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2005年1月スタート

2001年10月20日のアメリカ

2016-01-27 01:56:47 | 時にはまじめに
 他の事を書こうと思っていたのだけれども、先日デヴィッド・ボウイの訃報を聞いて、思い出したこと、思ったことがあったので、忘れないうちに先に書くことにした。

 別に僕はデヴィッド・ボウイのファンというわけではない。洋楽をよく聴いていた頃にヒットしていた「レッツ・ダンス」も好きではなかった。その数年後にリリースされたパット・メセニー・グループとのコラボレーションによる「This is not America」は好んで聴いたけれど、逆に全くヒットしなかったと覚えている。それら以外の彼の曲はほとんど聴いたことがない。

 デヴィッド・ボウイが自分に強い印象を残したのは、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の約1ヶ月後に開催された"The Concert for New York City"というイベントでのパフォーマンスだ。彼はそのイベントのオープニングを務めた。歌ったのはたった一曲、サイモンとガーファンクルの「アメリカ」だった。ステージに一人椅子に座り、日本製のおもちゃのようなキーボードの自動演奏機能を操作し、それだけを伴奏に、上手いのか下手なのかよく分からない(音楽的には間違いなく下手だ)独特の、しかし終始力強い声で歌い切り、ステージを降りた。

 恐ろしくシンプルなステージだった。冒頭の一節を聴いて「アメリカ」だと分かった観衆からは大きな歓声があがった。でも、同時にその歓声を相殺するくらいの強い静寂がその場を支配しているように感じられた。歓声はあがり、彼自身も歌い、演奏している。にも関わらず、トータルでは無音といって良いほど静かな、そんな不思議な演奏だった。その不思議さゆえに、強烈な印象が残っているのだ。

 ところで、なぜ、そんな演奏をしたのか?昨日の今日で、気心の知れたバンドメンバーを手配できず、やむなく手元にあった小さなキーボードで弾き語りすることにした、わけではないと思う。その証拠に、よく聞くと、キーボードの自動演奏に合わせて、時折彼以外の手によるストリングスやチャーチ・オルガンの音がごく微かに、でも効果的に加わっている。だから、この演奏は静かな静かな演奏になるように周到に準備されたのだ、と僕は思っている。それは、暴力に屈するな、正義を信じよう、といったメッセージを声高に伝える前に、まずは、信じ難く理不尽な惨事に見舞われ、うちひしがれた観衆の心に寄り添おうとする意思の表れ、彼ならではのメッセージだった-今になって僕はそう思っている。

 彼が、彼自身の歌ではなく「アメリカ」を選び、歌ったのも、そういうことなのだと思う。

 人が人に伝えるとはどういうことか?いかにして伝え得るのか?

 たった一つのエピソードではあるが、学ぶことは多い。

"America"

Let us be lovers,
We'll marry our fortunes together.
I've got some real estate
Here in my bag.

So we bought a pack of cigarettes,
And Mrs. Wagner's pies,
And walked off
To look for America.
"Kathy", I said,
As we boarded a Greyhound in Pittsburgh,
Michigan seems like a dream to me now.

It took me four days
To hitch-hike from Saginaw.
"I've come to look for America."

Laughing on the bus,
Playing games with the faces,
She said the man in the gabardine suit
Was a spy.

I said, "Be careful,
His bow tie is really a camera."
"Toss me a cigarette,
I think there's one in my raincoat."
We smoked the last one
An hour ago.

So I looked at the scenery,
She read her magazine;
And the moon rose over an open field.
"Kathy, I'm lost", I said,
Though I know she was sleeping.
"I'm empty and aching and
I don't know why."

Counting the cars
On the New Jersey Turnpike
They've all come
To look for America,
All come to look for America,
All come to look for America.

「必死」について

2016-01-25 02:22:21 | 時にはまじめに
 必死、という言葉がある。日常的には、「あいつ、必死こいてる」「なに必死になってんの?」みたいな感じで、今般では嘲笑的な意味合いであったり、或いは人の心を挫くような意図で使われることが多いように思う(もちろん、そうでない使い方をされることもある)。

 改めてこの言葉について考える。

 「必」ず「死」ぬと書いて必死。あまり穏やかな例ではないが、「言う事を聞かないと、命を奪うぞ」などと脅されるようなことがあれば、大体の人は命を奪われたくはないものだから、全力を尽くして従順に言う事を聞くか、「言う事を聞かない」と思われぬよう細心の注意を払う。それぐらいの差し迫った状況に追い込まれ、懸命に行動する有様を表す言葉なのである。

