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「百済の里づくり」の十三年を振り返って 渡辺一弘

2010年12月02日 00時47分45秒 | 文献
「百済の里づくり」の十三年を振り返って
渡辺一弘

南郷村の村おこし「百済の里づくり」は、
百済王伝説にもとづいている。
この伝説は、宮崎県の南郷村・木城町・日向市・高鍋町・東郷町一帯に
境界を越えて伝えられてきた。

 奈良時代、朝鮮半島を追われた百済王族が日向灘で難破し、
父の禎嘉王たちは金ケ浜(日向市)に、
息子の福智王たちが蚊口浦(高鍋町)に漂着した。
父は神門(南郷村)へ、息子は比木(木城町)へ逃れ、
しばしの平和な日々を村民とともに過ごした。
ところが追っ手に攻められ、王族は滅ぼされたという。

この伝説ゆかりの土地を訪ね歩いて、
年に一度、親子が再会する「師走祭り」は、
現在、旧暦の十二月十四日から十六日にかけて行われる。
かつては九泊十日かけ比木神社から神門神社まで
九〇キロメートルを歩いて巡行した。
多くの市が立ち、多くの見物人でにぎわう盛大な祭りであった。
この祭りの歴史は古く、中世にまでさかのぼるとされる。
平成三年、国の選択を受け、
この先、国指定の重要無形民俗文化財になる可能性も高いという。

昭和六十一年、南郷村による「百済の里づくり」は始められた。
その目玉は、神門神社所蔵の鏡を根拠として、
十六億円をかけて精巧に復元された「西の正倉院」であった。

百済の古都である扶餘(ぷよ)市は、
南郷村の人々が先祖の霊を守ってきてくれたことに感銘を受け、
南郷村と姉妹都市提携を結び、
これをきっかけに多くの村民が韓国へ訪れるようになった。

役場の職員は、
韓国の国民的芸能サムルノリの複雑なリズムを本場で修業。
勤務時間後の練習は現在も続けられ、公演にも呼ばれるほどになった。

キムチづくりは、苦労の末、日本人の口に合った「百済王」印を完成。
わずか三人の女性で年間五〇トンというから、
今や南郷村一番の特産品である。

役場をはじめ多くの建物には韓国の丹青(タンチョン)が装飾し、
百済の園(老人ホーム)・百済会館(パチンコ店)の名や
ハングル語の看板が独特の景観をつくっている。

こうした村おこしと国際交流は、村民の誇りを生み出し、
村民の心の活性化が図られ、村に活気が戻ってきた。

しかし、国際交流が進む一方、
平成八年に約十万人の来館者は、翌年約半分に落ち込んだ。
「西の正倉院」だけでは
観光客のリピーターを増やすことはできなかったのである。

そこで、昨年九月、南郷温泉がオープン。
既に十万人を越える客が訪れ、
温泉水を使ったコンニャク懐石は女性客に大人気である。
さらに温泉水が近々販売されるという。
「百済の里」にこだわらない観光への転換も、
今のところは成功しているといえよう。

しかし、この村おこしの成功の鍵は、
村民が共通して信じている伝説であった。
その後、観光客がはたして「百済王伝説」を理解して帰ったのだろうか。
「百済王伝説」を伝える他の市町村は恩恵を受けただろうか。

これまでの村おこしの成功が「百済王族の恩返し」と考えれば、
鶴のように飛び去らないためにも、
常に初心に返ることが大切なことである。

『FUKUOKA STYLE』26号掲載原稿

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