およそ世の中で最も気に入らないものを一つ挙げよ、と言われたら、「愚痴」を結構な確率で挙げてしまうのではないだろうか?と思う。
何を産み出すわけでもなく、ただひたすらに非生産的な行為であり、なおかつその非生産的な行為に他人も巻き込んでしまうのである。これほど純粋に有害無益な存在というのもそうそうないのではないか、と思う。
ツラい、苦しい、というのは多くの場合、嘆き悲しんだ所でどうしようもないものなのだ。足のしびれが切れたり、スネをぶつけたり、或いはあっつあつの湯豆腐を口中に放り込んだときと同様、それが過ぎ去るのをただ黙って耐え忍ぶしかないのである。耐える事を放棄し、泣き叫べば、すなわちそれが愚痴に相当する。
もっとタチの悪いのは、そのツラさ、苦しさが生ずる原因が、全て自分の他にあるように思い込んでいるような場合である。
「どうして、椅子じゃなくて、座敷なんだ」
「誰だ、こんなところに踏み台を置いたのは」
「こんなに豆腐を煮えさせて、口の中を火傷したじゃないか」
当人は大真面目に自分の他にある非を責めているが、その姿は滑稽である。ましてや、それを社会全体の非にすり替えるとなれば、こじつけここに極まれり、である。
実際には、足のしびれを切らして社会が悪い、などという人はさすがにいないだろうが、似たようなレベルのことで、すぐに社会が悪いと決めつけるようなことに時折でくわす。自分ができることをしないままに、社会が悪い、と。
こんなことがあった。
町の主催で、ちょっとした芸能人のエンターテイメントショーがあった。チケットの発売日に、役所の窓口に人がズラリ、と並んだ。一向に列が進まない。僕の少し前に並んでいた何人かが話をし始めた。「遅い」「役所だから対応が悪い」「そもそも事前に練習とかしていないのがおかしい」「自分たちの貴重な休日の時間をこういった不手際のせいで失われるのはおかしい」と話はどんどんエスカレートしてくる。
そのうち一人がやおら携帯電話を取出して、どこかに電話をかけ始めた。「もしもし、今、列に並んでいる者ですが、どうして一向に進まないのでしょうか?明らかにそちらの事前準備のミスではないでしょうか?こうしている間にも、時間は経っているのですよ。我々に迷惑を掛けていながら、平然とされているとはどういうことですか?あなた方がそのような杜撰な仕事をされていることを、苦情として申し立てる事もできるんですよ・・・」
何と、猫の手も借りたい筈の受付に電話しているのだ。何だろう、この傲慢さは。ミスではないでしょうか?と問いを装って、明らかにミスだと断定している。ミスだの、杜撰だの、そう断ずる資格がこの人たちのどこにあるのだろうか?受付の人が貴重な休日に勤務している事実には目を向けず、自分たちの時間だけが消費されているとしか考えられないのはどうしてなのか?
その人はひとしきり、文句を言って、携帯を折り畳み、満足そうに仲間に言った。「これだから、お役所仕事って、言われるのよ・・・ホント、日本のお役所、ってダメだわ」
もう、数年前のことだから、細かい言葉は違っている。でも、大枠は変わっていない。あなたの言った事は全て愚痴だ。あなたの言った事は何の解決にもなっていない。もし、あなたが本当に堪え難くて、何かを変えたいのならば、すぐさま受付に行って、無償で仕事を手伝うべきだ。次の機会に同じ事が繰り返されるならば、また無償で手伝え。変わるまで、変えるまで、一言も不服を洩らさずに、無償で手伝い続けるのだ。それが嫌ならば、黙って列に戻れば良い。
もちろん、社会に真に悪が潜む事も多々かどうかは知らねど、あるには違いない。上に挙げたようなどうでも良い悪に(悪ですらないかもしれない)目くじらたてるエネルギーがあるならば、本当に社会の不具合の為に不利益を被っている人たちの為にとっておきたい。
もう亡くなられたが、三宅廉という小児科医の本を読んだ事がある。この世に生を受けた直後の赤ん坊のケアに心血を注いだ方だ。ピンと来ないかも知れないが、その昔は産婦人科は子供を出産させるまでが仕事であり、小児科医は生まれた子供が病気になったら診療するのが仕事であった。だから、生まれながらにして何らかの病や障害を抱えていた赤ん坊は、手の施しようがない存在として、産婦人科医からも小児科医からも見放されていた-とても大雑把に言えば、だが。
三宅廉氏は、そういった、医療の谷間に横たわる赤ん坊のケアに全力を尽くした。のみならず、医療の谷間に放り出されることが無いように、妊娠以降、出産、そして、15歳に至るまでの膨大なデータを克明に残し、その後の医療の発展に役立てたのである。
紹介が長くなったが、ある時、三宅氏の病院で、生まれつき両の眼球のない子が生まれた。その三年後に三宅氏は、その子の成長を確認するために、家庭を訪問する。果たして、その子は可愛らしい三歳児に成長し、父親に甘えて膝の上で遊んでいた。三宅氏は、その子の様子をつぶさに観察して、こう言ったのである。
「ヘレン・ケラーは目も見えず、耳も聴こえず、話す事もできない三重苦の人でした。この子は目だけです。もっと他の感覚を活かさないといけない。転んで泣いても、歩かせる。テーブルや壁を一人で触り、一人で歩かせ、トイレに行かせ、顔を洗わせることが必要です。危なっかしいから、と助けてはいけない。甘えさせてはいけない。この子のためにこそ、しっかりさせなさい。」
