大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-06-29 13:04:30 | Weblog
44 門出の用意は出来たか

 他人の信仰ならいざ知らず、自分の出離の大問題、
人に相談しなければ判らなかったり、善知識の助太刀が無かったら
満足し切れない様な事では往生の解決はついて居ないぞ。
汽車に乗って道を行く時、「何処へおいでになりますか」、
と尋ねられて、「私は何処か知らん」と言えるか。
「親が知って居るから好い」そんなら親に本当に逢っているか。
真に心の悩みが晴れているか。親に逢うた積り、信心戴いた積り、
任せた積り、晴れた積り、積りは百千万並べても、決定ではないぞ。
 汽船は出発しようとして居る。宿に寝ころんでいて切符を買った積り、
船に乗った積りでは生死の苦海が渡れないぞ。
乗った船は他力じゃが、乗るまでは即ち宿善開発までは求道せねばならないぞ。
最初から他力は有り得ない。それに皆十八願の機じゃと言う人も有るが、
夫なら佛様は第十九願、第二十願は誰の為に建立されたか。
後の二願は聞き損ないの機の為ではないか。
万行随一の名号と見るは第十九願の機(自力)、
名号の万行に超過せるを知るは第二十願の機(半自力半他力)、
名号に動かされ無我の世界に入るは第十八願の機(絶対他力)である。
此の真仮の分斎を分別せずして、十把一束に総て十八願の機とは言い得られまい。
名号の殊勝は知って居ても開発の出来ない間は第二十願の桁である。
二十願の機は罪福を信じ、善本徳本の名号を己の功徳とし
佛に廻向する機であるから、廻向出来るか出来ないか、
自力の尽きるまで進まなければ第十八願には開発しない。
自力より半自力半他力へ、それより絶対他力へと進ましむる本願の施設ではないか。
階段が無ければ三階には昇れない。況んや地獄はい出の私が五十二段をや、
第十九願は自力修行の化粧をし、第二十願は他力の中の自力の機功を募る化粧をする。
化粧の間や誤魔化しの間は積りですむ。積りの間は決定心がない。
決定がないから疑いが出る。疑えば往生は不可である。
 第十八願の機は、化粧をし得ない悪性に泣き、誤魔化さず、諂わず、
解決の付くまでは死すとも動かない決心で求めて居るから、
不徹底な妥協は許さない。
地獄一定の大自覚と極楽一定の大自覚を同時に獲て居るから、
光明の広海に遊び、現生に十種の益を獲て居る。
正定聚不退転の益を蒙り乍ら後すだりが出来るものか。
常行大悲の益を得ながら放逸に流れらるるものか。
 邪定聚の第十九願の機にも、不定聚の第二十願の機にも、
門出の用意が出来たか出来ないか、決定がないから判らないのも無理はない。
判らぬから機を見ないで御教化を覚えて親が知って居ると逃げるが、
魂が知らなければ安心は出来ないぞ。
 正定聚の第十八願の機は、堕ちる決定が付いているから
帰る決定も付いて居る。親が知っているから子供も知っている。
親が他力至極の金剛心であるから子供も正しく金剛心を受けて居る。
親の方が助ける若不生者の決定が付いているから
子供の方も助かる必得往生の決定が付いている。
大決定、大安堵、不思議の世界、無我の境地、無疑無慮、疑蓋無雑、
門出の用意は信の一念に成就している。
久遠劫より呼び続けたみ親の声に覚まされている。
堕ちる必定、助かる決定、万歳、万歳、万々歳。南無阿弥陀佛。
現在即得往生不退転と弘誓の船、大悲の願船に乗りこんで、
光明の広海に浮んでいるから、命終の時が本国に帰った時じゃ。
(『魂のささやき』p.92-95)

