№.106私の語る「システム」論から、改めて日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える際の留意すべき点を述べるとき―孫崎享氏と植草一秀氏の「主張」を導きの糸としてー(続・続)
2023-12-30 | 日記
№.106私の語る「システム」論から、改めて日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える際の留意すべき点を述べるとき―孫崎享氏と植草一秀氏の「主張」を導きの糸としてー(続・続)
(最初に一言)
前回記事は、私の主張を、日頃の私としては珍しく久しぶりに「理路整然?」と要約できたと感じられた「くだり」があったので、それを引用貼り付けることから、今回記事は始めるとしよう。
ーーー(引用貼り付け、開始)
もし仮に、自由と民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義と、覇権システムにおける力(暴力)の行使とそれを介した「支配―従属」関係の歩みが表裏一体の関係にあるとすれば、私たちの日本国憲法の支持・礼賛の態度は再考されるべきであるはずなのだ。ところが、これまた何度も述べてきたように、民主主義の実現の歩みと帝国主義の歩みは、個々バラバラの次元で語られてきたことから、両者の相互関係についての考察は何も深まることはなかった。というより、むしろそれらの関係考察から背を向けてきたのである。
私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉は、実はその普遍主義と重なることから、もし民族主義を組み込んだ(前提とした)自由民主主義と帝国主義との両者の関係を描くことができないのであれば、それは同時に普遍主義について正鵠を射る論の展開は期待できないことを意味する。さらにそこから、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉についても述べることはできなくなるのだ。
それは、何を意味するのだろうか。すなわち、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスそして米国へと続く歴代の覇権国の興亡史を描くことができないというばかりか、次期覇権国はどこの国となるのか、それははたして中国となるのか等々の私たちにとって大切な議論さえ、満足にできないことを意味するのだ。それこそ、私の語る「システム」とその利害関係者層にとっては、これほどにはないと思えるほどの好都合な、それこそ「システム」の提供する学問・研究であるに違いない。
ーーー(引用貼り付け、終わり)
このくだりは、要するに私たちの諸個人間、諸集団間、諸共同体間に見い出される人間関係における差別と排除の関係に目を向けなければならないことを指摘していると同時に、残念ながら、これまでその関係を的確に捉えることができなかったと述べているのだ。そうした関係としては、文字通りに差別し排除する側と差別され排除される側との、強者と弱者との、富める者と貧しき者との、つまりはそれらを総じて「親分ー子分」関係として私は位置づけ理解している。
結局のところ、その関係は「支配」と「従属」の関係としての「帝国主義」として描くことができる、と私はみている。その際に問題となるのは、そうした帝国主義関係をどのように描けばいいのかということである。私はこれまでにも何度かそれを図式で示してきたが、ここで少し簡単にそれらを図式で表してみたい。
先ずは①覇権システムにおける関係を示す{[ ]→(×)[ ]→×[ ]}、②世界資本主義システムにおける関係を示す{[Aの経済発展(衣食足りて)]→(×)[Bの経済発展(衣食足りて・足りず)]→×[Cの経済発展(衣食足りず)]}、③世界民主主義システムにおける関係を示す{[Aの民主主義の発展(礼節を知る)]→(×)[Bの民主主義の発展(礼節を知る・知らず)]→×[Cの民主主義の発展(礼節を知らず)]}の各々の関係に見いだされる〈→(×)→×〉の関係が帝国主義を示している、と私はみているのである。
さらにそこから、①②③の相互関係とそれらの関係に見られる帝国主義関係を描くことができるのだが、ここではそれについては省略したい。それを踏まえて述べるとき、私たちの学問・研究のレベルはすこぶる思わしくないというか低すぎるということだ。孫崎氏は戦後史を、日本に対する米国の圧力と、それに対する日本の忖度を描いたものの、そこからはっきりと①に示される「親分ー子分」関係を前提としてつくられてきた差別と排除の関係から構成される覇権システムそれ自体と向き合い、その枠の中での戦後史と日米関係を描くまでには至らなかったのではあるまいか。(*誤解のないように一言。私は孫崎氏の論が悪いとかダメであると言っているのではない。)
