日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

中国政府の支持・支援を得るために、日本の新たなる「共同体(緩衝地帯)」像を模索するとき(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは

2021-04-29 | 日記

中国政府の支持・支援を得るために、日本の新たなる「共同体(緩衝地帯)」像を模索するとき(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは


今回記事を書くに際しての一言。前回記事のタイトルを踏まえるとき、そこから以下のような問題提起が可能となるに違いない。すなわち、〈戦後日本の平和憲法の普遍的価値に象徴・体現される「自由」「民主主義」「人権」「法の支配」「平和」を、私たちの目指すべき「理想」としてはならない。さらなる高みに位置する「じゆう」「みんしゅしゅぎ」「じんけん」「ほうのしはい」「へいわ」の実現を、目指すべき目標としなければならない!(2´)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは〉、である。


(最初に一言)

少し前の記事において、私は日本の中に別の新たな「にほん」と「にほんじん」を体現する共同体の建設が急務だと述べた。そしてその際、中国政府の指導を仰ぐべきだとも指摘していた。今回はその話の続きを書いてみたい。


私の頭の中には、一つの場面が明確に浮かんでいる。ナチスのヒトラー政権の軍事的進行を受けたフランスで、そのナチスの傀儡政権を演じたビシー政権と、それに真っ向から敵対したドゴール率いるレジスタンス勢力、そしてそのドゴールが支援を求めたチャーチル指導下のかつての覇権国としての、大英帝国としての名残を残すイギリスという場面である。

そうした絵柄と、米国のバイデン政権とその傀儡である日本の菅政権とそれに抵抗する日本のレジスタンス勢力となる新たなる共同体としての「にほん」と「にほんじん」、そしてその共同体が支援を求める習近平指導下の中国政府といった構図が重なるのだ。勿論、そうした物言いは、奇想天外な話と思われて当然だが、私自身は相当に真剣なのだ。

ここで、少し付言しておきたい。S・ヲーリンの説く「逆さまの全体主義」体制下の今日の米国は、トランプ前政権からバイデン政権の誕生後も、その特徴はなんら変わらないままである。つまり、バイデンが声高に主張する「民主主義」は、逆さまの全体主義と何ら矛盾するものではない。元来、民主主義とはそんなものであった。私たちの手にしている民主主義は、その価値観からそしてその実現に至るまで、覇権システムを前提としてつくられてきたものだから、最初から何も褒められた代物ではなかったのだ。

そんな全体主義国家の米国バイデン政権によって、その子分となった日本政府も、アジアや世界において、親分たる米国の使い走りに終始したままである。そして今、その親分の威光を笠に着て、安倍や菅の「ろくなもんじゃねー」政府の、コロナ禍でも一握りの私利私欲追究の五輪開催強行勢力の傍若無人の蛮行が繰り返されている。

おかしいことに、こんな無様な日本と日本人に成り下がってしまったのに、中・下級国民は何も行動しないでただ死を待つといった風なのだ。そんな中、日本にもドゴールのように、ビシー・菅政権に反旗を翻す勢力が誕生しても不思議ではないだろう。否、創るべきなのだ。そのための「にほん」と「にほんじん」という共同体建設が急務なのだ。その共同体を緩衝地帯の中心的構成要素として位置付けるべきなのだ。

そして、その新たな共同体は、かつてドゴールが衰えたとは言えども、なお覇権国であり大英帝国として世界に君臨していた「民主主義」国であるイギリスのチャーチルに支持・支援を求めたように、今日の覇権国への道を歩むと同時に、民主主義の実現を目指している中国政府とそのリーダーである習近平主席に支持・支援を求めることが何よりも大事である。

前回記事での私が提示した今後の日本が目指すべき「理想」としての「へいわ」の話は、新たな共同体の基本的指針というか、その共同体の憲法の骨格をなす原理であった。もとより、従来の日本と日本人においては、到底そうした理想としての「へいわ」とその実現など目指すことは不可能だと、私は考えている。

と同時に、中国政府も、今の日本と日本人を支援しようとは決して思わないだろうし、中国国家もそうした動きを許さないだろう。そうした中国側の態度を踏まえるとき、新たに立ち上げようとしている共同体は、日本人をもっぱら主権者として、中心的な担い手と位置付け理解される共同体ではない。

その共同体には、日本に暮らす中国人やベトナム人、ブラジル人等々の外国人労働者が含まれていると同時に、主権者として、従来の日本人と同様な待遇を得られるのは勿論、共同体の政治に参加する権利も何ら制限されるものではない。労働者としての地位待遇も、これまでの外国人としての技能実習生、研修生に代表される扱い方ではなく、共同体を構成する構成員として、同等・同様な存在として遇される。

