微妙

散乱する言の葉

昭和天皇と戦犯合祀

2015年03月06日 12時41分16秒 | 皇室
以下、自戒を込めて。
天皇にしても、パル判事にしても、をかしなイデオロギー闘争その他に利用されがちなのだなと、あらためて思つた次第。
左派・右派ともに、何でもかんでも「右か、左か」で物事のよしあしを決める思考パターンからはいい加減、脱却したいものである。
(いはゆる「自虐史観」や「大東亞戦争・日本と日本人賛美」などを超越したところで、要は割とニュートラルな状態で(是々非々で)戦争やら日本やら日本人やらにつゐて論じたとしても、右からは叩かれ怪しまれ、左からは利用される、といふやうなこともありがちな今の日本であるやうな気もする。)

まだまとめきれてゐないが、とりあへず資料。
ラダ・ビノード・パール - Wikipedia

平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」[1])で知られる。

1966年10月に清瀬一郎、岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。

勲章の種類及び授与対象 - 内閣府

パール判決書

パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義
880104f「昭和天皇御製1」

昭和三十四年(※1959年・A級戦犯合祀前)

 「靖国神社九十年祭」
 ここのそぢへたる宮居の神がみの 国にささげしいさををぞおもふ

「千鳥ケ渕戦没者墓苑」
 国のため命ささげし人々の ことを思へば胸せまりくる

昭和天皇は何を詠ったか? (Dead Letter Blog)

(※昭和六十一1年=1986年の御製)
「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」
「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」

「 靖国で天皇も政治利用するのか 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト

★靖国神社、なぜA級戦犯を合祀したのか?合祀されたのは1978年で... - Yahoo!知恵袋
(最初に合祀を報じた当時の朝日新聞内部の動きにつゐてももつと知りたいところではある。)
戦犯合祀「御意に召さず」 元侍従卜部氏の日記


国会開会式から帰路につく昭和天皇、後列左から富田朝彦宮内庁長官、卜部亮吾侍従、右端は入江相政侍従長=82年2月、国会


 昭和天皇に侍従として仕えた故卜部亮吾氏が、天皇のA級戦犯合祀への思いや闘病生活など昭和後半の日常生活を側近として書き留めた日記が26日までに見つかった。天皇が靖国神社参拝を取りやめた経緯について「A級戦犯合祀が御意(天皇の意向)に召さず」と記し、あらためてA級戦犯合祀に不快感を持っていたことが裏付けられた。  日記は卜部氏が侍従になった直後の1969年12月から、宮内庁を離れ、亡くなる直前の2002年2月まで毎日記入していた。  昭和天皇の最後の記者会見から数日後の1988年4月28日には「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と記述。  当時の長官は富田朝彦氏。同じ日付の富田氏のメモによると、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示したと記載があり、同じ日に相次いで戦犯合祀問題について語っていたことが分かる。  「奥野発言」は、当時の奥野誠亮国土庁長官が、日本の中国侵略を正当化する発言をし、中国と韓国の反発を招いたことを指すとみられる。

2007/04/26 03:31 【共同通信】

卜部亮吾 – Wikipedia

卜部亮吾侍従日記 – Wikipedia

【昭和天皇実録完成】昭和史考える「材料集」 膨大な資料を基に記述 : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)


靖国 筑波藤麿 合祀 - Google 検索

靖国 合祀 松平永芳 - Google 検索

筑波藤麿 - Wikipedia
(靖国神社第五代宮司)

松平永芳 - Wikipedia
(靖国神社第六代宮司)

昭和天皇にもお知らせせぬまま合祀する等々、思想以前の話で、松平永芳氏のやり方自体に問題があつたと思ふ。
そんなのに、天皇の靖国参拝を求める保守派も如何なものかと。
政治臭抜きに合祀の経緯をまとめた記事もあつたと思ふが、見つからないのでコチラを。
靖国神社と戦犯 合祀に至る道 | nippon.com

日暮 吉延 【Profile】
[2013.08.20]

松平は「『すべて日本が悪い』という東京裁判史観」を否定しなければならないというイデオロギー的な東京裁判全面否定論を信奉し、1978年10月17日、松岡と永野も含むA級戦犯の14柱を秘密裡に合祀した。就任からわずか3カ月という電光石火の早業であった。

A級戦犯合祀の事実は早くも翌年4月の新聞報道で露見したものの、この時は大騒動にはならなかった。しかし終戦40周年の1985年8月15日、中曽根康弘首相が靖国公式参拝に踏み切ると、近隣諸国からの激越な批判を浴びることとなった。

(2013年8月11日 記)

A級戦犯の靖国神社への合祀考

富田メモ - Wikipedia

A級戦犯、靖国合祀、昭和天皇が不快感――参拝中止「それが私の心だ」: 原始人の日記・ぼやき・独り言
(当時の新聞記事)

映し出す昭和史の断面 「昭和天皇実録」公表:朝日新聞デジタル

2014年9月9日05時00分

天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したことを記した富田朝彦宮内庁長官のメモは2006年7月、日本経済新聞の報道で明らかになった。実録は88(昭和63)年4月28日に天皇がA級戦犯合祀について富田氏に話した事実は記すが、発言内容は「宮内庁として是認したわけではない」として触れていない。

つゐでに「昭和天皇も開戦には反対だつたが、戦争が始まつたら云々かんぬん・・・、だから今上天皇も(要は)安倍首相や保守派に逆らふな~改憲の邪魔するな~」とでも言はんばかりのあまりにも単純な批判を見てゐると・・・ああ、これも今は上手く書けない。
とりあへず、もはや天皇とは「為政者やそれを支持する国民の奴隷」、または「祭祀王」ならぬ「祭祀奴隷」でしかないのかと、複雑な思ひがする。


最新の画像もっと見る