与助の倅小吉は、五才である。嫁の滋乃は、小吉を産んで所帯窶れするどころか、相変わらず美しかった。
ある日、滋乃は昨年亡くなった父親の一周忌で、小吉を連れて実家に帰って行った。送って行くと言う与吉の言葉を遮って、
「今日、明るいうちに実家に着いて、明日の夕刻までには戻ってきます」
そう言い残し、小吉の手を引いて出ていった。与助が妻滋乃の姿を見たのは、それが最後だった。
翌日、夕刻になっても滋乃と小吉は戻らなかった。日が傾きかかったころ、与助は胸騒ぎを覚えた。
「小吉が怪我をしているのではないか」
それとも
「小吉が熱を出して、難儀をしているかも知れない」
与助の胸に、次々と不吉な思いがよぎる。居ても立っても居られず、与助は提灯を用意すると迎えに行くことにした。
「どうぞ、無事でいてくれ」
祈りながら、足早に滋乃の実家に向かった。途中、陽が暮れ初めた頃に、与助は荒神川に差し掛かった。知らず知らずに大声で二人の名を交互に呼び続けていた。
夜もとっぷり更けた頃、とうとう滋乃の実家に着いてしまった。滋乃たちは、昼過ぎには戻って行ったという。
実家の義母が、村の若い者たちに声をかけて、滋乃たちの辿った道の脇など、手分けして探してくれたが手がかりはなかった。
「もう、家に着いているのではないか」
そう思いながらも、心配のために与助の胸は張り裂けそうであった。
龍神川の川原に差し掛かったとき、
「子供の泣き声が聞こえたようだ」
と言い出した若者がいた。声を殺して聞き耳をたてると、ざわざわと川の流れる音の間に、確かに子供の泣き声が聞こえた。
「小吉、小吉何処にいる」
喜びの声とも、泣き声とも知れぬ与助の掠れた声が、闇に響き渡った。川原に座り込み泣きじゃくっている小吉を見つけたときは、我を忘れて駆け寄り、小吉を抱きしめていた。
「おっかあはどこだ。何処にいる」
小吉は川面を指さした。
「川に流されたのか」
小吉は首を横に振った。
「龍神さまに連れていかれた」
泣きじゃくりながらも、しっかりと答えた。人身御供(ひとみごくう)を求める龍神さまの話は、母親から聞いて小吉は知っていたのだ。
与助はつぶやいた。
「滋乃は神隠しに遭ったのか」
暗闇で、顔色など見えないが、与助の顔は青ざめていたに違いない。
そんなことがあってから、毎年のように氾濫していた龍神川が、全く大人しい川になった。
小吉は八才になっていた。ある朝、母屋の戸を叩く音で目を覚ました与助が戸を開けてみると、小吉よりも二~三才年下の見知らぬ可愛い娘が立っていた。
「どこの娘さんかね」
娘は答えなかった。大きな魚を差し出して
「お母さんが与助さんの家に持っていってあげなさいと…」
娘はよく肥えた鯉を丁重に差し出した。よくこんなに重いものを下げてきたと与助は感心した。
「お兄さんは、お元気ですか?」
「お兄さん?」
与助は訊き返した。
「小吉のことかい?」
「そうです、お兄さんです」
与助は小吉を呼んで合わせてやった。
「お兄さんは私のことは知らないでしょうが、私はお母さんからよく聞かされていましたので知っています」
与助は慌てて娘に尋ねた。
「おっかさんの名前は? 滋乃ではないか?」
「そうです、滋乃といいます」
もっと話を聞かせて欲しいという与助と小吉をしり目に、娘は可愛く頭を「ぺこっ」と下げると、「また時々来ます」と言い残してクルッと踵を返して、さっさと帰っていった。
呆然自失から「はっ」と気付き、与助父子が慌てて娘の後を追った時には、既に娘の姿はなかった。
娘は、時々川魚を持っては与助のところへ訪れるようになった。折りにふれて、与助は娘を足止めして頼み込んだ。
「滋乃に逢いたい、合わせてくれないか」
娘は言った。
「お母さんは、人ではありません。逢えないのです」
与助は幾度も懇願した。
「蛇でも龍でもかまわない、蛙でも例えザリガニになっていても構わない、一目滋乃の元気な姿を見たい」
涙声になりながら頼んだ。娘は笑った。
「旦那様は何を訳のわからないことを仰っているのですか、ザリガニだなんて…」
与吉は気付いた。夢では断じてない。確かに聞いたことのある滋乃の「旦那様」と言う口ぶりだった。
「そうか、滋乃が神隠しに遭ったとき、既に子を孕んでいたに違いない」
与助はそう思った。
ある夜、与助は小吉と夕餉をとりながら、しんみりと言った。
「お前が大人になって嫁をとったら、父さんは龍神川に身を投げようと思う」
小吉は驚いたが、父親の決意を感じ取り、黙って聞くことにした。
「龍神川には、確かに滋乃が生きている」
与吉の眼は、宙を見つめていた。
「死ぬ前に滋乃がどのような暮らしをしているのか一目見たら、龍神様に殺されても本望だ」
その後、小吉は父を死なせないために、決して嫁を娶ろうとはしなかった。やがて、与助は望みを果たせず病に倒れた。野辺の送りを済ませたその何年か後に、小吉は嫁を貰った。小吉はとうに二十才を過ぎていた。嫁に来たのは、あの妹かも知れない娘だった。