そう、我々に愚痴をいう暇など、ほとんどないはずなのだ。
何を産み出すわけでもなく、ただひたすらに非生産的な行為であり、なおかつその非生産的な行為に他人も巻き込んでしまうのである。これほど純粋に有害無益な存在というのもそうそうないのではないか、と思う。
ツラい、苦しい、というのは多くの場合、嘆き悲しんだ所でどうしようもないものなのだ。足のしびれが切れたり、スネをぶつけたり、或いはあっつあつの湯豆腐を口中に放り込んだときと同様、それが過ぎ去るのをただ黙って耐え忍ぶしかないのである。耐える事を放棄し、泣き叫べば、すなわちそれが愚痴に相当する。
もっとタチの悪いのは、そのツラさ、苦しさが生ずる原因が、全て自分の他にあるように思い込んでいるような場合である。
「どうして、椅子じゃなくて、座敷なんだ」
「誰だ、こんなところに踏み台を置いたのは」
「こんなに豆腐を煮えさせて、口の中を火傷したじゃないか」
当人は大真面目に自分の他にある非を責めているが、その姿は滑稽である。ましてや、それを社会全体の非にすり替えるとなれば、こじつけここに極まれり、である。
実際には、足のしびれを切らして社会が悪い、などという人はさすがにいないだろうが、似たようなレベルのことで、すぐに社会が悪いと決めつけるようなことに時折でくわす。自分ができることをしないままに、社会が悪い、と。
こんなことがあった。
町の主催で、ちょっとした芸能人のエンターテイメントショーがあった。チケットの発売日に、役所の窓口に人がズラリ、と並んだ。一向に列が進まない。僕の少し前に並んでいた何人かが話をし始めた。「遅い」「役所だから対応が悪い」「そもそも事前に練習とかしていないのがおかしい」「自分たちの貴重な休日の時間をこういった不手際のせいで失われるのはおかしい」と話はどんどんエスカレートしてくる。
そのうち一人がやおら携帯電話を取出して、どこかに電話をかけ始めた。「もしもし、今、列に並んでいる者ですが、どうして一向に進まないのでしょうか?明らかにそちらの事前準備のミスではないでしょうか?こうしている間にも、時間は経っているのですよ。我々に迷惑を掛けていながら、平然とされているとはどういうことですか?あなた方がそのような杜撰な仕事をされていることを、苦情として申し立てる事もできるんですよ・・・」
何と、猫の手も借りたい筈の受付に電話しているのだ。何だろう、この傲慢さは。ミスではないでしょうか?と問いを装って、明らかにミスだと断定している。ミスだの、杜撰だの、そう断ずる資格がこの人たちのどこにあるのだろうか?受付の人が貴重な休日に勤務している事実には目を向けず、自分たちの時間だけが消費されているとしか考えられないのはどうしてなのか?
その人はひとしきり、文句を言って、携帯を折り畳み、満足そうに仲間に言った。「これだから、お役所仕事って、言われるのよ・・・ホント、日本のお役所、ってダメだわ」
もう、数年前のことだから、細かい言葉は違っている。でも、大枠は変わっていない。あなたの言った事は全て愚痴だ。あなたの言った事は何の解決にもなっていない。もし、あなたが本当に堪え難くて、何かを変えたいのならば、すぐさま受付に行って、無償で仕事を手伝うべきだ。次の機会に同じ事が繰り返されるならば、また無償で手伝え。変わるまで、変えるまで、一言も不服を洩らさずに、無償で手伝い続けるのだ。それが嫌ならば、黙って列に戻れば良い。
もちろん、社会に真に悪が潜む事も多々かどうかは知らねど、あるには違いない。上に挙げたようなどうでも良い悪に(悪ですらないかもしれない)目くじらたてるエネルギーがあるならば、本当に社会の不具合の為に不利益を被っている人たちの為にとっておきたい。
もう亡くなられたが、三宅廉という小児科医の本を読んだ事がある。この世に生を受けた直後の赤ん坊のケアに心血を注いだ方だ。ピンと来ないかも知れないが、その昔は産婦人科は子供を出産させるまでが仕事であり、小児科医は生まれた子供が病気になったら診療するのが仕事であった。だから、生まれながらにして何らかの病や障害を抱えていた赤ん坊は、手の施しようがない存在として、産婦人科医からも小児科医からも見放されていた-とても大雑把に言えば、だが。
三宅廉氏は、そういった、医療の谷間に横たわる赤ん坊のケアに全力を尽くした。のみならず、医療の谷間に放り出されることが無いように、妊娠以降、出産、そして、15歳に至るまでの膨大なデータを克明に残し、その後の医療の発展に役立てたのである。
紹介が長くなったが、ある時、三宅氏の病院で、生まれつき両の眼球のない子が生まれた。その三年後に三宅氏は、その子の成長を確認するために、家庭を訪問する。果たして、その子は可愛らしい三歳児に成長し、父親に甘えて膝の上で遊んでいた。三宅氏は、その子の様子をつぶさに観察して、こう言ったのである。
「ヘレン・ケラーは目も見えず、耳も聴こえず、話す事もできない三重苦の人でした。この子は目だけです。もっと他の感覚を活かさないといけない。転んで泣いても、歩かせる。テーブルや壁を一人で触り、一人で歩かせ、トイレに行かせ、顔を洗わせることが必要です。危なっかしいから、と助けてはいけない。甘えさせてはいけない。この子のためにこそ、しっかりさせなさい。」
そう、我々に愚痴をいう暇など、ほとんどないはずなのだ。