能見台発・・

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栄光館の思い出

2021-01-24 | 感動
新島先生永眠の日である昨日(1月23日)、同志社栄光館で祈祷会が行われた。
例年であれば、関東在住、なかんずく神奈川在住のOBは大磯の「新島襄先生終焉の地」碑庭園に集い碑前祭が開催されるのだが、このコロナ禍で、オンラインでの祈祷会となった。

同志社小学校長の司会で粛々と進められ、総長、大学長、女子大学長の祈祷で締めくくられた。

考えてみれば、栄光館へは長年入っておらず、コロナの影響で想定外のご対面となったといえようか。

私が初めて栄光館に入ったのは大学の入学式の日だった。厳かなパイプオルガンの調べが流れ、高校までの入学式とはずいぶん違う雰囲気だと感じながら、これからの学生生活を夢見た時間でもあった。

その後、チャペルアワーやアッセンブリーアワー、演奏会などで何度となく入館したが、記憶に強く残る思い出を挙げてみる。

先ずは思い出その1.
同志社グリークラブとカリフォルニア大学グリークラブのジョイントコンサート。

私は入学してすぐ、学生YMCA系のサークルに入っていた。そこでグリークラブは伝統もあり、ハイレベルで全国的にも有名なクラブだと教えられた。そのサークルには、同期ですでにグリーに入部していた今尾君と2年上に次期指揮者の市島さんがおられた。
そんな折、上記のコンサートがあり本格的な合唱の演奏会を初めて聴きに行った。

同志社の指揮者は河原林昭良。初めて聴く男声合唱の重厚なハーモニーに酔いしれた数時間だった。

その後、いろいろな経緯があり、秋には私自身グリーのメンバーとなっていた。また、その秋は全日本合唱コンクールで同志社が優勝し、誇りをもって練習に励んでいた。

そして思い出その2.
初めてのステージ

1958年(昭和33年)5月13日同志社グリークラブ創立54周年定期演奏会。

前年、日本一となり各方面から注目される演奏会だった。
プログラムの最初は近衛秀麿の「ちんちん千鳥」。歌い出しはバリトンには高い上のEだった気がする。練習では出ていたが、初めてのステージで緊張し、のどかがカラカラになっていた。焦りもあって声が出ず、10小節以上声が出ぬまま口だけパクパク動かしていたことを思い出す。

思い出その3
卒業式。

卒業生は通常一階の座席に座り進行を見守るのだが、グリーメンは主力が演奏旅行に出ており、残留組と卒業するメンバーが2階の合唱席につき、カレッジソングをはじめ讃美歌を歌って進行のお手伝いをした。その後、学部別に決められた教室で卒業証書を受け取り、私の大学生活は終わった。

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