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精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

魔女とカルトのドイツ史(浜本 隆志)

2010-08-30 12:22:10 | 宗教一般
◆『魔女とカルトのドイツ史』(浜本 隆志、講談社現代新書)

■集団妄想としてのカルト
この本は、集団妄想によって引き起こされる異常な宗教的・社会的行動をカルトと呼ぶ。そしてナチスの「ヒットラー・カルト」は突発的に歴史上にあらわれたものではなく、中世の「ハーメルンの笛吹き男」伝説から「子供十字軍」、ペスト時におけるユダヤ人大虐殺、魔女狩り等々の形で連綿と続いていたという。

ヨーロッパ各地でも集団妄想やカルトは生じているが、とくにドイツでは、各国に比べてその規模が大きく、被害は甚大である。本書は、中世から現代に至るドイツで集団妄想がどのように発生したのか、そのメカニズムのドイツ的性格は何かを考察している。その中で、キリスト教と、それ以前の基層文化(ケルトやゲルマン)との関係にも言及されているが、その際ケルト文化への視線は、かならずしも肯定的なものではない。

■宮崎アニメとケルト文化
ところで『宮崎アニメの暗号 (新潮新書)』は、宮崎作品に大きな与えたケルト神話について述べている『風の谷のナウシカ』における科学と自然の対決は、すなわち文明の側と森の側の対決を意味しており、それはそのままローマとケルトの関係と相似形をなしているという。ナウシカは、森を敵視することなく、森に畏れを抱き、それと一体化することで深き叡智を発見することができた。2000年以上前に、ケルトの森でそれを実践していたのがドルイドと呼ばれる宗教者たちだったという。欧州の中世の森には「魔女」がおり、さらにさかのぼれば「森の人ケルト」のドルイドがいた。彼らは、キリスト教やローマ文明というその時代の中心からすれば、辺境の地に生きる反体制者だった。ということで『宮崎アニメの暗号』と『魔女とカルトのドイツ史』とでケルトへの見方がどのように違うかを比較しつつ、この本を論じたい。

■ユダヤ人差別の深層心理
影の現象学 (講談社学術文庫)』において河合隼雄はいう、ナチスドイツは、すべてをユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団のまとまり、統一性を高めた。集団の影の面をすべて、いけにえの羊に押し付け、自分たちはあくまで正しい人間として行動する、と。ユングは、ナチスの動きをキリスト文明においてあまりに抑圧された北欧神話の神オーディンの顕現と見ていた。本能の抑制を徳とするキリスト教への、影の反逆であると理解したのである。

岸田秀は『一神教vs多神教』のなかで次のようにいう。一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする(攻撃者との同一視のメカニズム)。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。 多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。

西欧人がユダヤ人を差別するのは、西欧人がローマ帝国によってキリスト教を押し付けられ、元来の民族宗教を捨てさせられ、元来の神々を悪魔とされたところに起源がある。そこで本来ならローマ帝国とキリスト教に向くはずの恨みが、転移のメカニズムによって、強者とつながりのある弱者に向かう。強者に攻撃を向けることは危険だからである。ローマ帝国や、自分たちがどっぷりつかっているキリスト教を攻撃できず、キリスト教の母胎となってユダヤ教を攻撃するのである。つまり反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義であるという。

■ナチスとゲルマン・ケルト文化
ルイス・スナイダーの『アドルフ・ヒトラー (角川文庫 白)』(角川文庫)では、ヒトラーの反キリスト教的な考え方について述べている。「彼はキリスト教を、ドイツ人の純粋な民族文化とは無縁な異質の思想として排斥した。『キリスト教と梅毒を知らなかった古代の方が、現代よりもよき時代だった』とヒトラーは述べている。」 一部のナチ党指導者たちは、キリスト教を完全に否認した。そのかわり、彼らは「血と民族と土地」を崇拝する異教的宗派の樹立を望んだ。新しい異教徒たちは、オーディン、トールをはじめとするキリスト以前の古代チュートン人の神々を復活させた。旧約聖書のかわりに北欧神話やおとぎ話を採用した。そして新しい三位一体――勇気、忠誠、体力を作り出した。