魂のささやき

2008-06-24 12:07:13 | Weblog
43 機を見れば手間が掛る

 機を見れば手間が掛ると、一も二もなく自分の核心に触れるのを嫌っている。
佛様のお手元に機法一体に成就してあるから、今更機を見る必要がないと
跳ねつけるが、実機が判らなくて真実の喚声が聞えるものか。
機を見れば手間がかかると言っているが、本当に機を見て手間が掛った人間か。
宗祖、蓮師が機を見るなと教えられたか。
唯々説教本等に面白可笑しく書いて有るのを、金科玉条の如く
思い込んで居るだろう。
真宗は易い易いにかぶれて、極難信を葬っては居ないだろうか。
法の手元では算用が合っても機の手元を見れば金が不足ではないか。
実際世の中の多くの方方が、天上の月ばかり見て
水中の月を知らないのではないか。
五十年八十年聞いて理屈は知っていても、底知れぬ気味の悪い心はないか。
立派な蓋はしてあっても便所は臭いぞ。
自己の真のねうちが知れなければ救済の絶対性も知れないぞ。
機法は二種一具であると言いながら何故法のみに偏するか。
機の醜さは法の尊高を知らしめ、法の威神力は機の下劣を照すのではないか。
極悪最下の機が、極善最上の法に満足し、地獄は一定住家ぞかしの
絶対不二の機に泣いた者が、五劫思惟の本願、絶対不二の妙法を成就せしめた
大自信が有るのではないか。
生死の苦海に溺れた者でなければ弘誓の舟に救われた味は知らない。
親を探した者でなければ逢うた嬉しさを知らない。
何時とはなしに逢う人も居ようが、苦悩のどん底に泣いた私は
正定聚の大自覚を与えて頂いた。宗教は観念の遊戯ではない。
自分の核心を他所にして決定心の樹立される筈がない。
泣き得る者は幸福だ。真剣に成り得る者は永遠の生命を得る。
 佛様のお手元に機法一体の訳は成就して有っても、
現在摂取不捨の利益を蒙った信の一念の名乗が挙がらなければ
私の上に佛凡一体、機法一体は成就しない。
親が知って居るから好いと言う者が多いが、親が知って居るものなら
子供が知って何故悪い。
堕ちる機か、助かり得る機か。法の鏡の前で我が機を繕うて見よ。
繕うた者でなければ醜さは知れない。曇った者でなければ晴れた味は知れない。
泣いた者でなければ笑う時の愉快な味は知らない。
 他人の出来事の様に、堕ちる者をお助けと言った処で、
堕ちる者の知れないのに助かる者の知れる筈がない。
こけ込む雑修の溝は小さいぞ。躓く自力の石は小さいぞ。
私の機を離れて真実の法は生きない。機を見て手間が掛るか掛らぬか
恐れずやって御覧、自分の機じゃから死ぬるまで見ずには居られないぞ。
包んでいた醜い悪性が照し尽されて白状した時と、摂取された時は同時で、
不可思議の妙味が有るのじゃぞ。夫は現在の一息に!!
 救われた者の幸。親が子を呼び子が親を呼ぶ。南無阿弥陀佛、阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.89-91)

