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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)
降誕前第8主日 2015年11月1日(日) 5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 6(つくりぬしを賛美します)
交読詩篇 51(神よ、わたしを憐れんでください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 創世記3章1~15節(旧p.3)
説 教 「罪に陥った人間とキリストによる救い」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 68(愛するイエスよ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 11月8日(日)午後5時~5時50分
聖書 創世記12章1~9節
説教 「神の民の選び」
賛美歌(21)151 517 24 交読詩篇 71
本日の聖書 創世記3章1~15節
1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」
10彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
11神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
12アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
13主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
14主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
本日の説教
創世記1章1節から2章3節までの創造物語は、イスラエルの祭司記者によって、バビロンの捕囚地で書かれたものであることを、先週の礼拝でお話しいたしました。イスラエルの民は国を失い、民族の滅亡の危機にあって、国を失ったのは自分たちの罪のためであったことに気付いて悔い改め、神に選ばれた民である自覚を取り戻し、世界の民を生かしているのは、天地を創造した神であることを、創造物語で告白したのです。
創世記2章4節bから、3章24節までの楽園の創造と喪失は、神の名が祭司記者が用いた<エロヒーム>というヘブライ語ではなく、<ヤーウェ>という語が用いられており、祭司記者は創世記を書くのにこの資料を用いました。この資料は、捕囚前のソロモン王朝時代に、南ユダ王国で成立したと言われています。
2章4節bから25節までの2章では、神の意志の実現としての人間の創造が語られました。
3章は、男と女が、取って食べてはいけないと神から禁止されていた木の実を、蛇にそそのかされて取って食べてしまい、エデンの園から追放されるという物語です。神の意志にそむく人間の罪と神の罰としての呪いのもとにある人間の現実的な姿が描かれます。
この物語の中で、蛇が神の言葉への不信をもたらすために登場したのが蛇でした。蛇もまた神によって造られたものでした。腹で這い歩く蛇の不気味さを古代人もきらい恐れました。古代エジプトやメソポタミヤでは蛇が知恵の象徴でした。野の生き物のうちで最も賢「蛇」が女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけます。罪に陥ることは、たんなる心の中の現象ではなく、人間の人格に働きかける不気味な力によって惹き起こされる事件として、蛇がそのワキ役でした。主イエスの荒れ野の誘惑のときは、誘惑するものは悪魔でした。この神話では蛇が悪魔の役割を果たしています。
この蛇の問いかけに注意すると、神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と、神は「すべての木の中の一つだけ」を禁止されたのに対して、蛇が神の禁止の範囲を、ことさらに拡大してみせたのは、女に口を開かせるための誘導尋問でした。神が言われたのは、すべての木に対する禁止命令のように、不満をさそい出すように問いかけています。
それに対して、女は、一応、神のことばを正しく再確認して、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と言います。<触てもいけない>は神の言葉にはありません。女は神の言葉を忠実に守ろうとするあまり、神の言葉を拡大解釈し、自分の言葉を付け加えています。神様の命じた禁止がよりきびしいものとしてうつり不満の思いが生じています。その不満をあおりたてるように、さらに蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。蛇はまるで神の手の内を知り尽くしているように語ります。人のために配慮して神が禁止したことに対して、神の善意を疑うように語りかけたのです。それを食べると神のように善悪を知るものとなると誘惑したのです。「善悪を知る」とは、全知全能になるということです。神の禁止命令は人間を束縛し、不自由にする悪意あるものではないのかとの疑いをいだいたのです。神に従って生きるのではなく、自由になって、自分の思いに従って生きようと思ったのです。ここに人間の神様に対する背きの罪があります。人が神から自由になって「神のように」なりたいと思う傲慢に、聖書は人間の罪の根を見ます。罪の本質は、神に背を向け、神に従うのではなく、自分が主人になり、神様に成り代わろうとすることです。
女がその木を見ると、いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していました。女が誘惑に敗れた時の三つの語、<おいしそう><目を引き付け>賢くなる>は、人間の欲望やそそります。彼女はついに取って食べ、一緒にいた夫に渡したので、彼も食べました。
