46 信仰の妥協はせぬ
南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、歓喜の泉より湧き出る称名、
信海流出の報謝の大行称うれども称うれども機には止らず、
行じて行功を見ず、悉く願海に帰る正定聚こそ
如来廻施の賜たる法体大行の顕現である。
この真実功徳大宝海の名号が私の心中に印現した時、
天上の月の儘が水上の月、本願の名号の儘が私の信心、
本願や行者・行者や本願であるから、賜った信仰も大信心海である。
この宇宙に遍満している大真理、自然の大道、如来の念力を注がれ
佛智満入した者が晴れたか晴れぬか判らぬで済むだろうか。
諸有の群生海の中から選抜された正定聚の分人が信の一念の決勝点に到達し、
「是人名分陀利華」或は広大勝解の者と讃歎されて居て、
救済された自覚が無いとは情ない哀れな信仰ではないか。
それで本当に済むだろうか。
もしも自覚があるならば覚他と働くべき筈である。
自信が有るならば教人信と進むべき筈である。
願作佛心は度衆生心となり、広大難思の慶心は常行大悲の徳となるべき筈である。
それが無いのは法を知っただけで、如来と一体の大自覚を得ていないのである。
私も初めは此者をお助けと此者が判らんなりで慶んで居た。
法のお手元を見れば一寸も疑う余地はない。
只で助けて下さる事も知っていた。その儘も心得ていた。
堕ちる者お助けも合点して居た。
信心も安心も、お領解も一念も多念も、後念相続も知って居た。
安心起行作業も納得し疑いなく信じて、報謝を営むのが真の同行
と言う事も承知し信じて居た。
併し氷の上に建てられた御教化のみの信仰は、調熟の光明に照さるれば
地盤が薄くなるのは尤もである。
実際に行詰った自分、嗚呼私、見苦しい法龍の姿、浅間しい法龍の魂、
如来のみ前に跪いた時、一切の罪悪を照し尽された時、
懺悔せずには居られなかった。悪性を白状せずには居られなかった。
罪を罪とも知り得ない魂、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても慶ばず、
真剣に求むれば他所見する心、聞くまいと投げれば火が付いた程急ぐ魂、
右とも左とも落ちるとも上るとも知り得ない散乱放逸の心、
押うれども押うれども鎮まらない意馬心猿。
何処が私の本性か、何が私の魂か、私が判らなくて泣いた私。
箸にも棒にもかからぬ私。
梃子にも匙子にも乗らない心、手綱を寛めると十方に飛出す横着な魂、
知らぬ顔して居る心、この心こそ業流転を続けて来た無明の暗である。
これを根本として枝葉は繁茂し花は開き実は結ぶのであるが、
私の見苦しい始末は日々延びて居る。夜々憎悪の葉は栄えて行く、
飽く事知らない貪慾の渦、押えても燃え上る瞋恚の焔、
歓楽を粧うても素地の出る愚痴の心、利害関係の前には総てを忘れて
親兄弟を殺し妻を殺し善知識を殺し一切の人の不幸を見ては冷笑し、
禍を聞いては横手を打って楽む悪鬼の心が動いて居る。
手には出さなくても他人を押し倒し他人の目をかすめても得たい
貪慾の餓鬼の魔の手は延びて居る。美しい婦人を見た時の心!
皮を剥げば膿血の流れる・・・と理屈は知って居ても
邪婬を行う畜生の心は暫時も離れた時がない。
心口各異の偽りは上手である。誤魔化しは名人である。
他人の名誉を憎み、友人の出世を怨み、他人を裏切って平気でいる心、
他人から誉められたい自惚心、何処々々までも図々しい心、
名誉や地位や財産に、又は婬慾や食慾や睡眠慾に至るまでも我身勝手より
他に考えない無明業障の恐しい病の私が、血みどろになって求むれば求むる程
真実になり得ない。五逆十悪の私、総てをふみにじりたい謗法闡提の私、
行住坐臥心常念悪口常言悪身常行悪の私、露塵程も善根のない唯知作悪の私、
三千世界の悪を一人で荷っている下々品の私、勇猛心をも喪うた寧弱怯劣の私、
もがけばもがく程、出離の縁有る事ない私、地団駄踏めば踏む程必堕無間の私、
無限無辺の罪悪深重の私、極悪最下と底を叩いた私、泣くに泣かれぬ地獄一定の私、
比べ者のない絶対不二の機の私、ぶるぶるぶるぶる沈むより他に道を知らない私、
じゃと心の眼を開けた処、声なき声の聞えた処、バチッと音の出た処、
右の手の音か左の手の音か、それは両方一致した時でなければ音は出ない。
法の手元を心得たのでも、機の脚元を知ったのでも、堕ちる者をお助けと
並べたのでも、信の一念の火花は散らない。
地獄一定の前には、あうのかうの道理理屈や言葉は尽きて居る。
慎まれるから報謝が出来るからと言う雑修も役に立たない。
疑いさえせねばよいと敬遠して居る小さい自力の心は飛んで居る。
唯残る者は不実一杯の悪性!!