魂のささやき

2008-06-23 15:04:56 | Weblog
42 誰の罪か

 教うる者の罪か、求むる者の罪か。否何れも真剣味は欠けている。
自信の無いのに教人信のある筈が無い。
島地黙雷師が盛岡に移られて、盛岡は山処で猿が多いと聞いたが、
本当の猿は居ないで佛教を聞かざるが多い。
夫は教えざるの親ざるが悪いからじゃと申されたそうなが
私への教訓である。子供を導くは親の念力に有る。
精神的に万人を教化するは指導者の胸裡に在る。
一匹の馬が狂うと千匹の馬が狂う。
針が正しく進まねば糸も真直に縫えない。
指導者に自信の自覚がなくて教人信して真佛弟子を作り得ようか。
師弟子共に極楽には往生せずして、
空しく三塗に帰らなければならないではないか。
 (一)僧侶の方は私を初めとして物知り顔に成りたがる。
説教本を読んだり喩話を読んだ時、自分の心に感動を与えると、
それを直に他力の信仰の様に思い決める。
道理に契い理屈が合うと金剛心の様に思うて威張り出す。
堕つる者をお助け、この儘が唯じゃ、あら心得やすの安心や、
これも他力、あれも他力、其の儘ごかしにこかして仕舞う。
機を見ると手間がかかる、法を見れば直に戴かれるとて、
臭い物に蓋をして罪悪を見ない様にしたがる癖がある。
そして遇々熱烈な求道者が来り、熱烈な布教者を見れば
直に難癖を付けて異安心と言いたがる。
蔭での悪口のみならず高座の上からでも悪口を言うけれども
本人直接には言い切らない。人を批評するだけの自信が有るか。
親と一体の大自覚があるか。佛智満入の体験が有るか。
正定聚の分人の歓喜があるか。
今度の一大事の往生は、声のよいのでも、節の上手なのでも通用はせんぞ。
喩話を知って合点したのも、覚えて成程と上塗りしたのも間に合わないぞ。
最後の一刹那には学問も理屈も及ばんぞ。
我機に蓋をして置いて何時大満足が出来るのだ。
苦悩の心が救済された時大決定が動くのではないか。
広大難思の大自信を獲た者が酒に呑まれて前後を知らなかったり、
色に溺れて道を過ったり、碁や将棋に時を忘れたり、
馬鹿話で門信徒を誤魔化したり出来るものかい。
法龍の一大欠陥は、教人信ばかりやっているが、
自信がぬけて居ては空砲に等しいから人が驚かない。
実弾なら音は小さくても的中すれば即死する。
自信の有るものなら必ず信仰の煩悶は起して居る。
一大事の後生とは切迫つまって考えて居る。
因って救われた嬉しさじゃもの信仰の経路を話さずに居られるものか。
学問は無くとも、真仮の分斎を明かに分ち得る。
信仰は学問ではない。自己の大満足である。
ここはお互僧侶は慎まなければならない。
 (二)聞く方も真剣、一大事となっていない。罪悪の黒い心が出れば、
御布施を包んでは講師や和上に免状貰いに行く。
どうやら腹の虫が治った様だから帰って来るが又復グチグチ言い出す。
元気な間はそれでもよいが、命終の時にどうするか。
誰様はお許しになっても肝心要の魂様が許さんぞ。
真宗の信仰は二の足踏む様に不安定な宗教ではないぞ。
大決定の心が無いから、報謝で極楽に乗込もうとする同行が多いが、
箒では人は斬れないぞ。満足するまでお求めなさい。決定行くまでお聞きなさい。
泣いたり笑ったりするのみが真の宗教ではありませんよ。
久遠劫からの魂の解決が付くか付かぬかの分岐点ではないか。
教うる者も聞く者も能所共に火花を散らせ尽十方の光明は照す。
(『魂のささやき』p.86-89)

魂のささやき

2008-06-17 13:08:07 | Weblog
41 全滅するまで

 救われた者の幸福、永遠に生くる真生命を得た慶び、
天上天下に類いなき妙法を体験した嬉しさ、往生は一定の大自覚、
身も心も南無阿弥陀佛の生活、摂取光中の法悦、
広大無辺の佛恩を報謝せずには居られないではないか。
貧困の時に恵まれた金銭は僅かでも涙を流し、
難破船の時九死に一生を得た其の御恩を一生忘れ得ぬではないか。
況んや、昿劫已来流転を続け、現在も不実悪性の心に悩まされ、
無常の風の吹くも知らず、名誉に地位に財産に憧れて居た心の夢を覚まし、
大自然の大霊、佛智不思議の救済、大願業力に救われた嬉しさ、
地団駄踏んで求めた者の赦された嬉しさは踊躍歓喜せずには居られない。
嬉しうないの、有難うないの、喜ばれないの、報謝が出来ないの・・・
など文句の出る人は、未だ未だ真剣味が無い。
真の求道者は一も生命がけ、二も生命がけである。
畢竟するに自己の罪悪が知れないから法の尊さも知れない。
法の成就が届いて居ないから機の決定が無い。
万歳々々此の嬉しさ、久遠のみ親に逢わして頂くのは今じゃ。
進め進め、息の続く限り、進軍ラッパを吹き続けよう。
何の不足もなく不平もない。現在に満足し未来も安住、
生命を賭して求めた嬉しさ、信仰には妥協を許さない。
親子の魂の一致の前には権勢も名誉も動かし得ぬ権威がある。
大胆に而も鋭く、真仮の分済を正宗の名刀で乱麻を截つが如く
説破さして下さるのは佛智満入の賜である。
六月十五日から、九月十五日まで、満九十日の間、二百五十七席、
示談は布教に出ない時は毎朝二時間宛、最後には卒倒し、終に喉は破れた。
閉目合掌してみ佛様の前に跪き、にっこり微笑んだ時、嬉し涙は頬を伝った。
 無言の偉大さ!涙の尊さ!南無阿弥陀佛!
 親子一体の心境、親は子を知り子は親を知る。自己を知る者の為に命を捨てる。
極悪不善の私に正定聚の新生命を吹き込まれた嬉しさには
未だ未だ報謝は足りない。
 法龍よ名誉の負傷じゃのう!!
 み佛様、まだ残っています。右の手、左の手、喉が破れて説教が出来なければ、
ペンを走らして両手の折れる迄は九十五種の邪道、方便仮門、
自力の執心と闘わねばなりません。身業説法も意業説法も恵まれている私、
三業共に破るるまでは一歩も後へは引きません。
一身全滅した時、み親の里に帰ります。合掌。
(『魂のささやき』p.83-85)

