よろず放談

日頃見聞きする種々の事柄に対しての独断と偏見による辛口批評

数学的にありえない

2006-09-28 11:39:31 | 書評
「数学的にありえない」という書名につられて上下巻同時に購入した。

1.装丁はまずまずだが、帯のメタリックな色が安っぽくていけない。

2.上巻の冒頭の直前に置かれた二番目の引用文の著者が
 
  ルイ・バチャリエとなっている。ルイというからにはフランス人だから

  バチャリエはありえない。インタネットで検索してみると案の定

  ルイ・バシュリエ(統計学者)と出ている。訳者はフランス語は

  勿論のことフランス文学の翻訳を少しでも嗜めば身につくセンスも

  ご存知ないようだ。

3.ヒロインのナヴァの本名がタンジャとある。ロシア人だからターニャに

  決まっている。原書を見ていないから確信はないが、おそらく原文は

  Tanjaであろう。英米文学の翻訳者であろうと、こういう誤りは許せない。

4.主人公のケインが二度目のポーカーをやる場面で、デッキという訳語

  が出てくる。えっ!デッキというのは昔なら船の甲板のことだし、今なら

  テープデッキのことだ。訳者はcard deckが分かっていないようだ。

  分かっていればデッキなんという訳語は決して出てこない筈だ。

5.こういう初歩的な誤りを犯す訳者が外の場所でも正しい保障はない。

6.本文は確率論、統計学、量子力学で権威付けられているが、話の筋は

  いわば荒唐無稽で、フィクションとはいえ、それこそ「ありえない」。

    

松平千秋氏逝去さる

2006-06-30 11:04:24 | Weblog
古典ギリシア語学者で、イリアス、オデユッセイア、ヘロドトスの歴史、
アナバシスなど数多くのギリシア文学の名作の翻訳で知られる松平千秋氏
が逝去されていることを新聞で知った。
数年前、毎日新聞の日曜の書評欄で丸谷才一氏が、イリアスとオデユッセイア
(岩波文庫)の翻訳を激賞されているのを読み、始めて松平氏の存在を知った。
実際に読んでみると、古典文学の翻訳にありがちな晦渋は全く無く、
その流麗な訳文は読者を魅了せずには措かない。オデユッセイアの最後
の、イタカの屋敷で、ペネローペへの求婚者達を皆殺しにする件は、まるで
映画を見るような迫真感に満ちていた。
 最近、NHK名古屋文化センターで、古典ギリシア語の講座が設定された
ので、聴講することにしたが、その教科書は、田中美知太郎、松平千秋
共著の[ギリシア語入門]である。その教材の配列、簡にして要を得る
説明など初学者への気配りに満ちていて、字が小さくてアクセント記号が
見にくい点を除けば、まことに理想的な教科書といっても過言ではない。
面識は全然無いけれども、見ず知らずの他人のような気がしない。
ここに氏の逝去を悼み、冥福を祈る。

アウレリオ フィエッロ逝去す

2005-11-14 11:58:21 | 日記
久しぶりに「ナポリ語文法書」の翻訳を見直した後で、著者のアウレリオ 
フィレッロをネットで検索した。驚いたことに彼は今年2005年3月11日に
ナポリで死去していることを発見した。
彼は1923年ナポリの近郊で生まれ、ナポリ大学の工学部を出て後直ちに
ナポリ民謡の歌手となって大活躍をした。日本にも三度も来ているそうである。
かれの書いた「ナポリ語文法書」を翻訳して、紹介者アントニオ ギレッリ氏
をして「呪いたくなるほどくそ真面目」と言わしめた真摯で思いやりのある
人間性に触れ、他人事とは思えない。同じく工学部出身で、ナポリ民謡を愛好
する者として哀惜の念に耐えない。冥福を祈る。