私たちの目指すべき共同体は、何はさておき、生き残る・生き延びることが大切な目標であることから、そして中国が覇権国家としてアジアや世界に君臨するのは必至となるとみていることから、今の中国政府が東シナ海や南シナ海で進めている覇権的行為を受容する。勿論、中国による尖閣諸島の領有権に関しても異を唱えるものではない。

20年先の世界を俯瞰するとき、私たちがいま日本の防衛のためのミサイルがどうのだとか、尖閣有事の際はこうするべきだとかの話は、おそらく笑い話というかしょうもない話をしていたとの「過去の話」となるに違いない。その時、「日本」と「日本人」の存在それさえも過去の話となってしまうならば、私は慙愧に堪えない。


(最後に一言)

米国のバイデン大統領が、米国の再建(大きな政府)を目指して、650兆円もの巨費を投じるとのことだが、それによって失われた中間層を取り戻す云々の話は、何かトランプ前大統領の話とも、そのやり方というか宣伝文句の違いはあれ、どこか似ている感がする。私はここで断言するが、決して〈「システム」とその関係の歩み〉は、米国において、もはや中間層の再形成を許すことには至らないであろう。

むしろ逆に、バイデン政権による米国再建のために投じられる巨額のお金は、中国経済を強固なものとするために、そしてそれによる中国の分厚い中間層の形成に益するように、使われることになるだろう。簡単な図式で示せば、{[Aの米国の経済発展(衣食足りず])→[Bの中国の経済発展(衣食足りて)}}の関係がすでに出来上がっている。その関係を前提とした上での米国の巨額投資であることから、そのお金はこの関係をさらに強固にするように、使われていくのだ。

これに関しては、既に私の「システム」論でも以前に述べていたことだが、日本のどこかの省が、「アべノ・ミックス」との関連で、日本において失われた中間層を取り戻す云々の戯言をホームページに掲載していたが、これも先のバイデンの話と同様に、夢物語なのだ。それはそうとしても、私には腹が立ってしようがないのだ。私の「システム」論を学べば、もっと多くの日本人の命と暮らしを守れたはずなのに、と。

 


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戦後日本の平和憲法の第9条に象徴される「平和」を、私たちの目指すべき「理想」としてはならない。さらなる高みに位置する「へいわ」を、目指すべき目標としなければならない!(1)

2021-04-22 | 日記

戦後日本の平和憲法の第9条に象徴される「平和」を、私たちの目指すべき「理想」としてはならない。さらなる高みに位置する「へいわ」を、目指すべき目標としなければならない!(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることは


(最初に一言)

前回の話の中で、私は「理想主義」的模索と「現実主義」的模索の二つの次元に関わる話をした。その際、私の説く理想主義と現実主義は、「システム」の中で生きている、つまりは、その歴史的制約を自覚することを前提として、それと向き合い、その問題点を自問自答する中から掴み取ることのできた理想主義であり、現実主義だと論じた。今回は、この点を踏まえながら、以下に論を展開していこう。


その関連から言えば、戦後日本の平和憲法を象徴する第9条の「平和」は、戦後の日本人が目標とした理想・理想主義とはほど遠いものであったことが理解されよう。問題は、そのような理想や理想主義とは、まったなりえなかった代物(しろもの)が、見事にまるで詐欺的シンボルとして、理想を語る私たちの目を曇らせ続けることができたのはどうしてなのか、ということである。

その理由として、何よりも指摘されるべき点は、覇権国である米国の圧倒的軍事力を前提として、占領下の日本と日本人が受け取った受け取らざるを得なかった平和、平和主義であったからである。その意味では、その平和と平和主義とは、覇権国の米国の暴力と何ら矛盾しない、その力に逆らえない、向き合うことのできない理想、理想主義であったと読み取ることができる。

当然ながら、私たちは、このような理想・理想主義とは異なる別の新たな「りそう」・「りそうしゅぎ」を手に入れることを目指さなければならないのだ。そのためには、どうしても、なぜ米国の覇権国が提供した平和の下でしか、私たち戦後の日本と日本人は生きることを許されなかったのかを、問うことが求められよう。

