俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

美を競うスポーツ(2)

2010-02-26 15:30:06 | Weblog
 残念ながら浅田真央選手は金ヨナ選手に負けてしまった。ミスのあった浅田選手が完璧だった金選手に負けたのはやむを得ないが、仮にミスをしなくても勝てなかっただろうと思うと、フィギュアの採点基準に疑問を持つ。
 確かにステップやスピンや演技力も採点対象になるのは当然だ。しかしこれはスポーツなのだ。一番難しい技を見事に決めることが最優先ではないだろうか。
 スピンなら相対的価値評価も認められる。ビールマンスピンとドーナツスピンの甲乙は付け難い。しかしジャンプは違う。3回転よりも3回転半のほうが難しいことは誰にも分かる。一番難しい技には大きな付加点を与えて優遇すべきだ。
 これは女子だけのことではない。男子のフィギュアでは4回転ジャンプを回避したライサチェク選手が優勝し、見事に決めたプルシェンコ選手は2位になった。男女共に一番難しい技を成功させた選手が銀メダルで、それができなかった選手が金メダルとなったのは何とも皮肉な話だ。これではスポーツではない、ダンスだ、と思う。
 スキーのジャンプでは飛距離以外に飛形点も加算される。しかし飛形が幾ら美しくても飛距離が少なければ絶対に上位に入れない。スポーツなのだからこれは当然のことだ。フィギュアもそうあるべきだ。

時効(2)

2010-02-26 15:16:03 | Weblog
 刑事訴訟法が改正されて6月頃には凶悪犯罪に対する時効が廃止される見通しだ。かつて「時効」(08年2月26日付け)で時効に批判的な記事を書いたが、昨今の冤罪を見ていると不安を感じずにはいられない。
 極端な話だがアルツハイマー病の80歳の老人の前に警察官が現れて「50年前の殺人事件の現場でお前の指紋が見付かった」と言えば老人はどう答えるだろうか。「覚えていない」としか答えようが無かろう。アリバイを証明してくれる筈の人も多くは亡くなっている。そうなると物証が決め手になってしまう。もしかしたら事件の直前に現場に立ち寄って指紋を残してしまったのかも知れない。しかし何せアルツハイマー病の老人だ。覚えていなくて当然だ。容疑者にされた老人は警察の誘導尋問に見事に引っ掛かって虚偽の自白をしてしまうだろう。こうして証拠も自白も揃えば一丁挙がりだ。
 こんな恐怖の冤罪劇を想像してしまう。時効を無くすことには反対しないが、検察と裁判所の冤罪体質を何とかしておかなければ危険極まりない。
 人は自分が加害者にならないだろうと思っているから加害者には厳しい。しかし冤罪の被害者(つまり加害容疑者)になる可能性を考えるなら、容疑者が極度に不利になるようなシステムの導入には慎重になるべきだろう。

悪いこと

2010-02-26 14:59:00 | Weblog
 中国では皇帝の徳が失われると天災や飢饉に見舞われるとされ、これを根拠にして易姓革命が繰り返された。日本では疫病や落雷が菅原道真の祟りと怖れられて天神様として祭られた。
 このようにほんの数百年前までは天変地異でさえ人災とされた。その時代からまだ人類は進化していない。崖が崩れたら土木工事のせい、家が壊れたら欠陥住宅だ、と誰かのせいにしないと気が済まない。
 「悪いこと」が起こったら必ず「悪人」と「悪意」がでっち上げられる。自然災害でさえ誰かのせいにするぐらいだから、人災は絶対に悪人による悪意が無ければならないと考える。しかしこれはとんでもない間違った信念だ。
 子供が急に跳びだした場合、それを車が避けることは不可能だ。かつてはそれを狙った「当たり屋」という裏ビジネスがあったし、多分、今でもあるだろう。不可避な事故であろうと加害者は非難される。それは被害者側が損害を被ったからだ。実際に「悪いこと」が起こったのだから「誰かが悪い、それはお前だ」と主張する。加害者には本来責任は無い。しかし「お前が運転さえしていなかったら息子は死なずに済んだ」などと理不尽な理屈を突き付ける。つくづく人間は2,000年以上経っても進歩しないと思う。
 「悪いこと」はあくまで結果だ。悪い結果があるならば悪い原因がある筈だという考えは迷信だ。悪いことが起こったという結果から、時間を遡ってそのプロセスを断罪するのは因果関係ではない。「果因」の捏造であり言い掛かりに近い。