鮮度と確率

2005-08-01 16:54:32 | 言葉
聞えは科学的だが、内容は空虚な言葉に鮮度がある。

”この魚は今朝とれたばかりで鮮度抜群だよ”などと

言っているのを聞くと”じゃー何度だい”と聞き返したくなる。

速度、温度、湿度、高度、緯度、経度、震度と並べてみると、

度の付く言葉は数値で計られる性質の度合いをいう言葉である。

鮮度は数値で計られるものではなく、単に新鮮さをあたかも

数値で計られるかのごとく勿体ぶって言っているに過ぎない。

”今日雨が降る確率は40%”というのもおかしい。賽子を

振って6の目が出る確率は1/6であるというような場合にだけ使う

べきで、一度だけしか起こらない事象の確率を論ずるのは

お門違いというものだ。こういう場合に格好の”見込み”という

言葉をなぜ使わないのか。勿体がつかないから駄目だというなら

”公算”という言葉だってある。いや、公算ももはや死語に

なってしまったのか。

梅雨ともったいない。

2005-07-20 16:28:17 | 言葉
このごろの季節になると、梅雨明けだの、空梅雨だのと

マスコミがうるさい。梅雨などというものは気象学者に教わるまでもなく

この瞬間に始まりこの瞬間で明けるという性質のものではない。

何時とはなしにはじまり、何時とはなく終わるものである。

決めることができないしその必要もないものである。

なぜこんなことを公共機関が決めて宣言しなければならないのか。

不思議である。聞くところによると業績が天候に支配される一部の

事業者が、公のお墨付きが欲しいらしいとのこと。そんなもの自分

の頭で考えて判断しろといいたい。

これに関連して思いつくのは”もったいない”という言葉の流行である。

この美しい日本語は、”物を大切にし、同じことをならなるべく少ない資源

とエネルギーでせよ”と言っているので、ノーベル章受賞者のマータイさん

の取り上げに関係なく永遠の真理である。ところが偉い人のお墨付き

を貰うと一斉に騒ぎ出す。なぜ自分の頭で判断してこの真理を実行に移そうと

しないのか。まあ自主的ではないけれど、おそまきながら正しい判断にたどり着いた

ことで善しとするか。


口癖

2005-07-08 17:49:16 | 言葉
ここで口癖というのはいわない方がいい、無意味な音声や意味のある短い

文言をいう。”えーと”や”あのー”がもっともありふれた例である。

故美濃部東京都知事は知識人にしては珍しく”あのー”を連発した。

故大平首相は”うー”というので有名だった。故福田首相は”そのそのー”

というのが可笑しかった。将棋の羽生さんは何か質問されると必ず”そうですね”

と一旦答えてからやおら質問の答えを話し出す。外の点では文句の付けようが

ない彼にとってこれだけは頂けない。まあご愛敬として勘弁するか?

アナウンサーやリポータの中には、”マア”とか”マッ”とかいう

雑音を乱発するものが少なからずいる。これはどういう心理なのだろう。

自分の発言しようとする言葉に自信がないので断言を避けて曖昧化しよう

というのだろうか。これでは折角の報道もその価値が半減する。

要するに、発言しようとする内容が、頭脳の中で十分編集されないままの

状態で見切り発車してしまうからである。発言が文章として纏まらない

中は決して発言すまいというぐらいの覚悟を固めるべきである。

外の項でも書いた”話し方”の訓練の一つとして取り上げたい。

10年ほど昔、故黛敏郎氏は日曜日の朝のテレビの人気番組”題名のない音楽会”

