富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「奇跡を行うキリストー湖上を歩く」 マタイによる福音書14章22~36節

2017-02-26 14:44:45 | キリスト教

     ↑ ティントレット 「湖上を歩くキリスト」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第9主日  2017年2月26日(日)   午後5時~5時50分

         礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   77(神に向かってわたしは声をあげ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書14章22~36節(p.28)

説  教   「奇跡を行うキリストー湖上を歩く」  辺見宗邦牧師

祈 祷               

讃美歌   462(はてしも知れぬ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

受難節 3月1日(水)は「灰の水曜日」、この日から受難節が始まります。イースターは、4月16日(日)です。

                                          次週礼拝  3月5日(日) 午後5時~5時50分

                                              聖書  マタイによる福音書4章1~11節

                                              説教   「荒れ野の誘惑」 

                                              讃美歌(21)298 530 24 交読詩編 91

本日の聖書 マタイによる福音14章22~36節

 22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。34こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。35土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、36その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

      本日の説教

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」(マタイ14:22~23)

 「それからすぐ」とは、「五千人に食べ物を与えた」あとすぐ、ということです。主イエスが「五千人に食べ物を与えた」奇跡は、四つの福音書すべてに記されている唯一の奇跡物語です。この奇跡の後に続く出来事として、イエスの「湖の上を歩く」奇跡を、マタイ、マルコ、ヨハネが伝えています。

 「五千人に食べ物を与えた」場所については、実は定かではありません。マタイもマルコも、舟に乗って「人里離れた所へ行った」と記しています。ガリラヤ伝道の拠点であったカファルナウムから反対側、ガリラヤ湖の北東のベッサイダ近くの地域と想定されます。ルカだけが「ベトサイダという町」(ルカ9:10)と記しています。ルカの記す「ベトサイダ」は、ペトロたち漁師の出身地である「ベトサイダ・ユリアス」とする説があります。しかし、そこよりやや南に位置する、別の「ベトサイダ」という漁師の町が想定されるのです。「ベトサイダ」は漁師の町と言う意味の言葉ですから、複数あっても不思議ではありません。こちらの方が、「人里離れた所」であり、マルコの福音書との整合性も一致するのです。ちなみに、カファルナウムに近いガリラヤ湖の西北に、パンの奇跡を記念する教会堂が古くから遺されていて、イスラエル観光の訪問地になっています。ここは五千人の供食があった所ではありません。ただの記念堂なのです。

   

 バイブルアトラス(日本聖書教会)58図 イエスのガリラヤでの宣教活動

  ベトサイダ 「人里離れた所」、「五千人が食事を与えられた所」、ルカの記す「ベトサイダ」(ルカ9:10)?

  ベトサイダ・ユリアス 「向こうの岸のベトサイダ」(マルコ6:45)、五千人の食事の後、イエスが弟子たちに先に行かせた「向こう岸」

  ゲネサレト(平原) カファルナウムの南西地帯、イエスの水上歩行の後、一行が舟で着いた所

  五千人に食べさせたあとすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、「向こう岸」へ先に行かせました。その間に五千人の群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになりました。夕方になっても、ただひとりそこにおられました。イエスがひとりで山に退かれたのは、ヨハネによると、「人々が来て、自分を王にするため連れて行こうとしているのを知ったので」としています。イエスは群衆が彼のことを政治的な意味でのメシア(救世主)とし、ユダヤ独立運動の中心人物にしようと察知し、そのような状況を回避するため、群衆を解散させ、弟子たちをも急いで舟に乗せ、「向こう岸」に先に行かせました。おそらく主イエスは後で、岸沿いに徒歩で向い、弟子たちと合流するという話になっていたのでしょう。そしてイエス自身は祈るために山に退かれました。

 マルコによる福音書では、弟子たちが最初に目指した目的地は「向こうの岸のベトサイダ」(マルコ6:45)とあります。この「ベトサイダ」は、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込む河口の東岸を北に1.5㎞ほど入った地点にある漁師の町「ベトサイダ・ユリアス」(現在名はエッ・テル)を指しているのではないかと言われています。【豊田栄著「マルコによる福音書注解Ⅰp.534、みすず書房1984年発行】

  この町は、ヘロデ大王の息子の一人、領主のピリポ・ヘロデが村から町の規模に再建し、ローマ皇帝の娘ユリヤに因んで「ベトサイダ・ユリアス」と命名した港町です。イエスの弟子であった、シモン・ペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネ、そしてフィリポの出身地です。