人件費の削減

2010-02-23 16:06:17 | Weblog
 「国家公務員の人件費を4年間で2割削減」をマニフェストに掲げた鳩山内閣は支持母体である労働組合の抵抗に会い身動きができない状態らしい。
 これは温室効果ガスの25%削減と並ぶ無茶な目標だろう。2割削減するためには給料を2割削るか公務員数を2割削るか、あるいは両方を1割ずつ削るということが必要だ。3案とも連合は認めないだろう。
 但し人件費という名目の支出を減らすことはいとも簡単に実現できる。具体的な手口は「人件費のトリック」(09年2月3日)に書いたのでここでは主に「その後」について書く。
 ある企業が宣伝部門を別法人にすれば宣伝部門の人件費は宣伝費に化ける。しかしこれだけでは何ら経費削減にはならない。この新会社は外に働きかけねばならない。それまでやっていた社内の仕事だけではなく社外の仕事を受注して初めて別法人化が意味を持つ。それが無ければただの誤魔化しだ。経費項目の付け替えに過ぎない。
 政府はこれまでに国鉄の民営化、郵政事業の公社化・民営化、国立大学の法人化などによって公務員数を減らした。
 国鉄は昭和62年の分割民営化から20年ほど掛かってようやくまともな民間企業になりつつあるように思える。新幹線の技術を外国に売るようになったからだ。
 一方、郵政は国営に戻りそうな情勢だし、国立大学に至っては訳の分からない運営費交付金という名目に化けただけだ。
 労働組合が重要な支持基盤の民主党に人減らしや賃下げができるものだろうか。まやかしの法人化に終わりそうに思えてならない。それとも高給取りの幹部の首切りにでも励んでお茶を濁すつもりだろうか。

酒税

2010-02-23 15:45:23 | Weblog
 日本のビールは高い。多分世界一高いだろう。その原因は贅沢品として高額の酒税が掛けられているからだ。「ビールが贅沢品?」と誰もが思う。昔、国税局はこんな理屈を使った。「焼酎は料亭では出されないがビールは料亭でも飲まれているから贅沢品だ。」この屁理屈は今では使えない。料亭で出されることの無い発泡酒や第三のビールにも高い酒税が掛けられているからだ。実状は「金を取れる所から取る」ということだろう。
 世界に類を見ない珍妙な飲料である発泡酒が生まれたのも酒税が高過ぎるせいだ。ビールの国際基準が「麦芽比率50%以上」であることに目を付けたサッポロビールが麦芽比率50%未満の「ビールでないビール風飲料」を開発した。国税局はこれに対してビールに準ずる課税をした。するとまたサッポロビールが「発泡酒でないビール風飲料」を開発して国税局は発泡酒に準ずる課税をした。
 こんな次第で現在の課税額は350ml換算でビール77円、発泡酒48円、第三のビール28円という形で収まっている。
 ところでビール系飲料の小売価格をそれぞれ230円、160円、140円とすると面白いことに気付く。発泡酒と第三のビールの税抜き価格は同額だ。つまりこの2者の価格差は酒税額の差でしかない。誰が品質が同程度で酒税だけが高い酒を買うだろうか。実際、発泡酒のシェアは毎年大きく下がっている。これがゼロにならないのは多分、鰻丼の松竹梅で竹を選ぶような人が買っているからだろう。
 最近アルコール度数ゼロのビール風飲料が人気らしい。これには当然酒税は掛からないのに、なぜか第三のビール並みの価格で売られている。これは間違い無く、消費者の酒税に対する無知に付け込んだボッタクリだ。メーカーと小売店にとってはスゴいドル箱商品だろうが、他のメーカーが類似品を出せば一挙に値崩れするだろう。もしそうならなければカルテルの疑いがある。

民の富

2010-02-23 15:27:58 | Weblog
 国は富を生まない。民の富の上前をはねるだけだ。富を生むのも雇用を生むのも民だけだ。
 なるほど公共事業や公務は雇用を生む。しかしその原資は民から集めた税金だ。民から集めた金を、政治家と官僚が中抜きをした上で、無駄な事業を通じて再配分しているだけだ。民の金の一部を還付しているに過ぎず、全然有難がる必要は無い。全体を見れば国は国民から搾取をしているだけだ。
 公務という言葉に隠れて無駄で非効率な事業がどこまでも拡大する。雇用対策として始まった事業がいつまでも存続する。お役所は限り無く肥大し続ける。無駄遣いするための金が足りなくなれば増税か国債に頼って無駄の塊のような体制を維持しようとする。
 無駄なだけならまだマシかも知れない。干拓やダムなどの事業は時には有害でさえあり得る。もう沢山だ。
 私は決して無政府主義者ではない。小さな政府主義者だ。役人と政治屋による無駄遣いを少しでも減らして欲しいと心から願っている。国の仕事としては国防、治安、外交、教育、福祉ぐらいに絞って、これ以上無駄遣いをするのは止めてもらいたいと切に願っている。政治家も今の1/10で充分だ。
 公共事業が無くなれば道路も橋も作れないと言われるかも知れない。しかし本当に必要な道路や橋ならば貧しい自治体が地元民から寄付を募って作ることも可能だ。そんなことができないほど阿呆ばかりではない。必要以上の規制とそれに伴う利権に群がる政治屋と官僚および政商は寄生虫どころか国民を食い物にするピラニアのようなものだ。

