日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の説く「人としての命と暮らしを守る」(「人としての安全保障」(論))と、いわゆる「人間の安全保障」(論)との見解の相違について述べるとき

2021-04-17 | 社会 政治

私の説く「人としての命と暮らしを守る」(「人としての安全保障」(論))と、いわゆる「人間の安全保障」(論)との見解の相違について述べるときー目まぐるしく変わっていく「状況」を的確に位置付け理解するためには、しっかりとした羅針盤が必要・私の語る「システム」論がその一助となればとの思いは募るばかり(2)


(最初に一言)

前回記事を投稿した後で、少し以前に流行していた感のあるいわゆる「人間の安全保障」(論)を思い出した次第。その時にも感じたのだが、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉(以下「システム」と略す)に何ら抵抗できない、抗えない主張であるとみていたのだが、前回記事で「人としての命と暮らしを守る」云々と述べた関係上、先ずは両者の見解の違いから話してみたい。


本論がここから続くのだが、体調を考えて、今回の話の続きは、また後日としたい。なお、その続きを述べる際はこの行は削除することを前もって断っておきたい。もう勘のいい読者の方ならば、私がどのように語るかについて察しを付けているに違いない。たとえば、近代憲法、とくに、その普遍的価値や普遍主義との関係、さらには国家の安全保障との関係等々である。


(最後に一言)


それにしても、「システム」は不謹慎な物言いを承知の上で言うならば、「遊び過ぎ」の感がある。上の方から私たち下々にいる者たちを眺めながら、そこには上級国民も中・下級国民も、さらには自然環境も含まれているのだが、「モメゴト」を引き起こしては楽しんでいる風なのだ。

情けないのは、私たち自身の方で、それこそ「システム」は楽しむかのように、宮沢賢治の「雨にもマケズ、風にもマケズ」の内容を、そっくりそのままパロディ化している節がありありなのだ。たとえば、どこかでモメゴトをおこしている者たちがいれば、そこへ出かけて行って、もっとその輪を大きくして、いろいろなモメゴトの輪をつくれば、さらに面白いお金儲けができる云々とのように、今の国際関係の歩みは、まさにそうなっているのではあるまいか。もっとも、「システム」は今だけでなく、過去も、そして明日も、国際関係におけるモメゴトをつくり出してきた・つくり出しているのだが。

 


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いわゆる「専門家」と称されている者たちは、「人としての命と暮らしを守る」ためにはどうすべきかを提言できる専門家ではない

2021-04-17 | 社会 政治

いわゆる「専門家」と称されている者たちは、「人としての命と暮らしを守る」ためにはどうすべきかを提言できる専門家ではないー目まぐるしく変わっていく「状況」を的確に位置付け理解するためには、しっかりとした羅針盤が必要・私の語る「システム」論がその一助となればとの思いは募るばかり(1)


(最初に一言)

相も変わらず、厚かましいタイトルとなっているのだが、それでも少しはご期待にお応えできると思っている。またまた厚顔無恥を地でいくような物言い。


それにしても思うことは、コロナ禍により、私たちは多種多様な「専門家」というか、いわゆるその道の「プロ」達に、メディアを介して遭遇する機会に恵まれている。そうした専門家たちを目にして、私は自身の立場をどう見ればいいのかと考えるようになった。私自身も、ある面においては専門家(の端くれ)だとは思うのだが。

そんな専門家たちのコロナや原発に関連した発言に接するたびに、「これって、私のようなコロナや原発についてあまり勉強していない「素人」と同じレベル、いやそれ以下ではないの?」、と思えるような場面に、たびたび直面して驚くというか、笑うというか、苦笑いとなる。

確かに、彼らは自分たちの研究分野に関しては、何某かのことは知っている。その意味では、専門家とみてもいい。だが、その情報を、「人としての命と暮らしを守る」という意味における専門家たらんとして、責任をもって研究してきた、その成果として提供された「情報」なのか、否かの観点から評価した時、彼らのいわゆる専門家とされる顔の向こう側に、素人かそれ以下の無責任さが見え隠れしてくるのである。それは、権力に奉仕する、権力が都合のいいように利用できる専門家ということになる。