を司会して名声を挙げていた。”独断と偏見”という名言をふりかざした

人を食った論説が売り物だった。若者向けの音楽がリズムだけが突出して

いてメロディとハーモニに乏しく、歌は無教養丸出し、国籍不明の英語

混じりの歌詞で聞くに堪えないと罵倒するのが痛快だった。しかし筆者が

本当に感心したのは、その言葉使いの美しさである。本項で挙げた

無意味な音声は全くなく、その発言はそのまま印刷にすれば立派な文章

になった。これほどの言葉使いの名人にはその後お目に掛からない。


ノートパソコンで初講演

2005-07-04 21:29:34 | 日記
平成17年6月28日浜名湖カリアックにて開催された第34回

数値解析シンポジュームに出席した。初日の夕食後の

夜のセッションの最初に”漸近展開域における諸関数の

計算”のタイトルで初めてパソコンを使って講演をした。

去年の第33回箱根シンポジュームで言明した、”来年は

大方の講演者と同じくパソコンを使って講演をする”という

予告を実行に移したのである。予行練習もなしでぶっつけ

本番だったので、講演の前に余裕をもって準備できるよう

にと思い20分前に会場に出た。ところがパソコンのことばかり

が念頭にあったために肝心の補聴器を耳に入れていなかった。

夕食後シャワーを浴びた時に取り外したのをすっかり忘れていた

のである。会場掛かりの人がパソコンと映写機の結線を間違えた

ために調整に手間取り、ようやくスクリーンに資料が映し出された

とき、やっとエラーに気がついた。少し時間をもらって補聴器を

入れるために部屋へ帰ればよかったのだが、時間が切迫していたし

補聴器なしでもなんとかなるだろうと腹を括って見切り発車した。

開口一番”エラーをしました。耳が聞こえないのに補聴器をつけ

忘れました。質問はしないで下さい。後でゆっくりお願いします”

こんなことを初めていった。聞く方も初めてだろう。爆笑が湧いた。

いつものように、大きな講堂の端まで徹底するように、腹から

大きな声で、ゆっくり発言するという持論を実行した。ところが

自分の声がほとんど聞こえない。こういう手応えのない状態で

しゃべるのはなんともつらい。何度も喉がからからになって咳

こんだ。展示資料の操作はOHPフィルムを一々入れ替える代わりに

パソコンのキーを押すだけで大いに助かった。しかしマイクと

フォトポインタの操作は苦手で全然役に立たなかった。悪戦苦闘

の20分をなんとか凌いだが、とうとう最後にいいたいことを

残して時間が尽きた。穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。


報告されます。 えっ!?

2005-06-24 12:31:38 | 言葉
パソコンを立ち上げると、OSの自動更新の準備ができているという。

指定どおりのアイコンをクリックすると、なにやら動きがあってから

メッセージボックスが現れて”処理が終了した後、報告されます”という。

えっ! なんだって?

しばらく考えた後、ははーんと分かった。これは行為の主体を

明らかにしない無人称的な英語の受身文を直訳したのだ。

しかし現在の場合にはおかしい。パソコンが話しかけている、といって

悪ければパソコンの中のプログラムが、といっても悪ければ、その

プログラムを書いた人間がパソコンにいわせているのだから

”処理が終わりましたら、お知らせします”と能動的にいうべきである。

英語を読んで意味が分かったらそれをわかりやすい日本語に直して

初めて翻訳といえるのだ。こういう調子だから、計算機のマニュアルが

読みにくいのは当たり前である。

Hはアルファベットの風来坊

2005-06-15 12:47:01 | 外国語
アルファベットの中でH(h)字は元来気音(ハ行音)を表す機能を

持っていたが、現在でもその機能を維持しているのは、英語

ドイツ語などのゲルマン語とラテン語ぐらいで、ラテン語の

子孫のフランス語、イタリア語、ポルトガル語などではすっかり

廃絶して無音の記号となってしまった。日本語の助詞

”へ”が単に”エ”と発音され,助詞を表す記号の役目だけを

果たしているのと似ていて興味深い.折角の文字が

遊休しているのはもったいないというわけで、この字には色々な

新しい役目が割り当てられた。

フランス語:chでシャ行音を表す。

      例;chic シック、chez moi シェモア、chanson シャンソン

イタリア語:ch,ghの次にi,eが来たとき、それぞれカ行音、ガ行音を表す。

      例;Pinocchio ピノッキオ、spaghetti スパゲッティ

スペイン語;chでチャ行音を表す。

      例;muchacho ムチャーチョ、chica チーカ、churro チュロ

一方j,g(次にe,iが来たとき)が喉音を表すようになった。

      例;hija イーハ、virgen ビルヘン,joven ホーベン


ポルトガル語:chでシャ行音,lhでリャ行音,nhでニャ行音を表す.