   マタイも、マルコによる福音書も、イエスと弟子たちの舟が最後に到着した地は、「ゲネサレト」です。ゲネサレトとは、イエスが宣教を開始したカファルナウムの南方に広がる、肥沃な平原地帯です。ヨハネでは、五千人の供食の後、イエスの一行が目ざした地は「湖の向こう岸のカファルナウム」(ヨハネ6:17)と記しています。

 「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。(マタイ14:24~26)

  物語の舞台となっているのは、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖です。ガリラヤ湖は上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしている湖で、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動をすることができました。

  弟子たちは、イエスの指示に従い、イエスをその地に残して舟に乗り込みました。向う岸のべッサイダへ行こうとしました。「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」とあります。弟子たちの乗り込んだ舟は、逆風と波によって前に進めない状況に陥っておりました。1スタディオンは今の長さに換算しますと約185mですから、陸から2、3㌔くらい離れた所で、弟子たちの乗った舟は前に進めず、強風と波に押し戻されないように、朝方まで格闘していたのです。

「逆風のため」とは、ガリラヤ湖独特の嵐を指します。これは雨季にしばしば起こる西からの突風と思われます。「波に悩まされていた」は波に翻弄されていたという意味です。弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師だったので、天候や波や舟の操作について長年の経験と知識を持ったいたが、今はそれも役に立たない事態でした。真っ暗な夜の湖上、波は逆巻き、逆風は吹き続け、少しも前に進めない状態でした。

 夜が明けるころ、イエスが湖に現れた時、舟は岸から遠く離れていて、弟子たちは波に悩まされていました。おびえている弟子たちを助けるため、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。

          

 「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」(マタイ14:27~29)

 イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、おびえている弟子たちにすぐ話しかけられました。イザヤ書43章には、「…恐れるな、わたしはあなたを贖う。…水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。…わたしは主、あなたの神」(イザヤ43: 1、2、3)とあります。人の子イエスは、神的な存在としてではなく、神が超自然的な力を与えられたメシアとして奇跡的な能力を発揮されたのです。

  するとペトロはイエスのもとに行きたいと思ったのか、「主よ、あなたでしたら、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。イエスはペトロの願いを聞き入れ、「来なさい」と言われたので、ペトロはイエスの言葉の従い、舟から一歩踏み出しました。すると不思議なことにペトロはイエスの方に歩き出したのです。

「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」(マタイ14:30~32)

  イエスの超自然的な救済の力を信じ、ペトロはイエスを見つめて歩き出しました。しかしペトロは、飲み込もうとする高波に目を取られ、強い風が怖くなり、イエスから目を離した途端、波に沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、二人で舟に乗り込まれました。すると風は静まりました。イエスの存在そのものが嵐を静めたのです。詩篇77篇20節に「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」とあり、「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました」(15節)とあります。旧約聖書では、海を支配しているのは神なのです。

「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。」(マタイ14:33~34)

  舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と信仰告白をしました。超自然的な力をもつイエスに接した弟子たちは、救い主イエスの前にひれ伏したのです。「神の子」というイエスに対する呼びかけの称号は、イエスが、超自然的な力を賦与されたメシアであることを示しています。

 「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」マタイ14:34~36)

  こうして一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着きました。この平原は、湖岸の沿って南北に6キロ、内陸に4キロ広がる平地です。土地の人々は、うわさのイエスが来られたと知り、付近にくまなく触れ回りました。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れてきました。メシアであるイエスは、病人をいやすことによって、その民に対して神が配慮しておられることを引き続き示されました。ここでは、イエスの服のすそにさわるだけで十分なのだという確信の中に、彼のいやしの力を信じる信仰が示されています。このようにして、病気で苦しんでいる大衆の人々のいやしが行われました。

 「湖の上を歩くイエス」の奇跡は、教会が苦境に陥って悩むときも、イエスから声をかけられるなら、奇跡的力を与えられることを示しています。

 詩篇に、「彼らは、海に舟を出し、…深い淵で主の御業を、驚くべき御業を見た。(嵐が起り、波が高くなったので、彼らの舟は上下に揺れ動き)、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩篇107篇23~31節)とあります。