岸田は、「反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義である」と述べたが、ヒトラーおよびナチにおいては、深層においてどころか声高に反キリスト主義が叫ばれていたのである。西欧の反ユダヤ主義の深層には、確かに自らの文化の中核をなすに到ったキリスト教への反感があり、それが、ナチズムのような「退行」的な現象においては、はっきりと表面に出てくると言えるのかもしれない。

『魔女のカルトのドイツ史』では、キリスト教以前のゲルマン、ケルト文化とドイツの集団妄想やナチスの思想との関係をやや別の角度から指摘している。著者によればヒトラーは、キリスト教文化の背後にある基層文化を意図的にナショナリズムに結びつけて利用した。ヒトラーが政権を掌握した祝いとしてベルリンで盛大なたいまつ行列が行われた。この演出は、ゲルマンの火祭りを連想させ、人々に古い過去へのノスタルジアを引き起こした。他にもナチスは、多くの「ゲルマン風」の集会を行っている。ナチスは、ゲルマン的な民族主義にもとづいて、「世界に冠たるドイツ」というスローガンを標榜したのである。

■なぜドイツで
歴史上の集団妄想やカルト集団は、その徹底性、犠牲者数、被害の規模という点で、イタリヤ、スペインなどの南欧に比べると、北欧のドイツが群を抜いていた。その理由はどこにあるのか。著者は、それぞれの基層文化の違いに注目している。南欧型の基層文化は、もともと地中海地方の地母神的な多神教に由来している。そこには、人々の鬱積した不満を解消し、社会の「安全弁」になるような開放性があるという。他方、北欧型の基層文化は、北方ゲルマンの長い冬、陰鬱な気候、きびしい自然のなかで育まれ、「森の民」ケルトの樹木(オーク)信仰、自然崇拝を受け継いできた。元来それは、男性的、父権的であり、きまじめで禁欲的であった。それがキリスト教的な父権制と重なり、ドイツではさらに増幅された。ゲルマンの主神たちは、荒々しく闘争的で、とくに最高神オーディンは、「嵐の神」、戦争をつかさどる神である。

ドイツ地域がキリスト教化される過程において、ローマ・カトリックはゲルマンあるいはケルトの信仰と摩擦を起こした。両者の父権的特性は一面で共通していたが、一神教は異教の神々を容認するはずがなかった。ドイツの地は、表面的には完全にキリスト教化され、アニミズムや異教的要素は歴史のそこに沈滞してしまったようにみえる。ところがゲルマンの神々は、キリスト教化されるプロセスで、その多くは悪魔やデーモンにおとしめられたり、デフォルメされたりしながらも、深層で脈打っていた。こうして北欧の民族性は、抑圧されたフラストレーションを内在させ、突然、それを爆発させて攻撃的になりやすい。

魔女狩りは、古代の抑圧されたアニミズムが噴出した一例とされる。魔女狩りは、ルネサンスの時期以降から蔓延しはじめた。この時代は、中世のキリスト教の桎梏から解放され、人間性や合理性が勝利したかに見えた。しかし反面、中世では禁じられていた古代の占星術や呪術、魔術が復権した時代でもあった。多くの農民たちが持ち続けていたアニミズム的な民間信仰も抑圧を解かれた。大きな時代の転換点で、その価値観の亀裂のなかから基層文化の非合理的なマグマが噴出してきた。それが魔女信仰を醸成し、魔女狩りの背景となったと著者は捉える。

