こころ模様

人はなぜ生きるのでしょうか。希望、居場所、時間というキーワードから、人生とは何かについて考えていきます。

384 春雷

2021-03-13 20:05:22 | 自己
昨日の深夜から雨が降り、今日の日中は雷が何度も響く大荒れの天候になった。
この辺りは、増水などの被害は出なかったが、ニュースでは、、増水の被害を伝えていr。
人は、そう簡単に、住んでいる土地を離れることはできない。
必要なのは、自然災害を最小限に留めるための環境整備と、被害に対する財政的な補償である。
その責務は、国にある。


541 自転車に乘って

2020-10-08 21:15:00 | 自己
久しぶりに自電車に乗る。「自転車に乗って、自転車の乗って、ちょいとそこまで」という歌詞が思い浮かぶ。
歩いていると分からないような、ちょっとした勾配も、自転車に乗って走っているとわかるのだ。
ペダルを漕ぐ足も、ハンドルを掴むでも、そして、サドルの上のお尻も。
みんな、みんな、喜んでいる。
自転車に乗って、どこまでも行きたいと思う、今日この頃。

566 バランス

2020-09-13 21:42:00 | 自己
強くもなく、弱くもなく、ブレるでもなく。
バランスを取って生きることは、容易ではない。
力を誇示して、自分を大きく見せようとするのは、愚の骨頂。
弱さを見せて、助けを求めることができなければ、ダメなのだ。
ああ、この世界に生きていくことは、何と難しいのだろうか。
人は人を求め、人とともに生きる。
そのことを改めて感じる日々。

596 朝の散歩

2020-08-13 20:33:00 | 自己
昼間は暑いので、朝起きて散歩する。マスクをしないで歩くのは気持ちが良い。歩いているうちに、だんだんと汗が出てくる。これもまた気持ちが良い。最高の気分で家に戻り、そして朝食。その後に、ちょっと横になる。それもまた最高。壮、最高の日々。

627 パソコンお前に座って

2020-07-13 20:33:00 | 自己
パソコンを使って仕事をするようになってから、30年以上になる。その前は、ワープロ専用機を使っていた。さらにその前は、手書きの時代。400字詰め原稿用紙を使っていた。一マス一マス、文字を書いて行く作業。そうやって卒論も書いたし、修論も書いた。学会誌の投稿論文も同じように書いていた。

執筆の仕方はアナログから、デジタルへ変わった。学部生や大学院生の頃は、全体の構成を考えることなく、マス目に文字を埋めることだけに注力していたように思う。今、デジタルのツールを使って、もう少し、論理的に文章を書けるようになったような気がする。

それは、ツールの進化だけでなく、物事を考える時の論理性が、自分の中で発展したからだと思いたい。

652 自己コントロール

2020-06-18 20:27:00 | 自己
毎日家にいて、仕事をしていると、自分で活動をコントロールすることが重要になる。

小学生の夏休みに、暑さにかまけて、毎日ダラダラしていて、休み明けc3日前になって、宿題をやっていたことを思い出す。

今は、それと同じ。違うのは、休み明けの期限がないこと。だから、自分でコントロールしていくことが、とても重要となる。

大人でも難しい。できない人も少なくない。ましてや、小学生には困難を極める課題である。

どうすれば良いのか。それを子どもと一緒に考えることから始めるしかない。そこからやってみよう。

685 雨の一日

2020-05-16 22:33:00 | 自己
雨足が強いわけではないが、一日中雨が降り続けていた。今日は外出せずに終わるのか、と思ったが、やはりそれはよくないと思い直して、傘を差して出かける。

いったん歩き始めると、気分は変わる。楽しいことを思い浮かべながら、歩き続ける。何でもそうだが、最初が肝心なのだ。

ちょっと気持ちが乗らなくても、やってみれば、楽しくなってくる。そんないつもの感情の変化を今日も体験しながら、雨の中を歩いていた。


687 インナーマッスル

2020-05-14 23:25:00 | 自己
身体の内部に合って、身体を支える働きをしているインナーマッスルを鍛えることが大切だということをテレビの番組を見て知った。力瘤のようなアウターマッスルは、眼に見えるので、わかりやすい。それに比べて、インナーマッスルは、身体の内部にあって、目には直接見えず、意識して動かしたりしないので、それを鍛えるというのは、なかなか難しいことだ。