その問いは、いわゆる歴代の覇権国が提供した「パックス」と日本の「平和」との関係を、改めて問い直す作業に、私たちを導くだろう。そこから、覇権システムと日本国という主権国家、国民国家との関係を問うことが避けては通れなくなるに違いない。同時に、そうした日本国と日本国民を担い手とした戦後の日本経済の発展、民主主義の発展の歩みの関係も問い直されなければならなくなる。

それらの点を踏まえるとき、「覇権システム」と向き合い、その抱える問題点を考察することは、結局のところ、そのシステムを前提としてつくり出された世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される「システム」それ自体と向き合い、その抱える問題点を考察する作業に他ならないということに、私たちは気がつくはずである。

私たちは、戦後一貫して、日米安保体制の下、米国の核の傘の下に生き続けてきたのは確かなことであったが、その米国は覇権国として、覇権システムの維持と発展に関わるもう一つの顔を持つ米国であったという現実を、どれほど正確に理解してきたのだろうか。換言すれば、主権国家、国民国家としての米国の背後にある覇権国としての顔と、その米国が頂点に君臨してきた覇権システムの存在に対して、ということだ。

私たちの平和憲法の平和は、そうした覇権システムの歩みには全く関係のないかのような、それに背を向けてきた平和ではなかったろうか。それゆえ、私たちの「親分ー子分」関係に象徴される暴力との向き合い方は、戦争と平和の関係をあたかも水と油の如く位置づけ、理解することを当然とした思考習慣を当然としてきたのではあるまいか。

「私たちは戦後一貫して、自衛隊を外国に派遣することなく、平和を守ってきた」云々の発言は、私たちが覇権システムの中で生きているという現実と向き合おうとしない、まったく理解できていないことを、端的に表すものではあるまいか。それゆえ、その覇権システムを前提として、すなわち「血と汗」を流しながら、私たちの経済発展、民主主義の発展の実現が可能となったという現実にも、おそらくは思いも至らないのではあるまいか。

当然ながら、私の語る「システム」論云々の話も、理解できない、あるいは、その前にそのような話に興味すら感じることができないのではなかろうか。私たちの戦後の理想として掲げた「平和」は、最初から暴力に背を向けたままで、それとは立ち向かわない、換言すれば、そうした力と力のせめぎ合いを前提として繰り広げられた自己決定権の獲得を巡る争奪戦を常とする現実に触れることのできない、平和であり、理想であったのではあるまいか。

私たちの理想とする平和は、私たちが放り込まれている国内・国際環境における現実と向き合わない、内向きの消極的・無関心的なそれであったことから、すこぶるその理想のレベルは低くあり続けてしまったのだ。私たちの生きている現実の舞台が、あまりにも牧歌的な世界としか目に映らない。私が描く、「システム」の残酷きわまるセカイが理解できないのだ。

それは、民主主義の位置づけ方・理解の仕方にも垣間見られる。私たちのような、かつての先進国に暮らす人々が、自らの自由や民主主義、人権、平和を、その掌中にしっかりと掴み取るには、これまで途上国の地位に甘んじてきたそこに暮らす人々の、どれほどの知と犠牲を強いてきたかを想像すればわかるはずだが、残念ながら、このような見方を多くの人たちは共有できないままにいる。

それは取りも直さず、私たちの現実を捉える目がかなり弱い、低い能力であることを意味している。それは同時に、私たちの語る平和の理想のハードルが低いことを意味しているのである。さらに酷な言い方をすれば、私たちは、私たちを取り巻く相手との関係の中で、平和憲法の平和を語ってきたとは、私には思われない。その意味では、ハードルそれさえもなかったのだ。

そしてまた、そのことは、私たちが覇権システムの中で、かなり無防備な思考状態のままに、置かれ続けてきたことを物語っている。それが証拠に、外交・軍事問題は、米国の51番目の州に甘んじながら、政治経済問題に対しては、あたかも主権国家の存在であるかのように振舞っている、その愚かしさを自覚できない、しようともしない。こんなおめでたい日本と日本人であることさえも、気がつかないで、アジアにおいて、世界において、平和がどうの、自然環境がどうのとほざくとしたら、それはよほどの神経を持っているとしか言いようがない。

こうした現実は、私たち日本と日本人が覇権システムで生きることの難しさや厳しさを、そのまま米国に肩代わりさせていたことを示すと同時に、改めて、政治や経済の次元での生存競争が可能となるためには、何よりも、外交・軍事次元の安全保障が必要不可欠であることを、すなわち、覇権システムの中で生き残る・生き延びることがいかに重要となるかを、私たちに教えてくれるのだ。