  神は海をも支配し、苦難から助ける方であることを、この詩篇は示しています。「湖の上を歩くキリスト」の物語では、舟は誘惑や試練、あるいは迫害に翻弄されている教会を表しているようにも思われます。今や神の右におられるキリストは信仰をもってイエスを呼び求める人々を救う力を持って、教会のために先頭に立っておられる方であります。この世の様々な問題に遭遇して、助けを求めているわたしたちに、、湖の上を歩いてでも近づき救ってくださるイエスこそが、救い主であることを教えています。

             

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「心身の病(やまい)をいやすキリスト」 マタイによる福音書15章21~31節

2017-02-19 10:48:02 | キリスト教

      ↑ イエスのガリラヤでの宣教活動:ティルスとシドン地方でのカナンの女のいやし  

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                            週    報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、

キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに

加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしな

さい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって

行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第8主日         2017年2月19日(日)

           午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書15章21~31節(p.30)

説  教  「心身の病(やまい)をいやすキリスト」辺見宗邦牧師

祈 祷                

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌   356(インマヌエルの主イエスこそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

               次週礼拝 2月26日(日) 午後5時~5時50分

                聖書  マタイによる福音14章22~36節

                説教  「奇跡を行うキリスト」 

                讃美歌(21)355 403 24 交読詩編107篇

本日の聖書 マタイによる福音書15章21~31節

 21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

      本日の説教

 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。」(21~22節)

  「そこをたち」とは、イエスがファリサイ派の人々や律法学者たちと論争した場所のことで、イエスの活動根拠地のカファルナウムの町と思われます。イエスはそこを立って、ティルスとシドンの地方に行かれました。

 「ティルス」と「シドン」は、シリア国のフェニキア地方にある地中海東岸の町で、「ティルス」はガリラヤの国境から、20キロほど北にあり、「シドン」は、ティルスよりさらに北にある町です。現在のレバノン共和国のスール(=ティルス)とサイダー(=シドン)です。

 イエスがこの異邦人の地方に向かったのは、ユダヤ教指導者との執拗な追及を避けて、静かに神との交わりをもつためだったとする説があります。しかし、もしそうであれば、これほど遠くまで行く必要はなかったでしょう。イエスがこの地方を目指して行ったのは、これまでの戦果で離散したイスラエル人がこの地方に大勢住んでいるの、イエスはこのイスラエル人に福音をもたらすためであったと思われます。

 すると、この地に生れたカナンの女性が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。イエスの名声は、すでにこの地方にも行き渡っていたのでしょう。「主よ、ダビデの子よ」という呼びかけは、メシアを指すことばです。カナンの女がこの称号を使ったことは驚きです。

「カナン」とは、現在の「パレスチナ」を指す地域のことです。ペリシテ人が住み着く前の呼び名です。カナン人はパレスチナの古くからの住民です。

 「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(23節)

 異邦人の女の助けを求める叫びに対して、イエスは何も答えませんでした。叫んでいるのは異邦人の女だからでしょうか。そうではありません。イエスはガダラで悪霊に取りつかれた異邦人を癒しています(8:28~34)。イエスは、「主よ」と呼んで助けを求めるこの女性の信仰が、一時的なものかどうかを確かめようとしたのです。

 女が執拗に叫びながらついて来るので、うるさくて困った弟子たちがイエス近寄ってきて、「この女を追い払って下さい」と願いました。ただ追い払うだけなら、主に願う必要はなかったはずです。弟子たちは、彼女の叫びに応えて、イエスにいやしてもらい、一刻も早く家に帰らせてほしいから願ったのです。

 「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」(24~25節)

 「イスラエルの家」とは、神と契約を結び、神の民とされたイスラエルの民にたいする言葉です。「失われた羊」とは、この民が羊飼いを失った羊のように、神の導きを求めてさまよう有様を示しています。イエスはそのようなイスラエルを救いに導くことが自分の使命であり、イスラエルの民のところにしか神に遣わされていないと、自分の任務を説明しました。イエスは弟子たちを伝道に送り出すときも、ほぼ同じことばで命じています(マタイ10:6)。

 イエスは弟子たちの「追い払ったください」とのの願いに対して、お答えになったのでしょう。そのイエスの答えを、弟子たちから聞かされた女は、それでもあきらめず、イエスのもとに来て、どうしても助けていただきたい、そういう切なる必死の思いに駆られてイエスの前にひれ伏しました。そして「主よ、どうかお助けください」と、娘のいやしを願ったのです。

 「イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」(26~27節)