競争

2010-02-19 14:04:03 | Weblog
 生まれたばかりの乳児は何もできない。移動も摂食も排泄も親に頼らざるを得ない。乳児の意識については想像するしか無いが、多分、無能感を持っているだろう。
 幼児の段階でこれが突然、全能感に変わる。何しろ自分の意志で移動できるのだし、泣き叫べば周囲を意のままに操れる。きっと自分のことを「小皇帝」と思っていることだろう。
 弟か妹がいなければ、幼児は幼稚園か保育園で初めて自分が全能でないことを知る。他者と競争することを通じて自分が決して卓越した存在ではないことを思い知らされる。
 競争は決して他人を蹴落とすためにする訳ではない。競争を通じて自分を社会の中に位置づけることが可能になる。競争したことの無い人間は鼻持ちならない傲慢な性格になる。
 優し過ぎる無競争の社会は自分を社会に中に位置付け損なった唯我独尊者を生む。

脱税

2010-02-19 13:45:42 | Weblog
 増税をしなくても税収は増やせる。脱税を厳しく取り締まれば良い。
 現在、脱税が放置されているのは①脱税を摘発するために必要な経費のほうが摘発による税収増よりも高額になる②脱税容疑者が多すぎて手が回らない、からだろう。
 脱税が横行しているのは①どうせバレない②バレたら払えば良い、と脱税者が考えているからだろう。
 それならば追徴課税を10倍ぐらいにすれば問題は一挙に解決する筈だ。
 法人の9割以上が赤字決算を理由にして法人税を納めていない。誰が考えても分かることだが、創業以来ずっと赤字の企業が存続できる筈が無い。ほぼ確実に粉飾決算だ。こんな企業はビシビシ取り締まれば良い。脱税は犯罪なのだから。犯罪者を甘やかすから脱税が蔓延して国は貧しくなり悪い奴がトクをする社会になってしまっている。脱税がバレたら倒産するくらい厳しく対処すれば怖くて誰も脱税などしなくなるだろう。
 税収は国の存立基盤だ。税収が無ければ国も自治体も機能しない。脱税は個人にたいする犯罪ではなく、国家=全国民に対する犯罪だ。従って殺人罪より重くても構わない。
 脱税に対して日本はなぜ甘いのか。権力者が自ら脱税しているからだろう。鳩山ブラザーズは修正申告をしたが、追徴課税額以上のペナルティを自ら課すべきだろう。小沢幹事長は政治資金管理法からは狡く逃れて秘書に責任を押し付けたが、脱税が発覚することはほぼ間違い無かろう。
 脱税を許さない社会になれば、国債に頼らなくても子供手当てを満額支給できるのではないだろうか。

目的と手段

2010-02-19 13:29:09 | Weblog
 私は環境保護団体のシーシェパードとグリーンピースが大嫌いだ。彼らが捕鯨に反対するからではない。彼らが似非エコロジストであり目的のためなら手段を選ばないからだ。
 彼らは環境を守るためなら非合法な活動も許されると考えて行動する。シーシェパードは日本の調査捕鯨船を攻撃する。グリーンピース・ジャパンのメンバーは運送会社の配送所から鯨肉を盗んだ。捕鯨という悪事を撲滅するためなら犯罪も辞さない。
 彼らは捕鯨阻止という崇高な目的のためなら不正な手段も正当化されると考える。全く逆だ!!不正な手段は正しい筈の目的をさえ醜悪化させる!
 かつて日本の警察は別件逮捕という手法をしばしば使った。家宅捜索できるほどには容疑のレベルが高くない市民に対して、証拠のある微罪を利用して強制捜査をして凶悪犯罪の証拠を探した。この手法は問題があるので今ではかなり自粛されている。
 テロを防止するためであろうと無制限な盗聴は認められない。国家の安泰のための言論弾圧も許されない。自白させるための拷問など論外だ。
 グリーンピースは環境を守るためという錦の御旗を掲げてしばしば嘘の情報を流す。こんな団体こそ真面目な環境団体の敵だ。彼らのせいで環境保護活動そのものまでが胡散臭く見られてしまう。
 これは環境保護活動に限ったことではない。怪しげな自称愛国者が闊歩するせいで、日本人は愛国という言葉を本来の意味で使えなくなってしまった。独り善がりの独善家は迷惑だ。

エコ

2010-02-16 16:45:14 | Weblog
 エコという言葉はエコノミー(倹約)とエコロジー(環境)を混同させる迷惑な言葉だ。確かに多くの場合、倹約は環境に繋がる。電気の使用量を減らせば支出減と同時にエネルギー消費量も減る。
 しかしエコノミーとエコロジーは予定調和する訳ではなく、時には対立する。無料配送や20年前の自動車の使用はエコノミーだがエコロジーではない。前者なら購入者が持ち帰るほうが環境負荷が少ないし、後者については燃費の悪さと有害排気ガスの両面で反エコロジーだ。
 一方、刺身や生卵や生肝は火力を使わないのでエコロジーだが、衛生的で新鮮な商品を厳選せねばならないのでエコノミーではない。燃料電池はエコロジーだが今のところエコノミーではない。
 倹約と環境は無条件で正の相関になる訳ではない。負の相関であっても敢えて環境を選んでこそエコロジーと言える。工場排水の浄化はかなり高コストであろうともやらなければならないのと同じことだ。