テレビでは、そのインナーマッスルの鍛え方を分かりやすく教えてくれた。お尻の穴をギュッとすぼめるようにすると、お腹の内部にあるインナーマッスルが収縮するのだという。そうやって、別のところに意識を集中することによって、インナーマッスルを動かすことができるのだという。そういうことを知れば、あとは日常生活のなかで意識してやっていけば、自然とインナーマッスルは鍛えられるのだ。



高浜二郎161104

2016-11-04 11:40:45 | 自己
高浜二郎は、三木露風が1905(明治38年)7月15日に発行した処女詩集『夏姫』に、高浜天我という名で序を寄せている。『三木露風全集 第一巻』(安部宙之介編 三木露風全集刊行会 1982年)より、その部分を引用してみよう。

我が友三木露風、こたび其詩を集めて一巻となし、之を文壇に放ちて世に問はんとす、友としての我、焉んぞ之が為めに、辞無きを得むや。
(中略)
我が見るところに依れば露風は頗る熱烈なる文芸の渇仰者なり、其餓ゆる如き文芸の食慾力、其狂するが如き文芸の創作力、それらを以て判断するに彼は当来に於いて大に有為有望なる運命を担へるは疑ふべくもあらず、殊に我が彼に最も喜ぶは素質の強健なる、気力の清剛なるに在り、之を彼の世上滔々たる善泣の女性的作者に比すれば人格の高き、約数等の上位に座するものなることを知るべきなり、この一点を以てするも我が彼の当来に嘱望するの甚深甚大ならざるを得ざるのみならず、延いては文壇の為めに喜ばざるものあつて存す。
嗚呼、露風の当来は確かに我が文壇の波浪濤瀾に接触せり、最も熱烈なる文芸の渇仰者としての露風の当来が我が文運の隆盛に尠からざるの影響を有すべきことは我が塵も疑はざるところ、乃ち我が露風に望むところは其得意の韻文の創作を以てして彼の自信力なき一派の作者を速に埒外に排し了して我が文壇の一角に鮮明なる旗幟を樹つるの一事是れなりとす。
然り、この一巻の詩集『夏姫』は露風が文壇に進入する歩を起こすの宣言か、我は露風の為めに之を祝すると共に、由来偏狭なる我が文壇に対して進むの歩一歩益々勇ならむを求む。
明治三十八年六月


序を寄せた9人の中で、最も熱く語っているのが高浜二郎だった。21歳のときである。その後すぐに、祖父は朝鮮半島へ渡ることとなる。

高浜二郎161012

2016-10-12 17:18:09 | 自己

高浜二郎は1884’明治17)年9月、姫路市神屋町に漢学者高浜信民(号、書山)の二男として生まれた。兄は一高に入学したが、その夏に病死した。その兄は、官吏になるなら外交官に、なれないなら新聞人にと言っていたようだ。父親からは、兄の後継ぎになれと言われていたが、幾何や代数が嫌いだったので、姫路中学を2年で中退し、新聞社に入った。

「姫路新聞」「鷺城新聞」「五州公論」・「白鳳新聞」等の記者をしていたことが分かっている。姫路新聞は1899(明治32)年4月創刊、鷺城新聞は1900(明治33)年5月創刊、五州公論は鷺城新聞社を退社した小嶋三郎(黒風)が創刊、白鳳新聞は1902(明治35)年11月創刊である。10代後半には、新聞記者として活動していたのであった。

1903(明治36)年11月、再び「鷺城新聞」の記者となり、1904(明治37)年3月頃から38年8月退職するまでは同紙「日曜文壇」の担当者であった。「日曜文壇」の投稿者であった5歳年下の三木露風と知り合ったのも、その当時である。