どうしようか、只ぞーの一言値千金。
「うーん」で充分じゃ。
その信念、その体験、その自覚、私は大地にひれ伏して声を限りに泣いた。
私は地団駄踏んで躍舞して喜んだ、久遠劫から待ち侘びた親に逢うた嬉しさ、
佛智満入の一刹那、佛凡一体機法一体の妙味、天地の揺いだこの情景、
親の心は子が知る、子の心は親が知る、絶対不二の世界、無我の境地、
地獄一定が極楽一定と噴き上げられた信楽開発の此の一念、
暗から闇に泣かねばならぬ私が、即得往生住不退転と正定聚の菩薩に
産れ出た記念日を知らんでどうする。
(解決の日時を覚えて居なければ行かれないのではないぞ)
自覚した日を言うから異安心じゃ。
裁断の御書には時日を論ずるなと書いてあると申さるるかも知れぬが、
親に逢うたのを知って悪いとは一度も書いてないぞ。
不実一ぱいと真実一杯が一念で勝負を付けたのではないか。
この一念こそ真宗の骨目、往生の肝腑、
聖人の真仮の分斎を明らかにされた処ではないか。
一、明信佛智、佛智満入、親の大宝海を只で貰った一念の妙味を
知らんでよいか。知らないでは報謝も出来まい。
一、よく衆生の一切の無明の闇を破しよく衆生の一切の志願を満足せしめ給う
とあるが、夜が明けたとも、日が暮れたとも判らない様な信仰で闇を破す
と言わるるか。五十二段の約束が成立って渦巻く苦悩の心が、
希望に満ちた光明の世界に変って、踊躍歓喜せずに居らるるか。
何時とはなしで済まさるるか。
一、たちどころに他力摂生の旨趣を受得せり、とあるは知らん間に、
信楽開発は出来ると言うことではあるまい。
一、御文章にも、「今こそ明らかに知られたり」とあるが
他力不思議に催され、悪性が白状さされた時、
信受本願前念命終、即得往生後念即生、『うーん』と言った時が、信一念で、
凡夫の魂の命終った時、次の息は凡数の摂ではないぞ。
正定聚不退転の菩薩の仲間じゃ。
それから南無阿弥陀佛と一声出た時が行の一念であるが、
併しその場合これが信の一念、之が行の一念とそんな事を考える余地は微塵もない。
万歳、万歳、万々歳と泣くより他に手はない。
今迄の煩悶の全部、十方に遍した散乱放逸の心が今は罪業深重も重からず、
散乱放逸も捨てられず、の勅命通りに生きている。
今迄の法ばかり眺めて喜んでいた時の心と、今は天地雲泥の差がある。
何故なれば箸にも棒にも掛らぬ実機が救済された自覚があるから、
今迄は罪を恐れ悪を慎んで参ろうとする他人親の雑修の根性が
止まなかったけれども、今は佛凡一体で心の命ずるままに進退し
無碍の大道を闊歩する大決定を得て居る。
今迄は御教化を覚えて多くを知って他人に説いて聞そうと思っていたが、
今は一言一句、私一人へ注がれた如来の生血であって、
かく迄の御苦労がなければ私は呼び覚まされないのであったと
自分の満足した事を話す様になった。
今迄は之も御恩報謝、あれも御恩報謝と思っていたが、
今は御恩知らずの不実者を見さして頂き、じっとして居られなくなった。
この偉大さ、この威神力、底の知れない不思議の力、親より賜わる歓喜の光、
悪に強けりゃ善にも強い。のるかそるかの一念を生命懸けで求めさされたのだから
生命掛けの報謝をせずには居られない。
杉浦重剛氏が日露の講和談判に行かれた小村外相に
『四面楚歌の声するも屈せざるは是れ男子、信じて行えば天下一人と雖も強し』
と打電されたそうなが、機なげきとか地獄秘事とか、間違い者とか異安心とか、
邪儀とか異解者とか四方から攻撃の声は聞えるけれども、
いくら上手でも理屈の物尺では、体験の世界は計られないよ。
不実一杯を貫く他力至極の金剛心は親(弥陀)の物であり子(法龍)の物である。
私の往生の解決の付いた時が、親の正覚を取られた時である。
私を離れて弥陀は無い。身も南無阿弥陀佛、心も南無阿弥陀佛、
口も南無阿弥陀佛、彼此金剛の心じゃないか。
