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精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

アートマン・プロジェクト(ケン・ウィルバー)

2010-07-31 12:53:18 | K.ウィルバーとトランスパーソナル心理学
◆『アートマンプロジェクト―精神発達のトランスパーソナル理論

本書は、発達心理学的な見地から意識のスペクトル理論(ウィルバーによる、人間の心の成長、意識の進化を段階的に表したモデル図)を捉えなおしている。発達心理学的な段階を追って「意識の初歩的根源」、「テュポーン的自己」、「メンバーシップの自己」、「心的―自我的領域」、ケンタウロスの領域」‥‥と記述を進めていく。

本書のタイトル「アートマン・プロジェクト」の意味は次のようなものである。私たちは、は、自分の本来の性質が無限かつ永遠の全者および全体であることを多かれ少なかれ直感的に知っている。私たちの存在の基底はスピリットに他ならない。万物は、そして人間もこの認識を顕現させる方向に突き動かされる。

人間は何よりもまず真の超越を欲するが しかし同時に超越を恐れる。なぜなら、超越はみずからの孤立し、分離した自己感覚の「死」を伴うからだ。分離した自己は、その死を受け入れることを恐れるがゆえ、実際には超越を妨げ、象徴的な代用を強要する方法をとおして超越を捜し求めるのである。

私たちは、スピリットを、その発見を妨げるような仕方で仕方なく探し求める。何か、かわりに満足させてくれるようなものに落ち着こうとする。その代用とは、セックス、食物、お金、名声、知識、権力などさまざまであるが、すべては結局、〈全体性〉への真の解放の代用にすぎない。そして代替物は、私たちをこの呪われた時間と恐怖、空間と死、罪と疎外、孤独とかすかな慰安の世界に閉じ込めてしまう。

すなわち私たちは、スピリットを時間の世界に求める。神性の自己認識に至る前には、まさにその覚醒・認識をわざわざ妨害するような方法でスピリットを求める。しかし、スピリットはタイム-レスである。従って時間の世界に見つけることはできない。スピリットは、対象ではないがゆえ、それを怒りと輪廻の世界に見つけることはできない。

アートマン・プロジェクトとは、スピリットをその発見を妨げるような仕方で、代替物に満足に落ち着かせようとするプロジェクトである。この顕現された世界の全構造は、アートマン・プロジェクトで動かされている。これが本書のタイトルの意味であり、主題のひとつである。

ところでウィルバーの方法は、様々な思想流派が語るところを部分真理とみなして、それらを総合し、全体的な見取り図を描くということである。その統合的な方法は、ここでも見事に生かされており、とくに超個や超意識の領域でのその成果は、瞑想や精神世界に関心を持つものが、かならず参照しておく必要があるものと感じた。

たとえば、著者は次のようにいう、「‥‥超個や超意識の領域は、実際に、いくつかの異なったレベルに別れている(下位微細と上位微細、下位元因と上位元因など)。これらの区別をすべて自覚している宗教はほとんどなく、だいたいは一つか二つのレベルを「専門」とする。」209頁

もし、上に述べられたことが事実で、個々の瞑想の流派が、ある特定のレベルに対応するのだとすれば、ウィルバーの見取り図を文字通り受け止めるのではないにせよ、それを参考にすることは計り知れない意味をもつ。いままでは全体の「見取り図」すらなかったのだから、そこに説得力のある「見取り図」が導入されたことが、森の中の歩行に迷う私たちにどれほどに大きな援助となることか。

意識のスペクトル (ケン・ウィルバー)

2010-06-29 23:06:23 | K.ウィルバーとトランスパーソナル心理学
◆『意識のスペクトル 』ケン・ウィルバー(春秋社)

ウィルバーの『意識のスペクトル』の第1巻は、意識のスペクトル論の全体像の骨格を論じ、それにまつわる問題点を指摘しているのに対し、第2巻は、影のレベルから「心」のレベルへと向かってアイデンティティーを広げる、「治癒と進化の道を論じた方法論」という形をとるという。