私たちの理想とする平和は覇権国の米国が提供したそれであったことから、もしその米国の力が衰えてくれば、さらに別の覇権国が台頭した際には、そうした環境の変化・変容に対して、向き合うことが難しくなる平和であり、理想である、と言わざるを得なくなる。さらに、それにもまして問題となるのは、そうした平和を理想として掲げてきたことから、私たちの現実を捉える目があまりにも弱くなっているということなのだ。

たとえば、仮に政権担当者やその取り巻きの御用学者連中が、喧しく現実がどうの、現実主義の立場から、どうのこうのと述べたとしても、彼らが射程として収めている守備範囲は、これまた貧弱過ぎる内容となるのだ。私たちが提供されてきた平和は、覇権国の米国からのそれであったが、同時にまた、現実・現実主義の理解の仕方もその米国のフィルたーをとおしてのそれであったことから、米国を介した世界認識とその理解であったのだ。直接、私たちの目でもって捉えた世界、そして覇権システムではなかったということを、肝に銘じておく必要がある。 


(最後に一言)

ここにきて、私の頭の中が騒がしくなってきた。「芸術は爆発だ」、とは岡本太郎氏の迷言であったが、私も未だになお、ぶつぶつ、ふつふつ、と、頭の中であれこれ考え考える日々が続いている。まだまだ納得のいくようなことは、とても書けそうにはないが、それでも何とか、お迎えが来るときまでにはまとめてみたいものだ。

 


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戦後日本の平和憲法の第9条に象徴される「平和」を、私たちの目指すべき「理想」としてはならない。さらなる高みに位置する「へいわ」を、目指すべき目標としなければならない!(2)

2021-04-22 | 日記

 

 

戦後日本の平和憲法の第9条に象徴される「平和」を、私たちの目指すべき「理想」としてはならない。さらなる高みに位置する「へいわ」を、目指すべき目標としなければならない!(2)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは


(最初に一言)

今回は、前回の続きとして、私の考える「へいわ」を述べてみよう。その関連から、そうした「へいわ」をつくり出す関係と、それに対置した私たちの「現実」を、それぞれモデルで示しておきたい。

既に何度も説明しているが、図式の一番外側の記号({ })は、覇権システムを、記号の([ ])は主権国家・国民国家を示している。なお、B、Cにおいては国家の形成と発展は十分ではない植民地や従属地としての時期もあったが、ここではすべて同じ記号で描いていることに留意されたい。なお、詳しくは拙著や拙論、または以前のブログ記事を参照されたい。


1970年代までの私たちが生きてきた「現実」の世界とそれを創り出す関係

{[Aの経済発展(衣食足りて)→Aの民主主義の発展(礼節を知る)]→(×)[Bの経済発展(衣食足りて・足りず)→Bの民主主義の発展(礼節を知る・知らず)]→×[Cの経済発展(衣食足りず)→Cの経済発展(礼節を知らず)]}

1970年代以前の私たちが目指すべきであった「理想」としての「へいわ」とそれを創り出す関係

Aの経済発展(衣食足りて)→Aの民主主義の発展(礼節を知る)→Bの経済発展(衣食足りて)→Bの民主主義の発展(礼節を知る)→Cの経済発展(衣食足りて)→Cの民主主義の発展(礼節を知る)


1970年代以降の私たちが生きている「現実」の世界とそれを創り出す関係

{[Bの経済発展(衣食足りて)→Bの民主主義の発展(礼節を知る)]→(×)[Cの経済発展(衣食足りて・足りず)→Cの民主主義の発展(礼節を知る・知らず)]→×[Aの経済発展(衣食足りず)→Aの経済発展(礼節を知らず)]}

1970年代以降の私たちが目指すべき「理想」としての「へいわ」とそれを創り出す関係

Bの経済発展(衣食足りて)→Bの民主主義の発展(礼節を知る)→Cの経済発展(衣食足りて)→Cの民主主義の発展(礼節を知る)→Aの経済発展(衣食足りて)→Aの民主主義の発展(礼節を知る)

☆ここで注意しておきたいのは、「へいわ」を示す図式は、「イコール」(=)で三者が結び付けられていない関係を、私が描いているところである。

(なお、上述した図式のモデルは、それぞれ逆からも描くことができるのだが、ここではそれらの図式のモデルは省略している。)


ここで、これらの図式をみながら、少し解説をしておきたい。

私たちの従来の「平和」観は、「システム」と切り離された者であり、その意味では、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムといった三つの下位システムから構成される「平和」という見方に立つものではなかった、ということである。