この無碍の大道の前に障碍する者が何処にある。
聖人様が
然るに濁世の群萌穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、
半満権実の法門に入ると雖も真なる者は甚以難く、
実なる者は甚以稀なり。偽なる者は甚以多く、虚なる者は甚以滋し。
と仰せられてあるが、自己反省なく、親子の名乗の体験もなく、
獲た積り、信じた積りでは死出の関所は通れないぞ。
畳の上の水練も、机の上の講義も知ったり覚えたりしたのでは
生死の苦海は渡れない。
真宗の同行よ、本当に他力不思議の信心が獲得出来ましたかい。
真仮の水際が明かに味わえましたかい。権実の分斎がはっきりしましたかい。
聖浄二門は勿論、正雑二行、専雑の得失、三願転入、
此は僧侶の学問ばかりじゃない。
誰しも通らなければならない信仰の経路ではないか。
この従仮入真の経路こそみ佛様が調機誘引して大願海に帰入せしめる
善巧摂化ではないか。
方便の方便たることを知らない者は真実の真実たる所以を知らない。
我等一切の群生方便より真実に転入してこそ本願を生かすことが出来たのだ。
信仰の真の生命は妥協でもなければ迎合でもないぞ。
絶対他力の信仰は素直な仮面を覆った誤魔化しでは
(いや本人は疑わないで信じさして貰うて居る積り)あるまい。
進め進め絶対の境地まで。方便の真門を去って真実の弘願に達するまで。
その昔法然門下の異安心の中、聖人は信一念の邪義に加えられてあり、
終に御流罪に逢いながらも、『唯佛恩の深きことを念じて人倫の哢言を恥じす』
と八方攻撃の唯中ににっこり微笑まれた光りこそ、
末代の今日を照して居るではないか。
野中の一本杉には風当りがきつい。
併し地獄一定が極楽一定に生かされた大自覚、此心深心せること由し金剛の若し
の前には恐るる者がない。
十方世界を我心とした魂一つの大満足は、権勢も曲げる事は出来まい。
威武を屈する事は出来まい。況や富貴や名誉を以てせんをやだ。
箔や飾では往生の解決は付かないぞ。
法龍は信仰の妥協は出来ない。三界六道は客舎ではないか。
客舎に執着して永遠の生命を失う者こそ顛倒の人間から見れば
間違って居ないけれども、み佛の眼から見れば虚仮ではないか。謟偽ではないか。
静かに考えると私は驕慢の中の大驕慢、少々の驕慢ではない。
五十二段の後とりは、法龍一人じゃと言う勇しい驕慢じゃ。
身に余る歓喜、心に燃える信念、尊いではないか。
人は人、我は我、救われた御恩報謝には倒れる迄進め。
喉の破れる迄真仮の分斎を叫べ。声が出なければ、ペンで戦え。
ペンが折れたら心で戦え。
法龍の身は八つ裂きになるとも息の根の続く限り絶対他力の進軍ラッパを
吹き続けずには居られない。
救われた信念じゃもの。地獄一定が正定聚不退の身となった嬉しさじゃもの。
いい親もったなァ、南無阿弥陀佛。
あら尊と五兆の血しほ飲むわが身
ささげまつらんはらからのため
(『魂のささやき』p.99-110)
南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、歓喜の泉より湧き出る称名、
信海流出の報謝の大行称うれども称うれども機には止らず、
行じて行功を見ず、悉く願海に帰る正定聚こそ
如来廻施の賜たる法体大行の顕現である。
この真実功徳大宝海の名号が私の心中に印現した時、
天上の月の儘が水上の月、本願の名号の儘が私の信心、
本願や行者・行者や本願であるから、賜った信仰も大信心海である。
この宇宙に遍満している大真理、自然の大道、如来の念力を注がれ
佛智満入した者が晴れたか晴れぬか判らぬで済むだろうか。
諸有の群生海の中から選抜された正定聚の分人が信の一念の決勝点に到達し、
「是人名分陀利華」或は広大勝解の者と讃歎されて居て、