 カナンの女の求めに対して、イエスは再度、自らがユダヤ人のために派遣されたことを説き続けます。「子供たち」とは、むろんユダヤ人です。「子犬」とは、異邦人を指します。「パン」は、イエスが与える祝福であり、いやしを象徴しています。イエスの与えるパンは子犬のためではなく、子供たちのために用意されたものであることを強調します。「子犬」という言葉は、差別的意識からではなく、ことわざのようなものであって、気にさわるものではなかったと思われます。イエスの発言は、彼女の信仰を試すものでした。

 カナンの女は二度にわたるイエスの拒否の言葉に批判や反抗を投げ返さず、「主よ」とイエスに呼びかけ、「ごもっともです」とイエスの語られたことをそのまま受け入れました。それだけではなく、「子犬」という言葉を逆手にとって、「子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と機知に富んだ言葉を返し、必死になって食い下がりました。ここに彼女の謙虚さ、熱心さ、そして何よりも信仰を見ることができます。イエスが「子供たち」と呼んでいる人物(ユダヤ人)を、カナンの女は「主人」と言い直しています。

 「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」(28節)

 彼女のねばり強さは、事態をより良い方向へと変えることのできる神を信じる信仰に基づいたものでした。イエスは彼女の信仰を絶賛し、彼女に限りない愛を示されました。これまでのイエスが示された無視の態度や拒否の言葉は、異邦人の女の信仰を浮き立たせるためのものでした。

 イエスは、「あなたの願いどおりになるように」とカナンの女に言われました。イエスの言葉は権威あるものでした。そのとき、娘の病気は癒されました。

 「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」(29~30節)

 イエスはガリラヤ湖畔に帰って来ます。「山に登って」の山は、どの山だったかははっきりしえいません。「座っておられた」は、教えを説くときの様子です。様々な病気に悩む大勢の人々が癒されたという編集的な要約文を記しています。連れて来られた病人は、「足の不自由な人」、「目の見えない人」、「体の不自由な人」、「口の利けない人」、「その他多くの病人」でした。この記述は、イザヤ書の預言の実現です。

 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35章5~6節)

 神の約束である預言を実現し、その言葉通りに救いをもたらす者はメシアに外なりません。

「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」(31節)

「口の利けない人が話すようになり」、「体の不自由な人が治り」、「足の不自由な人が歩き」、「目の見えない人が見えるようになった」のを見て、」群衆は驚きました。これまで見聞きしたことのないいやしの奇跡が、今、群衆の見ている前で起きたのです。そこに集まった人々は、このようなみ業の背後に神の特別な力が働いていることを認め神を崇めました。「イスラルの神」という表現は、ユダヤ人は使わなかったので、そこに集まっていた人々は異邦人であったことを暗示しています。場所がガリラヤであることは、マタイ4:15~16節を思い起させます。そこでは、イザヤ書9:1~2の引用によって、「異邦人のガリラヤ」に救いの光が差し込んだと記されています。

 マタイによる福音書8章には、山上の説教を終えたイエスが山を下りてから、「重い皮膚病を患っている人」をいやし、「百人隊長の僕」をいやし、「ペトロのしゅうとめ」をいやし、「悪霊に取りつかれた大勢の者」から悪霊を追い出し、病人を皆いやされたことが記されていました。「それは預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであった」とあります(マタイ8:17)。

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(イザヤ書53:4)

神の子イエスは、苦難の僕として、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って、それを癒してくださったのです。主イエスは、肉体の病だけではなく、心の病も癒してくださる方なのです。

 讃美歌21の433番の4節、6節は、次のような歌詞です。

「こころの痛手に 悩めるこの身を イェス医(いや)したもう、み許にわれゆく。

 あるがままわれを かくまで憐れみ、イェス愛したもう、み許にわれゆく。」

 イエス様の身許に、身を寄せて、心身の病いを癒していただき、とがも罪も潔(きよ)めていただき、救いと永遠のいのちをいただこうではありませんか。

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「山上の説教ー八つの幸いの教え」 マタイによる福音書5章1~12節、17節

2017-02-12 13:21:38 | キリスト教

         「祝福の山」から見たガリラヤ湖

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

            日本キリスト教 富 谷 教 会

                          週    報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第8主日   2017年2月12日(日)  午後5時~5時50分

        礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 352(来たれ全能の主)

交読詩編   37(悪事を謀る者のことでいら立つな)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書5章1~20節(p.6)