こうした点を前提とした時、私は第9条で語られてきた「平和」を次のように書き換えることを提案したい。なお、今回は、これ以上の話はできないが、従来のように、日本国と日本人を前提とした憲法を想定してはいないことを、あらかじめここで断っておきたい。


私たちの(「理想」とする)「へいわ」とは

(第1項)

私たちは、お互いの自己決定権とその実現を尊重すると同時に、それを保障するための各人相互における「衣食足りて礼節を知る」営為の関係を提供・保障できる環境を創ることを目指さなければならない。そして、ここでいう「環境」を、私たちは「へいわ」な状態として位置づけ、理解する。

(第2項)

私たちは、このへいわと、その実現を危うくするような政治的経済的社会的文化的ないかなる暴力に対しても、果敢に向き合い、日々これを制御することに努めなければならない。

これらの文言は、私よりももっと能力のある人に加筆修正をお願いしたい。ここでの要点は、上で紹介した「へいわ」に導く関係を念頭においてほしいということである。そこでは、「親分ー子分」の暴力とその関係・関連から導かれる差別と排除の関係を前提とした力と力の対立・衝突をその特徴とする覇権システムの中で獲得・実現される自己決定権の存在の余地はないということを、まずは確認してほしいのである。

次に、それを認めた上で、この世に生を受けたものは、何人(なにびと)も、その国籍、人種、性別、宗教等にかかわらず、各人の「衣食足りて礼節を知る」営為とその実現の歩みを、互いに尊重すると同時に、また相互に保障し合わなければならない。

付言すれば、私たちの「共同体」は、その担い手を、日本人だけに限定してはならないということ。すなわち、日本に暮らす人ならば、彼彼女の主体的意思によって、共同体の一員としての資格を有することを認めなければならない。

この二つの点を含む文言が作成されることが、何よりも大切であり、優先されるべきであることを、最後に念を押しておきたい。


(最後に一言)

これからも、私の現実主義的な論の模索と理想主義的な論の模索の二つの流れから、さらなる論の展開を、と考えている。

ここ2,3日は、いろいろなことが頭の中を駆け巡り、できる限り書き留めておきたいとの思いから、書き続けているのだが、後で読み直すと、すべてはもう以前に書いたことばかりだと気がつく。ただ、それはそうとしても、やはり何か伝え方というか話し方に、微妙な変化が生じていることにも気がつくのだ。ほんの少しだけだとしても、私はそれだけでも、うれしくなるのだ。

もうこんな時間となっていた。それでは今日はというつもりがもう今日ではなくなってしまったが、ひとまず、この辺で。

 


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一刻も早く、中国政府の指導の下に、日本の「緩衝地帯」(化)構想を世界に提示しよう(2)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは

2021-04-21 | 日記

一刻も早く、中国政府の指導の下に、日本の「緩衝地帯」(化)構想を世界に提示しよう(2)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは


(最初に一言)

前回というか昨日の記事〈一刻も早く、中国政府の指導の下に、日本の「緩衝地帯」(化)構想を世界に提示しよう(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは〉は、前々回の記事〈修正版)私の説く「人としての命と暮らしを守る」(「人としての安全保障」(論))と、いわゆる「人間の安全保障」(論)との見解の相違について述べるときー目まぐるしく変わっていく「状況」を的確に位置付け理解するためには、しっかりとした羅針盤が必要・私の語る「システム」論がその一助となればとの思いは募るばかり(2)プラス(3)〉と、一見したところ「矛盾した論」の展開として、おそらく読者の目には映るかもしれない。


①今回記事は、早速その点から述べていきたい。私はこれまで、大別して「二つの流れ」に位置付け整理される話を展開してきた。簡潔に要約すれば、「システム」と向き合いながら、どうすればそこから抜け出せれるか・離れられるか云々といった「理想主義」的な生き方を模索する話と、そのためには「システム」の中で、それを前提として、たとえ「勝ち続ける」ことができないまでも、それでも生き残る・生き延びるための「現実主義」的な生き方について模索する話である。

②もう少し具体的に、その一つである理想主義的生き方に関する話は、私たちがどのような世界・セカイの中で生きてきたのか、また生きているのか、そしてその世界・セカイの抱える問題点はどこにあるのだろうか等々に関連した話である。それが、〈私の語る「システム」論〉云々の話であった。