救済された自覚が無いとは情ない哀れな信仰ではないか。
それで本当に済むだろうか。
もしも自覚があるならば覚他と働くべき筈である。
自信が有るならば教人信と進むべき筈である。
願作佛心は度衆生心となり、広大難思の慶心は常行大悲の徳となるべき筈である。
それが無いのは法を知っただけで、如来と一体の大自覚を得ていないのである。
私も初めは此者をお助けと此者が判らんなりで慶んで居た。
法のお手元を見れば一寸も疑う余地はない。
只で助けて下さる事も知っていた。その儘も心得ていた。
堕ちる者お助けも合点して居た。
信心も安心も、お領解も一念も多念も、後念相続も知って居た。
安心起行作業も納得し疑いなく信じて、報謝を営むのが真の同行
と言う事も承知し信じて居た。
併し氷の上に建てられた御教化のみの信仰は、調熟の光明に照さるれば
地盤が薄くなるのは尤もである。
実際に行詰った自分、嗚呼私、見苦しい法龍の姿、浅間しい法龍の魂、
如来のみ前に跪いた時、一切の罪悪を照し尽された時、
懺悔せずには居られなかった。悪性を白状せずには居られなかった。
罪を罪とも知り得ない魂、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても慶ばず、
真剣に求むれば他所見する心、聞くまいと投げれば火が付いた程急ぐ魂、
右とも左とも落ちるとも上るとも知り得ない散乱放逸の心、
押うれども押うれども鎮まらない意馬心猿。
何処が私の本性か、何が私の魂か、私が判らなくて泣いた私。
箸にも棒にもかからぬ私。
梃子にも匙子にも乗らない心、手綱を寛めると十方に飛出す横着な魂、
知らぬ顔して居る心、この心こそ業流転を続けて来た無明の暗である。
これを根本として枝葉は繁茂し花は開き実は結ぶのであるが、
私の見苦しい始末は日々延びて居る。夜々憎悪の葉は栄えて行く、
飽く事知らない貪慾の渦、押えても燃え上る瞋恚の焔、
歓楽を粧うても素地の出る愚痴の心、利害関係の前には総てを忘れて
親兄弟を殺し妻を殺し善知識を殺し一切の人の不幸を見ては冷笑し、
禍を聞いては横手を打って楽む悪鬼の心が動いて居る。
手には出さなくても他人を押し倒し他人の目をかすめても得たい
貪慾の餓鬼の魔の手は延びて居る。美しい婦人を見た時の心!
皮を剥げば膿血の流れる・・・と理屈は知って居ても
邪婬を行う畜生の心は暫時も離れた時がない。
心口各異の偽りは上手である。誤魔化しは名人である。
他人の名誉を憎み、友人の出世を怨み、他人を裏切って平気でいる心、
他人から誉められたい自惚心、何処々々までも図々しい心、
名誉や地位や財産に、又は婬慾や食慾や睡眠慾に至るまでも我身勝手より
他に考えない無明業障の恐しい病の私が、血みどろになって求むれば求むる程
真実になり得ない。五逆十悪の私、総てをふみにじりたい謗法闡提の私、
行住坐臥心常念悪口常言悪身常行悪の私、露塵程も善根のない唯知作悪の私、
三千世界の悪を一人で荷っている下々品の私、勇猛心をも喪うた寧弱怯劣の私、
もがけばもがく程、出離の縁有る事ない私、地団駄踏めば踏む程必堕無間の私、
無限無辺の罪悪深重の私、極悪最下と底を叩いた私、泣くに泣かれぬ地獄一定の私、
比べ者のない絶対不二の機の私、ぶるぶるぶるぶる沈むより他に道を知らない私、
じゃと心の眼を開けた処、声なき声の聞えた処、バチッと音の出た処、
右の手の音か左の手の音か、それは両方一致した時でなければ音は出ない。
法の手元を心得たのでも、機の脚元を知ったのでも、堕ちる者をお助けと
並べたのでも、信の一念の火花は散らない。
地獄一定の前には、あうのかうの道理理屈や言葉は尽きて居る。
慎まれるから報謝が出来るからと言う雑修も役に立たない。
疑いさえせねばよいと敬遠して居る小さい自力の心は飛んで居る。
唯残る者は不実一杯の悪性!!