魂のささやき

2008-06-15 11:15:31 | Weblog
40 私は悪者です

 示談に出て来て私は本当に徒者で、日本国中の一番の悪者で御座います
と言わるる方があるけれど口に悪者が出る間は
心の悪者を知らして貰っては居ない。
本当の自分は本願に摂取された時でなければ知れない。
法は機を照らし、機は法によって照らされるのである。
法の鏡に向った時でなければ本当の醜い自分の姿は見えない。
若し少しでも自分の罪悪が出て来れば、多くの人はこの悪者を、
お助けと言っているけれども、真の煩悶の出た人間なら、
助かった自覚を求めているのであるから、
他人の噂の様な空な事は言っていられない。
私の魂は悪を悪と知らない程の悪人である。
罪を罪とも知らず、地獄行きを地獄行きとも知り得ない。
匙子にも箸にも掛らぬ悪人、悪人と口で言えば
心の中では人に誉めて呉れはせぬかと直に善人になる。
人並の事をしても殊勝な人じゃと他人から見て貰い度いと言う浅間しい心である。
浅間しいと言う口が、又浅間しいのである。
人間の不完全な言葉では表現出来ない醜い心を持っている。
静かに反省すればする程、底の知れない罪悪を持って
業流転を続けているではないか。
苦悩のどん底に泣いた人間が求むる真剣さは一通りではない。
 罪を罪と知らんから堕ちるのではないか。
地獄行きを地獄行きと知らんから必堕無間ではないか。
後生となったら思う事もする事も判らないのじゃから唯知作悪ではないか。
何れの行も及び難いから出離の縁が無いではないか。
動けば動く程苦しい心が出るから煩悩具足ではないか。
散り乱れる心をおさえればおさえる程乱れるから散乱放逸ではないか。
 言葉の尽きた所に信仰の妙味は輝く。信一念の場合は間一髪の余地もない。
体験の刹那は凡夫の言葉では顕せぬ。不思議不思議、万歳万歳、
極重の悪人が全部許されて正定聚の菩薩にさせて頂いた時、
知るの知らんの文句があるものか。
知らん人は知らん、知って居る人は知って居る。私の親は私一人の親じゃ。
久遠劫から親に離れて今、苦悩の心を持て余し、親は居ないか助けは無いか
と泣き明した私に、十劫已来探していたぞ!!
と腹の底から声なき声で届けて呉れた親の念力を
知らん間に頂いたとか、馬鹿たらしい事が言えるものかい。
善人であれば何時とはなしでも済むだろうけれど、
真実泣いて親を求めた私は、名乗りの挙った味を知って居る。
そんな事は凡夫には知れんと言う人が多いが、
その人にはこんな味の知れる筈がない。名乗り挙げたのが悪ければ、
挙げて呉れた佛様にそんな事があらるるかと不足おっしゃい。
(『魂のささやき』p.81-83)

魂のささやき

2008-06-13 14:48:12 | Weblog
38 相手次第で自在になる

 難問題を吹き掛けられた時、二十願の不定聚の機は実地問題を通っていないから
信仰に揺ぎが来るが、求め抜いた者は頭は承知しても腹の承知しない機に
泣かされて真剣に求めて居るから、十八願の広い世界、不実一杯が真実一杯、
地獄一定が極楽一定、機を見てよし法を見てよし、八万四千の煩悩の動くままが
八万四千の光明の輝く姿、能生清浄願往生心の有りったけが願力の白道、
虚仮不実の全体を是認して下さった無限の大慈悲、本願や行者・行者や本願の境地、
下根下劣の法龍の罪障を一分一厘増減せず即得往生住不退転の正定聚の仲間に
転じて下さった佛智の不思議、親の心が宇宙に遍している大慈悲じゃで、
子の心も十方世界に満ちている。依って大きな相手に逢いたくて仕方がない。
難問題が出て来れば来る程面白い。相手次第で自在にひびく。
(『魂のささやき』p.77-78)