③その話では、「システム」とは、いわゆる力と力の暴力関係に象徴される親分ー子分の、そしてその関連では差別と排除の関係を前提とした中で繰り広げられる自己決定権を巡る争奪戦の舞台となる覇権システムと、その覇権システムを前提としてつくり出されてきた「親分ー子分」関係を維持するための経済発展(「衣食足りて(足りず)〉」の営為)の関係である世界資本主義システムと、その親分ー子分関係を正当化・合法化するための民主主義の発展(「礼節を知る(知らず)」の営為)の関係としての世界民主主義システムといった三つの下位システムから構成され、そのシステムの中で私たちは、絶えず支配と従属、差別と排除の関係を刻印されながら生きていかざるを得ない点を強調すると同時に、どのようにすれば、そのシステムから抜け出せるのか、解放されるかについて考察してきたのである。

④煎じ詰めれば、その第1の話は、理想主義的な「こうあるべき論」を思考する方向へと、私たちをいざなう論だとも言えよう。それに対して、第2の話は、たとえ、「システム」の中で生きることがどれほどいやであっても、またそこからどのように抜け出すか、そしてさらにあるべき理想的な生き方を考えたとしても、そのシステムを構成する覇権システムは親分ー子分関係を基本としているため、その親分に逆らって生きること自体が、自らの命と暮らしを守る試み自体を、困難勝つ危険な状況へと追いやってしまうことになりかねないことから、先ずは、現実の世界に即して、その親分の支配を受け入れる生き方をしなければならない、と強調した論の展開となっている。

⑤換言すれば、もし、理想的な生き方を追及する人たちがいるとしよう。その彼・彼女は、現実問題として、力と力の暴力関係を基にした親分関係の中で、まずは生き残る、生き延びなければならない状態に置かれていることも理解している。すなわち、どれほど理想的なことを頭に描いていたとしても、いきなりその地点にまで飛ぶことは不可能なことから、現実の世界の中で、「勝ち続ける」ことが絶えずできないまでも、生き残れる、生き延びれる道を模索しなければならなくなる、と。生身の人間の安全保障が実現できなければ、その目指すべき理想的な生き方さえもできなくなるとの至極当たり前の話なのだ。

⑥そして、この現実の安全保障の実現のためには、第1の「システム」に関する話、つまり「システム」とはどのようなものであり、そこで生きるとは、勝ち続けるとは、どのようなことなのか、そしてそこから抜け出すには、離れて生き残るにはどうすればいいのか云々の話は、どうしても必要不可欠な前提作業となるのである。

⑦そして、そこから、前回記事で述べたように、もはや今の菅政権下の日本国で日本国民を演じる限り、国民としての安全保障は不可能なのは勿論のこと、そればかりか、システム人として、人としての安全保障の実現も危ういという結論に達したのだ。ところが、それがわかったとしても、それでも、国家の一員として、国民として生きること以外に、選択肢はないかのような状態に、私たちは甘んじているのではあるまいか。

⑧たとえて話すと、「NHKをぶっ飛ばす国民の党」という名前の政党があるが、どうしてその政党名は、「NHKをぶっ飛ばす非国民の党」と名乗らなかったのか、という話にも似ている。もはや、私たち中・下級国民は、日本政府からも、日本国家を構成する上級国民からも見捨てられている存在、すなわち非・国民の状態に置かれているのだ。

⑨それなのに、私たちは何もしない、しようとしない日本政府と日本国家の中で、これまた私たち自身も、何もしない、動かない状態・状況なのだ。野党のだらしなさは今に始まったことではない。そのどうにもならない夜盗さえも、高をくくったかのように、私たちのだらしなさを、ありがたがっているのだ。選挙で私たちが棄権しようが、政治に背を向けたとしても、野党は存続できるし、このままの状態で税金を貪ることができると、安住できる地点で、私たちを傍観しているかのようなそぶりなのだ。

⑩もし、有事の際、与党は勿論、この野党も自分たちを守ってくれないことはわかり切った話ではないか。何もきな臭い軍事関連の話だけが有事ではない。明日の飯に困る、仕事がない、親の介護ができない、子供の養育費・授業料も捻出できない等々、既に有事の中に放り込まれている。それなのに、権力を手にした人たちは、誰も助けてくれない。

⑪それでは、誰が悪いのだろうか。私たち中・下級国民にも是正すべきところはたくさんあるのではあるまいか。その一番の問題は、誰かが最後は助けてくれるとの思い込みだ。もう助けてはくれない。それが証拠に、私たちは国民に非ずの非・国民として放置されている。それをもっと早く自覚しなければならなかったのだが、遅すぎるということではない。今からでもやれることはすべきなのだ。

