日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「市場」(グローバリズム)対「国家」(ナショナリズム)の図式で世界を語っていいのだろうか

2016-06-04 | 社会 政治
私は馬渕睦夫さんから多くのことを学んでいます。馬渕さんが、世界の動向を語る際の馬渕さんの軸はいつも「グローバリズム」対「ナショナリズム」の構図です。馬渕さんはそれを「市場」対「国家」に言い換えて話すときもあります。(馬渕さんの著書『[新装版]国難の正体』ビジネス社 2014年や「和の国の明日を造る」シリーズの動画、最近では15回目の話の中でもそう話されています。また宮崎正弘さんとの共著『世界戦争を仕掛ける市場の正体』ビジネス社 2016年も参照してください。)

ところで、私は元外交官の馬渕さんから、世界情勢に関していろいろなことを教えられると同時に、世界を捉える、理解する際の馬渕さんとの違いにも気づかされます。学ぶということは、こうした違いに気づくことでもあるのではと、最近とくに感じるのです。馬渕さんとの違いにおいて、私が気になるのは、馬渕さんは世界の動きを「グローバリズム」対「ナショナリズム」、あるいは「市場」対「国家」という観点から話されます。、またその際、「グローバリズム」、「市場」の「脅威」について強調しながら、そうした流れに対抗するうえで「ナショナリズム」あるいは「国家」の「側」に味方しながら、論を展開されます。私はそうした二項対立的な図式で世界を語るのは、正直なところ疑問なのです。

私の話はいつも結論にたどり着くまでが長いので、ここで最初に私の結論といいますか、主張を述べておきます。私からみれば、「グローバリズム」と「ナショナリズム」は、あるいは{市場}と「国家」とは相対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係の形をとりながら、私のモデルで描く「システム」とその「自己完結運動」を支えている、支えてきたと云うことです。より簡潔に言えば、システムが、その自己完結運動が、その両者をつくり出したということです。

昨日のブログ記事と結び付けて言えば、「加害者」としての「存在」と「被害者」としての「存在」は、相対立しているように見えながらも、実はシステムとその自己完結運動を支えてきた、支えているのです。なぜなら、そのシステムが、その自己完結運動が、歴史のある時点で、ある空間において、加害者としての存在や被害者としての存在をつくり出してきたからにほかなりません。しかしこの加害者、被害者としての存在は、いつもシステムとその自己完結運動が提供する「衣・食・住のネットワーク」の中で、「共存」「和解」しながら生き続けているのです。

昨日のブログ記事でも紹介した、「大航海時代」から今日に続く「奴隷」的存在が提供する様々な生活必需品を、加害者、被害者の立場の違いはあれ、共有(消費、生産)しながら、システムとその自己完結運動に必要不可欠な奴隷的存在を、彼らの体内に呑み込みながら、同時にそのシステムとその自己完結運動の「担い手」となることにおいて、「和解」し、「共存」しているのです。その点では、グローバリズムの担い手(推進者)も、ナショナリズムの担い手(推進者)も等しく和解し、共存しているのではありませんか。

本題に入る前に、今日はここでやめておきますが、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』晃洋書房 2014年において、既に詳細については述べています。そこでクリストファ―・ソーン著『米英にとっての太平洋戦争』にある福田和也さんによる「あとがき」の中の「馬上のナポレオン」と「頑迷なフィヒテ」を対比して述べたくだりを紹介しています。このナポレオンが「当時の」グローバリズムの推進者であり、フィヒテがナショナリズムの推進者です。両者は、相対立するように福田さんも描いていましたが、
私はそこでも、両者の相互補完性的存在を、強調していました。まさにシステムが、その自己完結運動がこの両者をつくり出したのです。

私のモデルのセカイで描くシステム、{[A]→(×)[B]→×[C]}(共時態型、省略モデル)のAをナポレオンが、Bをフィヒテがそれぞれ担っています。ここでのCが「奴隷」的存在としての植民地、従属地とそこに暮らす人々です。A、B、ともにCを差別、排除しながら、システムとその自己完結運動を支持しているという点では、和解し共存している、同じ側に位置しています。今日はこの辺で。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「勝ち続けなきゃならない」セカイと何層にも重なる多種多様な「加害者」と「被害者」の関係