つまり、彼らが関係する当該事象に詳しい専門家としての顔と、「人としての命と暮らしを守る」専門家としての二つの顔を、彼ら専門家と称される者たちは、実は持っているのだという話を、私はここでしている。世間一般で使われる意味は、前者の意であるのは私もよくわかるのだが、この後者の点も合わせて含めた専門家を私たちは必要としているに違いない。ところが、後者の意にかなう専門家を、私たちはあまり知らないのだ。それは何故なのか。この点に関して、少し考えてみたい。

たとえば、政治家といえば、これまた政治に関するいわゆる専門家、プロだと言えるだろうが、この連中たちの素人以下の役者ぶりにはもう仰天してしまう。それは大阪府知事の吉村氏をはじめ、東京都の小池氏から、安倍前首相、菅現首相と数限りない。素人だらなのに、勝手な私たちの側でつくり上げてきたイメージや思い込み、先入観を介して、この人は議員さんであるとか、知事さんであるとか、また大臣であるとか、さらには弁護士や裁判官や学者だからとして、彼らの存在をある種何か私たちとは違う、少しは賢くなれる見方を示してくれているように、錯覚しながら見ているのかもしれない。

それはそうだとしても、このコロナ禍の専門家達の大量出現によって、良くも悪くも私たちの勝手な思い込みや先入観がいかに間違っていたかを知らしめたという意味においては、彼らの貢献は大きかったのかもしれない。と同時に、電通に支配され、飼い馴らされてしまったいわゆる大手メディアと称されてきたテレビ局や新聞社の報道が、どれほど陳腐で偏向した情報を大量生産してきたかを、痛感するこの頃である。(それに比して、〈阿修羅・総合アクセスランキング〉をはじめ、各種の阿修羅の記事に、すべてとは言えないまでも、精神安定上、どれほど救われているか。)

もっとも、このような風景は今も昔も何ら変わらない。私たちは最近、とみに安っぽくなった政治家の常套句の一つである「国民の命と暮らしを守る」との物言いを、少し考えただけでもわかるというものであろう。政治家がそこで守ろうとしている国民は上級国民であり、彼らの命と暮らしであることは今さら言うまでもないことだ。

そうした政治家が奉仕する経済界のリーダー連中が、親分となって、自分たちの子分を使いながら、この世の中を「経営」するのだから、彼ら親分の提供するメディアとその情報は、いつも親分に有利となるように、親分をヨイショするものにならざるを得ない。そうした仕組みを支える親分の情報機関の一つが、日本であれば電通ということになる。

電通の思いどおりとなる専門家だけが大手メディアに頻繁に登場するのは当たり前ということなのだ。それゆえ、上級国民の間では、「中立」的報道であったとしても、中。下級国民にとっては「偏向」報道となるのだが、どうもそれがすぐには見抜かれないような「煙」幕装置が周到に用意されているのだろう。

そして、そうした専門家、そこには「政治家や自称・ジャーナリストや学者連中が含まれているが、彼らがそこで吐く国民の命と暮らしを守る云々の話は、すべてが上級国民のそれであることを、あらかじめテレビや新聞、雑誌等に接する際に、下級国民は知る必要があるのだ。

こうした文脈に照らして、少し前の専門家の二つの顔についての話に戻るとき、私たちのような中・下級国民の命と暮らしを守る専門家に、私たちがあまり出くわさない、ましてや「人としての命と暮らしを守る」専門家に出くわさない、特に大手メディアの提供する情報に関わる専門家以外の専門家の情報に接することができないのもよくわかることだろう。残念なことだが、それは事実なのだ。

ところが、世の中は皮肉にできていて、経済・生活レベルはとても同じ地点に立って暮らすことなどできない・許されない中・下級国民なのに、哀れというか悲しいほどに頭の中の教養というか文化レベルだけは上級国民の嘘っぱちの話で満たされながら、彼ら上級国民と同質の意識を共有したいと希(こいねが)う始末なのだ。

せっかく、素晴らしい、その人にしかない生まれつきの、その意味では真の教養?に導く素地を持ちながら、残念なことに「システム」の提供する高等教育を受けるに従い、国民や市民、あるいは民族の(一員たるの)前に、人間として、「人としての命と暮らしを守る」ために必要不可欠な大切となる別の異なる教養を身につけることはできなくなっている。