魂のささやき

2008-06-11 18:40:57 | Weblog
37 機を見るのが間違いなら

 法ばかり見ているのも間違いである。
法は尊くても機が満足しなければ価値はない。
夜が明けたのか日が暮れたのか判らないようななまぬるい信仰を
他力の様に考えて、法のお手元の大丈夫な事ばかり言っているが、
私の機も大決定、大安堵心に住せねば聞き開いたとは言えない。
法を聞きよれば自然に、何時とはなしに大丈夫になるというのも一理あるが、
又聖人様の如く立処に他力摂生の大安心を受得することも出来る。
 法の方ばかり見て機の方のお留守になっている人なれば自分に自覚が無い。
併も法の理屈は判っているが、自分の心の奥底に何やら気持ちの悪い者が居て
返事をして呉れないと我機に泣いたものなら、明かなお慈悲を明かに頂く。
信巻に

 信の一念とは信楽開発の時剋の極促を顕はし広大難思の慶心を彰す也。

と仰せられたのは、地獄は一定すみかぞかしの機の全部と、
五劫思惟の本願の法の全部が一体に融合した一刹那、
久遠劫からの無明の闇が晴れ亘り、佛凡一体の境地、
親子の名乗が挙った処じゃに、その妙味を知らなくてどうする。
御伝鈔の

 たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を
 決定しましましけり。

とは空師即ち善知識の言葉の下帰命の一念おこる時、決定往生の大自覚を
得られたのではないか。又口伝鈔に、

 皆無常の根機を本とする故に、一念をもて往生治定の時剋とさだめて
 命のぶれば自然と多念におよぶ道理をあかせり、
 されば平生の時、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ
 文証道理顕然なり、もし多念を以て本願としたまはば、
 多念のきはまりいづれのときとさだむべきぞや。
 いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり等

とある如く何時とはなしでは決定がつくまい。
 法の話ばかりでは算用は合うが金がたりまい。
机上の空論では自己の苦悩は除けまい。
法を聞き初めの間は、機を見るのを恐れて、法に眼を付けているけれども、
そればかりでは本願ぼこり、法体募りになるぞ。
機がぬけたら宗教は死ぬる用意ばかりで活動力を失う、去勢した宗教になる。
調塾の光明に照されて漸次に煩悶を起して機を眺むる様になる。
其の時、信機秘事、地獄秘事、に入り易い。
法の方にも機の方にも、偏すればどちらも異安心になる。
又片寄ってはならない、片寄ってはならないとあやぶめば、切れ味が判らない。
法に偏すれば機の深信を欠き、機に傾けば法の深信を忘る。
二種一具の文句は知って居るけれども光明無量に照されて
実地に唯除逆謗と切堕された時でなければ自力の心は捨たって居ない。
寿命無量の若不生者の腕前に摂取された時でなければ他力に乗托して居ない。
真剣に真面目に求めさして頂かなければ不思議の佛智は味えない。
(『魂のささやき』p.74-77)