      例;chavi シャーヴィ,filha フィーリャ,sonho ソーニョ

ギリシャ語:古典ギリシャ語では気音は語頭でだけに存在し、それを表すのは

      気音アクセント記号であったので,h字は母音字H,ηとなった.

      現代ギリシャ語では気音はそのアクセント記号とともに全く消滅した。
   
      例;定冠詞 ̒ο,̒η,το ホ,ヘ,ト→ο, η, το オ,イ,ト

ロシア語:H字はナ行音を表す.

     例;нет ニェート,ничего ニチェヴォ,до свидания ダスヴィダーニャ

日本語ローマ字:母音字の次来ると母音の長音化を表す.ドイツ語を真似たものか.

     例;OH 王,GOTOH 後藤

それから”H”はエッチと読むと色情あるいはさらに性行為も表す。昔「助平」

といっていたのが英語のHELPから、簡略されてHとなったと理解している。

アラビヤ語は母音がア,イ,ウしかなく,子音もp音,g音,v音が欠落しているが

気音(喉音)が多い.サンスクリットやヘブライ語は筆者の射程を越える.





後藤英一氏逝去す

2005-06-14 11:22:31 | 日記
朝刊の死亡欄で後藤英一氏の逝去を知った。享年74歳だという。

犬山市の出身とのことで同じ愛知県人として親しみが増した。

同氏が設計されたパラメトロン計算機PC-1を使って、1959年8月に

東大で行われた電子計算機講習会の最終日のプログラム実習で

アセンブラプログラムが三問共一発で成功し、タイプライタが

パタパタと結果を打ち出した時の感激が、今日までのプログラミング

生活の幸先よい出発点となったことを昨日のように思い出す。

平成元年同氏が東大大型計算機センタ長であられたとき、八大学

大型計算機運営委員会20周年記念行事としてプログラム創造賞を

発案され、筆者の名古屋大学計算機センタでの労作NUMPACがその

対象となったことを厚く感謝する。

 日本における計算機活動の先駆者としての同氏の輝く業績を

称え、ここに冥福を祈る。



発音が悪い!

2005-06-08 11:59:16 | 言葉
”発音が悪い”といっても英語のことではない。日本語の発音だ。

少々発音が悪くても聞いて分かればいいという人は

先を読まなくてもいい。

 デパートの女子店員の言葉は悪文の標本だ。”一万円からお預かりします”。

なぜ余計な”から”を入れるのだ。”以上でよろしかったですか?”。

”外にご用はございませんか?”といえ。これらは店員よりも彼らを

束縛しているマニュアルが悪い。しかし発音も悪いのだ。

”*リトー****ス。”何故はっきり”ありがとうございます。”

といわない。

釣り銭が多すぎたので、ご親切に注意してやると。”すみません”

という。こういうときは”ありがとうございます”というものだ。

 このごろ感ずるのはもっと微妙な問題だ。これも女性に多い。

”オ”の発音が中途半端で”ア”に聞こえる。”今週、今度”が

”観衆、感度”に聞こえるのだ。これは母音”オ”を発音するとき

に口の奥にグット力を入れなければならないのに、それを怠っている

からだ。この”オ”と”ア”の中間の音は英語にある。LARK という

煙草があって、一時テレビのコマーシャルにジェームス・コバーン

が出ていて ”ラォーク”と発音していた。日本語ではこの

”オ”と”ア”の中間の発音はぶりっこが気取っているように聞こえる。

女性諸君。もって如何となす?

