駄踏んで求めた者の赦された嬉しさは踊躍歓喜せずには居られない。
嬉しうないの、有難うないの、喜ばれないの、報謝が出来ないの・・・
など文句の出る人は、未だ未だ真剣味が無い。
真の求道者は一も生命がけ、二も生命がけである。
畢竟するに自己の罪悪が知れないから法の尊さも知れない。
法の成就が届いて居ないから機の決定が無い。
万歳々々此の嬉しさ、久遠のみ親に逢わして頂くのは今じゃ。
進め進め、息の続く限り、進軍ラッパを吹き続けよう。
何の不足もなく不平もない。現在に満足し未来も安住、
生命を賭して求めた嬉しさ、信仰には妥協を許さない。
親子の魂の一致の前には権勢も名誉も動かし得ぬ権威がある。
大胆に而も鋭く、真仮の分済を正宗の名刀で乱麻を截つが如く
説破さして下さるのは佛智満入の賜である。
六月十五日から、九月十五日まで、満九十日の間、二百五十七席、
示談は布教に出ない時は毎朝二時間宛、最後には卒倒し、終に喉は破れた。
閉目合掌してみ佛様の前に跪き、にっこり微笑んだ時、嬉し涙は頬を伝った。
 無言の偉大さ!涙の尊さ!南無阿弥陀佛!
 親子一体の心境、親は子を知り子は親を知る。自己を知る者の為に命を捨てる。
極悪不善の私に正定聚の新生命を吹き込まれた嬉しさには
未だ未だ報謝は足りない。
 法龍よ名誉の負傷じゃのう!!
 み佛様、まだ残っています。右の手、左の手、喉が破れて説教が出来なければ、
ペンを走らして両手の折れる迄は九十五種の邪道、方便仮門、
自力の執心と闘わねばなりません。身業説法も意業説法も恵まれている私、
三業共に破るるまでは一歩も後へは引きません。
一身全滅した時、み親の里に帰ります。合掌。
(『魂のささやき』p.83-85)
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魂のささやき

2008-06-15 11:15:31 | Weblog
40 私は悪者です

 示談に出て来て私は本当に徒者で、日本国中の一番の悪者で御座います
と言わるる方があるけれど口に悪者が出る間は
心の悪者を知らして貰っては居ない。
本当の自分は本願に摂取された時でなければ知れない。
法は機を照らし、機は法によって照らされるのである。
法の鏡に向った時でなければ本当の醜い自分の姿は見えない。
若し少しでも自分の罪悪が出て来れば、多くの人はこの悪者を、
お助けと言っているけれども、真の煩悶の出た人間なら、
助かった自覚を求めているのであるから、
他人の噂の様な空な事は言っていられない。
私の魂は悪を悪と知らない程の悪人である。
罪を罪とも知らず、地獄行きを地獄行きとも知り得ない。
匙子にも箸にも掛らぬ悪人、悪人と口で言えば
心の中では人に誉めて呉れはせぬかと直に善人になる。
人並の事をしても殊勝な人じゃと他人から見て貰い度いと言う浅間しい心である。
浅間しいと言う口が、又浅間しいのである。
人間の不完全な言葉では表現出来ない醜い心を持っている。
静かに反省すればする程、底の知れない罪悪を持って
業流転を続けているではないか。
苦悩のどん底に泣いた人間が求むる真剣さは一通りではない。
 罪を罪と知らんから堕ちるのではないか。
地獄行きを地獄行きと知らんから必堕無間ではないか。
後生となったら思う事もする事も判らないのじゃから唯知作悪ではないか。
何れの行も及び難いから出離の縁が無いではないか。
動けば動く程苦しい心が出るから煩悩具足ではないか。
散り乱れる心をおさえればおさえる程乱れるから散乱放逸ではないか。
 言葉の尽きた所に信仰の妙味は輝く。信一念の場合は間一髪の余地もない。
体験の刹那は凡夫の言葉では顕せぬ。不思議不思議、万歳万歳、
極重の悪人が全部許されて正定聚の菩薩にさせて頂いた時、
知るの知らんの文句があるものか。
知らん人は知らん、知って居る人は知って居る。私の親は私一人の親じゃ。
久遠劫から親に離れて今、苦悩の心を持て余し、親は居ないか助けは無いか
と泣き明した私に、十劫已来探していたぞ!!
と腹の底から声なき声で届けて呉れた親の念力を
知らん間に頂いたとか、馬鹿たらしい事が言えるものかい。
善人であれば何時とはなしでも済むだろうけれど、
真実泣いて親を求めた私は、名乗りの挙った味を知って居る。
そんな事は凡夫には知れんと言う人が多いが、
その人にはこんな味の知れる筈がない。名乗り挙げたのが悪ければ、
挙げて呉れた佛様にそんな事があらるるかと不足おっしゃい。
(『魂のささやき』p.81-83)
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魂のささやき

2008-06-13 14:48:12 | Weblog
38 相手次第で自在になる

 難問題を吹き掛けられた時、二十願の不定聚の機は実地問題を通っていないから
信仰に揺ぎが来るが、求め抜いた者は頭は承知しても腹の承知しない機に
泣かされて真剣に求めて居るから、十八願の広い世界、不実一杯が真実一杯、
地獄一定が極楽一定、機を見てよし法を見てよし、八万四千の煩悩の動くままが
八万四千の光明の輝く姿、能生清浄願往生心の有りったけが願力の白道、
虚仮不実の全体を是認して下さった無限の大慈悲、本願や行者・行者や本願の境地、
下根下劣の法龍の罪障を一分一厘増減せず即得往生住不退転の正定聚の仲間に
転じて下さった佛智の不思議、親の心が宇宙に遍している大慈悲じゃで、
子の心も十方世界に満ちている。依って大きな相手に逢いたくて仕方がない。
難問題が出て来れば来る程面白い。相手次第で自在にひびく。
(『魂のささやき』p.77-78)
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