逆に言えば、それほどまでに、私たちの日常空間は、そんな類(たぐい)の情報ばかりで溢れているということになるのだ。たとえば、コロナにしろ原発にしても、政府や多国籍企業として世界的な活動展開をする製薬・原子力関連の有名大企業を利するだけの、つまりは「システム」内の「各種村」を管理運営するのに都合のいいような情報ばっかりで溢れているから。

そしてさらに、その理由はと問うならば、その情報の出どころが、政府やそうした企業がスポンサーとなって維持・運営するメディアと、そのメディアにより動員された御用ジャーナリスト、御用学者、御用芸能タレントといった御用役者により提供されているからということとなる。かくして、専門家の二つの顔云々に関した上のくだりで指摘したように、「人としての命と暮らしを守る」ためにはどうすればいいのかを論じることのできない、その意味では素人かそれ以下の専門家たちしか生まれてこないということになるわけだ。

これを悲劇と言わずしてなんと言うのか。とてもつらい現実なのだ。もう一度、簡潔にくどい話となるのを承知で言えば、日本国民のとか、中国国民とか、米国国民の命と暮らしを守るためにはどうすればいいのかを提言する専門家はいても、日本とか中国とか米国の枠を超えて、人としての命と暮らしを守るためにはどうすればいいのかを低減できる専門家が、残念ながらいない、ということを私は語ってきたのだ。

それゆえ、必ず、日本においても、中国においても、米国においても、そこで守られる対象となる国民の命と暮らしは、いわゆる「上級国民」のそれということにならざるを得ない。そこから彼らの政府のリーダーが強調する国益とか、平和、外交・安全保障という場合の基準は、そうした上級国民となる。

もし戦争が起これば、最前線に立たされるのは中・下級国民がほとんどで、上級国民は安全なところから、自分たちの「私益」を守るために必要な命令を出すばかりなのだ。これまでの戦争をみても然りではあるまいか。いま東シナ海、南シナ海の有事とか台湾海峡を守れとか、きな臭い声が喧(かまびす)しくなっている。

そんな時に、私は読者に、先の話を考えてもらいたいのだ。もしあなたが何々国民だとして、その国民の命と暮らしを本当に守りたいのならば、それならまずは最低限、人としての命と暮らしを守るためにはどうすべきかを考えておく必要があるということだ。それがもし、できないのであれば、どうしてその先の存在である国民の命と暮らしなど守れようか。

換言すれば、日本国民の命と暮らしを本当に守るためには、中国人や米国人、韓国人、イスラエル人、パレスチナ人、韓国・北朝鮮人等の命と暮らしを守るための戦略・戦術を準備しておかなければならないのだ。つまりは、人としての、換言すればシステム人としての命と暮らしを守るためにはどうすればいいかの戦略と戦術に他ならない。


(最後に一言)

前回の記事で、国民とシステム人はイコールではない、と私は指摘した。そしていつも私はシステム人にならなければ云々と述べてきた。そろそろ、それについて、またそれを言うことで、何を言いたいのか、何が見えてくるのかについて、話すときがきたようだ。もっとも、これらに関しても、私は既に論及してきたはずなのだが、私にもなお、伝え方の悪さから、しっくりといかないじれったさがたくさん残っている。

 


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東京電力福島第1原発の「処理水」の海洋放出に関する記事紹介

2021-04-16 | 社会 政治

東京電力福島第1原発の「処理水」の海洋放出に関する記事紹介


(最初に一言)

前回の私の投稿記事がどれほど甘っちょろいものかと、今日紹介する記事から痛いほど教えられたばかり。

もう余計なことを言わないで、記事のタイトルを以下に貼り付けておきたい。そして、〈阿修羅・総合アクセスランキング(瞬間)〉の他の記事も是非とも見てほしい。とにかく、私のような「素人」ができるのはたくさんの関連記事をわからないなりにも読み続けるだけ。それしかない。


記事タイトルは以下のとおり。

汚染水「放出ありき」の非道。政府と東電の“密約”が炙り出す大嘘 (きっこのメルマガ MAG2NEWS) 
http://www.asyura2.com/20/genpatu53/msg/464.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2021 年 4 月 16 日 05:13:47: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag
  
「汚染水『放出ありき』の非道。政府と東電の“密約”が炙り出す大嘘」
(きっこのメルマガ MAG2NEWS 2021/4/15)
https://www.mag2.com/p/news/493817


(最後に一言)

私は、この〈阿修羅〉に掲載された「魑魅魍魎男」氏の記事から、これまでも多くのことをご教示いただいているが、今回は同氏の紹介された「きっこ」氏の「きっこのメルマガ」の記事からも、いろいろと教えてもらった。とにかくお礼を申しておきたい。

 


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東京電力により公開された「2020年12月24日の資料」にも、福島第一原発事故後の汚染水の処理水の海洋放出は「危険」だとの指摘が!