横文字遍歴(ギリシャ語)

2005-05-30 13:24:44 | 外国語
人生のロスタイムの時期に入った。しかし気を付けないと日本チームの

悪癖のさよなら負けの憂き目に逢う。ロスタイムといえども何かに挑戦

していないと認知症になってしまう。という訳でギリシャ語を本腰を

入れて始めることにした。昔から古典ギリシャ語を少し生かじりしていたので

今まで翻訳で読んだプラトンやプルタルコスを原文で読み直してみたいのだが、

まず現代ギリシャ語を見てみることにした。白水社のエクスプレスシーリーズ

現代ギリシャ語を読む。アルファベットは数学記号でおなじみのものが多くて

ほとんど違和感がないが、発音が古典語からひどく変わってしまっているのに

驚いた。β,γ,δの三つの有声子音字の発音の位置が全部前方に移動している。

βはb音からv音へ、γは次にi母音が来るとg音からy音へ、δはd音からth音に

変わってしまい、元々の機能を全く忘れてしまった。古来の言葉は発音が変わる

だけで済むが、外来語などで本来の発音を表すためには、b音はμπで、g音はνκで

d音はντで表さなければならない。母音や二重母音η,ι,ει,οι,υが全部i音を表す

ようになって発音からは区別が付かない。あのうるさい強声、弱声、昇降声

アクセントが強声アクセントだけになり、h音と共に有気、無気の記号

も消滅した。こういう、進化というより退化といいたい、英語的な簡略化の傾向

は不可避であろうか。

今までの西欧語遍歴から多くのギリシャ語源の言葉を知っているので

現代ギリシャ語で原語に出会うと旧知の友のごとく懐かしい。

教科や授業をμάθημαという.数学の数とは関係がない.中世の頃、教科の中で

数学がもっとも教科らしかったので数学をμαθηματικάというようになった.

数のことはαριθμόςといい,算術または数論のことをαριθμητικήという.

大学はπανεπιστήμιο パネスティミオという.直訳すると万学の府

とでもなるか.全学の方が当たっているかもしれないがどうも全学連の方へ

連想がいってしまう.universitas ウニウエルシタスが大学の職員組合の

名前であったのに比べ,大学そのものの名前としてふさわしい.

郵便局はταχυδρομείο タヒズロミオという.速い,走る,場所だから

直訳すると飛脚所となるか.スペイン語のcorreosの中にも走るが入っていて

面白い.

バスのことをλεωφορείοレオフォリオという.どうしてこんなところに

λέων獅子が出てくるのだと思ったらλεωはλαός住民のこと.

busがラテン語の形容詞の複数与格(奪格)omnibusから来ているのは常識.

酒といっても当然葡萄酒のことだが、κράσιという.vinumに通ずるοίνος

はどうなったのだ.新しく買った希和辞典を引くとκράσιはκράσις οίνου

酒の混合から来ているという.さしずめ日本なら酒のことを混合酒の省略

で”混合”というようなものかな?

水はνερόという.hydrodynamicsのύδωρはどこへ行ったのだ.辞典をひくと

νερόはνεαρόν ύδωρ 生水の略.”なま”ということかな?

家はeconomy を生んだοίκοςと思いきや,σπιτίだという.これはなんだか

分からない.hospitiumと同根だという.










