シスターみみっくのなんだかわからない堂

日常のよしなしごとをつづります。正教会のお祈り、読んだ本、ハマリものなどなど。

大斎第一週間水曜日

2007-02-21 22:55:28 | 正教会及び宗教全般
今日はちょいとしたハプニングがあった。
もう祈祷もたけなわで、晩課の「主やなんじに呼ぶ」も終わりにさしかかり、サテ誦経の続きをと思ったとき背後に人影。
「すいませ~ん、現金書留なんですけど」
え?ハンコ?え?ペン?
とっさのことにアワアワしていたら代わりに誦む声が聞こえてきた。
おお、なんちゅうか絶妙の連携プレー、と思いながらサインして書留受け取って、区切りのよさそうなところで流れるように引き継いだ。
なんたって皆さん年期入ってるからな~。さすがである。

これまでだって宅配便とか来たことあるけど、自分が誦経してる時ってのはなかったからなあ。
いや、何を言っても言い訳だ、やっぱり心の修養が出来とらんorz

さて、アンドレイの大カノンについて。
先に「大斎の意味」を引用した中に、
『<略>同時にそれは、この世の創造からハリストスの到来までのすべての罪人、すべての義人を含んだ聖書の登場人物全体の瞑想でもある。』
とあったが、本当にこのカノンを聞いていると、聖書の中の様々なシーン、様々なエピソードがまるで走馬灯のように、ちょと違うか、オムニバス映画のようにあざやかに思い起こされる。
例えば、
「太祖がマムブリイの樫の木の下に天使らを饗応して…」
と聞けばイコンの図柄としても有名な「アブラハムと三天使」を思い出すし、
「主宰よ、我頑ななるによりて頑ななるファラオンのごとくなれり」
と聞けば、エジプトのファラオがモーセをはじめとするイスラエルの民に対してどんだけ頑なだったかを思い出すというふうに。

そして重要なのは、
『この大カノンでは「歴史」と「個人」という二つのレベルが巧みに織り合わせられている。』
とあるように、これらの出来事が「私」のこととして語られていること。
「我は我が思いをもって盗賊に遭いし者なり、今全身彼らに打たれて、傷に蔽われたり<略>司祭は我を見て過ぎ、レヴィトも我が禍の中において裸体なるを見て棄てたり」
なんてところではあの、親切なサマリヤ人に助けられる前のボロボロの、盗賊にあった人が「私」の姿として語られている。
かと思えば、
「我カインの殺害に越えたり」
なんて。人殺しよりひどい罪ってどんなんだよorz

歴史をたて糸、個人をよこ糸として、まあ逆でもいいんだけど、そうして織り上げられたタペストリーのようなこの大カノン。
明日でおしまいなのが残念なような、寂しいような。

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3 コメント

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ドラァグ (ニコライ)
2007-02-21 23:26:15
例えが悪かったですな、裾引きずって優雅な事この上無いのですが、いやつまづく、つまづく。でも金欄の服を着るとこんな私でも神聖な気持ちになるのですよ。
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Unknown (洋風おじや)
2007-02-22 09:05:03
そんなハプニングは本会ではまず体験出来ない事ですね。
どこまでもアットホームで良いですね。


殺人よりも重い罪はたぶん、心の中の奥の気がつかない所にあるんじゃないかとおもいます。
気がつけば痛悔出来るし・・
まぁすりゃあ(よし)ってわけじゃないけど
気がつかなきゃそれも出来ない。
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コメントありがとうございます (シスターみみっく)
2007-02-22 22:10:27
>ニコライ兄
段を降りる時に転ばないようにどうぞお気をつけ下さいね。
堂役はロウソク持ったりして足元がおろそかになりがちですから。

>洋風おじや姉
そうですね…
だから痛悔の時に「知ると知らずして…」っていう祈祷文があるのってありがたいなと。
自覚して悔い改めるほうがいいのはもちろんなんだけどね。

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