(改稿) (原稿用紙7枚)
ある日、滋乃は昨年亡くなった父親の一周忌で、小吉を連れて実家に帰って行った。送って行くと言う与吉の言葉を遮って、
「今日、明るいうちに実家に着いて、明日の夕刻までには戻ってきます」
そう言い残し、小吉の手を引いて出ていった。与助が妻滋乃の姿を見たのは、それが最後だった。
翌日、夕刻になっても滋乃と小吉は戻らなかった。日が傾きかかったころ、与助は胸騒ぎを覚えた。
「小吉が怪我をしているのではないか」
それとも
「小吉が熱を出して、難儀をしているかも知れない」
与助の胸に、次々と不吉な思いがよぎる。居ても立っても居られず、与助は提灯を用意すると迎えに行くことにした。
「どうぞ、無事でいてくれ」
祈りながら、足早に滋乃の実家に向かった。途中、陽が暮れ初めた頃に、与助は荒神川に差し掛かった。知らず知らずに大声で二人の名を交互に呼び続けていた。
夜もとっぷり更けた頃、とうとう滋乃の実家に着いてしまった。滋乃たちは、昼過ぎには戻って行ったという。
実家の義母が、村の若い者たちに声をかけて、滋乃たちの辿った道の脇など、手分けして探してくれたが手がかりはなかった。
「もう、家に着いているのではないか」
そう思いながらも、心配のために与助の胸は張り裂けそうであった。
龍神川の川原に差し掛かったとき、
「子供の泣き声が聞こえたようだ」
と言い出した若者がいた。声を殺して聞き耳をたてると、ざわざわと川の流れる音の間に、確かに子供の泣き声が聞こえた。
「小吉、小吉何処にいる」
喜びの声とも、泣き声とも知れぬ与助の掠れた声が、闇に響き渡った。川原に座り込み泣きじゃくっている小吉を見つけたときは、我を忘れて駆け寄り、小吉を抱きしめていた。
「おっかあはどこだ。何処にいる」
小吉は川面を指さした。
「川に流されたのか」
小吉は首を横に振った。
「龍神さまに連れていかれた」
泣きじゃくりながらも、しっかりと答えた。人身御供(ひとみごくう)を求める龍神さまの話は、母親から聞いて小吉は知っていたのだ。
与助はつぶやいた。
「滋乃は神隠しに遭ったのか」
暗闇で、顔色など見えないが、与助の顔は青ざめていたに違いない。
そんなことがあってから、毎年のように氾濫していた龍神川が、全く大人しい川になった。
小吉は八才になっていた。ある朝、母屋の戸を叩く音で目を覚ました与助が戸を開けてみると、小吉よりも二~三才年下の見知らぬ可愛い娘が立っていた。
「どこの娘さんかね」
娘は答えなかった。大きな魚を差し出して
「お母さんが与助さんの家に持っていってあげなさいと…」
娘はよく肥えた鯉を丁重に差し出した。よくこんなに重いものを下げてきたと与助は感心した。
「お兄さんは、お元気ですか?」
「お兄さん?」
与助は訊き返した。
「小吉のことかい?」
「そうです、お兄さんです」
与助は小吉を呼んで合わせてやった。
「お兄さんは私のことは知らないでしょうが、私はお母さんからよく聞かされていましたので知っています」
与助は慌てて娘に尋ねた。
「おっかさんの名前は? 滋乃ではないか?」
「そうです、滋乃といいます」
もっと話を聞かせて欲しいという与助と小吉をしり目に、娘は可愛く頭を「ぺこっ」と下げると、「また時々来ます」と言い残してクルッと踵を返して、さっさと帰っていった。
呆然自失から「はっ」と気付き、与助父子が慌てて娘の後を追った時には、既に娘の姿はなかった。
娘は、時々川魚を持っては与助のところへ訪れるようになった。折りにふれて、与助は娘を足止めして頼み込んだ。
「滋乃に逢いたい、合わせてくれないか」
娘は言った。
「お母さんは、人ではありません。逢えないのです」
与助は幾度も懇願した。
「蛇でも龍でもかまわない、蛙でも例えザリガニになっていても構わない、一目滋乃の元気な姿を見たい」
涙声になりながら頼んだ。娘は笑った。
「旦那様は何を訳のわからないことを仰っているのですか、ザリガニだなんて…」
与吉は気付いた。夢では断じてない。確かに聞いたことのある滋乃の「旦那様」と言う口ぶりだった。
「そうか、滋乃が神隠しに遭ったとき、既に子を孕んでいたに違いない」
与助はそう思った。
ある夜、与助は小吉と夕餉をとりながら、しんみりと言った。
「お前が大人になって嫁をとったら、父さんは龍神川に身を投げようと思う」
小吉は驚いたが、父親の決意を感じ取り、黙って聞くことにした。
「龍神川には、確かに滋乃が生きている」
与吉の眼は、宙を見つめていた。
「死ぬ前に滋乃がどのような暮らしをしているのか一目見たら、龍神様に殺されても本望だ」
その後、小吉は父を死なせないために、決して嫁を娶ろうとはしなかった。やがて、与助は望みを果たせず病に倒れた。野辺の送りを済ませたその何年か後に、小吉は嫁を貰った。小吉はとうに二十才を過ぎていた。嫁に来たのは、あの妹かも知れない娘だった。
(改稿) (原稿用紙7枚)