説  教  「山上の説教ー八つの幸いの教え」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌    57(ガリラヤの風かおる丘で)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

              次週礼拝 2月19日(日) 午後5時~5時50分

               聖書  マタイによる福音15章21~31節

               説教  「いやすキリスト」 

               交読詩編103篇

                                         讃美歌(21)206 356 24 聖餐式 72 

    本日の聖書 マタイによる福音書5章1~12節、17節

 1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」……17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 

     本日の説教

  今日の聖書の箇所は、いわゆる『山上の説教』と言われている五章から七章まで続く長い説教の中の最初の部分です。始めに、山上の説教が語られる状況の説明があります。

  イエスは「群衆を見て」山に登られました。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来ました。登られた山は、ガリラヤ湖の北岸の町、カファルナウムの北西にある「祝福の山」とされています。湖面から125メートルの小高い山には1938年に建てられた美しい八角堂のフランシスコ会教会があります。山の下に広がる斜面の先に、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことができます。   

  イエスと弟子たちを取り囲むように群衆は集まりました。イエスが腰を下ろすと、弟子たちが足元に座りました。イエスは、弟子たちを主にして群衆にも「あなたがた」と語りかけます。

  山上の説教は祝福の言葉で始まります。ギリシャ語の原文では、文頭には<幸いである>という宣言があり、続いてこの祝福を受ける人の条件について述べ、最後に祝福の内容を示されます。

  この文型が九回繰り替えされます。最後の祝福は、それに先立つ八回の祝福とはかなり文体が違っています。八回の祝福がいずれも簡潔な文であるのに対して、最後の祝福は長い散文体になっています。最後の祝福は後に追加されたものと見做され、「八福の教え」という呼び方もなされています。「祝福の山」に建つ八角堂の内部の八つの壁面には、八つの祝福の言葉がそれぞれの面にラテン語で記されているのもそのためです。

     

 「幸いです」とは、単に「幸せである」という一般的な幸運ではありません。<幸い>とは神と人との正しい関係を示すものであり、真の幸せを与えるのは神なのです。この<幸せ>は終末に臨んだ時代に生きる信仰者への慰めと神の約束の確かさを表しているのです。

1「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3節)

 <心の貧しい人々>とは、日本語ではこの表現は普通「がつがつとして貪欲な人」とか、「おおらかさがなく他人に寛容でない人」を意味します。ここではそういう意味で用いられているのではありません。「神に全く依り頼んでいる人」のことです。すべては神様の恵みに生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人」です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神様の御心に従う人です。

 御子キリストとともに神の支配が来ているのです。「心の貧しい人々」は、神の国に将来参加するというだけでなく、その至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです

2「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(4節)

  ここで言われている悲しみは、人生において直面するいわゆる悲しみではありません。イエスが言われた「悲しんでいる」とは、神に逆らっているこの罪に満ちた世界や人間の罪に対し痛み悲しんでいる人です。罪を悲しむ者は、罪から離れ、罪に打ち勝つ人になることを求めます。罪人はこうして神の前に悔い改めてへりくだるように呼びかけられているいるのです。

  悲しんでいる人を慰めるのは、いうまでもなく神です。現在すでにイエスによって罪を赦され、慰められています。そして、世の終わりに、すべての被造物が罪による虚無から解放され、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(イザヤ60:20)のです。

3 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(5節)

 「柔和」という日本語は、どちらかというと弱々しい響きがあります。ここで言われている「柔和」はそうではありません。イエスこそ、柔和な王でした。イエス様は父なる神様の赦しを伴う愛によって、敵をも赦し、罪深い人間を救ってくださった方です。「柔和な人々」とは、イエス様のような愛に満ちた人のことです。

 「地を受け継ぐ」とは、イエス・キリスとともに来ている神の支配する天地を継ぐ人とされることです

4「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(6節)

  ここで言われている「義」は、単なる「正しさ」や「正義」ではありません。神のご意思にかなう正しさを求めて、神の戒めと掟を守る者のことです。

  この義(正しさ)を熱心に追及する人々に対し、イエスは「満たされる」と約束されました。「神の国と神の義」を求めていくとき、天国の約束と同じような満足を与えられるのです

 5「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(7節)

  日本語の「憐れみ」は情緒的な意味合いが強いが、この「憐れみ」は、単なる同情ではなく、他の人に対して「行動に現れる愛」です。「あわれみ」は罪の結果生じた痛み、苦悩、悲劇を共に味わい担う愛です

