中国政府の支持・支援を得るために、日本の新たなる「共同体(緩衝地帯)」像を模索するとき(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは
中国政府の支持・支援を得るために、日本の新たなる「共同体(緩衝地帯)」像を模索するとき(1)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは
今回記事を書くに際しての一言。前回記事のタイトルを踏まえるとき、そこから以下のような問題提起が可能となるに違いない。すなわち、〈戦後日本の平和憲法の普遍的価値に象徴・体現される「自由」「民主主義」「人権」「法の支配」「平和」を、私たちの目指すべき「理想」としてはならない。さらなる高みに位置する「じゆう」「みんしゅしゅぎ」「じんけん」「ほうのしはい」「へいわ」の実現を、目指すべき目標としなければならない!(2´)ー「人としての命と暮らしを守る」ために、「日本国」の「日本国民(日本人)」として生きてきた私にできることとは〉、である。
(最初に一言)
少し前の記事において、私は日本の中に別の新たな「にほん」と「にほんじん」を体現する共同体の建設が急務だと述べた。そしてその際、中国政府の指導を仰ぐべきだとも指摘していた。今回はその話の続きを書いてみたい。
私の頭の中には、一つの場面が明確に浮かんでいる。ナチスのヒトラー政権の軍事的進行を受けたフランスで、そのナチスの傀儡政権を演じたビシー政権と、それに真っ向から敵対したドゴール率いるレジスタンス勢力、そしてそのドゴールが支援を求めたチャーチル指導下のかつての覇権国としての、大英帝国としての名残を残すイギリスという場面である。
そうした絵柄と、米国のバイデン政権とその傀儡である日本の菅政権とそれに抵抗する日本のレジスタンス勢力となる新たなる共同体としての「にほん」と「にほんじん」、そしてその共同体が支援を求める習近平指導下の中国政府といった構図が重なるのだ。勿論、そうした物言いは、奇想天外な話と思われて当然だが、私自身は相当に真剣なのだ。
ここで、少し付言しておきたい。S・ヲーリンの説く「逆さまの全体主義」体制下の今日の米国は、トランプ前政権からバイデン政権の誕生後も、その特徴はなんら変わらないままである。つまり、バイデンが声高に主張する「民主主義」は、逆さまの全体主義と何ら矛盾するものではない。元来、民主主義とはそんなものであった。私たちの手にしている民主主義は、その価値観からそしてその実現に至るまで、覇権システムを前提としてつくられてきたものだから、最初から何も褒められた代物ではなかったのだ。
そんな全体主義国家の米国バイデン政権によって、その子分となった日本政府も、アジアや世界において、親分たる米国の使い走りに終始したままである。そして今、その親分の威光を笠に着て、安倍や菅の「ろくなもんじゃねー」政府の、コロナ禍でも一握りの私利私欲追究の五輪開催強行勢力の傍若無人の蛮行が繰り返されている。
おかしいことに、こんな無様な日本と日本人に成り下がってしまったのに、中・下級国民は何も行動しないでただ死を待つといった風なのだ。そんな中、日本にもドゴールのように、ビシー・菅政権に反旗を翻す勢力が誕生しても不思議ではないだろう。否、創るべきなのだ。そのための「にほん」と「にほんじん」という共同体建設が急務なのだ。その共同体を緩衝地帯の中心的構成要素として位置付けるべきなのだ。
そして、その新たな共同体は、かつてドゴールが衰えたとは言えども、なお覇権国であり大英帝国として世界に君臨していた「民主主義」国であるイギリスのチャーチルに支持・支援を求めたように、今日の覇権国への道を歩むと同時に、民主主義の実現を目指している中国政府とそのリーダーである習近平主席に支持・支援を求めることが何よりも大事である。
前回記事での私が提示した今後の日本が目指すべき「理想」としての「へいわ」の話は、新たな共同体の基本的指針というか、その共同体の憲法の骨格をなす原理であった。もとより、従来の日本と日本人においては、到底そうした理想としての「へいわ」とその実現など目指すことは不可能だと、私は考えている。
と同時に、中国政府も、今の日本と日本人を支援しようとは決して思わないだろうし、中国国家もそうした動きを許さないだろう。そうした中国側の態度を踏まえるとき、新たに立ち上げようとしている共同体は、日本人をもっぱら主権者として、中心的な担い手と位置付け理解される共同体ではない。
その共同体には、日本に暮らす中国人やベトナム人、ブラジル人等々の外国人労働者が含まれていると同時に、主権者として、従来の日本人と同様な待遇を得られるのは勿論、共同体の政治に参加する権利も何ら制限されるものではない。労働者としての地位待遇も、これまでの外国人としての技能実習生、研修生に代表される扱い方ではなく、共同体を構成する構成員として、同等・同様な存在として遇される。
私たちの目指すべき共同体は、何はさておき、生き残る・生き延びることが大切な目標であることから、そして中国が覇権国家としてアジアや世界に君臨するのは必至となるとみていることから、今の中国政府が東シナ海や南シナ海で進めている覇権的行為を受容する。勿論、中国による尖閣諸島の領有権に関しても異を唱えるものではない。
20年先の世界を俯瞰するとき、私たちがいま日本の防衛のためのミサイルがどうのだとか、尖閣有事の際はこうするべきだとかの話は、おそらく笑い話というかしょうもない話をしていたとの「過去の話」となるに違いない。その時、「日本」と「日本人」の存在それさえも過去の話となってしまうならば、私は慙愧に堪えない。
(最後に一言)
米国のバイデン大統領が、米国の再建(大きな政府)を目指して、650兆円もの巨費を投じるとのことだが、それによって失われた中間層を取り戻す云々の話は、何かトランプ前大統領の話とも、そのやり方というか宣伝文句の違いはあれ、どこか似ている感がする。私はここで断言するが、決して〈「システム」とその関係の歩み〉は、米国において、もはや中間層の再形成を許すことには至らないであろう。
むしろ逆に、バイデン政権による米国再建のために投じられる巨額のお金は、中国経済を強固なものとするために、そしてそれによる中国の分厚い中間層の形成に益するように、使われることになるだろう。簡単な図式で示せば、{[Aの米国の経済発展(衣食足りず])→[Bの中国の経済発展(衣食足りて)}}の関係がすでに出来上がっている。その関係を前提とした上での米国の巨額投資であることから、そのお金はこの関係をさらに強固にするように、使われていくのだ。
これに関しては、既に私の「システム」論でも以前に述べていたことだが、日本のどこかの省が、「アべノ・ミックス」との関連で、日本において失われた中間層を取り戻す云々の戯言をホームページに掲載していたが、これも先のバイデンの話と同様に、夢物語なのだ。それはそうとしても、私には腹が立ってしようがないのだ。私の「システム」論を学べば、もっと多くの日本人の命と暮らしを守れたはずなのに、と。