愛・地球博ギリシャデー

2005-05-21 12:15:15 | 日記
知人からギリシャデーへの招待券を頂いたので妻と一緒に初めて

愛・地球博の長久手会場へ行った。テレヴィで何回ともなく見て

いたので、途中まごつくことなく、目的のグローバルコモン3の

ギリシャ館に着いたのは12時だった。行列がないのでやれうれしや

と入り口に急ぐと、4時まで臨時閉館とのこと。仕方がないので

近くのスペイン館をのぞいた。しばらく行列に並んだ後入場した。

宇宙や地球の成り立ちなどの展示があったが、スペイン語に興味が

あるので説明文句を一々読んだ。毎日朝の目覚まし代わりに、

8時からのラジオ講座を聞き続けているお陰でほとんど

全部読解できた。スペイン料理店でもあるのかと期待したが、

小さいbarがあって満員だったのでパスした。リビヤ館をのぞき

軽食を食べ、ビールを飲んで2時まで過ごした。2時からギリシャ館

の正面にあるイヴェントプレースの小さなオープンステイジの前に

座り込んで、ギリシャの伝統音楽と舞踊の実演を見学した。

ΚΡΟΤΑΛΑ バンドの三人の奏者による打楽器の演奏は見事だった。

肩紐で吊した筒太鼓,平太鼓、コンガ、拍子木、カスタネットなどなど

様々な打楽器を三人三様にとりかえひっかえ、色々なリズムとテンポで、

ピタリと息をあわせて、打ちまくった。一番左の奏者が、太鼓の面を

親指でこすってブーという音を出すと、真ん中の奏者がずっこけて

みせたりして喝采を浴びていた。

次にヴァイオリン、クラリネット、ギター、太鼓、そして

伝統の弦楽器(メトロノームのような形の、味のあるくすんだ低音が出る),

女性歌手からなるΚΕΡΟΣ バンドが登場した。マスターとおぼしき

クラリネット奏者がマイクのテストをした。なんというかと聞き耳を

立てていると、”本日は晴天なり”などという長い文句ではなく一言

”ネッ”といった。これはギリシャ語のναι(yes)に相違ない。

小型弦楽器の奏者が弾き語りで歌った。コーランの詠唱に似たいい声。

つぎに女性歌手(ほとんど普段着のまま。なぜきらびやかな民俗衣装

を着ないのか)が楽団の伴奏で歌った。西欧的な音楽とは一味

違った東洋的な哀愁の響きを持っていた。歌詞はまるで分からないが

”シカノ”という文句を繰り返していた。

次に男女三人ずつのダンサーが現れて素朴なフォークダンスを

踊った。赤、黒、青の鮮やかな色彩の民俗衣装に身を固め、

赤い花とスカーフで髪を飾った若い女性の美しさが目を引いた。

もう一つの六人のグループは地味ながらしっとりとした優雅な

衣装で踊った。舞台を間近に見上げていたので演者の表情までが

はっきりと分かって印象深かかった。そのかわりに腰が痛くなった。

5時からギリシャ館に入場した。どこのパヴィリオンでも同じだが

作り物の写真や映像の展示にはあまり関心が湧かない。原語の説明文句を

読んだ。Εν αρχή ην το χάος (初めに混沌ありき)。新約聖書

の冒頭の文句 Εν αρχή ην ο λόγος (初めに言葉ありき)とそっくり。

 ギリシャ館を出てグローバルループを反時計回りに歩き、途中の

ビヤホールで夕食を済ませた後、北門からリニモ、地下鉄経由で帰宅した。






慣性能率を小さくせよ!

2005-05-09 17:08:18 | スポーツ
力学の理論によると剛体(形を変えない物体)の運動は重心の並進運動

とその周りの回転運動に分解される。重心の運動はニュートンの方程式 

f = ma に支配される。fは力、mは質量(重さ)aは加速度(速度の変化

する割合、一秒間に変化する速度).f=0ならa=0、すなわち力が働かな

ければ速度は変化しない。

これが慣性の法則。質量と速度を掛け合わせて運動量というから、慣性

の法則は運動量不変の法則でもある。(実はここまでは省いてもよかった。

本番はこれから。)

重心の周りの回転運動を支配する方程式は、M = I α .Mは物体を回転

させようとする偶力(トルクともいう)を表す。互いに1m 離れた

反対方向の1kgの力が偶力の単位1kgm。Iは慣性能率で、回転軸の周りに

物体がどのように分布しているかを表す。同じ重量の物体では、軸の

近くに物が集中していると慣性能率は小さくなり、軸から離れた所に

物があると慣性能率は大きくなる。αは角加速度といい、回転の速さ

(角速度ともいう)の変化する割合を表す。速度の変化に抵抗するの

が質量であるのに対して、角速度の変化に抵抗するのが慣性能率である。

M = 0 なら α = 0.慣性能率と角速度の積を角運動量といい、上の結果

は偶力が働かないとき角運動量が変わらないことを示しているので

角運動量不変の法則ともいう。

(ご苦労様でした。いままでの話の細かいところは忘れてもよろしい。

これからが本当の本番です。)