2021-04-16 | 社会 政治

東京電力により公開された「2020年12月24日の資料」にも、福島第一原発事故後の汚染水の処理水の海洋放出は「危険」だとの指摘が!

〈阿修羅・総合アクセスランキング(瞬間)〉に掲載されていた記事を以下に貼り付けておきたい。

その記事からわかったのは、東京電力も、既に二〇二〇年12月に資料を公開して、たとえ原発事故後に出た汚染水をどんなに処理したとしても、すなわち大手マスコミ報道から伝えられる汚染水を多核種除去設備「ALPS」で浄化しても、除去できないトリチウムの他に、彼らが伝えない、なお12種類の核種があるとのことだ。

それにもかかわらず、「原子力ムラは「トリチウムが放出する放射線は弱い」「自然界にも存在する」「通常の原発でも発生し、基準を満たせば海に流している」と、海洋放出は問題ないと訴え」、そうした説明を、さらに、「大手メディアはほとんど問題にしていないのは危険だ、と日刊ゲンダイの記事とその紹介者の「赤かぶ」は警鐘を鳴らしている。

それによれば、「ALPS」で取り除けないのは、トリチウムだけではないという。トリチウム以外にもヨウ素129、セシウム135、セシウム137など、12の核種は除去できないという」ことが、先の資料に述べられているとのことだ。。

ところで、そうした非常に重要な問題、すなわち<12の核種が残留>原発汚染水にトリチウム以外の核種…〉を指摘したのは、自民原発推進派であることを、先の日刊ゲンダイは私たちに知らせてくれたのだが、同時に、その間のいきさつも教えてくれる。

同記事から、自民党の「処理水等政策勉強会」の代表世話人・山本拓衆院議員が次のように述べていることがわかる。すなわち、ーーー「断っておきますが、自分は原発推進派です。菅首相も支持しています。ただ、原発処理水に関する報道は、事実と異なることが多いので、国民に事実を伝えるべきだと思っています。東京電力が2020年12月24日に公表した資料によると、処理水を2次処理してもトリチウム以外に12の核種を除去できないことがわかっています。2次処理後も残る核種には、半減期が長いものも多く、ヨウ素129は約1570万年、セシウム135は約230万年、炭素14は約5700年です」ーーーとの話だ。

また、山本議員が続けて以下のように語っていることを、同記事は紹介してくれている。すなわちーーー さらに「通常の原発でも海に流している」という報道も、誤解を招くという。「ALPS処理水と、通常の原発排水は、まったく違うものです。ALPSでも処理できない核種のうち、11核種は通常の原発排水には含まれない核種です。通常の原発は、燃料棒は被膜に覆われ、冷却水が直接、燃料棒に触れることはありません。でも、福島第1原発は、むき出しの燃料棒に直接触れた水が発生している。処理水に含まれるのは、“事故由来の核種”です」ーーー。

こうした東京電力の資料やそれに依拠して語る山本議員の話を踏まえるとき、私たちのいわゆる「処理水」の理解の仕方は、嘘を平気で垂れ流す大手メディアにより著しく歪曲されていることがわかる。無論、何度も言うのだが、それは彼らの飯を食うためにだから仕方がないのは重々わかるけど、それにしても、ここに取り上げたゲンダイにより紹介されている山本自民党衆議院議員の国民に向き合う態度とは、月とスッポンではあるまいか。

私はこれまで、自民党議員や公明党議員に対して、私の立場上、非難・批判をしてきてはいるが、こんな私にも、ずっとお付き合いいただいた神戸市在住の自民党所属の元神戸市議会議員のある御方がいらした。とても尊敬できる人であり、私など頭が上がらない人であった。この山本議員も「正直な人」に違いない。さらに何より、東京電力の先の資料作成に関わった人たちも、正直であるのは確かだろう。だが、そんな人たちばかりで自民党や東京電力が担われているわけではないことも、また確かなことだ。「システム」において、寂しくまた悲しい話となるが、そんな「正直」さは所詮は「あだ花」以外の何物にもならない。だが、たとえそうだとわかっていたとしても、システム人としての私は暫し救われる思いを感じてしまう。