また植草氏の資本主義論や民主主義論は、①で示されるあからさまな力と力のぶつかり合いを介した自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦の歩みとしての諸個人間・諸集団間・諸共同体間の人間関係を基礎としてつくり出されてきた覇権システムとも,同時にまたそれと密接不可分の関係にある②③で描かれる資本主義と民主主義のシステムとも結び付けられない議論に終始しているのではあるまいか。(*誤解のないように一言。私は植草氏の論が悪いとかダメであると言っているつもりはない。)
もっとも、そうした問題点はあるものの、両氏の議論から、私たちは改めて『昭和史』で描かれた歴史を描く際の問題点に向き合うことができたのは事実ではなかろうか。それは(ア)帝国主義の歴史を、(イ)(ウ)の次元と結び付けないままに、従来通りの(ア)だけの次元でもってしか描くことができないということ、(イ)民主主義と独裁・専制主義の対立・敵対関係の歴史も同様に、(ア)(ウ)の次元と結び付けないままに、ただ(イ)の次元でしか描くことができないということである。
そうした態度は、(ウ)民族主義の歴史を(ア)(イ)の次元と結び付けないままに、ただ(ウ)の次元でしか描くことができないという問題へと繋がってくる。だが、こうした研究態度から導き出される問題点に、私たちはこれまで何の不思議さも感じることなく、(ア)(イ)(ウ)の次元の問題を個々バラバラに描いてきたのである。一体どうしてこのようなあまりにも杜撰(ずさん)というか、深く追求・考察しないままに済まされてきたのだろうか。
私にはどうしても納得がいかないのだ。「概念が違う」云々の問題で終わらせてしまってはいけない。私からすれば、なんとおかしな話ではないのかということだが、これまでの学問・研究はそうではなかったのだ。たとえば、民主主義と帝国主義を「水」と「油」とか「歴史の良い点(長所)」と「悪い点(短所)」というように、見事に両者の関係を問わないままにスルーし続けてきたのだ。
それこそたとえて言えば、〈「白杖」に伝わる人の「優しさ」と「残酷さ」〉で表現されているように、優しさと残酷さの担い手は個々別々の人間ではなく、同一の人間であり、彼や彼女が手にしている白杖も個々バラバラの誰かのそれではなく、そうした優しさと残酷さが、同時に交錯しながら伝わる同一の杖であるということだ。それゆえ、白杖を手にした私は、私の中の優しさと残酷さがどのような関係にあるのかを、相互に結び付けて捉えることを迫られるのだ。
その際、私の良い点と悪い点という具合に分けることもできなくはないのだが、〈「優しさ」の中の「残酷さ」〉と〈「残酷さ」の中の「優しさ」〉を、そのような二項対立的観点でもって描くことはできないのは確かではなかろうか。私という人間は、それほど簡単にどこからどこまでが良い部分であり、逆にどこからどこまでが悪い云々では語られない。その関係は、まさしく「共時態的」なそれとして、重層的に位置づけ理解されるべきではなかろうか。
私たちの歴史は、いわばそうした諸個人によって担われることから、①②③あるいは(ア)(イ)(ウ)の歴史は、相互に密接不可分に、複雑に入り組んだ歴史とならざるを得ないのではなかろうか。それらの様相を、たとえうまく描くことができないからと言って、勝手に私たちの都合に併せて個々バラバラにしてしまうとすれば、それはそれで何かもったいないような、そこからはるかに重大かつ大切な何かが抜け落ちていくようで、それはやはり少し立ち止まって今一度、再考した方がいいと私は強調しておきたいのである。
(最後に一言)
私の語る「システム」論とそこで提示された〈「システム」とその関係の歩み〉としての1970年代までのモデルと70年代以降今日に続くモデルは、今回記事で論述してきた問題点を鑑みながらつくり出したものである。勿論、そこにはまだまだ改良・修正すべき点も多々あるのは言うまでもないのだが、それにもかかわらず、これまでの「政治学」という学問・研究が見事にスルーしてきた歴史を描く際の分析視角と分析枠組みを提供できたのではあるまいか。もっとも、これまた何度も言うように、「それがどうした」なのだが。
今年もあっという間に過ぎようとしている。私もあとどのくらいなのかはわからないものの、何とかしてそれまでには書き残したことがないようにとの思いで、これからも生ある限り、書き続けていきたいものだ。これまでお付き合いいただいた読者の皆様には感謝するばかり!