どうしようか、只ぞーの一言値千金。
「うーん」で充分じゃ。
その信念、その体験、その自覚、私は大地にひれ伏して声を限りに泣いた。
私は地団駄踏んで躍舞して喜んだ、久遠劫から待ち侘びた親に逢うた嬉しさ、
佛智満入の一刹那、佛凡一体機法一体の妙味、天地の揺いだこの情景、
親の心は子が知る、子の心は親が知る、絶対不二の世界、無我の境地、
地獄一定が極楽一定と噴き上げられた信楽開発の此の一念、
暗から闇に泣かねばならぬ私が、即得往生住不退転と正定聚の菩薩に
産れ出た記念日を知らんでどうする。
(解決の日時を覚えて居なければ行かれないのではないぞ)
自覚した日を言うから異安心じゃ。
裁断の御書には時日を論ずるなと書いてあると申さるるかも知れぬが、
親に逢うたのを知って悪いとは一度も書いてないぞ。
不実一ぱいと真実一杯が一念で勝負を付けたのではないか。
この一念こそ真宗の骨目、往生の肝腑、
聖人の真仮の分斎を明らかにされた処ではないか。
一、明信佛智、佛智満入、親の大宝海を只で貰った一念の妙味を
知らんでよいか。知らないでは報謝も出来まい。
一、よく衆生の一切の無明の闇を破しよく衆生の一切の志願を満足せしめ給う
とあるが、夜が明けたとも、日が暮れたとも判らない様な信仰で闇を破す
と言わるるか。五十二段の約束が成立って渦巻く苦悩の心が、
希望に満ちた光明の世界に変って、踊躍歓喜せずに居らるるか。
何時とはなしで済まさるるか。
一、たちどころに他力摂生の旨趣を受得せり、とあるは知らん間に、
信楽開発は出来ると言うことではあるまい。
一、御文章にも、「今こそ明らかに知られたり」とあるが
他力不思議に催され、悪性が白状さされた時、
信受本願前念命終、即得往生後念即生、『うーん』と言った時が、信一念で、
凡夫の魂の命終った時、次の息は凡数の摂ではないぞ。
正定聚不退転の菩薩の仲間じゃ。
それから南無阿弥陀佛と一声出た時が行の一念であるが、
併しその場合これが信の一念、之が行の一念とそんな事を考える余地は微塵もない。
万歳、万歳、万々歳と泣くより他に手はない。
今迄の煩悶の全部、十方に遍した散乱放逸の心が今は罪業深重も重からず、
散乱放逸も捨てられず、の勅命通りに生きている。
今迄の法ばかり眺めて喜んでいた時の心と、今は天地雲泥の差がある。
何故なれば箸にも棒にも掛らぬ実機が救済された自覚があるから、
今迄は罪を恐れ悪を慎んで参ろうとする他人親の雑修の根性が
止まなかったけれども、今は佛凡一体で心の命ずるままに進退し
無碍の大道を闊歩する大決定を得て居る。
今迄は御教化を覚えて多くを知って他人に説いて聞そうと思っていたが、
今は一言一句、私一人へ注がれた如来の生血であって、
かく迄の御苦労がなければ私は呼び覚まされないのであったと
自分の満足した事を話す様になった。
今迄は之も御恩報謝、あれも御恩報謝と思っていたが、
今は御恩知らずの不実者を見さして頂き、じっとして居られなくなった。
この偉大さ、この威神力、底の知れない不思議の力、親より賜わる歓喜の光、
悪に強けりゃ善にも強い。のるかそるかの一念を生命懸けで求めさされたのだから
生命掛けの報謝をせずには居られない。
杉浦重剛氏が日露の講和談判に行かれた小村外相に
『四面楚歌の声するも屈せざるは是れ男子、信じて行えば天下一人と雖も強し』
と打電されたそうなが、機なげきとか地獄秘事とか、間違い者とか異安心とか、