 イエスは、この地上で他人にあわれみを施すなら、やがて、神から十分なあわれみを受ける、と教えられたのです。キリスト者は、すでに神のあわれみを味わっている者たちです

 6「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(8節)

 「心の清い人々」とは、「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことのない人」(詩篇24:4)です。このように、「心の清い人」とは、正しい良心をもち、悪意を全くいだかない者のことです。

  イエスは、「その人は神を見る」と約束されました。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて、見るであろう」(コリント一、13:12)とあります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロ一、1:8)と言われているように、イエス様との霊の交わりを与えられている心の清い者には、顔と顔を合わせて見るという神との親しい交わりが約束されているのです

7「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(9節)

 「幸いな人」は、「平和を実現する人」です。イエスが語られた平和とは、ローマ皇帝がもたらす圧倒的な軍事力をもって地域を平定し、秩序、安全、繁栄を保証するような平和とは異なり、平和の神が人と和解することから始まります。それは、罪を容認したり、真理をあいまいにするものではなく、正義や真理をその土台としています。イエスによるこの平和を受けた者が、その平和を、自分を取り囲んでいる人々にもたらすよう努力します。そのような人々が、ここでいう「平和をつくる者」です

 「平和を実現する人」には、「神の子と呼ばれる」という約束が与えられています。「神の子」であるイエスが約束されているのです。すでに恵みによって神の子とされたものが、将来神の子と呼ばれるにふさわしい状態になることを指しています

8「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(10節)

 「義」とは神のご意思にかなう正しさです。ペトロの手紙一、14節に「義のために苦しみを受けるのであれば幸いです。人を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」とあります。

  明らかに不当な国家の強制処置に服さなければならない場合に、「天の国はその人たちのものである」という約束は効力を発します。この祝福は、迫害状況にある聴衆を勇気づけるものです。

 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(11-12節)

 11-12節は、「わたしのために」とあるように、イエスの弟子に限定された話です。この迫害は、キリスト者がイエス・キリストに属し、そしてキリストを自分たちの主と告白するがゆえに起こります。イエスは義の教師として「義の道」(21:32)を教えます。従って10節では迫害が、「義のために」起こるのに、ここではイエスのために起こるのです。イエスは律法と預言者の成就者として、ユダヤ教の口伝を否定しました。そのようなイエスに従う者は、迫害を避けることはできませんでした。後にパウロが「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(テモテ二、3:10)と述べているとおりです。

  そのような迫害を受けている弟子たちに対し、イエスは「喜びなさい。大いに喜びなさい」と勧めます。なぜ、迫害を受ける者が喜ぶべきなのでしょうか。二つの理由が挙げられています。まず、迫害には天で大きな報いがある、ということです。もう一つは、迫害される者は預言者と同列に置かれる、ということです。イエスのために迫害されることは、このような予言者の仲間に加わることであり、貴い使命を果たすことになるのです。ペトロの手紙にも、「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」(ペトロ一、3:14)とあります。この場合の「義」は、キリスト教信仰に生きることを指しています。

  山上の説教では、イエスはまず、御国の民に与えられている祝福を解き明かされました。17節では、「わたしの使命は、律法や預言者による律法解釈を廃止することであると思ってはならない。わたしの使命は廃止することではなくて、神の意志を明らかにするために、律法を再解釈したのである」と言っています。

 

 

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「たとえで語るキリスト-種蒔きのたとえ」 マタイによる福音書13章10~17節

2017-02-04 13:56:04 | キリスト教

                         「種まく人」 ミレー 1850 ボストン美術館.

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

       週    報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第7主日  2017年2月5日(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 220(日かげしづかに)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書13章10~17節(p.24)

説  教   「たとえで語るキリスト」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌    57(ガリラヤの風かおる丘で)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                 次週礼拝 2月12日(日) 午後5時~5時50分

                                   聖書  マタイによる福音書5章1~12,17~20節

                                   説教  「教えるキリスト」 

                                   讃美歌(21)54 53 24 交読詩編119篇

本日の聖書 マタイによる福音書13章10~17節

 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

     本日の説教

  イエスは群衆に、「天の国」を「種を蒔(ま)く人」のたとえで話されました。それは弟子たちにとって不思議なことでした。彼らは、たとえなど使わず、もっとストレートに話せばよいのにと思ったのです。そこで、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と質問しました。