最後になったが、以前の何かの資料で、いま思い出したが、確か加藤陽子氏?だったと思うが、原発事故に関して、理系の専門家が文系の専門家をだましている云々の発言をどこかでしたのかわからないが、それを読んだか聞いたのだろう、当該理系の方が、とんでもない話だ、いつも現実はこの逆なんだから、理系が文系に利用されている云々のくだりを思い出した。コロナ禍の今、コロナ報道から何を思い浮かべるか。「ペンは剣よりも強し」とはこの文脈から読み取れるのかもしれない。

もっとも、「システム」を語る際、理系も文系もないだろうが、ここで紹介されているゲンダイ記事を見る限り、もし東京電力の「資料」を主人公にして、それに語らすとすれば、たとえ「システム」の中で生きているシステム人であっても、少しは違うやり取りができるのではないか、できるはずだと思いたくなってくるのも、事実化も。

なお、以下に「赤かぶ」と「日刊ゲンダイ」の記事を貼り付けているので、私の回りくどい注釈というか引用記事より、先に下の記事を読んだ方がいいかもしれない。私は自分の勉強のために、こうしてつぎはぎつぎはぎの文章に下だけだから、念のために、申し添えておきたい。


(以下、引用貼り付け記事)


<12の核種が残留>原発汚染水にトリチウム以外の核種…自民原発推進派が指摘(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/21/senkyo280/msg/277.html
投稿者 赤かぶ 日時 2021 年 4 月 14 日 21:30:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
Tweet  

原発汚染水にトリチウム以外の核種…自民原発推進派が指摘
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/287910
2021/04/14 日刊ゲンダイ

処理水に含まれるのは、除去が出来ないトリチウム以外の12の核種(C)日刊ゲンダイ

 国民の反対を押し切って、東京電力福島第1原発の敷地内に貯蔵されている「汚染水」が、海に捨てられることになった。

 海洋放出する汚染水について、麻生財務相は「飲んでもなんてことはないそうだ」などと安心安全を強調しているが、放射性物質に汚染された水を捨てて本当に大丈夫なのか。

「通常の原発でも海に流している」も誤解を招く恐れ

 専門家が危惧しているのは、トリチウムだけがクローズアップされていることだ。大新聞テレビは、汚染水を多核種除去設備「ALPS」で浄化しても、トリチウムだけは除去できないと報じ、原子力ムラは「トリチウムが放出する放射線は弱い」「自然界にも存在する」「通常の原発でも発生し、基準を満たせば海に流している」と、海洋放出は問題ないと訴えている。

 しかし、大手メディアはほとんど問題にしていないが、「ALPS」で取り除けないのは、トリチウムだけではないという。トリチウム以外にもヨウ素129、セシウム135、セシウム137など、12の核種は除去できないという。

 自民党の「処理水等政策勉強会」の代表世話人・山本拓衆院議員がこう言う。

「断っておきますが、自分は原発推進派です。菅首相も支持しています。ただ、原発処理水に関する報道は、事実と異なることが多いので、国民に事実を伝えるべきだと思っています。東京電力が2020年12月24日に公表した資料によると、処理水を2次処理してもトリチウム以外に12の核種を除去できないことがわかっています。2次処理後も残る核種には、半減期が長いものも多く、ヨウ素129は約1570万年、セシウム135は約230万年、炭素14は約5700年です」

 さらに「通常の原発でも海に流している」という報道も、誤解を招くという。

「ALPS処理水と、通常の原発排水は、まったく違うものです。ALPSでも処理できない核種のうち、11核種は通常の原発排水には含まれない核種です。通常の原発は、燃料棒は被膜に覆われ、冷却水が直接、燃料棒に触れることはありません。でも、福島第1原発は、むき出しの燃料棒に直接触れた水が発生している。処理水に含まれるのは、“事故由来の核種”です」(山本拓議員)

 一度、海に捨てたら取り返しがつかない。


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なぜ今『21世紀の孫子の兵法』を語る必要があるのだろうかー私の「システム論」から紀元前5百年頃の『孫子の兵法』と21世紀のそれとの「違い」について考えるとき