スポーツには体の回転を利用するものが非常に多い。一寸数え上げても

野球,ゴルフ、テニス、ボクシング、相撲、投擲競技、体操、フィギュア

(英語figureの発音はフィガーなので気が引けるが、慣例に従う)

スケート等々。体の回転を能率よく行う(回転を加速して早く大きな回転

速度に達するために要する偶力を小さくする)には、慣性能率を小さく

することが絶対である。幸いにも人体は剛体ではなくて変形可能である。

中心軸から遠い可動部分である、手、腕、肩を胸の前に集めて、いわゆる

肩をすぼめて、脇を固めるというのはこういうことなのである。あの

フィギュアスケータのスピンはこの理屈を如実に実証している。

腕や肩を横に張り出した状態から回り始め、回転が始まると可動部分を

体の中心部に集中する。実際には靴と氷の間の摩擦があって、回転を

止めようとするマイナスの偶力が働くが、靴の刃先の品質と滑りの

技術によって摩擦は最小限に抑えられ、あたかも角運動量不変の法則が

成り立つ状態が形成される。慣性能率が小さくなるにの反比例して、

(レトリックとして使われるいい加減な反比例ではなく,数学的

厳密性を持った正真正銘の反比例)回転速度が増しスケーターの

輪郭がぼやけて来るのは見事という外はない。

もう一つ剛体力学の方程式には表されないことがある。体の回転を

能率よく速くするには、中心に近い部分から起動し、それに

よって加速された部分が発動してその直ぐ外側の部分を加速し、。。

という風に中心部に巻きつれられた鎖が次第に巻き戻されて最後に

最先端が速く回転する。この運動を滑らかに、迅速に鋭く行わ

なければならない。それには腰の切れが、そして腰を安定させる

両脚のがんばりが必要である。しかしそれだけでは不十分で、最先端

の速度を最終的に速める、衝撃的な仕上げが要る。これが野球の投手

なら、手首からはじまって指先の弾きに終わるスナップであり、

バッターやゴルファのいうフォロウスルーであり、水泳のバタ足や蛙足

の足首のスナップである。

理屈はこれだけである。各スポーツの名選手はその内容を少なくとも体

で覚えているはずである。それなのに何故好不調の波があり、しばしば

スランプに陥るのだろうか。小文の理論が少しでも役に立たないだろうか。

筆者は選手でもスポーツの専門の評論家でもないが、硬式野球、テニス、

水泳を実践し、以上の理論を身をもって体験した者として一応の自信を

持っている。スポーツのこの種の議論はいろいろあるが、力学の理論

に基づく首尾一貫したものはあまり見あたらないので不遜を顧みず

敢えて発言した次第である。


名古屋弁

2005-05-09 13:10:34 | 言葉
万博に、中部国際空港に今や日本で一番元気のよい名古屋が注目されている。

名古屋の食い物の”ひつまぶし”(これを”ひまつぶし”と読み間違えない方が

おかしい)、味噌煮込み、味噌カツ、きしめんなどが喧伝されている。名古屋弁

も少しは注目されるようになったが、どうもその本当の姿が伝えられていないように思う。

名古屋弁を愛する名古屋人として発言したい。

 名古屋弁には「やっとかめだなも」(久しぶりですね)で代表される”なもなも”言葉

----料亭の女将などの階層に残っている、昔ながらの上品な城下町言葉の名残---と

タモリのからかいの対象となった「やろまえあか」(やりましょうか)で代表される

方言の集まりがある。その特徴は「アイ」「オイ」「ウイ」などの重母音と軽母音

の組み合わせの二重母音を、二つの母音の中間の曖昧単母音に転化する現象に

ある。「やろまえあか」は「やろまいか」の転化で、無理に「えあ」と書いた

のは正しくはアメリカ英語のhand のaの発音で,発音記号でǽと書くべきものである.

----東急ハンズは正しくはトウキュウハエンズ----------

タモリのいう「やろみやーか」では絶対にない.