(最初に一言)
前回記事は、私の主張を、日頃の私としては珍しく久しぶりに「理路整然?」と要約できたと感じられた「くだり」があったので、それを引用貼り付けることから、今回記事は始めるとしよう。
ーーー(引用貼り付け、開始)
もし仮に、自由と民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義と、覇権システムにおける力(暴力)の行使とそれを介した「支配―従属」関係の歩みが表裏一体の関係にあるとすれば、私たちの日本国憲法の支持・礼賛の態度は再考されるべきであるはずなのだ。ところが、これまた何度も述べてきたように、民主主義の実現の歩みと帝国主義の歩みは、個々バラバラの次元で語られてきたことから、両者の相互関係についての考察は何も深まることはなかった。というより、むしろそれらの関係考察から背を向けてきたのである。
私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉は、実はその普遍主義と重なることから、もし民族主義を組み込んだ(前提とした)自由民主主義と帝国主義との両者の関係を描くことができないのであれば、それは同時に普遍主義について正鵠を射る論の展開は期待できないことを意味する。さらにそこから、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉についても述べることはできなくなるのだ。
それは、何を意味するのだろうか。すなわち、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスそして米国へと続く歴代の覇権国の興亡史を描くことができないというばかりか、次期覇権国はどこの国となるのか、それははたして中国となるのか等々の私たちにとって大切な議論さえ、満足にできないことを意味するのだ。それこそ、私の語る「システム」とその利害関係者層にとっては、これほどにはないと思えるほどの好都合な、それこそ「システム」の提供する学問・研究であるに違いない。
ーーー(引用貼り付け、終わり)
このくだりは、要するに私たちの諸個人間、諸集団間、諸共同体間に見い出される人間関係における差別と排除の関係に目を向けなければならないことを指摘していると同時に、残念ながら、これまでその関係を的確に捉えることができなかったと述べているのだ。そうした関係としては、文字通りに差別し排除する側と差別され排除される側との、強者と弱者との、富める者と貧しき者との、つまりはそれらを総じて「親分ー子分」関係として私は位置づけ理解している。
結局のところ、その関係は「支配」と「従属」の関係としての「帝国主義」として描くことができる、と私はみている。その際に問題となるのは、そうした帝国主義関係をどのように描けばいいのかということである。私はこれまでにも何度かそれを図式で示してきたが、ここで少し簡単にそれらを図式で表してみたい。
先ずは①覇権システムにおける関係を示す{[ ]→(×)[ ]→×[ ]}、②世界資本主義システムにおける関係を示す{[Aの経済発展(衣食足りて)]→(×)[Bの経済発展(衣食足りて・足りず)]→×[Cの経済発展(衣食足りず)]}、③世界民主主義システムにおける関係を示す{[Aの民主主義の発展(礼節を知る)]→(×)[Bの民主主義の発展(礼節を知る・知らず)]→×[Cの民主主義の発展(礼節を知らず)]}の各々の関係に見いだされる〈→(×)→×〉の関係が帝国主義を示している、と私はみているのである。
さらにそこから、①②③の相互関係とそれらの関係に見られる帝国主義関係を描くことができるのだが、ここではそれについては省略したい。それを踏まえて述べるとき、私たちの学問・研究のレベルはすこぶる思わしくないというか低すぎるということだ。孫崎氏は戦後史を、日本に対する米国の圧力と、それに対する日本の忖度を描いたものの、そこからはっきりと①に示される「親分ー子分」関係を前提としてつくられてきた差別と排除の関係から構成される覇権システムそれ自体と向き合い、その枠の中での戦後史と日米関係を描くまでには至らなかったのではあるまいか。(*誤解のないように一言。私は孫崎氏の論が悪いとかダメであると言っているのではない。)