ドイツ地域がキリスト教化される過程において、ローマ・カトリックはゲルマンあるいはケルトの信仰と摩擦を起こした。キリスト教の父権的特性は、ゲルマンのそれと一面で共通していたが、一神教は異教の神々を容認するはずがなかった。ドイツの地は、表面的には完全にキリスト教化され、アニミズム的な要素は、歴史の底に沈滞したかにみえた。ところがゲルマンの神々は、キリスト教化されるプロセスで、その多くは悪魔やデーモンにおとしめられたり、デフォルメされたりしながら、深層では脈打っていたのである。

異端狩り、中世のユダヤ人狩り、魔女狩りなどとナチスのユダヤ人迫害との間には何らかの連続性がある。ひとつの共通点は、ステロタイプ化された「陰謀の神話」である。たとえば異端狩りと魔女狩りでは、「秘密集会」や「魔術の行使」などほとんど一致する捏造された迫害理由が挙げられる。またヒトラーは、「シオンの議定書」なる陰謀書類をでっち上げて、ユダヤ人「撲滅」作戦の理由とした。もっと根源的な共通性は、古代ゲルマンから連綿とつながる非合理主義の系譜であり、表層のキリスト教的な文化の下に胎動するゲルマンのどろどろとしたデーモンであった。キリスト教によって抑圧された、ゲルマン的な非合理な熱情が噴出するときに集団妄想による破壊や殺戮が起こるのではないか、というのが著者の捉え方である。

■アニミズムの意味をめぐって
以上からも分かるように本書の著者は、北欧の基層文化、古代ケルトやゲルマン源を発するアニミズム的信仰、呪術や魔術への熱情をかならずしも肯定的に捉えてはいない。もちろん、著者も南欧型の基層文化には、鬱屈するフラストレーションに対する「安全弁」の役割もあることを指摘している。だから古代文化そのものを否定的に捉えているわけではないだろう。しかしゲルマン的な背景が、ドイツを中心として集団妄想やカルトの歴史において重要な要因になったことは事実として指摘している。

一方『宮崎アニメの暗号』(新潮社、2004年)において青井汎は、宮崎駿が「科学」とその大元にある「唯一神」という二つの絶対的な「神」に対して、憤りを抱いていたという。それに対して、太古の時代には、人はカミとも動物とも隔てなく、同時に存在することができた。「動物に対して一方的な人間」「自然を軽視する科学・産業」「人に対する絶対的な神」が世界を覆い尽くすことはなかった。そのように、人と森、人と動物、人と万物の平等な関係が崩れていなかった時代として、古代ケルトやゲルマンの文化をも積極的に評価しているのである。

私自身は、宮崎的な視点に深い共感をいだきつつ、一方で現代科学文明や抑圧的なキリスト教との関係で古代文化が担ってしまった、あるいは担わされてしまった不幸な機能にも冷静に目を向けていきたい、いかざるをえないと思った。『魔女とカルトのドイツ史』は、そんなことを考えさせる本であった。

生けるブッダ、生けるキリスト (ティク・ナット・ハン)

2010-05-06 21:58:10 | 宗教一般
◆『生けるブッダ、生けるキリスト』ティク・ナット・ハン(春秋社、1996年)

ヴェトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンは、ヴェトナム戦争中に事務所に手榴 弾を投げこまれなどしながら、反戦と和平のために奔走、アメリカで行った率直な 和平提案を理由にヴェトナムへの帰国を拒否されて亡命した。南フランスに仏教者 の共同体を開設し、「行動する仏教(エンゲイジド・ブディズム)」を提唱して活 躍する。  

本書は、おもわず夢中になって読み進み知的な興奮を覚えるという種類の本ではない。しかし、翻訳の文章であっても、その平易な言葉から澄んだ慈しみと力に満 ちた魂の響きが伝わってきて、読みながらかなり影響を受けた。  

なによりもまずキリスト教と対話する姿勢が印象的だ。キリスト教の宣教師たち がヴェトナムの植民地化に加担し、仏教徒にいかに横暴な態度をとったか、その生々しい体験を超えて、なおかつキリスト教のもっとも真実なものに深く共感する姿。キリスト教との対話を踏まえて、以下のように語る。