「とろえーこといってれえあーすな」(馬鹿なことをいわないでください)の

「とろえー」は「とろい」の転化である。ドイツ語のオーウムラウトőと思えばよい.

「あーす」は丁寧語「遊ばす」の簡略形。これには絶対の自信がある。少年時代、

お菓子やさんなどへ入る場合、「ごめやーす」といって入った。ところがおばさんや

おばあさん達は「ごめやーす」といった後にしばらくたってから「ばせ」

と付け加えるのだ。「ばせ」ってなんだろう。不思議に思ったがすぐには分から

なかった。どのくらいたってからかよく覚えていないが、これが天啓のように

「ごめやーすばせ」「ごめん遊ばせ」に違いないと分かったとき、子供心にも

大発見をしたと思い、うれしかった。

「どえらえあーうまえあーでかんわ」「どえらいうまいでいかんわ」

「どえらくうまいのでかなわない」は「でら----」とよく書かれるが

「で」と書いてしまっては駄目だ。非名古屋人に誤解を招く。

「ふーりゅーがや」「ふるいよ」の中間母音はドイツ語のü,フランス語のu,

中国語のyuに近い発音.

このように名古屋弁には標準の日本語には無い多くの中間的な母音がある.だから

名古屋人にとっては,英語,フランス語,ドイツ語,中国語の母音の発音は

何でもない筈だが,どうも簡単にそうは行かぬものらしい.

 名古屋弁のもうひとつの特徴は,上の例からも分かるように,庶民的で,自然な、

謙遜(へりくだり)と諧謔(ユーモア)で,東京弁の流暢と気取りとは反対に,

大阪弁と通底するものがある.

 八波むとし、由利徹と脱線トリオを形成した南利明は芸能人でただ一人

名古屋弁を誇らしげにまくし立てて名古屋人の心を引き立ててくれた.もう

二十年も前になろうか,テニスの仲間と伏見の御園座の近くの寿司屋で歓談

していた.ふと見ると南利明がカウンターで一人寂しそうに飲んでいた.こちらも

大分酔っていて,つい声を掛けたくなった.「南さんですね.いつも

名古屋弁を宣伝して頂いて心強く思っています.これからもがんばって下さい」

というようなことを二言三言いってすぐ別れた.迷惑だったろうがとにかく

聞いてくれた.

 これもちょっと古い話.松坂屋本店のま向かいに朝日堂という小さいカメラ店

があって(現在も健在)安売りを宣伝し、テレビでひっきりなしにコマーシャルを

流していた.一時,今ではおばさんお笑いタレントの双璧の

柴田理恵と久本雅美のご両人が出演していて,名古屋弁でやりとりした後で,

「カメラもあるでよー」とポーズを作った.今ほど売れていない時に違いないが,

その生々しいど迫力に圧倒された.コマーシャルはあれでなくては駄目だ.

(某生命保険の何の魅力もない執拗さには飽き飽きする).

 中丸明著「絵画で読む聖書」(新潮社)という面白い本がある.旧約と新約

の聖書の中で神様や預言者やキリスト---民衆に対する説教には,俗語の

アラム語を使ったという----が、なんと名古屋弁で仰せられるのである.

例えば,新約聖書「ルカ伝」第7章36節ー49節でイエスがマグダラのマリアに

「おまえあはいっぺえあ男を愛したったで,背負っとる罪はもうへあえ

(もはや)許されとるだがね.ちょこっとしか許されんもんは,ちょこっとしか

愛さなんだでなも.さあおまえあはもうへあえ許されとるで心配しなえーで

ゆくがえー」とおっしゃる.(原文一部変更)

同じく「ルカ伝」で「イエスいいけるは、さらばカイザルの物はカイザルに納め、

神の物は神に納めよ」とあるのが中丸さんの手にかかると「そんなら、ケアエーザル

のもんはケアエーザルにけえあーすがえー」となる。

”どえらあえーおもしろえーでかんわ.一ぺん読んだってちょー”.