邪儀とか異解者とか四方から攻撃の声は聞えるけれども、
いくら上手でも理屈の物尺では、体験の世界は計られないよ。
不実一杯を貫く他力至極の金剛心は親(弥陀)の物であり子(法龍)の物である。
私の往生の解決の付いた時が、親の正覚を取られた時である。
私を離れて弥陀は無い。身も南無阿弥陀佛、心も南無阿弥陀佛、
口も南無阿弥陀佛、彼此金剛の心じゃないか。
この無碍の大道の前に障碍する者が何処にある。
聖人様が
然るに濁世の群萌穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、
半満権実の法門に入ると雖も真なる者は甚以難く、
実なる者は甚以稀なり。偽なる者は甚以多く、虚なる者は甚以滋し。
と仰せられてあるが、自己反省なく、親子の名乗の体験もなく、
獲た積り、信じた積りでは死出の関所は通れないぞ。
畳の上の水練も、机の上の講義も知ったり覚えたりしたのでは
生死の苦海は渡れない。
真宗の同行よ、本当に他力不思議の信心が獲得出来ましたかい。
真仮の水際が明かに味わえましたかい。権実の分斎がはっきりしましたかい。
聖浄二門は勿論、正雑二行、専雑の得失、三願転入、
此は僧侶の学問ばかりじゃない。
誰しも通らなければならない信仰の経路ではないか。
この従仮入真の経路こそみ佛様が調機誘引して大願海に帰入せしめる
善巧摂化ではないか。
方便の方便たることを知らない者は真実の真実たる所以を知らない。
我等一切の群生方便より真実に転入してこそ本願を生かすことが出来たのだ。
信仰の真の生命は妥協でもなければ迎合でもないぞ。
絶対他力の信仰は素直な仮面を覆った誤魔化しでは
(いや本人は疑わないで信じさして貰うて居る積り)あるまい。
進め進め絶対の境地まで。方便の真門を去って真実の弘願に達するまで。
その昔法然門下の異安心の中、聖人は信一念の邪義に加えられてあり、
終に御流罪に逢いながらも、『唯佛恩の深きことを念じて人倫の哢言を恥じす』
と八方攻撃の唯中ににっこり微笑まれた光りこそ、
末代の今日を照して居るではないか。
野中の一本杉には風当りがきつい。
併し地獄一定が極楽一定に生かされた大自覚、此心深心せること由し金剛の若し
の前には恐るる者がない。
十方世界を我心とした魂一つの大満足は、権勢も曲げる事は出来まい。
威武を屈する事は出来まい。況や富貴や名誉を以てせんをやだ。
箔や飾では往生の解決は付かないぞ。
法龍は信仰の妥協は出来ない。三界六道は客舎ではないか。
客舎に執着して永遠の生命を失う者こそ顛倒の人間から見れば
間違って居ないけれども、み佛の眼から見れば虚仮ではないか。謟偽ではないか。
静かに考えると私は驕慢の中の大驕慢、少々の驕慢ではない。
五十二段の後とりは、法龍一人じゃと言う勇しい驕慢じゃ。
身に余る歓喜、心に燃える信念、尊いではないか。
人は人、我は我、救われた御恩報謝には倒れる迄進め。
喉の破れる迄真仮の分斎を叫べ。声が出なければ、ペンで戦え。
ペンが折れたら心で戦え。
法龍の身は八つ裂きになるとも息の根の続く限り絶対他力の進軍ラッパを
吹き続けずには居られない。
救われた信念じゃもの。地獄一定が正定聚不退の身となった嬉しさじゃもの。
いい親もったなァ、南無阿弥陀佛。
あら尊と五兆の血しほ飲むわが身
ささげまつらんはらからのため
(『魂のささやき』p.99-110)