 似たような言葉に「背水の陣」がある。退却しようものなら水に落ちて溺れ死ぬような状況に自らを置いて、前進する覚悟を固める、といった意味と解釈している。ただ、「背水の陣」は、能動的にそのような状況に自ら身を置くという点において「必死」とは若干の相違がある。

 「必死」にせよ「背水の陣」にせよ、悲壮感の漂う言葉だが、自ら望んだわけではない状況で足掻く「必死」のさまは他者から見れば、悲壮を超えて、むしろ滑稽に映る。だからこそ、今日では先に述べたように嘲笑的な意味合いで使われることが多いのだ、と思っている。

 少し見方を変えてみると、「必死」というのは当事者の置かれた状況であって、それを眺める他者は「必死」の状況に置かれていないことを、嘲笑する事によって確かめ、安堵したいのかも知れない。

 しかし、もう一度「必死」という言葉に立ち返ってみると、人は「必」ず「死」ぬ存在である。そういう意味では、人は誰しも「必死」であっておかしくないし、「必死」は嘲笑の対象ではなく、嘲笑する者が嘲笑の対象と成り得る、と思う。

 「必死」は日本、少なくとも東洋の言葉だが、デンマークのキェルケゴールという人は現実世界における全ての人間は「死に至る病」から逃れられない存在だ、と定義し、自身の思想を展開したと聞く。また、「一休さん」で知られる一休宗純は正月に「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と触れ回ったと言う。

 新年早々に、暗い話を、と思われるかもしれないが、正月こそ、5年後、10年後、と言わず、めいめいがめいめいの一生というキャンバスにこれまでどのような絵を描いてきて、どのように完成させたいのかイメージを確かめておく機会とすることをお勧めします。

 くれぐれも人生の終わり近くになって初めて、キャンバスの隅っこだけを使って一生懸命絵を描いていたことに気付き、愕然とする事が無いように。



久し振りに明けましておめでとうございます

2016-01-01 13:05:32 | 日記?週記?
 一年以上、ブログを放っぽいて、もっぱらFacebookに投稿していたのだけれど、それも何か閉鎖的だなぁと思うようになり、またこのブログを再開することにした。いつまで続くか分からないけれど。
 再開が新年というのは偶然ではなく、年賀状にこのブログを再開するかも、と書いて彼方此方に送ったという裏事情がある。そこで、いかにも俗物的だけれど新年を以って再開することにした、というわけだ。

 超近況ですが、大晦日は年賀状を何とか書き上げて、駅前の中央郵便局に夜の9時近くに投函した後、風呂に入り、身欠鰊入りの年越し蕎麦を食べ、美輪明宏のヨイトマケの唄を途中から聴き、紅白の終わり際にふと家を出て、近所の寺で鐘を撞いた。それが丁度新年を迎えた瞬間だった。



 年を重ねて煩悩も相応に蓄積していると思うけど、とりあえずこの一撞きで、あらかたの煩悩がウソのように消失した、ということにして家に戻る。

 翌朝は、初日の出を見に行く、ということもなく遅めに起きて、とりあえず雑煮を作ることにした。とりあえず、色々な出汁を使うと味が良くなると考え、鰹・アゴ・昆布・茸の複合出汁に具材を投入して、椀に入れた焼き餅に注いで家族でいただいた。自分で言うのも何だけど、非常にうまい。

 その後は、ニューイヤー駅伝を見つつ、データ放送でぐんまちゃんとジャンケンをしたりして過ごすうち、ツマと娘が家を出て行った。別に愛想をつかされたわけではなく、ツマの実家の宇部に1泊するという元々の予定に基づいての行動である。繰り返しになるが、正月にツマが娘を連れて実家に帰っただけのことであるが、書けば書くほど愛想をつかされたように見えてしまうので、この話はここまでとする。くどいようだが、明日には無事2人が土産を手に笑顔で帰ってくるのだ、たぶん。

 さて、この後の、このブログの予定だが、例のごとく木工(別にスピーカー工作だけをしているわけではない)の話は散発的に続けるとして、新たに少しは真面目なことも書こうと思っている。

 何てったって、もう不惑を過ぎて四十代も半ば。平均寿命を考えても、いつの間にかもう折り返し点は過ぎてしまっているのだ。不惑などどこ吹く風、今も迷いまくりの毎日だけど、少々変であろうが、思っていることを率直に書きたいと思う。それが、どこかの誰かさんに伝われば、それに勝る喜びはない。

 ぐだぐだと書き連ねたけれど、とにもかくにも世界の皆さん、明けましておめでとうございます。英語であればHappy New Year!!だけれども、今の心情としては、I wish you a Happy and Peaceful New Year!! と平和を強調しておきたい。

 それでは!