「対話とは一方の側が自己拡張して、相手方を自分たちが主張する『自我』にとりこんでゆくという意味での、一方による他方の吸収同化手段ではありません。対話には自他の区別を超えた『無我』という視点が必要です。相手が基盤としている伝統が持っているよいもの、美しいもの、そして味わい深いものに心を開いて、それを自分が変わってゆく力としてゆかねばなりません。 ‥‥たとえば、もしも両親や家族、社会、あるいは自分の宗派と教会とのあいだに争いが起こったときには、おそらく自分の心のなかに波風がたっているはずです。 したがって、最も大切な平和の仕事は、まず自分に戻って、自分の心のなかで起こ っているさまざまな現象、すなわち感受作用、認識・判断作用などの心の状態をじ っと見つめてみることです。自分の内部を深く見つめる瞑想の練習が大切なのはこのためです。」  

おそろしく気の長い話かだが、これまでの人類の歴史を見るかぎり、そして現代 の世界を見るかぎり、「自分の内部を深く見つめる瞑想」は計り知れず大切なのだ と思う。瞑想によってもたらされる「うちなる平和」こそが「行動する仏教」を支 えている。  

また、日常生活のなかでの気づきの瞑想が大切にされているにも強い共感を覚える。ヴェトナム戦争のさなかに僧院にこもって周囲の苦しみを回避するのではなく、 空襲にあえぐ人々の苦しみを少しでも軽減しようと、ともに働きながら、気づきの瞑想を維持していく姿。  

「‥‥瞑想的雰囲気のなかで日常の仕事をこなしてゆく方法があるでしょうか。 答えはイエスです。気づきの料理、気づきの片づけ、気づきの掃除、気づきの洗濯 の練習です。気づきをもって日々の仕事に関わるとき、私たちは究極の実在に触れるのです。」  
仏教の瞑想経典中もっとも基本的な『サティパッターナ・スッタ(四念処経、四 念住経)』(パーリ語経典)の中に、どのような状況下でも、どんな仕事をしてい ても一日中気づき(サティ)の練習をせよと書かれているという。座禅時だけでな く、食器を洗っていても水を運ぶときも気づきの練習をする。この教えに基づいて ヴェトナム戦争中、修行を捨てずに「行動する仏教」の改革運動を推進していった という。

つまり彼は禅僧でありながらヴィパッサナー瞑想をも重視している。『四念処経』のコメンタリー『TRANSFORMATION&HEALING』(Parallax Press)という著作もある。

一神教の闇―アニミズムの復権

2009-08-06 10:30:08 | 宗教一般
◆『一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)

著者の、アニミズム復興論の原典ともいうべき本だいう。著者の一神教批判は手厳しい。一神教同士の対立(キリスト教とイスラム教など)を見れば分かるように、一神教がかかえる闇が、人類を終末の世界へと導こうとしているという。だからこそ、多神教、アニミズムの世界に生きる日本人にとって、アニミズムの研究は、人類の生き残りをかけた重要な課題だという。

この美しい森と水を守るアニミズムの自然観と世界観こそが、日本人の低力である。一神教を基盤とした「力と闘争の文明」に替わる「美と慈悲の文明」(多神教的文明)が、人類の文明史の潮流を変えていかなければならない。「森と水の美しい地球」を創造し、「生命の文明」の時代を構築していかなければならない。そのためにこそ、アニミズム・ルネッサンスが求められているというのが著者の主張だ。

主張の大枠の意味は分かるのだが、アニミズムという言葉で著者が具体的にどのような信仰(信心)のあり方を示しているのかが語られていないので、全体として説得力が乏しいと感じた。まさか、原始的なアニミズムの信仰そのものに戻ろうということではないだろう。アニミズムを復権するというが、原始のままのアニミズムを復権するということか、現代人にとって必要なアニミズムのエッセンスを復権しようとすることなのか、だとすればそのエッセンスとは何か。そうした大切ことがほとんど考察されていない。

確かにアニミズムの中には、現代人が忘れてしまった大切な心のあり方が隠されているに違いない。それは確かだろう。現代人が学び、復権すべきは、アニミズムの中のどのような面なのか。またそれを復権するためには、どのような方法とプロセスが求められるのか、そのあたりの具体的な提示がないから、読後に説得力のなさを感じずにおれないのだろう。

細部では、興味深い情報も多いが、全体として主張が上滑りしていると感じた。

人類は「宗教」に勝てるか

2009-07-26 15:38:47 | 宗教一般
◆『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス) 

興味深く、強く共感できる本であった。著者・町田宗鳳の本を読むのは初めてだが、今後彼の他の本も読みたい。この本で強烈に批判されるのは、自分以外の神や真理を赦さない排他的な宗教としての一神教だ。

「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。

世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。

本の前半では、宗教の名の下に、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。

たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。

一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。

いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。

著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。

アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。

この本のどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。

『ブッダを語る』前田専学(NHK出版1996年)②

2007-05-13 22:53:19 | 宗教一般
私は、大乗仏教の思想に共感はするが、テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想を実践し、この瞑想法の方法としての素晴らしさにも共感する。それで大乗仏教とテーラワーダ仏教との思想的な対立点については、どうしても気になる。

しかし、『ブッダを語る』を読む限り、形而上学的な問題に対するブッダの態度は一貫しており、どのような尋問や誘惑があっても、そのような問題に返答せず、捨て置いた(捨置)。このように形而上学的な問題について判断中止することを無記という。これはよく知られた事実だが、この本は、ある程度具体的にこの点を論じている。

たとえば、無我が文字通りアートマンは存在しないという意味で用いられるようになったのは、もっと後代になってからだという。逆に初期経典(『ディーガ・ニカーヤ』)には、「ブラフマンとなったアートマンによって住する」という表現も見られ、アートマンがブラフマンと合一することが解脱だというウパニシャッドの思想と対応するという。ただし、初期仏教はアートマンを形而上学的に論じるのではなく、独自の実践倫理的なアートマン論を展開しているようだ。

すなわち、のちにテーラワーダ仏教と大乗仏教との違いとして鮮明になってくる問題群は、初期仏教においては、鮮明な、具体的なものとしては存在しなかったのか知れない。テーラワーダ仏教といえども、初期仏教の実践的な簡潔な言葉を、何らかの仕方で解釈することによって独自の世界観を築いていった部分があるのかも知れない。

書評というよりも、私の関心からの一論点の紹介という形になったが、読みやすく、しかもよく整理された入門だと思う。

『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』01

2007-04-08 22:21:14 | 宗教一般
◆岸田秀『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』(新書館、2007年)
岸田秀の唯幻論が、自我は己や己が作りあげた幻想から目覚め得ないということをその理論の前提としていることは、昨日にも書いた。人間は幻想から目覚めることによって成長し、覚醒するいう立場に立つ私としては、この前提に対しては徹底的に批判していきたい。

しかし、精神分析の手法を個々の社会的な問題、集団の心理、歴史の分析に応用した考察は、きわめて興味深く、これまでも彼の多くの本を読み、書評でも取り上げてきた。この本もやはり面白い。

なぜ、面白いのか。著者は彼の「史的唯幻論」を次のよう説明する。「‥‥史的唯物論のように経済的要因とかで歴史が決定されるのではなく、民族や国家などの集団的自我のぶつかり合い――集団的自我を支えるプライドやアイデンティティ、プライドが傷つけられた屈辱、その屈辱を雪ぐ試み、アイデンティティが揺るがされた不安、その不安からの回復など――が歴史の動きを左右する重要な要因であると見なす歴史観である。」

要するに民族や国家を動かす最強の動機は屈辱の克服であるという。それがすべてではないにせよ、確かにそういう面が根深く存在するのは確かであろう。民族や国家を精神分析できるというのである。私は個人的に精神分析や深層心理に関心があり、また歴史も教える立場にあるので、岸田の仮説には強い興味をもつ。

一般的にいっても、民族や国家間の対立の背後に、優越意識やプライドをめぐる心理、劣等意識や屈辱をめぐる怨念などが存在するのは確かだろう。日中、日韓の関係などを考えれば、そういう集団心理の問題が根深く存在するのは容易に想像がつく。そうした集団心理を精神分析的な手法で考察し、歴史を読み解こうとする試みが興味深くないはずはないだろう。

しかもテーマは、ヨーロッパ人の劣等感や屈辱、それと裏腹の優越意識という視点から、ヨーロッパ製の世界史の歪みを明らかにしていこうというものである。そこに近代日本の歴史問題もからめて考察されている。

一神教vs多神教(岸田秀)

2007-04-07 23:11:32 | 宗教一般
◆『一神教vs多神教』(新書館、2002年)

この本の主張は、すこぶる面白く、二重の意味で刺激的だった。 ひとつは、一神教は、差別され迫害されて恨みを持つ人々宗教であり、その被害者意識が外に向かう攻撃性になるという、この本のテーマそのものによる。これをユダヤ教、キリスト教の成立過程などから興味深く論じている。

もう一つは、自我は幻想だが、必要悪であり、人間は自我という病から抜け出す ことはできないという岸田の基本となる説による。この、自我=幻想論が随所にでてくる。かつて、この説に反論を加える小論を書いたが、この本でもやはり彼の限界になっており、もう一度批判を加えたいと感じた。(かつての小論は、以下を参照のこと→真の「自己」の幸福論

しかし、この本のテーマそのものについては、ユダヤ教、キリスト教と西洋文明 の関係を鋭い洞察力で論じた本だと思った。対話だから、肉付けや裏付けは不十分 だが、骨子は一貫性があって、説得力をもっている。これが学問的な肉付けをともなうなら、かなり衝撃的な理論ということになるのだろうが。  

一神教は、迫害され恨みを抱いた人々の宗教である。一神教の元祖であるユダヤ 教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教だったために恨みがこもっている。ユダヤ民族は、出身がばらばらの奴隷たちがモーゼに 率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」で、同じくユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。

一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い 者に移譲しようとする。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補 償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を 慰める。  

多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し 付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。

ずいぶん乱暴な議論と感じられるかも知れないが、実際は聖書や他の様々な文献 への言及も含めて語られ、かなり説得力があると感じた。

岸田は、一神教を人類の癌だとまでいうが、それは一神教の唯一絶対神を後ろ盾 にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしたからだ。 さらに一神教は、世界を一元的に見る世界観であり、その世界観がヨーロッパの世界制覇を可能にした。まずは、キリスト教化されたローマ帝国が、キリスト教を不可欠の道具としてヨーロッパを植民地化した。そのキリスト教によって征服されたヨーロッパが、それを足場にして世界制覇に乗り出したのだという。

岸田は、自我というのは本能が崩れた人類にとっての必要悪であり、病気である という。強い自我というのは、その病気の進行が進んでいるというである。だとすれば、必要悪である自我を、あまり強くせず、いい加減な自我を持ったほうがいい、つねに自我を相対化し、ゆとりのある多面的な(多神教的な)自我のほうがいいという。

私が批判したいのは、ゆとりのある柔軟な自我の行き着く先に自我を超えたあり 方(たとえばクルシュナムルティのような)があることを岸田が認めないことだ。 自我や宗教は必要悪だが、どうせなら多様を許容しうる多神教やそれに基づく自我の方がましだ、というのだ。幻想から目覚める可能性を認めないのが岸田の限界のあのである。