その結果、<目が開け>自分たちが裸であることに気づきました。楽園では、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」のです。しかし今や何かが失われました。人間のあるがままの姿を素直にあらわすことが出来なくなったのです。裸であることに気づいて、その恥と不安を少しでも隠そうとして、二人はイチジクの葉をつづり合わせ腰に巻きました。禁断の木の実を食べるという違反行為は、「神の人への善意を疑う」という、神への不信から生じた結果でした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきたので、アダムと女が、神の顔を避けて園の木の間に身を隠しました。神のいましめにそむいたため素直に神の前に立てないのです。罪の結果は明白でした。人と妻は神の顔を避けて存在するものとなったのです。神はアダムにどこにいるのかと呼ばれました。罪を犯し、神様の顔を避けて身を隠す人間に、「あなたはどこにいるのか」と神はこう呼びかけられます。わたしたちの魂の在処(ありか)を尋ねる神の声です。
彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と、答えました。「あなたの目に自分の裸をさらすのが恐ろしいから身を隠した」と答えたのです。「裸」も「恐れ」も、「隠れた」のもほんとうの動機ではありません。本当の動機は、神の命令を破ったからです。しかし、その真実は告白から省かれました。
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。すると、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言う表現で、自分の罪の責任を神と女の両方に転嫁しており、神の言葉を無視した自分の罪を認めようとはしていません。
神は女に向かって、「何ということをしたのか」と言われました。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。女は蛇に自分の罪を転嫁したのです。神への反逆は彼らの連帯責任であったはずなのに、男は女に罪を着せ、女は蛇のせいにしました。今まで一心同体として愛と信頼で結ばれていた夫婦が、自己防衛のためにその一体性を一瞬にして切り捨ててしまいます。その結果、蛇は最も呪われて、きらわれものとなり、女と蛇は恨(うら)み合う仲となりました。「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」人間と罪の力との間に続く幾世代にも及ぶ闘いが記されています。
アダムとエバ二人は罰せられ、楽園であったエデンから追放されるのです。神への背きの罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなりました。
アダムとエバの物語は、人間が罪に陥る過程を実にリアルに表現しています。聖書はアダムとエバが罪に陥る物語を通して、わたしたちすべてがかかえている罪の問題を指摘しているのです。
罪に堕ちた結果は、このように、神との関係が破れて、信頼と交わりが失われ、人間同士もまた対立し、憎み合い。利用し合うようになっている状態をいうのです。しかし神は、これをひどく悲しみ、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけながら、尋ね歩かれるのです。イエス・キリストは、わたしたちを、もう一度、神との交わりに呼び戻そうとして、この世に来られたのです。
神話の衣をまとった物語の主人公を指す<アダム>という名は、ヘブライ語では「人・人間」という意味の集合名詞で、現実の人類を代表しています。人間そのものの姿をアダムという「一人の人」に起こった出来事として物語っているのです。アダムはすべての人間を代表であり、人間全体の象徴であって、「人間というものは」という全体の問題として創世記に書かれているのです。
パウロは<罪>について語るとき、<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的支配力のことを指しています。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ローマ5・12)。
このパウロの言葉は、従来アダムの罪が人類に継承され、宿っているという人間の原罪を理解する根拠とされてきました。しかし<すべての人が罪を犯したからです>という理由づけがあるように、罪の責任が個々の人間にあることを語っています。<一人の人>というのは、全人類の代表としての「最初のアダム」のことであり、アダムにおいて、アダムと共に全人類は罪を犯したために、全人類に罪と死が支配しました。<死>とは、ただ身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の起源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)であり、そのような死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的力なのです。
<実にアダムは、来るべき方を前もって表す者(5・14)>だったのです、とあるように、最初のアダムは、最後のアダム(1コリント15・45)となられた十字架のの贖いによって救いをもたらすイエス・キリストを待ち望む者だったのです。神の恵みにより、<一人のイエス・キリストを通し>て、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。その恵みの賜物は罪とは比較にならないほど大きいのです。
「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。…わたしたちは、土からできた人の似姿となっているように、天の属するその人の似姿にもなるのです(1コリント1・47~49)。
なんとすばらしい恵みを、わたしたしはキリストにあって受けているのでしょう。罪と死との支配から解放され、天に属するキリストの似姿にわたしたちは変えられつつ、その完成を目指しているのです。