⑫そのためには、ありとあらゆる手を使うべきではないか。国民が駄目なら非国民として生きることを考えてみればどうか。否、もう「システム」を理解できれば、既に非国民なのだから、そして、与党も野党も、あてにならない・頼れない状態に置かれているのだから。そこに、今回のような日米安保体制を基に、中国包囲網を展開する外交・軍事路線が明確となって、ますます日本国や日本国民の安全保障を危機的な方向へ導こうとしている。

⑬私たち非国民には関係はないとしても、私たちは現実問題として、この日本という空間の中で生きていることには変わりないことから、今の日常生活の次元での有事に加えて、戦争有事に巻き込まれる蓋然性・危険性は高いだろう。それでもなお、従来の日本国を構成する国民の鎧だけで対応しようとするのか。それでは危うい。別の新たな鎧を自らの手で準備しておいた方がいいに決まっている。

⑭「システム」論を前提とすれば、中国に頼る以外に道はない。中国政府と中国国家に、助けてくださいと、私と同様に感じる心のある者たちは、声を大にして訴えなければならない。もう格好など気にしている時間などない。なりふり構わずにしなければならない。その良い見本を既に私たちは学習しているではないか。日本政府とその歴代首相たちの土下座外交は好例だろう。

次は、私たちの番だ。


(最後に一言)

今回は、私のこれまでの話を大別して、二つの流れから述べてみた。理想主義と現実主義の流れだが、誤解のないように、これも既に以前のブログ記事で指摘してきたが、いわゆるE・H・カーに系譜をたどるそれではない。また国際関係で語られてきたそれでもない。「関係としての民主主義」論をもとにして、そこから私自身が紡ぎ出してきた覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される「システム」を前提とした上で語られる理想主義であり現実主義だということである。

これからも、さらに話を深めていきたいと思うが、今回は、「システム」と向き合う中で提示される理想主義的生き方を目指すことを忘れてはならない、私たちの最終目標であるのに間違いはないということ、と同時に、それはそうだとしても、「システム」の中で生き残らない限り、勝ち続けることができないまでも、生き残り、生き延びることができない限り、先の理想主義的な生き方は実現できないで終わってしまうのは当然だということ、それゆえ、「システム」の中で、生き残る、生き延びるための現実主義的生き方が先ずは何よりも求められているということ、それゆえ、中国政府と中国国家に「子分」として、助けを乞うことの必要性・重要性を説くに至ったことである。以上、今回はこれら二つの流れに関した話を紹介した次第。

 


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一刻も早く、中国政府の指導の下に、日本の「緩衝地帯」(化)構想を世界に提示しよう(1)

2021-04-20 | 日記

一刻も早く、中国政府の指導の下に、日本の「緩衝地帯」(化)構想を世界に提示しよう(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは


(最初に一言)

もし私が、私自身の命と暮らしを守ろうとするとき、そのためにどのようなプランを手にすればいいかを考えてみよう。

①私は、菅政権下で進行中の日米安保体制を基にした中国包囲網に反対の立場をとっている。ところが、日本政府は米国の圧力を受けて、ますます危うい方向へと向かおうとしている。そんな状況下において、中国政府も強硬姿勢に出ざるを得なくなる最悪の事態に直面することになったと仮定しよう。

②どちらが最初に攻撃を仕掛けてくるかはわからないとしても、そうした攻撃に巻き込まれてしまうそんな場面を想定してみよう。私たちは、既に映像の中において、たとえば、中東地域でミサイル攻撃を受けて逃げ惑う人々を何回も見ている。当然ながら、このままであれば、有事の折に、私たちもそうした状況に直面する可能性は代であろう。

③そしてその場合には、たちまち、中国と米国の両国によるミサイル発射とその迎撃合戦が開始されるだろうが、問題は、その舞台の多くが日本領土に集中する可能性があるということである。戦争を開始した米国は、その終わりを見据えて、中国本土への攻撃は控えるに違いない。

④中国は、日本の米軍基地への攻撃に特化することが予想されるが、その際、基地はもとより、その周辺で生活する日本人やその他の日本で生活する人々が巻き添えを食わないという保証は何もないのだ。最初からそんな戦争とそうした事態を引き起こしかねない日本政府の外交・軍事路線(の選択)に反対してきた人々にとっては、迷惑以外の何物でもなかろう。迷惑という言葉ではとても済ませられないのは勿論。