ウィルバーの6段階の意識のスペクトルがどのようなものか、簡単にまとめておく。

①「仮面(影)のレベル」/自分だと信じられた部分〈仮面=ペルソナ〉が本来自分のものである衝動や欲求や思考〈影=シャドー〉を抑圧している。

②「自我のレベル」/影を統合しているが、身体とは分離している。からだは自分の所有物や道具であって、自分自身ではないと感じられ、そのアイデンティティは、身体を統合せず、排除している。

③「生物社会的帯域」/自我のレベルから実存のレベルへと統合が進む途中にあり、社会的なプログラム、つまり言語、習慣、教育、文化の習得などが含まれる帯域。

④「実存のレベル」/アイデンティティが、自我を超えて身体にまで広がっている。統合された心身=有機体が「自己」と感じられている。しかし、この心身一如の有機体は、環境とは分離している。

⑤「超個の帯域」/実存のレベルと、心と呼ばれるまったく対立のない領域との間にあり、トランスパーソナルな帯域、超個の帯域と呼ばれる。そこでは環境との分裂はあってもその境界はあいまいで、実際にはESPや共時性、超常現象さえも起こりかねない帯域。

⑥「心のレベル」/人間は本来、心(Mind)と呼ばれる非常に幅広く、いかなる分離分裂も二元対立もない状態、世界ないし宇宙と一体化している状態を深層にもっている。東西の神秘思想が、たとえばブラフマン、永遠、無限、空、無、宇宙意識など、さまざまな言葉で表現した、人間と全者が一つとなった究極のレベル。  意識のスペクトルは、電磁波のスペクトルと同じように、ある一貫した連続性をもって展開する。
 
第2巻は「治癒と進化の道を論じた方法論」という形をとるせいか、読んでいて今自分自身がどのような状態にいるのかとか、ウィルバーのいうセラピー論にしたがって、自分の問題に対してみたいとか、自分への問いかけをしながら読めるのが面白い。

たとえば第7章「影の統合」では、フロイトからパールズまでの理論を踏まえてわかりやすい事例を引きながら、自我と影の関係を論じ、影を再び自分のものにする実践的方法を探求している。  

「われわれの中の否定的性向(影の一面)は、それらに目をつむろうとしても、しっかりわれわれのものとしてとどまり、恐怖、抑圧、不安といった神経症的な症候となってわれわれを悩ませるのである。意識から切り離された否定的性向は、自然に備わった均衡を失い、脅威的な様相をされけ出す。悪というものは、それと友達になることによってのみおとなしくさせることができるのであって、疎外すると、火に油をそそぐようなものである。統合されると、悪は穏やかなものとなり、投影されると非常に悪意に満ちたものになる。」

これ考え方自体は、目新しい考え方ではないが、否定的な感情を抑圧するのではなく、意識的・自覚的に味わい尽くすというのは、いつでもひとりでも出来ること。ある人物への否定的な感情を、ひとりで徹底的に表現しきって味わってみると、それが自分に統合されていく。 シンプルだが、その通りだと思う。実は、ある人物にこれをやったら、確かにその通りだと実感できた。


ワン・テイスト(ケン・ウィルバー)

2010-04-10 10:57:44 | K.ウィルバーとトランスパーソナル心理学
◆『ワン・テイスト―ケン・ウィルバーの日記』(コスモス・ライブラリー、2002年)(本書は上下本だが、ここでは全体の書評をする)

1997年1月から7月までのウィルバーの日記という形の本だが、ウィルバー自身によるウィルバーの世界への良き入門書になっている。初めて読む人にとっては、彼の基本的な思想が、日常の活動や瞑想実践への言及のなかに散りばめられ、それほどの努力なしに興味をもって読み進むことができる。

また、すでに彼の本を何冊か読んだ人には、それらとは少し違う文脈のなかで、またウィルバー自身の平易な言葉によって、その壮大なヴィ ジョンの要所を復習できる。そして彼が私たちにもたらした成果の意味を「再発見」させてくれる。  

読者は、日記を読み進むうちにウィルバーの統合的アプローチの意味を再確認するだろう。ウィルバーは言う、「私は人間の知性が100%の間違いを犯すことを信じない。だから、どのアプローチが正しく、どれが間違っているかを問う代わりに、すべてのアプローチが部分的には正しいと仮定する。そして、ある一つを選択し、他を排除するのではなく、そうした部分的な真実をどうしたら一つにできるか、どうしたら統合できるかを明らかにしようとするのである」   