2020-06-24 | 社会 政治
なぜ今『21世紀の孫子の兵法』を語る必要があるのだろうかー私の「システム論」から紀元前5百年頃の『孫子の兵法』と21世紀のそれとの「違い」について考えるとき

ごく簡単に言えば、『孫子の兵法』は、「一国枠」で語られる「敵」と「己」に関する戦い方の話であるのに対して、21世紀のそれは「関係枠」を基にした戦い方に関する物語であるということになるだろう。21世紀における「敵」は、それこそ複雑な関係の中でつくられており、「己」と「敵」の境界が見えないのだ。もっと大胆に言えば、「敵」の中に「己」が組み込まれており、戦うこと自体が、最初から難しい話とならざるを得ないのである。

ところが、メディアの世界では、不思議なほどに、今なお『孫子の兵法』の時代を彷彿とさせる論議が、これでもかと思うほど行われているのだ。たとえば、中国がどうした、米国がそれにどのように反応したかとか、また韓国と北朝鮮の敵対関係がどのような展開を見せるのか、また世界遺産登録を巡る軍艦島などの「歴史問題」が、どういうわけなのか韓国対日本の二項対立の構図で、もっぱら語られるのだから、何をかいわんやなのである。

そんな話はおかしいし、そもそも違うだろうが。「敵」と「己」の関係は、それこそ開国以降の日本と日本を取り巻く欧米列強の関係をみても、またそこに組み込まれた朝鮮半島を始めとしたアジア諸地域との関係をみても、とても「一国枠」では語れない代物ではあるまいか。ここで補足しておくと、「一国枠」とは、「単一の」主権国家、国民国家の存在を指している。

私たちの日本という国家の建設の歩みを考えてみても分かるように、日本という主権国家は日本一国だけでは建設できなかったのだ。同時にまた、「日本人」だけの力で国家建設ができたわけではない。すべてが、「敵」と「己」ではなく、「敵と己」との「相互関係」の中でつくり出されてきたことに注意すべきなのである。無論この話は、日本だけに限定されるものではない。すべての主権国家、国民国家と呼ばれる国家建設にも該当する話である。

ところがなのだ。21世紀のこの時点においても、マスコミにおける「国際政治」の話は、ほとんどすべてが一国枠の話から一歩も出るものではない。「国際関係」を語る論者も、言葉の正確な意味における「関係」を語っていないのである。たとえば、自由、民主主義、人権の話をする場合にも、中国と香港との関係の中で、それは如実に示されることとなる。

「自由民主主義」の歴史を語る際、見事なほどに一国枠で語られることから、たとえば、今の香港問題において、中国の政治体制を批判して、中国も自由民主主義体制の国とならなければならない、と強い口調で中国の香港に対する抑圧姿勢を非難する論者は、その中国がそれこそ、1840年代以降の欧米列強の軍事介入とそれに伴う中国の植民地化政策(イギリスへの香港割譲はその一つの例である)を、当のイギリスや米国やフランスに代表される当時の自由民主主義国の歩みを批判したり、そうした歴史の背後に存在した理由を考察することはない。

せいぜいのところが、21世紀の今日においても、イギリスは確かに大英帝国を建設して、帝国主義国家の歩みを示したが、それにもかかわらず、イギリスがつくり出した自由や民主主義、法の精神といった普遍的価値は、「国際公共財」としての重要な遺産として、評価することを忘れてはならない云々の議論に終始するばかりである。

どういうわけなのか、そうした国際公共財としての普遍的価値を世界に提示したはずのイギリスなのに、そのイギリスが、そうした価値の実現をアジアやアフリカ諸国には許さないで、植民地や従属地としたのかに関する考察は、深められることなく、放置されたままなのである。つまり、自由民主主義国の建設の歩みと帝国主義の歩みとがどのように関係しているかに関する議論はほとんど手つかずのままなのである。

