オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

この宝を土の器の中に

2017-03-05 00:00:00 | 礼拝説教
2017年3月5日 主日礼拝(2コリント4:7~11)岡田邦夫


 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」2コリント4:7

 私の若い日、柴又教会のクリスマス礼拝の時、受洗しました。その夜の祝会の出し物で青年会の寸劇「美しの門」がありました。足の不自由な物乞いの役の人が上野動物園の飼育員で仕事が入って来られなくなったので、急きょ、私がその役をやることになりました。子供のころ、上野公園を歩くと戦地から帰還しけれど、手や足を失ったり、失明したりして、働き口がない傷痍(い)軍人の人たちが道の両側で物乞いをしていました。今では考えられない光景でした。それを思い出して、思い切りあわれに演じ、最後はナザレのイエスの名によって歩きなさいと言われて歩き出すという場面も、自分の受洗した喜びを思い入れて、飛び跳ねました。おとなしめな青年が思い切りやったので、その意外性に集まっていた方々は大爆笑、大いに受けました。私の人生でこのようなことは後にも先にもありませんでした。

◇脇役あっての主役…「土器性」
役者は役を演じる者ですが、牧師や神父のことを、教えを伝える役目の者と書いて、教役者(きょうえきしゃ)ということがあります。その教役者の代表が12使徒と使徒パウロです。使徒は神から出た教えを伝える「神の使い」といってよいでしょう。ですから、「私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」と言うのです(4:1-2)。使徒としての役割を担い、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです」(4:5)。言い換えれば、パウロはあくまでも主役ではなく、脇役なのだというのです。名脇役というのは自分の個性を発揮しながら、主役の演技をいっそう際立たせるものです。神のドラマの主役はイエス・キリスト、私たちは脇役です。イエス・キリストのせりふ、立ち居振る舞い、臨場感を引き立たせるのです。脇役といっても、その他大勢ではありません。それぞれの持ち味を生かして、神のドラマを引き立たせるのです。
 主役と脇役、別な言い方をすれば、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(4:7)。「宝」は神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光、キリストの御顔にある神の栄光です。何にもまさるさん然と輝く宝ものです。パウロも私たちもその宝を入れている土の器、素焼きの土器です。
三田開拓当初、必要だろうと色々な器をいただきました。中にはどこかのお店で使っていたもので、使えないものもありましたが、重宝して使っている器もあります。神は使い勝手がいいと、あなたという器を選んで、神の宝を入れておられるだと思います。選びの土の器なのです。土の器だと謙虚な自覚を持つとともに、福音の宝を入れているという誇りを持ちましょう。
三浦綾子著「この土の器をも」は綾子さんが光世さんと結婚し、「氷点」が新聞の懸賞小説に入選するまでのことが書かれています。その最後のページに、そのタイトルの由来が載っています。その氷点が一位に入選したという知らせが入った日の夕方、光世さんは綾子さんにこう話しました。「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾々は土から作られた、土の器にすぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」。

◇主役あっての脇役…「至宝性」
 「宝」はキリストの御顔にある神の栄光を知る知識であるとともに、神のものである「測り知れない力」です。全知全能の神からくる知識と力です。イエスをよみがえらせた神から来る復活の力です。パウロが経験したことから、こう大胆に告げます。その宝があるので、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(4:8-9)。さらに、イエスが死んでも復活したように、パウロも死ぬような苦しみの中で、なおイエスのいのちによって生かされていると信仰の実体験を語ります。
 「宝」は永遠の命です。永遠への可能性があるので、患難がきても「私たちは勇気を失いません」。苦難で「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて」いくのです(4:16)。私たちが重い苦しみと見えても、永遠の命をいただいているので、ほんとうは軽い患難なのです。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(4:17)。神は軽い患難に引き換えて重い永遠の栄光をもたらしてくれるのです。永遠の命の宝は見えないからこそ無限の価値があるのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(4:18)。

 「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんの詩をご紹介しましょう。彼は9歳の時に赤痢の高熱によって重度の脳性麻痺を起こし、一切の自由を奪われて話すこともできなくなりました。そこで母親が五十音を書いた文字板を指で示し、彼の唯一残った瞬きをとおして意思疎通を図っていました。12歳の頃から聖書を読み始め、毎日欠かさずに訪ねてくれた牧師の愛によりクリスチャンになりました。今申し上げた方法で透き通るような詩を作りました。その一つが「生きる」です。
神様の 大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は 蛍草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神様の 大きな御手の中で
私は 私らしく 生きる
体を動かすことも、話すともできない、しかし、瞬きができる、それが持ち味、それで詩を作る、それで十分、それが「神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる」ということでした。最初に出した詩集のタイトルが「わが恵み汝に足れり」で、彼の心からの思いでした。まさに「この宝(恵み)を、土の器の中に入れている」でした。
 「宝」は神の御霊と言えますから、やがての時、私たち、土の器そのものが変えられて、栄光の宝になるのです。神の歴史の舞台の最終幕では、私たちはもはや脇役ではなく、みな、主役になるのです。聖書は大胆にもこう告げています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(3:18)。主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。