ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

年金族

2015-07-13 22:08:51 | 自然、読書、仕事、そして生きている
10日ほどブログを怠けた。
忙しかったわけではない。
怠けたかったのだ。
だらだら過ごす心地よさと、だらだらしかできない事への悟りと誘いがそうさせている。
急いだり、根詰めたり、無理・無茶したりはできないと体が申し、頭が受け付けたのだ。
そういう、最近なのです。

さて、先週・今週の我が携帯電話カメラからピックアップ。



これは先週か、先々週か。
仙台から先輩夫妻が「わざわざ」新幹線で、お土産の「baci」というイタリアのチョコを携えてやってきた。

この「わざわざ」には少し仕掛けがあるそうで、ワタシも入会しているJRの中高年向け倶楽部の「4日間乗り放題15000円」の企画で「3日間」東京で遊んできたが、残りの有効期間「1日」を、どうせ無料なのだからと有効利用したのだという。

それでも、先輩にわざわざお出でいただいたのには恐縮で、ちょうど相方も店の手伝いの日で、他のお客様をほっといて(ウソ)昔の仙台時代談義を大いに深めたのだ。

九州出身の先輩は会社(仙台支店)の同僚の女の子と結ばれてあちこち転勤した後、奥様の故郷の仙台に戻り、今は悠々自適の年金生活をおくっている(のかな?)

会社では一つ先輩で、彼が確か二浪、ワタシは一浪だから都合二つ年上なのだけど、いい会社を二つ勤めあげたから、うらやましい年金をいただいている(んだと想像する)。



ああ、いいなぁと思っていた矢先、相方=妻から思ってもいない事を打ち明けられた。



なんと、その最初に勤めた会社から、今年からアナタにも企業年金が出るよというお便りが届いたそうなのだ。

嗚呼、神よ。
年がら年中、宝くじを数十枚置いた神棚を、朝な夕なに拝んだ「成果」だよと妻と抱き合って喜ぶ(大げさ)。

まぁ、金額は短い勤続年数であり、小中学生のお小遣い程度ではあるが、やはり嬉しい。

そして嬉しさよりも勝るのが、気恥ずかしさと、なんとも形容しがたい感慨だ。
例えるなら、地球は丸かったんだとまだ見ぬ新世界を夢見て水平線をあおぐ航海から、もう少しでナイアガラの滝壺に着いちゃうよという、川の流れに背けないほど小さいボートに乗っているような。

(少し大げさであった)

まぁ、そういう実感をまだ引きずっている今日この頃で、少しポカンとして見えるときは、ワタシの頭の中にその滝壺を描いているからだと思ってほしい。

(閑話休題)

そういう事を引きずりながら、感情に勝るのが「食の探究心」で、先週の月曜日は花巻の自宅から単身赴任地の盛岡に行く途中、確か10時半開店だったけなと思い出して、いつもと違う裏街道をまっしぐら。



久々の紫波「鷹觜(たかのはし)」。

「醤油」でもいいが今日は朝から暑いなと「ひやあつ」。
冷たいうどんに温かいだしと、まぁ中途半端な感じだが、この時期、これがいい。

お決まりの「鶏天」と本場高知観音寺の竹輪を使用した「ちくわ天」をお供に、あぁやっぱここはいいなとご満悦である。

この喜びを分かち合おうと、当店女史二名に、鶏天・ちくわ天をおみやにした。

(またまた話と時間が飛ぶので閑話休題)

さて、昨日。
あまり思い出したくない、昨日。
めっちゃ暑くて、かき氷だけ売れに売れた、昨日。

嗚呼、昨日。

J3「グルージャ盛岡」公式戦、対藤枝戦。

先週までの勢いはいったい、、、
(あくまでもワタシなりの素人戦評だが)
ゴールに向かう気持ちはどうしたのか。
11人で闘うというチームワークはどこに行ったのか。
釈然としない気持ちで盛岡南公園競技場を去る。



ボクは少し怒っていた。
負けに希望があった前半戦とは違う、苦々しさが残った。

この暑い中、頑張った選手にも、運営事務局にも申し訳ないが、ボク達が見たいのは夢だ。
夢を追いかけるその姿だ。

  (筆を休めよう)

暗くなる少し前に着き、風呂の前に書斎の青いソファーでしばらく撃沈し、定期検診で朝飯抜きで出かけたから、週に一度の帰宅はほんの短い時間だった。



合歓木はその橙色の花がより赤く深くなり、



桔梗は一輪咲いた。

定期検診で血を三本抜かれ、朝飯抜きのまま盛岡へ入り、そのままマクドへ突入。
いつものドライブスルーではなく、席に座ってソーセージマフィンセットにありつく。





ジャンクとかなんとか悪口を言う輩はいるが、やっぱり今日もこのソーセージマフィンを100円で提供する底力に感心しながら食べたのだ。
朝のマクドは一人客も多いし、なにかまったりした雰囲気を持ち、好きだ。

さて、店で昨日の催事の残滓を降ろし、今週も一週間が始まる。

ワタシにとって、短時間とは言え、週の終わりに花巻の自宅に帰ることが一週間の区切り・アクセントとして生活と頭の切り換えになっていると、今ほどつくづく感じた。

ぼやきたいことはたくさんあるが、この歳になれば、先ずは今を受け入れてから考えようと、少しは何かを学んだ気がするが、勘違いというのか、まだまだ浅いというのか、そういうものかもしれない。