それにもかかわらず、先の中国の香港に対する、自由や民主主義の実現要求を抑圧する姿勢に対しては、ことのほか中国批判・非難はエスカレートする一方なのだ。おかしな話ではあるまいか。自由民主主義国家の建設に邁進していた先のイギリスや米国やフランスは、アヘン戦争から中華人民共和国の建設に至る感において、中国が要求する主権回復や関税自主権の求めに応じないままに、中国大陸での彼らの利権確保と対日戦争を有利にするために、中国の二つの勢力を甘言を弄しながら利用していたこと(勿論、そこには国民党や共産党もそうした諸国を利用していたことは言うまでもないこと)に対して、目を向けないのは何故なのだろうか。付言すれば、こうした諸国間の対立敵対関係は、一国枠を前提とする「敵」と「己」の二項対立図式からは理解できない話であるのは、間違いないだろう。

私たち日本と日本人の歴史を振り返るとき、未だに開国以降の関係の枠の中で生き続けていることを忘れてはならない。そして我々に開国を迫った欧米列強は、既にそうした関係枠から成る国際関係をつくり出してきたことに留意するならば、私たちは開国以前に欧米列強がつくり出した「近代の潮流」と向き合い、その全体像を描くことを試みる必要があるだろう。

結論を先取りして言えば、私はそれを「システム」とその「関係の歩み」(以下、「システム」と略す。)として描いてきたのである。何度も指摘したように、その全体像は、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争』(晃洋書房 2014年)所収の88-91頁の図式のモデルとして提示しているので、ぜひ参照いただきたい。

私のモデルを基にして、先の韓国と日本の間における「過去の歴史」問題を考えるとき、そしてそれは決して過去の問題などではなく、未だに続いている私たちの開国以降の関係の歴史それ自体に他ならないのだが、韓国との関係に対して、そしてこれから起こるに違いない北朝鮮との関係に対して、そして今後もますます歴史問題をカードとして利用する可能性の高い中国との関係に対して、日本外交が、私がここで開陳してきた開国以降の近代化の歴史に見る関係を、それこそ一国枠としての日本の国益にとらわれるのではなくて、日本という「己」が組み込まれてきた「敵」としての関係の歩みに配慮して、かつての日本の「侵略」戦争とその歴史問題を捉え直すならば、今以上に、韓国や北朝鮮、中国との距離は近くなるかもしれない。

ただし、そのためには、従来のような米国一辺倒の、またことさらに中国を敵として位置付ける日本外交の姿勢を改めなければならない。勿論、これはそれほどたやすいことではないし、一歩誤れば、相当に危うい状況に追い込まれるかもしれない。だからこそなのだ。

私たちがいま求められているのは、世界に向かって、私たちの国際関係の歴史を、そして日本の場合は、その中の日本の歴史を、日本と日本人の国益を守るために、『孫子の兵法』に依拠して、一国枠の世界観に立脚した「敵」と「己」の関係から、己を主張するのはやめるべきである。と言うのも、「国益」自体が、「関係」を前提としているからに他ならない。

そうではなくて、むしろ『21世紀の孫子の兵法』が語る関係枠を前提とした、日本も韓国も、北朝鮮も中国も、そして米国やイギリスやその他の国々が、「敵と己」としての相互に関係する「システム」を構成する要素であるとの観点から、「己」を捉え直すことの意義と意味を世界に発信することではなかろうか。それこそが、今なお「敵国条項」にある「敵」として、いつ攻撃されてもかまわないとされている、私たち日本と日本人のこれからの重要な責務となるだろう。

その意味でも、従来の欧米主導の中でつくられてきた一国枠、一地域枠の普遍的価値とそれに依拠した国際関係の歩みの実現に替えて、関係枠を前提とする新たなる普遍的価値の創造と、それに依拠した国際関係の歩みの実現を模索することが、今後ますます必要不可欠な仕事となるだろう。私は切に願うのである。先ずは手始めに、こうした地点から、過去の戦争とそれに伴う歴史問題の解決に向き合ってみたらどうか、と。

これらの問題解決のためには、どうしても次期覇権国となるだろう中国と中国人の力を借りなければならない。そのためにも、中国と中国人に対するこれまでの日本と日本人の厚顔無恥なる態度を改め、もっと謙虚な姿勢で中国の指導を仰ぐことが、何よりも肝要だと私は考えるのである。

そのためには、これまで当然とされてきた私たちの「知」そのものを、別の「知」へと変えていく必要があるだろう。それは、すなわち「一国枠」から「関係枠」の「知」へに、と言うことである。ここでも私は読者に望みたい。「一国枠」の「民主主義」論に替わる「関係枠」の「民主主義」論を、私たちの手にしてみてはどうか、と。


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