 「たとえ話」は、例(たと)えられているものを少しでも知っていれば、深遠な教えを日常的な素材を用いて平易に語るののですから、一層分かりやすく、それによって理解が進みます。しかし、例えられているものを理解していない場合には、たとえを聞いても何のことか分からず、謎(なぞ)のままになってしまいます。

 この種蒔きのたとえも、「天の国」に関する知識がない群衆にとって、理解できない状態にあることを察知した弟子たちは、なぜ謎でしかないたとえをもって話されるのか、と主にたずねたのです。実は、弟子たちにとっても、18節以下のイエスの説明を聞くまでは、群衆と同じく、この「種を蒔く人のたとえ」を理解できなかったのです。

 イエスの答えは、「弟子であるあなたがたは」、「天の国」の奥義を知ることが許されているが、群衆である「彼ら」はそうでない、と話されました。「天の国」とは、ここでは死んだ後に行く天国のことではありません。神が支配する国であり、今、イエス・キリストを自分の主として受け入れる者たちに与えられる、神の支配であります。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と言われています。

 イエスはたとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られませんでした。マタイによる福音書には16のたとえが語られています(7:24-27、13章には7つ、18章には2つ、20:1-16、21章には2つ、22:1-14、25章には2つ、計16)。それは預言者を通して言われたことが実現するためでした。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(マタイ13:35)とあります。

 「隠されたいたこと」すなわち「奥義」は、神の啓示なくしては知り得ない真理のことで、ある人には隠されているが、他の人には明らかにされます。それは、イエスがメシアであるという事実、あるいはイエスの到来と共に神の国が実現しつつあるという出来事を指します。

 「知ることが許されいる」は、知ることは許されて知るのであり、恵みとして与えられるのです。「天の国」の民は、単に知ることが許されているだけでなく、神の恵みにより、聖霊を通して、体験的に知ることへと導かれるのです。ところが、イエスを取り巻くユダヤ人たちは、次第にイエスを拒否するようになり、イエスを知る恵みから追放されていきました。「あの人たちには許されていないからである」は、彼らがイエスをメシアとして認めない結果なのです。

 「持っている人は」ますます富み、「持たない人は」まうます乏しくなる、という社会的・経済的原則は霊的世界にも当てはまります。「持っている者」とは、「天の国」を持っている者のことです。「さらに与えられて」とは、その御国が御国の民にもたらす祝福を指します。「豊かになり」とは、御国の祝福にあふれるばかりにあずかっている状態をいいます。「持たない者」とは、「天の国」を持たない者、つまり神の救いにあずかっていない人を指します。「持っているものまで」とは、御国に対して態度を決定する前に神から与えられていた一般的な祝福のことです。イエスの話を聞いていたユダヤ人にとっては、神の契約の民として昔から受けていた宗教的特権を指します。

 群衆はイエスの奇跡を見、イエスの説教も聞きました。イエスがメシアであり、イエスの到来とともに「天の国」が始まったことについては、すでに十分な情報が提供されました。ところがイエスを取り囲んでいる人々は、イエスを信じようとはせず、イエスの御国も受け入れようとはしませんでした。もしそうであれば、、イエスにとっては、もはやなす術がない。それでもなお、解き明かす方法があるとすれば、たとえで話すことだけです。たとえで話すなら、再度その問題を考えさせることができるからです。イエスは、改めて、イエスのメシア性や、「天の国」について群衆に考えさせようと迫ったわけです。

 イエスの時代のユダヤ人は、イエスと「天の国」に関し、見聞きしながら、悟ろうとはしませんでした。紀元前8世紀のイザヤの時代、神に遣わされたイザヤが預言をすることによって、かえって人々が理解せず、その言葉を受け入れず、悔い改めようとしない、ということが起る、と神が預言しました。このイザヤ書6:9-10の預言が、イエス時代にイエスを拒否した人々によって実現したのです。

 イザヤ書からの引用文「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず…」以下の文章は、内容的には13節の繰り返しです。従って、イエスが引用したのではなく、後になってマタイが挿入した、と考えられます。

 群衆は、聞いても悟らず、見ても理解しなかった。なぜなら、「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」からです。彼らの肉体の耳や目は作動していたが、何の機能も果たしていなかった。心が閉ざされていたからです。彼らがイエスを信じるかどうかは、実際に見聞きする前に、すでに決まっていたのです。