魂のささやき

2008-06-10 13:32:33 | Weblog
36 八万四千

 頂いたか頂かないか知らない。取ったのか取られたのか知らない。
其の一刹那の不思議の妙味は、入我我入の世界で、思慮分別や言辞にかからぬ、
不可称不可説不可思議の境地である。
この極意の心境に到る迄には、相当に骨は折れる。何故か。
唯を唯と素直に聞き得る様な人間でないから、
他力の言葉だけを丸呑にしていても、心の底の動かぬ心が、
他力に動かされなければつまらない。
 自分の心を見るな。佛様のお手元さえ見れば早く合点できると教えるけれども、
佛の本願は機に移った時でなければ花は咲かない。
 机上の空論の間は有難い感情も動き、法の方ばかり眺めても居られようが、
実際問題になると、感情に誤魔化されない気持ちの悪い心が居る。
佛様は知っておいでなさるから、と思っても安心出来ない心があるぞ。
本当に唯になっているのなら、心の動くままが六字で大威張りするけれども、
都合の悪いものは居ないか。薄紙一重が邪魔になりはせぬか。
あれがひょっとじゃぞ。二の足踏みよるのじゃぞ。疑いじゃぞ。
 この薄紙は一朝一夕ではのかないぞ。のかなければ兎の毛大山、一大事じゃ。
元気な、達者な間に明かなお慈悲を聞き開いて置かねば間に合わないぞ。
真剣に求めた人なら、自分の心じゃに、魂を見ずにいられるものか。
見れば見る程、考えれば考える程散り乱れる心より他にない。
定水を凝せば凝す程乱れる自性、今迄気付かなかった八万四千の煩悩が
躍り出すぞ。元気な間は理屈で煩悩は邪魔にならんが、疑いが邪魔になる。
俺は疑うていないと言って片付けていたが、実地になってこの様に出るようではと、
火の手を挙げて来た時には、始末が付かないぞ。
臨終間際でその解決が間に合わなかったらどうするか。
その臨終の苦しみを平生に出し、火柱かかえた積りで泣く泣く求めて見よ。
打っても叩いても返事しない悪性が返事する時がある。
それを信の一念と名付けるのだ。
其の一刹那を娑婆の終り臨終と思うべし、と教えられたのだ。
乃至一念の立所に、八万四千の煩悩が八万四千の光明と代った時だから、
踊躍歓喜、信心歓喜、広大難思の慶心。味った者のみの知り得る世界、
念佛の無碍の一道には善も欲しからず悪も恐れなし。
生死の苦海の侭が光明の広海、煩悩の有の侭が功徳大宝海、
私の侭が正定聚不退の位と言い得る。
親が三千世界に満ちているから子供も十方世界を一呑みにしている。
地獄一定に泣いた者のみが極楽一定に笑い得る。八万四千の光明じゃ。
(『魂のささやき』p.71-73)

魂のささやき

2008-06-08 13:57:14 | Weblog
35 十六日夜の月

 多くの信者が十五夜の満月を見ずに十六日の月を満月と心得ている。
それは佛凡一体、機法一体の本願や行者、行者や本願の妙味を抜きにしている。
私が弥陀やら弥陀が私やらの名乗を挙げないで(信の一念)
御恩報謝の多念の相続の方に直に移る。
大抵のお説教には戴いた信心が誠なら、何に交る中からも頂き上げては
南無阿弥陀佛で、肝要は御文章に移るが、説く人も、聞く人も、
極難の信の関所を平気で通過している。
そして此も御恩々々と報謝の方に直に眼を付けて、煩悩の曇りが出ると、
此者をお助けと堕ちる機を包んで参る稽古をせねば腹の虫がおさまらぬ人が
十中の八九までいるが、御恩報謝では往生の解決は付かぬぞ。
 本当に腹の底が唯になって居るか。念を押して御覧!!
何かいやな返事をするものがいるぞ。
底の知れない悪性は、臨終でなければ飛び出さないぞ。
平常は十六日夜の月に報謝を加えて過して居るから、すまない事はないが、
報謝の出来ない臨終の一念の場合に、十五夜の月でない事、
唯になっていない機が白状するぞ。
(『魂のささやき』p.70-71)

魂のささやき

2008-06-07 14:21:34 | Weblog
34 唯じゃぞーの一言

 唯になりたいばっかりに、求めて見たが求め切りもせず、はっきりもせず、
勅命通りになる積りでいても疑の煩悩が抜けねば安心は出来ない。
其の侭の声を其の侭に聞けと教えられるけれども、素直に聞き得る様な
善人ならばよいが、久遠劫からの悪性は合点位ではすまされない。
心が満足する迄は進まずにはいられない。
凡夫は何時とはなしに戴かれて、はっきりした事はないと教えられても、
それで撫付けて置く訳には行かない。
親の方が知っているからと言うけれども、親子の名乗りが挙れば、
満足大悲の念力が届くのであるから、明信佛智、佛智満入、
満足せずにはいられない筈であると、求むれば求むる程、
受付けない、動かない魂が居る。
あの箸にも棒にもかからぬ魂、打っても叩いても知らぬ顔している魂が、
無量永劫親に修行さした絶対の悪性である。
この機様を知らす為に、十九の願を建てて自力の修行を励まして見せ、
二十の願で名号を与えて、半自力半他力の桁に入れ、頂ききらない私、
曇りのとれない私と自力無効を教え、唯除五逆の悪性を知らして、
堕ちるまんまが唯じゃぞーの十八願絶対他力まで引きよするのが佛の念力じゃ。
それで唯じゃぞーの一言には法蔵の願心、五兆の願行、釈尊出世の本懐、
七高僧の真髄、聖人より次第相承の善知識の生血が篭っているのじゃぞ。
(『魂のささやき』p.68-70)