ある評者は、ウィルバーのヴィジョンが「歴史上のいかなる他の体系よりも多くの真実をもたらし、それらを統合するもの」と語る。ウィルバー自身は自分の仕事が「純粋に東と西、北と南を包含する最初の信用できる世界的哲学の一つ」たらんことを願うという。少なくとも私たちは、そういう可能性を担う思想家として、彼を真摯に読む必要がある。  

ウィルバーの他書にない、この本の魅力の一つは、彼自身の瞑想体験が、かなり詳細に語られていることだ。瞑想に関心をもつものとして、この部分からもかなり影響を受けた。さらにウィルバーの思想を、彼の瞑想体験と関連付けて再認識することができる。    

さらに興味深い点の一つは、アメリカの精神状況へのラディカルな批判が随所に見られることだろう。「これまでは純粋な霊的(スピリチュアル)研究にとっての 真の脅威は還元主義者たちであったが、より大きな脅威がニューエイジ運動、いわゆる引き上げ主義者たちから表面化した。これらの人々は、善良かつ慎み深い意図をもっているにもかかわらず、幼児的、幼稚的、自己中心的な状態を取り上げ、単にそれらが『非合理的』であるという理由で、『神聖なもの(セイクレッド)』あるいは『霊的なもの(スピリチュアル)』とラベルを張り替えする。これは明らかに問題である。」  

もちろんここではニューエイジ運動における「前/超の虚偽」が指摘されており、これがウィルバーによる批判の基本的な構図である。具体的にはたとえば「ダイヤモンド・アプローチ」がどのように「前/超の虚偽」を犯しているかを論じている。  

ダイヤモンド・アプローチは心理療法のひとつで、「誰もが生まれたときには、そもそも霊的(スピリチュアル)なエッセンスと接触しており、しかし成長する過程において、そのエッセンスが抑圧され、締め出される」と主張するという。ウィ ルバーはこれを、「前―自我的な衝動と超―自我的なエッセンスを混同している」と批判する。たとえば子どもが無邪気に遊んでいるのを霊的な喜びと混同してはならないという。

しかし、そう言い切ってしまってよいのか。次に書評で取り上げる『光を放つ子どもたち―トランスパーソナル発達心理学入門』などを読むと、このあたりがいちばん議論を呼ぶところと感じる。少なくともすべてを「前/超の虚偽」で整理しようとすると「輪廻転生」などは視野に入りにくくなるのではないか。  