 イエスの話を聞いた人々にとって、「心で悟って」、「立ち返る」ことこそ重要でした。「悟る」は、理性で「知る」こと以上の、自らの全存在をもって受け止めることを指します。「立ち返る」は、自分中心であることから回転し、神の方に向きを変えることをいいます。「いやされる」とは、神との関係や罪の赦しを含めた全人格的な回復を指します。彼らが神に立ち返らない結果、神はいやしの祝福を彼らに与えないのです。

 しかし、「あなたがた」弟子たちは、イエスの御業を見てイエスが御国を支配している現実を知り、その福音を聞いてイエスの統治を確信しました。彼らの目や耳は機能していました。彼らの心がイエスに開かれていたからです。それゆえ彼らは「幸い」でした。

 続けてイエスは、弟子たちがなぜ「幸い」なのかを明らかにします。その際イエスは、「はっきり言っておく」とこれから話すことの重要性を印象づけます。イエスの弟子たちは、旧約聖書の「多くの預言者」や「義人たち」に比べ、幸いでした。彼らが長い間見たい、聞きたいと願っていたメシアと天の国の到来を、イエスの弟子たちは、現実に見たり、聞いたりしているからです。「あなたがたの見ているもの」とは、イエスがメシアとして現された奇跡のことです。「あなたがたが聞いていること」とは、イエスの御国の福音を指します。イエスの弟子たちは、それを見聞きすることが出来たのですから幸いです。

 弟子たち、それは主イエスに招かれ、従っている人たちです。主イエスの近くで主の御言葉を聞いている人々です。弟子たちの時代は今日にまで至ります。主イエスを信じ、教会に連なり、礼拝を守っている私たち信仰者にも、弟子たちに与えられた幸いが与えられているのです。

 主イエスは、誰にでもたとえを語られました。たとえを聞いて、「天の国の秘密」を聞き取れた者が弟子であり、信仰者ということです。「天の国の秘密」を聞き取れるのも、神の恵みにより、聖霊によるものなのです。イエスの教えを聞き、「心で悟って」、「立ち返る」者には、神の豊かな恵みといやしの祝福が与えられるのです。

  (以上の説教の参考資料:中沢啓介著「マタイによる福音書注解<中>いのちのことば社、2003年発行)

 ところで、13章3節から9節までの「種を蒔く人」のたとえは、わたしたちに何を教えているのでしょうか。種を蒔く農夫はムダになってしまう種や、ムダ働きになってしまうことがあっても、必ず収穫にむすびつくことを疑わず、きびしい種蒔きと土地の耕作をします。そしてすばらしい収穫を刈り取ります。神の国の福音を伝えることも、挫折や失敗があっても、神の支配は前進し、神の収穫は期待を越えて大きいのであるから、何事にも失望することなく、神を信じ、信仰を持ちつづけないと教えています。

 13章18節から23節までの「たとえ」の説明では、「道端」、「石だらけの所」、「茨の中」、「良い土地」と、種が蒔かれた四つの土地をあげています。わたしはどの種類の土地であろうか。「わたしは硬い土地であろうか、浅い土地であろうか、荒れた土地であろうか、良い土地であろか」、どの土地だろうかと自分を吟味するかも知れません。実は、わたしたちには、いくぶんか四種類の土地にあたるものがあります。御言葉の種が私たちの心に蒔かれた時、初めから理想的な良い土地の人はいません。私たちは石ころや、いばらが生い茂っているような頑なな心の持ち主なのです。しかし神の福音は人間を変えることができるのです。この譬えは注意深く聞くだけでなく、決断と活動を生み出す聞き方が求められているのです。ですから石を取り除いたり、茨を刈り取ったりして、心の畑を耕しし、柔らかい土地としなければならないのです。私たちに求められているのは、「良い土地にしてください」と祈り求めることであり、キリストにしっかりしがみついて離れないことです。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの 父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、これをきれいになさるのである」(ヨハネ15:1-2)と主は言っています。

  主イエスにつながっていることが求められています。農夫である父なる神はわたしたちが実を結ぶことができるように、わたしたちを手入れしてくださるのです。枝の剪定だけではなく、御言葉の種が実を結ぶように、私たちの心の畑も耕してくださり、「良い土地」にしてくださるのです。そして予想をはるかに越える、驚くばかりの実を結ばせてくださるのです。 

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