⑤ここで問題となるのは、私たちは、もう十分すぎるほどに、今のこの瞬間においてすら、私たちの命を失う蓋然性の高いことを理解しているはずではなかろうか。とにかくそう信じたいのだが、なかなか現実はそれとは真逆のような国民が多数存在するのも事実だろう。それはそうとしても、そう遠くない時期に、命を失いかねないと理解できる人たちは、それではどうすればいいのだろうか。

⑥それこそが、緩衝地帯(化)構想へと、私たちを導く強い動機となるのだ。もう、日本政府には頼めない、頼れないのは明らかなのだ。そうした政府を打倒するためにも、この緩衝地帯化構想を提示することは必要となるに違いない。中国政府に強くお願いするのだ。ミサイル攻撃の際、日本の中でこの空間だけは攻撃大勝から外してほしい、と。

⑦さらに、お願いすることだ。米国に対しても、中国政府から直接働きかけて、その緩衝地帯は攻撃・報復の対象から外すように、と。私たち日本国に住む日本人の中にも、自国政府の政治に対して強く拒否反応を抱く日本人も多い?ので、そうした人々が集まって、日本政府に与しない緩衝地帯を、日本の中に建設することを約束する、と、今からでも、私たち自身が中国政府と中国国家に対して、強く伝えておかなければならないのだ。

⑧本来ならば、日本の野党勢力がすべきことなのだが、彼らは決してそうした案を認めようとはしないだろう。なぜなら、彼らも日本国の日本国民を代表する国会議員だから、それでもって多額の税金で飯を食うことができるから、当然そうした呪縛を打ち破れない。彼らは日本国と日本国民のために働く国会議員ではないのだ。彼らの守備範囲は、相当に限定された彼らの仲間のために政治をしているだけなのだ。それは自民党公明党の与党政府も、まったく同じであるのは言うまでもない。

⑨それゆえ、そうしたことを感じている私たちは、拱手傍観などしていては駄目なのだ。そのためには、私たちもはっきりとした自分たちの態度表明を世界に示さなければならない。そして、今がそのチャンスなのだ。私たちは、次の衆議院選挙で自公政権の打倒を願うことは言うまでもないが、それは野党の勝利を願ってのことではない。

⑩今は、そんな国内政治がどうのという段階ではもはやないのだ。既に私たちの国は破れた状態であり、次の有事に際して、国家が一丸となっての臨戦態勢で臨むなどは不可能なのだ。私たちは、早急に、中国政府とパイプを取り、その指導を仰がなければならない。そのために、ありとあらゆることを試みる必要がある。

⑪その中の一つが、ここに紹介した緩衝地帯化構想の提示を云々の話である。中国政府にとにかく、指導を仰ぐことが肝要である。私たちの集団は、決して出しゃばらない。そんな力もないし、そもそも力を望むものではない。中国政府から、米国との関係でこれこれをしてくれと言われたならば、それに従うしかないのだ。

⑫日本国家の一員としての日本国民の存続を、もし真剣に望んでいるとすれば、ここで述べた私の話に耳を傾けることが大事であると、私は言いたいのだ。コロナ禍の今、私たちは大変な時を迎えている。東京五輪などする余裕もないのだ。それを強行する、米国政府の意向に従順な「私的利権勢力」が、今の日本を牛耳っているのは明らかなのだ。そうだとしたら、私たちも、それに拮抗する中国政府の意向に従順な私的利権勢力をつくることが大事ではあるまいか。

⑬先ずは、こうした心意気でもって、緩衝地帯化構想を打ち出してはどうだろうか。緩衝地帯とは、簡単に言えば、今の日本の中に、日本政府が進めようとする政治とは異なる、別の新たなる「政治」を目指そうとする人々によって、つくられる共同体ということである。その共同体は、中国政府の指導を仰ぎながら、アジアにおける新たな親分の平和を担う共同体である。

(最後に一言)

こんな連中が日本を支配しているのかと思うと、本当にお先真っ暗としか言いようがない。それにもかかわらず、こんな連中であったとしても、私たちがこのまま何もしないでいれば、まだまだ日本を支配するのは目に見えている。それならば、もう従来の日本を見限って新生日本を建設しなければならないだろう。そして、その力が未だ手には掴めていない私たちが、頼むとすべきは、中国政府と中国国家しかあるまい。

私がここまで、厚顔無恥ともとらえられるような物言いで、私の語る「システム」論云々に拘泥しながら、拙論を展開してきた理由も、こうした今日の政治状況が密接に関係しているのだ。(続)

 


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