ともあれこの本は、ウィルバーを取り巻く交友関係や内面世界に触れつつ、しかも彼の統合的ヴィジョンがコンパクトに語られており、興味尽きない。

グレース&グリット―愛と魂の軌跡

2009-06-27 21:29:17 | K.ウィルバーとトランスパーソナル心理学
◆『グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉』ケン・ウィルバーが出会うべくして出会ったとしか思えない理想の女性トレヤ。ケンをして「二人は、何度も生まれ変わりながらお互いを捜し求めていた」と言わしめた出会い。ケンの記述にも、トレヤの日記にも、互いにとっての出会いの衝撃が、その意味の大きさが、繰り返し語られている。 そして、結婚直前にトレヤの癌の発見。結婚式の10日後には、ステージ2の乳ガンだと診断され、ハネムーンを病院で過ごすことになる。その後のトレヤの闘病、自分の執筆活動を一切投げ打ってのケンの献身的な介護。トレヤの癌の発見は、もちろん二人を打ちのめす。にもかかわらず二人は互いの愛を確認していく。そしていくぶんか希望が見えたかに見える。しかし、それを打ち砕くような転移の事実。そんなことが何度も繰り返されていく。 結婚後、5年の間にトレヤは、二回の局部再発を体験し、正統医学と代替療法のあらゆる治療を試していく。しかし、やがてガンは脳や肺にまで転移していることが知らされる。余命は、2ヶ月から4ヶ月だと宣告されるのである。 その過程で二人は絶望的な危機に陥ったが、やがてそれを克服して成長していく。まるで二人が出会ったのも、トレヤが癌になったのも、二人の魂の成長のために、はじめから計画されていたかのように。しかし、それにしてはあまりに過酷な試練。トレヤにとってもケンにとっても。 第9章(上巻)は、「ナルキッソス、あるいは自己収縮」と題され、ガンに苦しむトレヤとその介護に消耗しきったケンが、破局の寸前にまでいたる様が如実に描かれている。ケン・ウィルバーにもこのような絶望の日々があったのかと、驚き、かつ胸を痛めながら読む。 しかし、やがて二人は苦しみのどん底で互いに学んで、立ち直っていく。ケンは言う、 「‥‥自我が他人を許そうとしないのは、他人を許すことが自我そのものの存在を蝕むことだからだ。‥‥他人からの侮辱を許すということは、自分と他人との境界線を曖昧にし、主体と客体という分離した感覚を溶かしてしまう。そして、許しによって、意識は自我やそれにたいして加えられた侮辱を手放し、そのかわりに主体と客体を平等に眺める〈観照者〉、あるいは〈自己〉すなわち真我に立ち返っていく。‥‥ぼくの自我はかなり打撃を受け、傷ついていた‥‥だから許し以外には、自己収縮からくる苦痛を解きほぐす方法はなかったのだ。」(下巻P284) トレヤは、ガンの転移についての知らせを受ける度に、泣き、怒り、打ちのめされた。しかし、そのつど立ち直り、次のように語るようになる。 「困難に立ち向かい、肉体的な健康を手に入れることや、社会で確固とした成果をあげることを、わたしは成功とみなしてきました。けれども今、わたしは、ものの見方の変化、つまり、より高い基盤からの選択とは、内的変化であり、内的選択であること、すなわちわたしたちの存在における内的な変容なのだと感じています。世間的な行為について語り、それを称讃するのは簡単なことですが、わたしが興味をそそられるのは、日々の霊的な修行によって自分自身が内的に変化し、肉体よりもずっと高いレベルまでますます健康になっていくことなのです。」 この本の最後の部分、トレヤの死の前後についてのケンの描写は、読むものの心を何がしか浄化する。ガンの極限の苦しみと眼前の死をこのように生き、このように死んだ人がいたということが、私たちを勇気付ける。「恩寵(グレース)と勇気(グリット)。「あること」と「すること」。‥‥完全な受容と猛烈な決意。こうした魂の二つの側面、彼女が全人生をかけて闘い取り、そしてついにひとつの調和した全体性に統合することができた、二つの側面――これが、彼女が後に遺そうしたメッセージだった。‥‥彼女の唯一にして第一の、そしてすべてを凌ぐ人生の目的、それを彼女は成就したのだ。その成就は、彼女が達した理解以下ではとても太刀打ちできない苛酷な状況において、冷酷なまでに試された。彼女はそれを成し遂げ、‥‥そして彼女は、今、死を望んでいた。」(下巻P326) そしてケンは、「彼女との最後の半年は、まるで可能なかぎり互いに奉仕し合うことを通じて、スピリチュアルなハイウェイを一緒に高速でドライブしていたかのようだった」という。この彼の生き方にも心打たれる。本当に大切なことが何であるかを教えてくれる。求道の根源がここにある。 「ぼくは最後になってようやく、不平や不満を言わなくなった。ことに、彼女につかえるために五年もの間、自分の仕事を顧みられなかったことに対する不満を(‥‥)。そうした不満をぼくは完全に手放してしまったのだ。全然後悔などしていなかった。ただ、彼女の存在そのものと、彼女につかえることの、途方もない恵みに感謝していた。‥‥ぼくたちはシンプルかつ直接的な方法で互いを助け合い、互いの自己を交換しあった。だからこそ、自分や他者、「わたし」とか「わたしのもの」といった観念を超越した、永遠の〈スピリット〉をかいま見たのだった。」(下巻P342-343) トレヤとケンの生き方を読んでいると、この限りあるいのちを限りあるいのちとして自覚したうえで、それをどう生きるか、がもっとも大切だということ、一瞬一瞬その問いを自覚して生きることが大切だということが、強く心に迫って来る。限りあるいのちと自覚した上で、そこで何を学ぶのか、何が大切なのかを問い、それを生きるということ。この問いの根源性を思い起こすために、私はこの本の最後の部分を何度も読み返していくことになるだろう。