よく歴史のある場所に立つと、江戸時代の人もここを歩いていたのかぁ!とか不思議な気持ちになる時がありますよね。(私だけですか?)
そんな体感の中で今回行った沖縄の「ひめゆりの塔」と「平和祈念公園」は最高にその思いが強かったです。
今回定期観光バスで行った所ですが
沖縄の下の方で空港のそば方面Aコース「南部戦跡めぐりと玉泉洞」
①旧海軍司令部壕
②ひめゆりの塔
③昼食
④沖縄平和祈念堂・平和の礎
⑤おきなわワールド(玉泉洞)
このコースに参加しました。参加者は4組5人です。
いつもこんな数の時が意外と多いんですよ。
のんびりして良いです!
実は今回「湖水観賞舟でのジャングルクルーズ」に乗るコースを選ぶ予定でしたが毎日やっていないコースで、このAコースになりました。
でもきっと私にはこのコースを見る縁があるんだろうな~って事で参加! そしたら、夫婦で「このコースで良かったねぇ~!案内付きでないとここまで分からないよね~」って結論でした。
特に「ひめゆりの塔」と「沖縄平和祈念堂・平和の礎」(平和祈念公園)のつながりが、この歳で分かり良かったです!(恥)
当時の女の子と今の女の子って本当に違いが大き過ぎますね。
きっと皆さんはもう「ひめゆりの塔」に関連あるお話は充分知っているとおもいますが、米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は那覇市の南東5㌔にある南風原の沖縄陸軍病院に配置されました。
卒業式もしていなかったので、病院の中で卒業式をしたそうです。
「ひめゆりの由来」
植物のひめゆりとは関係なく、各学校の校友会誌があり、一高女は「おとひめ」師範は「白百合」と名づけられていて校友会誌も一つになり、各一部を合わせ「姫百合」となったそうです。戦後ひらがなの「ひめゆり」になったそうです。
「ひめゆり平和祈念資料館」では最初配置された病院での介護の様子やそこから逃げる様子やその後の最期の様子をアニメの感じで映像をみせてくれ、その後逃げた岸壁にバスは行きました。
でもこの場所も米軍が攻めてきて、逃げれる人だけ逃げ、沖縄平和祈念堂のある崖まで逃げ、そのうち、配置されていた人たちも解散を命じられ、あとは一人一人で逃げるように言われ、皆呆然とします。でも数人のグループを作り逃げたそうですが、岸壁まで来て、もう行き場が無く、国から渡されていた2個の手りゅう弾を一つは米軍に投げ、もう一つで自らの命を絶つのですが、その理由は、日本国から米軍に捕まると、死より辛い苦しみが待っていると聞かされていたから!との事。
でもそれを実行する前に米軍に見つかり、捕まった生徒が数名!
ところが実際は怪我をしてる自分達を米軍は介護してくれ、食事もくれたそうで、日本の皆は驚いたそうです。
きっと自爆した日本の戦士達や女子たちは日本国の間違った教えで大事な命を無くした人たちが多く、勿体無いな!ってとても強くおもいました。
(平和祈念公園)
(沖縄平和祈念堂)
(沖縄出身の山田真山画伯が製作)
(平和の礎 )平和の火
その岸壁(沖縄平和祈念堂がある所です)も見ましたが写真は辛くって撮れませんでした。
皆の分も一生懸命生きたいと思いました。