また植草氏の資本主義論や民主主義論は、①で示されるあからさまな力と力のぶつかり合いを介した自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦の歩みとしての諸個人間・諸集団間・諸共同体間の人間関係を基礎としてつくり出されてきた覇権システムとも,同時にまたそれと密接不可分の関係にある②③で描かれる資本主義と民主主義のシステムとも結び付けられない議論に終始しているのではあるまいか。(*誤解のないように一言。私は植草氏の論が悪いとかダメであると言っているつもりはない。)
もっとも、そうした問題点はあるものの、両氏の議論から、私たちは改めて『昭和史』で描かれた歴史を描く際の問題点に向き合うことができたのは事実ではなかろうか。それは(ア)帝国主義の歴史を、(イ)(ウ)の次元と結び付けないままに、従来通りの(ア)だけの次元でもってしか描くことができないということ、(イ)民主主義と独裁・専制主義の対立・敵対関係の歴史も同様に、(ア)(ウ)の次元と結び付けないままに、ただ(イ)の次元でしか描くことができないということである。
そうした態度は、(ウ)民族主義の歴史を(ア)(イ)の次元と結び付けないままに、ただ(ウ)の次元でしか描くことができないという問題へと繋がってくる。だが、こうした研究態度から導き出される問題点に、私たちはこれまで何の不思議さも感じることなく、(ア)(イ)(ウ)の次元の問題を個々バラバラに描いてきたのである。一体どうしてこのようなあまりにも杜撰(ずさん)というか、深く追求・考察しないままに済まされてきたのだろうか。
私にはどうしても納得がいかないのだ。「概念が違う」云々の問題で終わらせてしまってはいけない。私からすれば、なんとおかしな話ではないのかということだが、これまでの学問・研究はそうではなかったのだ。たとえば、民主主義と帝国主義を「水」と「油」とか「歴史の良い点(長所)」と「悪い点(短所)」というように、見事に両者の関係を問わないままにスルーし続けてきたのだ。
それこそたとえて言えば、〈「白杖」に伝わる人の「優しさ」と「残酷さ」〉で表現されているように、優しさと残酷さの担い手は個々別々の人間ではなく、同一の人間であり、彼や彼女が手にしている白杖も個々バラバラの誰かのそれではなく、そうした優しさと残酷さが、同時に交錯しながら伝わる同一の杖であるということだ。それゆえ、白杖を手にした私は、私の中の優しさと残酷さがどのような関係にあるのかを、相互に結び付けて捉えることを迫られるのだ。
その際、私の良い点と悪い点という具合に分けることもできなくはないのだが、〈「優しさ」の中の「残酷さ」〉と〈「残酷さ」の中の「優しさ」〉を、そのような二項対立的観点でもって描くことはできないのは確かではなかろうか。私という人間は、それほど簡単にどこからどこまでが良い部分であり、逆にどこからどこまでが悪い云々では語られない。その関係は、まさしく「共時態的」なそれとして、重層的に位置づけ理解されるべきではなかろうか。
私たちの歴史は、いわばそうした諸個人によって担われることから、①②③あるいは(ア)(イ)(ウ)の歴史は、相互に密接不可分に、複雑に入り組んだ歴史とならざるを得ないのではなかろうか。それらの様相を、たとえうまく描くことができないからと言って、勝手に私たちの都合に併せて個々バラバラにしてしまうとすれば、それはそれで何かもったいないような、そこからはるかに重大かつ大切な何かが抜け落ちていくようで、それはやはり少し立ち止まって今一度、再考した方がいいと私は強調しておきたいのである。
(最後に一言)
私の語る「システム」論とそこで提示された〈「システム」とその関係の歩み〉としての1970年代までのモデルと70年代以降今日に続くモデルは、今回記事で論述してきた問題点を鑑みながらつくり出したものである。勿論、そこにはまだまだ改良・修正すべき点も多々あるのは言うまでもないのだが、それにもかかわらず、これまでの「政治学」という学問・研究が見事にスルーしてきた歴史を描く際の分析視角と分析枠組みを提供できたのではあるまいか。もっとも、これまた何度も言うように、「それがどうした」なのだが。
今年もあっという間に過ぎようとしている。私もあとどのくらいなのかはわからないものの、何とかしてそれまでには書き残したことがないようにとの思いで、これからも生ある限り、書き続けていきたいものだ。これまでお付き合いいただいた読者の皆様には感謝するばかり!