2016-06-03 | 社会 政治

「平和な民主主義社会」の実現のために、私たちは常に「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争を余儀なくされてきた。(そうした仕組みは「加害者」としての存在、「被害者」としての存在をつくり出す。)それは21世紀の今日でも変わりはない。この生活空間をどうにかして別の空間に替えていかない限り、常に新しい「核」、つまり「暴力」が生産、再生産されていくことは必至である。

歴史の中の「加害者」と「被害者」としての存在は、たとえ「和解」したとしても、常に「勝ち続けなきゃならない」、逆からみれば「負け続けなきゃならない」セカイ・世界で生き続けなきゃならないのではあるまいか。その意味では、常に何層にも重なる多種多様な加害と被害の関係を前提としたセカイ・世界の中で生き続けている。「平和な民主主義」社会の実現のために、私たちが常に、「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争を不可避としているということを自覚しない限り、たとえ「核なき世界の平和」を語ったとしても、私たちが生かされている、生きている[空間]を自覚しないのであれば、「絵に描いた餅」であろう。

二日前に、このブログに<「核なき世界の平和」と「暴力なき世界の平和」、そして「歴史の私物化」を考える>の記事を書いたばかりだが、それはこうした上記のくだりで私が言及した問題を考えるうえでも大切ではないかと思ったからである。もう一度ここで、読み直してみたい。<「リサ・クリスティン;現代奴隷の目撃写真」(2016年6月1日、ヤフーニュース記事)の中で紹介されている「現代の奴隷」たちは、このオバマと被爆者の世紀の瞬間の「抱擁」を、果たしてどのように感じるのだろうか。彼ら現代の奴隷たちを苦しめているのは、核ではない。彼らにとって、それは核に勝るとも劣らない暴力ではないだろうか。それではその暴力はどこから導き出されているのだろうか。その暴力と私たちの間にはいかなる関係があるのだろうか。同時に、オバマと被爆者と現代の奴隷と私たちの間には、一体いかなる関係があるのだろうか。

(なお、二日前のブログ記事は次のとおり)<リサ・クリステインさんの「現代奴隷の目撃写真」に登場する現代奴隷たちは、オバマ大統領と被爆者の「抱擁」を見たとき、一体なにを思うだろうか。あの世紀の瞬間として、おそらく私たちの記憶に残(され)るであろう抱擁写真が隠蔽しているのは、こうした現代奴隷の存在と彼らを創り出す覇権システムとそれを基にしてつくり出されてきた「世界資本主義システム」と「世界民主主義システム」の「三重のシステム」から構成される「一つのシステム」(の構造)ではないのだろうか。そのシステムは、それぞれのシステムが「力(暴力)」の「優劣関係(帝国主義関係)」を前提としてつくり出されている。この構造それ自体が、つまり私の言う「システム」それ自体が、原子爆弾と原発の核をつくり出してきたのである。核なき世界の平和とは、私に言わせれば、この構造それ自体の解体である。すなわち暴力なき世界の平和に他ならない。この世界は、加害者と被害者の抱擁とその和解でもって、実現できるそんなものでもない。加害者とか被害者とかに区分けできるそんな簡単な世界でもない。抱擁写真を介した「歴史の私物化」は許されないのではあるまいか。現代の奴隷たちの目がそれを訴えている。>


オバマの言う「核なき平和」の言い方は欺瞞ではないか。むしろ、ヨハン・ガルトゥングのひそみに倣って、「暴力なき世界の平和」ではないだろうか。そう言いかえたとき、私たちが生き続けてきた私のモデルで描く「システム」はまさに暴力を絶えず生み出し続けるセカイ・世界ではあるまいか。そのシステムが、システム自体の安全保障のために絶えず「奴隷」に象徴される存在を生産、再生産し続けてきたのではあるまいか。その奴隷の「衣食足りず礼節を知らず」の営為を前提としながら、「オバマ」に象徴される存在も「被爆者」に象徴される存在も、そして私たちも生き続けてきたのではあるまいか。

もしそうだとすれば、「オバマ」と「被爆者」の、「加害者」と「被害者」による「和解」は何を物語るのだろうか。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする