俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

名古屋の医師

2016-10-18 09:53:36 | Weblog
 脳外科医の友人が名古屋に住んでいる。友人と言っても大学を卒業して以来約40年経った今では年賀状と冠婚葬祭の挨拶状の授受だけという薄い繋がりしか残っていない。
 一応高校・大学と同窓ではあるが彼は工学部を卒業すると同時に名古屋の大学の医学部に再入学してその後は名古屋で働いていたから卒業後の生活圏は全く縁遠いものになっていた。学生時代は水泳という共通の趣味を持ち、私の専攻は哲学だったが異常心理学もかなり勉強していたので現在の彼の仕事内容が全く分からない訳ではない。経歴の違いの割には話が盛り上がるのではないかと思えただけに、退職後に時間的余裕が生まれたら是非訪問して旧交を温めたいものだと思っていた。しかし何しろ「日本で断トツに魅力が乏しい大都市」と言われる名古屋にはなかなか足を運ぶ気になれない。何かイベントがあればその時にでも出掛けようなどと考えていたらずっと無沙汰を続けることになってしまった。
 永遠の別れが迫っているだけに別れの挨拶ぐらいはせねばと思って電話をして驚いた。余りにも話が弾んで2時間近く話し込んでしまった。こんな長電話をしたのは生まれてこの方初めてのことだ。交友が途絶えてから約40年経ち、住む世界も社会も全然違うのに思想的には大学生の頃よりもずっと近付いているのではないかとさえ思えた。生物の系統樹を描けばすぐに分かることだが、一旦枝分かれをした2種類の生物は懸け離れる一方であり再接近することなど殆んど起こらない筈だ。それだけにこれは奇跡的なことだと思った。
 私は会社人間にはなりたくなかった。だから休日に社内の人と会うことは滅多に無く、大学以来の友人を中心とする社外の人とばかり会っていた。それでもやはり文系の人に偏っていたようだ。思い掛けないところで「同士」に巡り会えた喜びは大きい。医療関係の話題においては当然私が教わり、役に立たない雑学に関しては主に私が話したが、なぜか問題に対する着眼点が類似しており対話は全く途絶えずに弾み続けた。近日中に見舞いに来てくれるとのことなのでこのことが大きな楽しみになった。彼の前で恥を晒したくないと思っただけで、ここしばらく低下していた学習意欲までかなり蘇った。やはり良き友人は大切だ。ライバルとの切磋琢磨があれば人は自らの意思で賢くなろうとするものだ。群居動物である人類は他者との関係の中で育つものだと改めて思い知らされた。

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